イスラエルとハマスの大規模衝突に思うこと(2023年10月12日)

10月7日、大変なニュースが飛び込んできました。パレスチナ自治区ガザ地域を実効支配するハマスからの大規模攻撃により、イスラエルの民間人が多数死傷。さらにガザ側から、ハマスの戦闘員が国境の壁を越えてイスラエルに侵入し、少なくとも100人以上の民間人や外国人を人質としてガザへ連れ去ったという衝撃的な報道でした。

イスラエル政府はこれを受けてハマスへの報復を宣言し、過去になかったほどのガザ地区への激しい空爆に踏み切りました。10月11日までに、イスラエル・ガザの双方の死者数は2000人を超え、さらにイスラエルが地上からのガザへの攻撃を間も無く開始すると見られています。

この緊迫した状況に、7日以来、私は落ち着くことができず、悶々として過ごしています。今回のイスラエルとハマスの大規模衝突について、考えていることをぜひお話させてください(いてもたってもいられず)。こちらは20分ほどのオーディオプログラムです。2005年にイスラエルを訪問した当時のことも含め、お話しました。

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福島の被災地へ② 〜富岡町と原発事故〜

前回の「福島の被災地へ①〜あの日は終わらない〜」では、2011年の震災で津波被害があった福島県いわき市の「久之浜(ひさのはま)」を訪ねたエピソードをご紹介しました。

▼ 「福島の被災地へ①  〜あの日は終わらない〜」

 https://yukakomatsu.jp/2023/09/19/4338/

今回は、その続編として、いわき市から常磐線に乗って福島を北上し、原発事故後、放射能の被害があった富岡町を訪ねたエピソードです。

恥ずかしながら、私はこれまで原発事故の被害状況や、その後の被災地の状況を意識してしっかり見つめてきませんでした。今回、自分の足で被災地を歩き、原発事故後の「放射能」の問題について考えました。

現在、被災地にはさまざまな震災の伝承施設がある。「震災伝承施設イラストマップ」より。前回記事のいわき市「久之浜」は青丸、今回訪ねた富岡町の「とみおかアーカイブ・ミュージアム」は赤丸で表示。

「フクシマの被災地に行くなら、見ておいたほうがいい」。被災地に何度も足を運んでいる知人に勧められたのが、富岡町にある「とみおかアーカイブ・ミュージアム」だ。こちらは富岡町による博物館で、東日本大震災と原発災害によって失われた人々の日常の営みを、「震災遺産」として収蔵・展示している。

一日に数本しかない常磐線の電車に揺られ、富岡駅で下車。駅からバスに乗車し、「とみおかアーカイブ・ミュージアム」に向かおうとしたところ、その日は土曜日でバス会社が休みだった。そこで、駅に停まっていた2台のタクシーのうち、初老の運転手が座るー台に乗った。

「とみおかアーカイブ・ミュージアム」は、駅からタクシーで15分ほどの距離だ。

富岡駅にて。震災時、海から300mほど離れたこの場所まで津波が押し寄せ、駅舎は流された。こちらは震災後に作られた駅舎だ。

とみおかアーカイブ・ミュージアム

目的地まで、タクシーの運転手とあどけない話。「(遠方から人が多く来るだろう)土曜日なのに、バスが運休だった」とぼやくと、「バス会社も助成金もらって運営してるから、やる気ないんだ〜」とのこと。

富岡町は震災後、町の大部分が「居住制限地域」となり(2017年まで)、現在も町の北側が「帰還困難地域」となっている。震災後は一気に人口が減り、戻ってくる人も少ないので、助成金を出してもらわないとバス会社も利用者が少なくて経営維持できないのだそう。特にバス利用者のほとんどが原発関連、復興関連の労働者とのことで、仕事が休みの土曜日は需要がないから休みらしい。聞けば、運転手はこのあたりの出身で、なんと30年近く原発職員として働いていたそうだ。原発事故後、危険な作業をさせられることが増えたため、辞職したとのこと。

富岡町の南端に、福島第二原発がある。

2022年10月時点での人口は11824 人、実際の居住者数は2063人。震災前人口比のわずか13%だ。

原発で働いていたという運転手の話をもっと聞きたかったが、目的地の「とみおかアーカイブ・ミュージアム」に到着したため、2時間後にまた来ていただくことにした。

「震災遺産」

「とみおかアーカイブ・ミュージアム」は、震災や原子力災害によって生じた「震災遺産」を収蔵・展示する大熊町による博物館だ。

展示はまず、富岡町の古代の歴史から始まり、やがて近代へとテーマが移っていく。人々がこの街でいかに暮らしていたのか、そして震災後、何が失われたのかが、視覚的によくわかった。

江戸時代、富岡は相馬路(陸前浜街道)の宿駅「富岡宿」として栄えた。

戦前・戦後の暮らしがモノクロ写真で展示されていたが、特に「農」をめぐる生活の写真には、心に込み上げるものがあった。祭りの日の晴れ姿や、町内運動会に笑う男たち、稲刈り後の田で遊ぶ子供たちの姿など、かつて土地とともにごく当たり前にここにあった暮らしが、失われた。

そして近代の富岡町の展示は、戦後の原発誘致へと切り替わっていく。

原発誘致は、財政難の富岡町が、経済発展を目指して行った一大事業だった。

原発の誘致・建設が、当初から、地域の経済発展と雇用創出を願う、地域住民の大きな期待とともに始まったものだったことを初めて知った。

「出稼ぎ者がなくなった」

さらに原発ができたことで、農を担ってきた人々の暮らしも大きく変わった。特に、展示されていた「出稼ぎ者がなくなった」という言葉は、胸にズシリとに響いた。秋田県生まれの私は、雪が降り続く冬、多くの秋田の男性があちこちに出稼ぎに出ていったことを知っているからだ。貧しい東北の農村が、明るい未来を託して誘致した原発事業。ここに原発が造られたことで、地域の経済は確かに潤い、雇用も創出され、人々の暮らしも、以前より明るいものになった。それは、確かだった。

だが一方で、町民にもれなく配布されていたという原発ポスターからは、いかにこの地域が原発と密接に存在していたかを感じさせ、その「普通感」がなんとも違和感でもあった。

そして2011年のあの日、東日本大震災が発生。街は津波で流され、深刻な原発事故も起きた。それまで暮らしていた町が、家が、放射能に汚染されるという未曾有の事態。多くの住民が、街を離れて避難した。その時、住民たちは何を思ったろうか。この地域に経済的安定をもたらしてくれた原発と、その後、歴史に刻まれた深刻な事故。私は、あのタクシー運転手に話を聞きたいと思った。

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230812 福島被災地 編集後 5 福島の被災地へ① 〜あの日は終わらない〜 福島の被災地へ① 〜あの日は終わらない〜

福島の被災地へ① 〜あの日は終わらない〜

この8月、震災以後初めて、福島の被災地を歩きました。2011年の東日本大震災と、その後も福島で続いている放射能被害についてずっと気になってはいましたが、触れることができずに時間が流れていました。今回、お盆に秋田の実家に帰るため、鈍行列車で三日かけて北上し、その途中で福島の被災地を訪ねました。

これまで、ある意味で必然的に、フクシマを扱ってきた写真家や表現者の友人・知人たちが周りにも多くいて、フクシマをどう伝え続けているのか、ずっと気になっていました。また、福島からの避難者の方にもお会いする機会があり、ある日突然故郷を離れなければいけなかったこと、いつ帰れるか分からないことへの苦悩をお聞きする機会もありました。

こうした中、改めて被災地へと目を向け、その土地を訪ねてみたいと思いました。以下は、7歳と4歳の子供を連れながら、福島の被災地を訪ねた小さな旅の記録です。フクシマの今をどう捉えたらいいのか。私は未だに自問自答しています。その答えのない問いを、これからも考えていきます。

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あの日は終わらない

福島県いわき市の「久之浜(ひさのはま)」。松の木が並ぶ堤防を抜けると、青々とした海が広がった。かつてここは、太平洋に面した小さな漁師町だった。あの震災の日までは。

2011年3月11日、午後2時46分。三陸沖で大地震が発生し、日本観測史上最大のマグニチュード9.0を計測した。地震から約1時間後、大津波が沿岸の街に押し寄せる。久之浜にも7メートルの津波が襲来した。久之浜地区の死者は33名。全壊・大規模 半壊465棟、半壊・一部損壊は202棟にのぼった。

「小さな漁師町で、その日上がった魚や貝は無償で住民に配られていました。サンマの季節にはどの家も味醂干しを作って家の前に干して、食べ比べをするんです。商店も病院もあって、駅も近く歩いて行けるので、若い人も年寄りもみんな出歩けて、互いに気遣い合っているいい街でした」

そう語るのは、あの日まで久之浜に暮らしていた知人、安藤栄作さんだ。自宅は海からわずか15メートル。その日、用事のため離れた街に出ていた安藤さんの自宅兼アトリエは、自宅前に繋いでいたイヌの「ユイ」ごと、津波に呑まれていった。

安藤さんは、丸太を手斧で叩いて刻む技法で知られる彫刻家だ。現在は奈良県に拠点を置き、生活再建と作品の創造に明け暮れている。

「久之浜にもし行くことがあったら、駅前の和菓子屋さんに行って、柏餅を食べてみてください。昔ながらの味でとても美味しいんです」。

安藤さんからそんなメールをいただいたことがきっかけで、今年8月、鈍行列車で3日間をかけた秋田への帰省の折、久之浜に立ち寄った。あの日を境に、地震と津波と原発事故によって奪われた生活の痕跡を、わずかでも目にしたかった。

福島県いわき市北部にある久之浜駅。

久之浜駅で電車を降りると、真夏の強い日差しが体に刺さった。

駅で下車すると、夏の強い日差しが体に刺さった。安藤さんから教えてもらった和菓子屋でヨモギがたっぷり入った柏餅を買い、歩いて300mほど離れた浜へ向かった。海に近づくにつれ、更地や新築の家が目に入る。この辺り一帯が津波で流されたのだ。

久之浜駅の正面の大通り。この辺りまで7mの津波が押し寄せた。

大通りにあった「東日本大震災地蔵尊」。

古いお地蔵さまが奥に安置されていた。いつの時代も、人間は祈りと共に生きてきたのだ。

津波によって住宅が流された跡地と思われる空き地。

「暑い」と駄々をこねる4歳の次男。

「もう歩けない」と座り込む次男。

津波で家屋が流されたと思われる空き地に残されていた瓦礫。

震災後、海辺に造られた堤防の下に、小さな社があった。地元の人が、「奇跡の神社」と呼ぶ秋葉神社だ。津波で流されずに残ったことが、住民に力を与えたという。付近の石碑には、「大地震が起きたら大津波が来る」「直(す)ぐ逃げろ、高台へ。一度逃げたら絶対戻るな」と教訓が記されていた。

堤防を登った先に広がるこの海に、かつての砂浜はない。波打ち際には大量のテトラポットが積まれ、荒々しい波飛沫が上がっていた。この海が、津波となって押し寄せた・・・。現場に立ってもなお、あの日の津波の威力がにわかには信じられなかった。

津波で社が流されず、「奇跡の神社」と呼ばれる稲荷神社。今も住人に大切に守られていた。

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ラジオ出演のお知らせ TOKYO FM「SDGs学部ミライコード」(番組HPにて試聴可能です) 

TOKYO FMのラジオ番組、「SDGs学部ミライコード」に出演させていただきました。番組パーソナリティをつとめるのは、イラン出身の女優でもあり、人権活動家としても知られるサヘル・ローズさん。一回の収録を、2回分に分けて放送いただきました。以下、番組のHPよりご試聴いただけます。

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#76 シリア難民の現在、子連れパニック取材記

https://audee.jp/voice/show/68316

#77 人が生きる=SDGs

https://audee.jp/voice/show/68692

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ちなみにSDGsとは、「持続可能な開発目標」。「世界中にある環境問題・差別・貧困・人権問題といった課題を、世界のみんなで2030年までに解決していこう」という計画・目標のことです。 この番組では、さまざまな分野の方を招き、この時代を生きるためのさまざまな問題についてお話をしているそうです。過去の番組もさかのぼって試聴することができます。

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また以下は、今回の収録の裏話や考えたことなどです。10分ほどの音声をお聞きいただけます。

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『月刊みんぱく』2023年8月号に寄稿させていただきました

大変光栄なことに、国立民族学博物館発行の月刊誌『みんぱく』(2023年8月号)様に寄稿させていただきました。

〜「人々は嘘をついているのではなく、「あえて真実を語らない」。いや「語れない」のだ。それが、このシリアを生きなければならない彼らからの、見えないメッセージなのだ。〜(文中より)

(『月刊みんぱく』「特集 政治的なるものと不条理の超克」国立民族学博物館 発行(2023年8月号))

(「これが、あのパルミラ・・・」小松由佳)

当初、原稿執筆テーマとして伝えられていたのは、「独裁下を生きる知恵」。世界各国の独裁政権下で、人々がどのように生きてきたか、生きているのかについて特集するということでした。私はこの10年ほど、シリア難民の取材を行ない、また昨年2022年には、11年ぶりのシリア国内取材に入りました。そうした背景から、内戦状態のシリアについて、フォトグラファーとしての視点から書けることを、というお話でした。

依頼をいただき第一に感じたのは、このような深みのある内容を書かせていただけることへの僥倖、そして「なんという難しいテーマだろう・・・」ということでした。雑誌の発行元が「国立」博物館であるため、そのバックにあるものを考えると、内容に大変気を遣いました。というのも、事実は事実として示しながらも、政治的な中立性を持たせなければならないからです。

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「トルコ・シリア大地震 被災地取材 オンライン報告会(8月22日開催)」の録画視聴について

8月22日、6月に行ったトルコ・シリア大地震の被災地取材のオンライン報告会を行わせていただきました。

以下は、報告会をレコーディングしたデータとなります。ご自由にご視聴ください。
なお、すみませんがこちらのデータのインターネットへの投稿や第三者へのシェアはご遠慮いただきますよう、お願いいたします。

(こちらは、「小松由佳HP有料コンテンツ」の会員様は無料でご覧いただけます。その他の皆様は、視聴料1000円、または「困窮者枠利用で無料」でご利用いただけます。HPの「コンタクト」よりお問合せください)

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トルコ・シリア大地震の被災地取材 オンライン報告会について 

*日時:2023年8月22日 19:00〜21:00

*参加費1000円。ただし、HP有料会員、地震被災者支援金を下さった方、困窮している方などは無料。(HP有料会員の皆様には、直接zoomのURLをご連絡しております)

*こちらはzoomを使用したオンラインイベントです。報告会に入室する「招待URL」は、申し込み後にメールにてお送りいたします。

<はじめに> 

今年2月6日に発生したトルコ・シリア大地震。マグニチュード7.8の巨大地震とその後の余震により、多くの建物が倒壊し、両国で5万人強の犠牲者が出ました。それから4カ月が経った今年6月、被災地の状況を取材するためトルコ南部に向かいました。

主な取材地は、甚大な被害があったトルコ南東部のハタイ県アンタキヤや、避難者が多く暮らすレイハンルです。これらの街で、特に地震で被災したシリア人の状況を取材しました。

地震大国の日本に暮らす私たちにとっても、地震被害は決して遠い国の出来事ではありません。被災地で目にしたこと、感じたことを是非皆様と共に共有させていただけたらと思い、オンライン取材報告会を企画しました。ぜひご参加ください。

<お申し込み先> https://peatix.com/event/3673916/view

230805 ガズワーンと階段のコピー トルコ・シリア大地震の被災地取材 オンライン報告会について  トルコ・シリア大地震の被災地取材 オンライン報告会について 
(地震によって倒壊した家を案内いただく。トルコ南東部クルクハンにて)

<取材報告会の要旨>
・大地震の発生
・被害状況
・倒壊したかつての家と被災者
・シリア人とトルコ人の支援格差
・シリア人被災者キャンプ、ケーンンマウラーキャンプ
・被災者をとりまく現状
・地震の教訓を考える

以上、よろしくお願いします。

終戦の日、ご紹介したい一冊

8月15日は終戦の日。あの戦争から78年が経ちました。戦争は終わりましたが、戦争が残した傷は、今もその時代を生きた人々や戦後を生きた人々の中に消えずに残っています。戦争の悲惨さは、長期間にわたって人間を苦しめ、境遇を左右し続けることでもあります。終戦の日を迎え、是非皆様にお薦めしたい一冊があります。

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『ヨシアキは戦争で生まれ、戦争で死んだ』改訂版 

 面高直子著/ 講談社

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<小松による書評>

その本の表紙写真を飾るのは、爽やかな笑顔の軍服の青年だ。ページをめくると次に現れるのは、自転車に乗ってこちらを見つめる幼い男の子の写真。

後田義明(うしろだ よしあき)とスティーブ・フラハティ。それは日本人として生まれ、アメリカ人として死んだ一人の青年の名だ。

神奈川県大磯町にある孤児院エリザベス・サンダース・ホーム。戦後生まれた多くの混血児が引き取られた孤児院である。米兵の父親を持つ後田義明も、母の手に引かれ、4歳でここにやってきた。敗戦国日本で、米軍兵士との間に生まれた混血児たちは、当時「あいのこ」と呼ばれ、差別を受けた。混血児を生んだ義明の母も、周囲からの協力が得られず、差別を受けながら女手一人で子供を育てることに苦しんだ。手に職をもって生活が安定するまで・・・。そう考え、幼い息子を連れたのがエリザベス・サンダース・ホームであり、自転車に乗る義明の写真は、施設に預けるその日、おめかしをして撮られたものだった。

「必ず迎えに来るからね」。母とのその約束は果たされず、11歳になった義明は養子縁組のため、カバン一つを携えてアメリカに渡る。混血児たちのより良い将来のため、人種が多様なアメリカに渡ることが良いと考えたエリザベス・サンダース・ホームの方針からだった。義明はそこでスティーブという名を与えられ、新しい生活が始まった。

天性のスポーツの才能からスター選手として活躍し、学園の人気者だった義明だが、混血という出自に悩み、自分の居場所を探し続けた。やがてアメリカ国民としての義務を果たすため、〝正義〟と信じるベトナム戦争へ志願。そして1969年、22歳の若さで戦死する。

 9年後、日本のテレビ番組で義明の死を知ったのは実母、後田次恵だった。物語は後田次恵の半生へと引き継がれる。母も子も、それぞれに過酷な戦後を生きた。戦争がもたらす幾重もの悲劇。しかしそこにあって、生きることを諦めない人間の姿がある。涙なくしては読めない、母と子の物語である。

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この本を読んだのは3年前のことです。その日、本を一気に読み終えた私は、深い悲しみに、一睡もすることができませんでした。日本人として生まれ、アメリカ人として死んでいった義明の生涯を思い、二度とこうした悲劇が起きないよう、こうした人々の存在を知り、平和につながるための活動をしたいと思いました。これまで読んだ本の中で、ここまで心が震えた本は他にはありませんでした。

この本に描かれているのは、米兵との混血児として生まれた後田義明、そしてその母親である次恵、そして「エリザベス・サンダース・ホーム」の創始者である澤田美喜です。それぞれが、戦争で大きな傷を負いながら、戦後を必死に生きようとしていました。

エリザベス・サンダース・ホームと澤田美喜

義明が連れられた「エリザベス・サンダース・ホーム」とは、敗戦後のGHQの占領下、進駐軍兵士と日本人女性との間に生まれた孤児のための救済施設でした。現在も神奈川県大磯町に現存し、児童養護施設として親と暮らすのが難しい子どもたちの自立活動に関わっています。

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信濃毎日新聞様に寄稿させていただきました

長野県の新聞社、信濃毎日新聞様に、6月の地震被災地取材の内容を2回に分けて寄稿させていただきました。取材内容を多くの方々に知っていただける素晴らしい機会をいただき、大変光栄なことでした。

「トルコ・シリア大地震 被災地はいま」〜重なる苦難〜 「上」・「下」

(信濃毎日新聞 2023年7月28日)

(信濃毎日新聞 2023年8月2日)

今後もこのようなお仕事をたくさんやらせていただけるよう、努力したいと思います。

*新聞への寄稿について裏話

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フォトジャーナリスト豊田直巳さんのお話から〜イラク戦争から20年〜

7月27日、東京都北区の絵本屋「青猫書房」にて行われた、フォトジャーナリスト豊田直巳さんのトークイベントに行ってきました。

豊田さんは、イラク戦争などの紛争地を精力的に取材されてきたフォトジャーナリスト・ドキュメンタリー映画監督で、最近では原発事故後の福島を継続して取材しています。イラク戦争勃発から20年目を迎えた今年、イラク戦争取材のお話をされるとのことで、参加してきました。

(豊田さんのプロフィール)

〈 以下、豊田さんのお話 要旨 〉 

イラク戦争が始まったのは2000年3月20日。この日、アメリカ主導「有志連合軍」が、大量破壊兵器があるとかで、戦争を一方的に始めた。以降、豊田さんは戦争取材のためイラクに頻繁に通った。

*小松メモ  〜イラク戦争の始まり〜                            

イラクのサダム・フセイン政権が、国連の求めた大量破壊兵器(WMD)に関する査察に非協力的だったことを理由に、米英軍は2003年3月20日、バグダッドの空爆を行い、イラク戦争が始まった。しかしその後、大量破壊兵器は発見されず、ブッシュ政権が依拠した大量破壊兵器に関する情報の誤りも明らかになった。

戦争開始直後、豊田さんはすぐ現地に入り、イラク戦争の最初の犠牲者を撮影することになった。クェートからイラクに入った国境のドライブインの隣にある郵便局が最初の空爆を受け、そこで亡くなったのが、当時豊田さんが雇っていた車の運転手の兄だった。空爆で亡くなった、その運転手の兄を撮影した。

その頃、戦争開始から48時間以内にフセイン大統領がイラクから去れば、これ以上の攻撃は止めるとアメリカは言っていたが、それも嘘で、空爆はどんどん続いていた。どこが標的になるのか、爆弾が落ちるか分からず、イラクの人々は逃げようがなかった。

イラク戦争ではクラスター爆弾が使われた。クラスター爆弾は今、ウクライナでも使用されているが、殺傷能力が強く、広範囲を破壊することで知られる危険な爆弾。非人道的であることから「クラスター爆弾禁止条約」が締結されている。

*小松メモ〜クラスター爆弾とは?〜                                 

ひとつの親爆弾の中から、大量の子爆弾がばらまかれる方式の爆弾のこと。その仕組みは、1発の容器(親爆弾)に数個から数百個の小さな爆弾(子爆弾)が入った爆弾で、親爆弾が空中で開くと、たくさんの爆弾が広い範囲にばらまかれるというもの。集束爆弾、親子爆弾とも言われる。

(「認定NPO法人テラ・ルネッサンス」HPより引用)

*小松メモ 〜クラスター爆弾禁止条約〜

2004年に締結された。日本も含めて111か国が合意している。

(AFP通信/2008年6日2日記事より引用)

イラクに空爆が続くなか、世界各国から戦争に反対する活動家が集まり、「人間の盾」としての活動を行うようになる。なかには日本人も数十人いた。彼らの主張は、武力によって戦争は解決しないということ。特に市民の生活インフラに関わる浄水場や発電所で「人間の盾」になり、そこが攻撃されないように活動した。しかし実際には、そんなことはお構いなしに攻撃された。

*小松メモ 〜「人間の盾」とは〜

Human shield。目標物に民間人がいることを敵に知らせ、攻撃を思いとどまらせる活動。しかし国際法では、人間の盾を使って軍事目標を守ることは戦争犯罪であるとみなされている。

その後4月8日、米軍がバクダッドの高級ホテル、パレスチナホテルを空爆した。ここに宿泊していたのは海外メディア関係者がほとんどで、こうした人々が犠牲になった。豊田さんもここに泊まっていた。

    (空爆直後のパレスチナホテルで、途方に暮れるメディア関係者)

その翌日、4月9日に首都バクダッドが陥落した。街の中心部に、米軍の戦車が入っていく。フセイン大統領の像も引き倒され、ロイター通信が撮影したその写真が世界へと拡散された。

この写真を見た豊田さんは、「違うんじゃないか?」と思ったという。像が引き倒されたのは事実だが、引き倒しているのが誰なのかはこの写真だとわからない。主語が見えない写真で良いのか、と当時思ったし、今も思っている。さらにこの光景を見ていた市民の視線は、報道で伝わったか?という疑問があった。それこそが伝えるべきものではなかったか。

同日4月9日の午後から、米軍は市民に銃を向けるようになった。米兵による検問も大変厳しくなった。その光景からは、「これが本当に、(アメリカ側が主張する)サダムフセインの圧政から解放されたイラクの姿なのか?」と感じたという。

また、空爆され破壊された家から、物を盗む人が増えた。そうした「アリババ(アラビア語で〝泥棒〟)」を米軍は放置した。本来は、そこを占領したアメリカ軍が治安を取り締まらなければいけないのに、一切放置した。そのため現地の警察機能が麻痺していった。

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八王子市「多文化共生写真展」に出展します

8月6日(日)の 10時〜16時、八王子市にて行われる「多文化共生写真展」に出展します。

こちらは、京王線八王子駅から徒歩3分の(JR八王子駅からは徒歩5分)、「東京たま未来メッセ」で開催されるイベントで、様々な国の文化を写真展や文化交流から体感するという企画です。お土産品やお茶の試飲などのコーナーもあるようです。

私は「トルコ・シリア」の企画展示で参加し、6月のトルコ・シリア地震の被災地の写真、昨年のシリア取材で目にした破壊されたパルミラの写真、シリア難民の写真の三つを展示します。また、国際理解を深めるためのイベントとのことで、大人向け・子供向けクイズも行います(景品もあり)。

おりしも8月6日は、八王子駅近くの甲州街道で行われる伝統行事「八王子まつり」の最終日です。ぜひ祭り見物と併せて、こちらの展示にもお越しください。当日、私は会場に在廊しております。

(以下、詳細です)

https://hachikomi.genki365.net/G0000533/system/event/5483.html

image 27 トルコ・シリア地震 取材報告会のお知らせ トルコ・シリア地震 取材報告会のお知らせ

トルコ・シリア地震 取材報告会のお知らせ

6月に行った、トルコ側の地震被災地の取材報告会のお知らせです。この取材では、被災者の方々のお話から、災害時の教訓について大変考えさせられました。

こちらの取材報告会は、探検家・医師の関野吉晴さんの連続講座「地球永住計画」にてやらせていただきます。最初に私からご報告し、その後関野さんと対談をします。人間として尊敬している関野さんとこうした企画をやらせていただけることが大変光栄です。

当日参加できない方のために、後日のオンライン視聴もございます。是非多くの皆様にご参加いただきたく思います。よろしくお願いします。

以下、ご案内、お申し込み先です。

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「地球永住計画 講演 〜賢者に訊く〜 小松由佳×関野吉晴」
【日時】2023年8月3日(木)19時00開始
※ 約120分で終了の予定ですが、質問への回答などによって若干延長されることがあります。
※ トイレ休憩や途中退席、退館など全く問題ございませんので各自自由に行ってください。
【会場】
武蔵野プレイス 4階 フォーラム(JR中央線 武蔵境駅より徒歩2分)

「地球永住計画 公開会場講演 〜賢者に訊く〜」
小松由佳(フォトグラファー)×関野吉晴(探検家・医師)
https://sites.google.com/site/chikyueiju/gakuen/daigaku/2023/komatsu2023

▼会場講演参加チケット(当日会場受付にて1500円を現金でお支払いください)

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/012ew13x1b631.html
https://ws.formzu.net/dist/S110083468/

▼オンデマンド収録配信 視聴チケット(オンライン決済1000円)(8月19日配信)
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/015b9n3c1b631.html
https://chikyueiju-komatsu2023.peatix.com

ー講座概要ー

トルコ南部のシリア国境近くで2月6日に起きたマグニチュード7.8の地震やその後の大きな揺れにより、トルコとシリアの両国で大きな被害が出て、死者数は約六万人近くに及んだ。
小松由佳さんは以前から被災者への救援活動を行なって来ました。6月初め、それ以降の呼びかけで寄せられた救援金を持って、彼女の親族をふくめて、シリア難民の多く住むトルコ南部に向かった。そこで、地震被災者のキャンプに寝泊まりして、インタビューを重ね、6月末に帰国しました。今回は、その帰国報告会です。身体を張って見たこと、聞いたこと、感じたことを話して貰います。(関野吉晴記)

▼以下、小松由佳のコメント。
今年2月に発生したトルコ・シリア大地震。マグニチュード7の大きな揺れが2回発生し、両国で6万人近い犠牲者が出ました。それから4カ月が経った今年6月、被災地の状況を取材するためトルコ南部に向かいました。

大きな被害があったハタイ県アンタキヤでは、瓦礫の山になった高層マンションの跡地など、あまりの惨状を前に、言葉が出ませんでした。
毎年シリア難民の取材をしているシリア国境の街レイハンルでは、被災者キャンプに寝泊まりしながら人々のお話を聞きました。地震がどのように起き、どのように避難したのか。家族の一員や、生活を失った人々が、これまでをどのように過ごしてきたのか。

トルコ南部地域には2013年以降流入した多くのシリア難民が暮らしており、彼らの多くがこの地震で被災しました。現地では、トルコの法によって守られることのないこうしたシリア人被災者の苦境がますます深刻化しています。
取材では、地震大国の日本に暮らす私たちにとっても、災害時の教訓として心に留めるべき多くの気づきがありました。被災地や被災者たちの現状から、私たちにとっても共通する課題として、皆様と共に考えさせていただけたらと思います

(プロフィール)
小松由佳     こまつ・ゆか
1982年秋田県秋田市生まれ。ドキュメンタリーフォトグラファー。
米農家だった祖父母が田んぼで働く姿を眺めて育ち、近郊にそびえる秋田市の名山、太平山(1170m)に幼少時より憧れを抱く。高校登山部
にて初めて太平山に登り、山の世界に魅了される。
東海大学山岳部にて本格的な登山を学び、2006年、“世界で最も困難な山”と称される世界第2の高峰K2(8611m/パキスタン)に日本人女性として初めて登頂(東海大学山岳部 OB隊)。植村直己冒険賞受賞(2006年)。
次第に、風士に根ざした人間の営みに惹かれ、草原や沙漠を旅しながらフォトグラファーに転向。2008年よりシリアを撮影するも、2011年からのシリア内戦で人々の境遇の変化を目撃し、2012年よりシリア内戦・難民を取材。近年は3歳と6歳の子供連れで、「子連れパニック取
材」を行なっている。
著書「人間の土地へ」(集英社インターナショナル/2020年9月)にて、第8回山本美香記念国際ジャーナリスト賞受賞。2022年、第11回モン
ベル・チャレンジ・アワード受賞。シリア人の夫と二人の子供と東京都在住。公益社団法人 日本写真家協会会員。

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以上、皆様のご参加をお待ちしております。

またこちらとは別に、オンライン報告会の日程は、8月上旬に予定しており、まもなく決定いたします。以上、引き続き、よろしくお願いします。

小松由佳(2023年7月18日)

image 33 トルコ・シリア地震 帰国後の取材報告レポート♯1 〜レイハンルの地震被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプ〜 トルコ・シリア地震 帰国後の取材報告レポート♯1 〜レイハンルの地震被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプ〜

トルコ・シリア地震 帰国後の取材報告レポート♯1 〜レイハンルの地震被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプ〜

被災したシリア人をめぐる問題

6月に行った地震被災地のトルコ側の取材では、特に地震被害が大きかったトルコ南部のハタイ県を訪ねました。

(写真はいずれも、ハタイ県の県都アンタキヤにて撮影。高層マンションや家屋の多くが倒壊し、甚大な地震被害があった)

ハタイ県などトルコ南部には、2013年頃から多くのシリア人が難民として暮らしており、今回の地震でも多くが被災しました。こうしたシリア人被災者への対応が、現地では大きな問題になっています。

トルコでは、コロナ後の物価上昇を受け、大量に流入したシリア難民への不満が高まっており、難民をめぐる処遇が今年5月に行われた大統領選でも大きな争点にもなりました。

こうしたコロナ後に拡大した「反シリア人感情」が、現地のシリア人地震被災者への対応にも大きな影響を与えているようです。

例えばハタイ県では、(トイレやシャワー、台所などが付属した)コンテナハウスからなる公営避難所に入所できるのはトルコ人のみで、シリア人は入所できず、支援に大きな格差が生まれています。

(ハタイ県の公営被災者キャンプ。トルコ人のみ入所可能だ)

シリア人は自分でテントや生活用品を用意し、自分で空いているキャンプを探して入所しなければならず、法によって守られることのない立場の弱さが、地震後、特に表面化しています。

地震被災者のシリア人キャンプ、ケーンマウラーキャンプ

こうしたなかで訪ねたのが、ハタイ県レイハンルに造られた地震被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプです。入所しているのは全員がシリア人で、約70張りのテントに250人ほどが暮らしていました。

そのほとんどが、被害が大きかった県都アンタキヤからやってきた人々です。暮らしていた家が倒壊したり、家族を失くした人もとても多く、大怪我をして療養している人もいました。また、地震の影響を受けなかったものの、トルコ人家主によって貸家を追い出され(代わりに被災した親族を入居させた)、避難している人々もいました。

(シリア国境の街レイハンル。郊外の山の中腹に、国境のコンクリート壁が見える。その麓にケーンマウラーキャンプがある)

(ケーンマウラーキャンプ入口。郊外の空き地をレイハンル市から借りあげ、被災者キャンプを作った)

(NGOからパンが配布され、喜ぶ子供たち。このキャンプでは毎日パンが配布される。ときどき水や食料も配布されるとのこと)

(キャンプでサッカーをして遊ぶ子供たち)

キャンプを設立したのはトルコ人とシリア人の二人のオーナーで、行き場がなく路頭に迷っているシリア人被災者のため、地震から約一カ月後に、市から土地を借り、このキャンプを建設しました。

入所者は、テントや寝具などの生活用品を持ち込む必要があるものの、電気や水道、トイレ、24時間お湯の出るシャワー、洗濯機、台所などを使うことができます(ただしトイレやシャワー、洗濯機など数が少なく不便である)。

(入所者が暮らすテントの内部の様子。このテントに2家族が暮らしている)

(食器の洗い場)

(洗濯機が置かれたテント。250人の入所者に対し、洗濯機は3台のみ)

テントの学校

キャンプの一画に、テント製の学校がありました。中に入ると、机や椅子、ホワイトボードが並べられ、平日の午前中、6〜12歳ほどの子供たちがここで勉強をします。

授業中はテント内が高温となり大変暑く、子供たちがじっと座っているだけでも大変です。毎日学校に来るのは20〜30人ほど。学校の教師は二人おり、彼らもここに暮らす地震被災者です。

(英語の授業の様子。トルコの小学校では英語を学ばないが、シリアでは必須だったらしい)

教師の一人、モナ先生による英語の授業を見せてもらいました。もともとシリア中部のハマで小学校教師だったモナ先生は、トルコに来てからは10年近く専業主婦でしたが、地震後、子供たちに教育の機会を作りたいと、ボランティアで教壇に立っています。

「被災したシリア人の子供たちには教育の場がありません。学ぶ場が無くならないよう、私ができることで彼らを助けたい」。モナ先生はそう話します。

突然学校に現れた私たちに、子供たちは驚き、喜んだりでガヤガヤし、授業どころではなくなりました。英語の授業中だったため、英語で自己紹介をし、二人の息子たちと一緒に授業を受けることになりました。

キャンプの子供たち

キャンプに暮らす子供たちのなかには、地震で家や家族の誰かを失った子供もいましたが、そうした悲惨な境遇や悲しみをあまり感じさせない表情の豊かさがありました(このことについて、私はもう少し自分の頭の中で考えたいと思っています)。子供たちはみな好奇心が強く、先生の話をあまり聞かず、打たれ強く、天真爛漫でした。

テントの学校が蒸し暑く、じっと座っているのが困難なため、子供たちは授業中、20分おきに水を飲みに自分のテントに戻ります。しかしそのまま学校に戻らず、遊びに出ていく子供も。

(キャンプで輪になり遊ぶ子供たち)

キャンプに暮らす子供たちの楽しみは、組み立て途中のテントの骨組みにぶら下がり、鉄棒をすることや、テントの上に登って跳ねること。落ちれば大怪我をしますが、「危ないからやめなさい」とは誰も言いません。子供は危ないこともたくさん経験し、その危なさを自分で学ぶことが求められているようです。

(建てている途中のテントで、骨組みにぶら下がって遊ぶ子供たち)

一方、子供たちのコミュニティでは、大きな子が小さな子をしっかりと見守ります。小さな子を、近所の年上の子が抱っこしていたり、一緒に連れて遊んでいたり、というのが当たり前の光景です。こうした子供たちの世界に大人は必要以上に干渉せず、子供たちはある意味独立した存在です。

(テントの上に登りたい次男サラーム。手を伸ばし、お兄ちゃんたちに引っ張り上げてもらった)

私たちは長男のサーメル(7歳)と次男のサラーム(5歳)とともに、このキャンプで一週間テント生活を送りました。息子たちはその間、キャンプの子供たちと一緒に時間を過ごしました。

(キャンプで寝泊まりしたテント。(株)モンベル様からご提供いただいた)

(私たちの小さなテントは子供たちに大人気。毎日たくさんの子供たちが訪れ、エアマットの上で飛んだりはねたり大騒ぎ)

朝6時半、太陽の日差しでテント内が高温になり、自然に目が覚めます。暑くて寝ていられません。息子たちは私がまだ寝ているうちに外に出て行き、そのまま何時間も戻ってきません。探しに行くと、子供たちキャンプ内をゾロゾロと集団になって遊び歩き、かけっこ、鬼ごっこなど、自由に遊んでいます。

キャンプ内には車やバイクがあまり入ってこないので、交通事故に遭う危険もなく、みんな顔見知りのため、親たちも安心して子供たちを遊ばせます。

(仲の良い友だちと一緒のサーメルとサラーム)

(洗い場で、水のかけ合いっこをして喜ぶ子供たち。びしょ濡れになっても、日差しが強いので服がすぐ乾く)

被災者たちの行く先は

250人ほどが暮らすこのキャンプでは、台所の洗い場が2台のみ、洗濯機が3台のみとのことで、特に洗濯の順番をめぐり、いつもいさかいが起きていました。

そこで皆様から集めさせていただいた地震被災者支援金から、台所の洗い場を2台、洗濯機を2台、寄付させていただきました。

また子供たちの学校があまりに暑く、授業を集中して受けられない状況だと聞き、学校にエアコン1台を寄付させていただきました(学校には翌日からエアコンがつけられ、今度はエアコンの風が吹く最前列に子供たちがぎゅうぎゅう詰めになってケンカになっていましたが、以前より快適に、子供たちが勉強できる場になったと聞きました)。

ほか、暑さが大変厳しいなか、扇風機もない家族が多かったため、生活支援として扇風機を20台ほど寄付させていただきました。

キャンプを離れる最終日、学校で子供たちと鶴を折りました。みんなかなり苦労していましたが、一所懸命に参加し、全員が鶴を折って持ち帰りました。みんなで折った色とりどりの鶴に、今後、この被災地の子供たちがより良い暮らしへと向かうように祈るばかりでした。

(学校で、子供たちと鶴を折った)

ケーンマウラーキャンプに暮らすシリア人被災者たちの多くが、レイハンルに新たに貸家を借りて住みたいと希望しています。しかし、住宅需要が高まっているレイハンルでは、貸家の家賃が地震後に3〜5倍に値上がりしていることや、空き家自体がほとんどなく、家を見つけるのは大変困難です。

地震でほとんど全てを失ったキャンプの被災者たちにとり、この先の見通しが全く立たないまま、厳しい夏の日差しだけが容赦なく降り注いでいます。

7月5日、日本に帰国して一週間ほどの私に、衝撃的な知らせが届きました。ケーンマウラーキャンプの周辺住民(トルコ人)が、キャンプからの騒音がうるさいとのことで警察に被害届を提出し、市からキャンプの閉鎖を命じられたとの知らせでした。入所者は3日以内に退去しなければならず、キャンプ内は大混乱中だというのです。

背景にはトルコ人住民の、シリア人への排斥感情が少なからずあるようです。行く宛のない地震被災者の避難所が、「騒音」という理由で一方的に閉じられてしまう事態に、改めてシリア人をめぐる問題の難しさを感じさせられました。

*有料会員様限定オーディオプログラム

「ケーンマウラーキャンプ 裏話」

こちらは、有料会員様限定の裏話です。一週間のキャンプ生活で考えたことなど、以下の内容をオーディオにてお話いたします。

1  ケーンマウラーキャンプでの取材の思い出。経緯と注意点、生活の感想。

2   イスラム文化のキャンプ生活の厳しさ

3   キャンプ閉鎖に至った事件

〈視聴はこちらより〉

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NHK Eテレ『こころの時代〜宗教・人生〜』にて、私の出演回が再放送されます

NHK Eテレ『こころの時代〜宗教・人生〜』にて、私の出演回が再放送されます。

「生きる根を見つめて」 再放送:2023年7月8日(土)13:00〜14:00 (初回放送日:2022年8月28日)

https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/E2JRQNVRR2/

取材いただいたディレクターより、「こんなに言葉を語れるNHKの番組は他にはありません」と聞いていたこの番組。昨年のトルコ取材前に収録いただきました。なぜシリア難民を取り続けるのか。自分の人生にとってそれはどういった意味があるのか。インタビューいただきながら、私自身も気持ちを新たにしました。ぜひご覧ください。

(2023年7月5日)

あっという間に取材の日々が流れ、帰国してしまいました!(2023年7月5日)

6月中旬に取材の様子を投稿してから、その後の取材の経過を更新できないまま、6月末に帰国日を迎えてしまいました!涙

この取材では、現地から皆様に状況をレポートするのを楽しみにしていました。しかし取材の半ば頃から、だんだんと記事を更新する余裕がなくなってしまいました。

体調を崩しがちとなったことや(腹痛が続いた)、自由に動き回る子供たちのパワフルさにすっかりくたびれてしまい、とにかく日々、人に会い、話を聞き写真撮るという、やるべきことを続行するだけでいっぱいいっぱいになってしまいました。現地からコンスタントに、取材の様子をご紹介できなかったことが本当に残念です。

子供たちを元気に日本に連れ帰らねば、という責任感でトルコでは動いていましたが、帰国してからはどっと疲れが押し寄せ、数日間グッタリしました。このところ、ようやく回復してきたところです。

(シリア国境に程近いハタイ県レイハンルのケーンマウラーキャンプにて、テントに寝泊まりしながら取材。二人の子供たちは現地の子供たちと毎日倒れるまで走って遊んだ)

取材中は、地震被災者のキャンプで寝泊まりし、被災者の方々からお話を聞いたりと、忘れられない印象的なエピソードがいくつもありました。現地からのレポートができませんでしたが、帰国したからこそじっくりと、こうした取材中のエピソードをご紹介できたらと思います。

さて、帰国してホッとしましたが、これからが正念場です。報道が少なくなってきた地震被災地の現状について、多くの方々に引き続き関心を持っていただきたく、雑誌や新聞などに寄稿させていただく予定です。

本日はひとまず帰国のご連絡でした。更新がないことで皆様にもご心配をおかけしたかと思います。申し訳ありませんでした。

(主要な取材地であるトルコ南部ハタイ県レイハンル。この街の地震被害はさほど大きくなかったが、被害が大きかったアンタキヤなどから多くの被災者が避難している)

(ここからは裏話です)

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トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

トルコ側の地震被災地、オスマニエへ

イスタンブールでの取材を終え、トルコ南部のオスマニエ県オスマニエ市にやってきました。高原野菜の産地で農業が盛んなオスマニエは、ほかのトルコの都市よりも物価が安いとされ、多くのシリア難民が暮らしています。私の夫の親族もこの街に2016年以降暮らしていることから毎年訪ねている土地のひとつです。

2月に発生したトルコ・シリア大地震では、このオスマニエが震源地から比較的近く、街の中心部にほど近い高層マンションなどが大きな被害を受け、500人ほどの住人が瓦礫の下敷きになって死亡しました。

この街では、親族やその繋がりから、地震の被害を受けたその後の人々の暮らしを取材しました。

この街では、親族やその繋がりから、地震の被害を受けたその後の人々の暮らしを取材しました。

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(地震により倒壊したオスマニエ中心部のマンション跡地。瓦礫はすっかり撤去されている。人間が建てたコンクリートの建物は倒壊したが、地に根を張る木々は倒れることなく緑の葉を揺らしていた)

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(倒壊は免れたものの、至る所に亀裂が入ったため、廃墟となったマンション。周囲に立ち入り禁止のテープが貼られていた)

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(オスマニエ市街地では、建物に亀裂が入り、無人となったマンションや住居があちこちに散見された。撮影2023年6月8日)

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(地震から4カ月、倒壊した建物の瓦礫の撤去が進んでいた)

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(エルドアン大統領は、この地震によって住居を失った人々に対し、一年以内に新しい住居を建てて入居させると約束している)

トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

(街の郊外に作られた巨大な公営避難所。仮説住宅が延々と立ち並ぶ。ここに避難しているのはトルコ人のみ)

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(地震で家を失い、暮らす家が見つからない人々の多くが、親族を頼って他の街へ移動した。残った人々は、トルコ人なら避難所の仮設住宅に入れるが、シリア人は入れないため、路上の隅や空き地にテントを貼って暮らしている)

地震後、自分たちで家を建てた兄ワーセル

地震前、毎年私が宿泊させてもらっていたのが夫の兄ワーセル一家の家で、オスマニエ市街地のマンションの3階にある貸家でした。
この部屋は、よく風が通る気持ちの良い空間で、窓から眺める山々の眺めが素晴らしく、ベランダでは鳥を飼い、屋上では二匹の陸亀を放し飼いにしていました。私はここに毎年子供たちを連れて泊まり、トルコ取材の基地のひとつとしていました。

しかし地震後、この建物に大きな亀裂が入り、住み続けることができなくなりました。引っ越し先の貸家を探しましたが、多くの住宅が被害を受けたトルコ南部では、住宅需要が高まり、家賃が4倍〜5倍近くに高騰しました。

家賃の値上がりのためなかなか引っ越し先も見つからず、兄の家族はしばらくテント生活を続けた後、別の兄の家の隣に、自分の家を増改築することに。親族中から借金をしてお金を集め、資材を買い、自分たちで家を建てました。

image トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

(夫の兄ムハンマドが、3年前から土地を買って建てたオスマニエ郊外の家。牛を飼い、牛乳やヨーグルトを販売して暮らしている。
地震後、家を失った夫の兄ワーセルが、右側部分を増築して家を造った(建物の正面の黒いドアから右側部分)。もともとそこは牛小屋だったが、地震後、牛を外に追い出して家を増築した。牛たちには、代わりにコンクリートブロックを積んで簡易的に牛小屋を作った)

オスマニエにて泊まらせてもらったのが、この新しい兄の家です。コンクリートブロックを積んで自分たちで建てた、と聞き、良かったなあと思いつつ、内心、(地震被害のあった家の多くが耐震基準を満たしていなかったことを考えると)自分たちでまた家を建てて大丈夫なのか、地震が起きたらまた崩れるのではないかとも思ってしまいました。

「また地震が来たら、この家・・・、大丈夫ですか?」とはっきり聞いてしまいましたが、親族曰く、これまでもそうやって自分たちで家を建ててきたし、崩れたらまた建てればいい、との話でした。

それを聞き、故郷を追われてこの10年、彼らはずっとその繰り返しで生きてきたのだと思いました。シリアでの空爆で家を失い、シリアやトルコを点々として住まいを変え続け、大地震でまた家を失い、失ってはまた作り上げて、また失って。

この先何が起きるかわからない。だからこそ、親族からなるコミュニティで共助の関係性をしっかり作っておき、自分たちでできる限りのことをやっておく。それでも壊れたらまた作る。日本の常識では計り知ることのできない悲惨な戦災、自然災害を経験してきた彼らにとり、それが結論であるように感じられました。

image 2 トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

(玄関前にて夜風に涼むムハンマド兄(中央)とワーセル兄(前列右)と子供たち。この時点で午後22時。子供たちはまだまだ寝ない。私の二人の子供たちもすっかり現地に馴染み、いとこたちと牛小屋や川や放牧地を走り回っている。トルコに行くたびに、子供たちはワイルドになる)

兄たちの家を、ムスタファ・カービースさんが壁塗り

オスマニエ在住のシリア難民ムスタファ・カービースさんは、私がここ数年取材を続けてきた難民の一人です。オスマニエに着いた翌日、朝起きて家の外に出ると、なんとムスタファ・カービースさんがムハンマド兄の家の玄関前を壁塗りしていました。

私がムスタファ・カービースさんの取材に毎年行くようになり、ムスタファさん一家と交流が生まれ、仕事を頼んだとか。取材を通し、シリア人同士の繋がりも生まれているようで嬉しいことです。

image 3 トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

(オスマニエに夜遅く着き、翌朝起きて外に出ると、なんと(長年取材してきた)ムスタファ・カービースさんがムハンマド兄の家を壁塗りしていた!)

被災地では多くの家が地震被害を受けたため、住居建築が急ピッチで進められている。壁塗りの仕事も需要が高まり、地震後は仕事が増えたという。

ムスタファさんは脳腫瘍で苦しんでいましたが、二年前に手術をしてから状況が落ち着いているようです(その際は、ムスタファさんの手術後の生活費がなく生活が困窮するため、生活支援カンパを呼びかけさせていただき、多くの方々にご協力いただきました。ありがとうございました)。それでもシリアでの空爆に巻き込まれて大怪我をした背中と腎臓の古い傷が痛み、現在は週に4日ほど働き、あとは休んでいるとのこと。なんと地震後、7人目の(上の二人の息子は2013年にシリアでの空爆で死亡)赤ちゃんが産まれていました。待望の男の子だそうです。オスマニエにまた戻ってきたら、ムスタファさんの家を訪問させていただくことにしました。

image 5 トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

被災地のオスマニエ。夫の親族たちは、突然の地震に戸惑い、経済的な打撃を受けながらも、その波の中で再び生活を作り出し、たくましく生きようとしていました。引き続き、取材を進めていきます。

(2023年6月11日)

▼この記事のより詳細な報告を「小松由佳HP有料会員コンテンツ」にて行っています。こちらは全文公開しておりますので是非ご覧ください。

https://yukakomatsu.jp/2023/06/10/3929/

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トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月10日)

(こちらの記事は、一般公開させていただきます)

①地震被災地、オスマニエへ

イスタンブールでの取材を終え、トルコ南部のオスマニエ県オスマニエ市にやってきました。高原野菜の産地で農業が盛んなオスマニエは、ほかのトルコの都市よりも物価が安いため、多くのシリア難民が暮らしています。私の夫の親族もこの街に2016年以降暮らしており、毎年訪ねている土地のひとつです。

二月に発生したトルコ・シリア大地震では、このオスマニエが震源地から比較的近く、街の中心部にほど近い高層マンションなどが大きな被害を受け、500人ほどの住人が瓦礫の下敷きになり死亡しました。

この街では、親族やその繋がりから、地震の被害を受けたその後の人々の暮らしを取材しました。

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(地震により倒壊したオスマニエ中心部のマンション跡地。瓦礫はすっかり撤去されていた)

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(倒壊は免れたものの、至る所に亀裂が入ったため、廃墟となったマンション。周囲に立ち入り禁止のテープが貼られていた)

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(オスマニエ市街地では、建物に亀裂が入り、無人となったマンションや住居があちこちに散見された。撮影2023年6月8日)

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(地震から4カ月、倒壊した建物の瓦礫の撤去が進んでいた)

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(人間が建てたコンクリートの建物は倒壊しても、地に根を張る木々は倒れない)

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(オスマニエ郊外に作られたトルコ政府による巨大な避難所の仮説住宅。ここに入居しているのはトルコ人のみ)

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(地震で家を失い、暮らす家が見つからない人々の多くが、親族を頼って他の街へ移動した。残った人々は、トルコ人なら避難所の仮設住宅に入れるが、シリア人は入れないため、路上の隅や空き地にテントを貼って暮らしている)

エルドアン大統領は、この地震によって住居を失った人々に対し、一年以内に新しい住居を建てて入居させると約束しています。しかしその対象はトルコ人のみで、シリア人の今後は、これまで以上に厳しいことが予想されます。

②自分たちで家を建てた兄ワーセル

地震前、毎年私が宿泊させてもらっていたのが、オスマニエ市街地のマンションの3階にある夫の兄ワーセルの家でした。

この家は、よく風が通る気持ちの良い空間で、窓から眺める山々の眺めが素晴らしく、ベランダでは鳥を飼い、屋上では二匹の陸亀を放し飼いにしていました。私はこの家に毎年子供たちを連れて泊まり、取材の基地のひとつとしていました。

しかしこの兄の家も地震後、建物に大きな亀裂が入り、住み続けることができなくなりました。引っ越し先の貸家を探しましたが、多くの住宅が被害を受けたトルコ南部では、住宅需要が高まり、家賃が4倍〜5倍近くに高騰しました。

あまりの家賃の値上がりに、なかなか引っ越し先が見つからず、兄の家族はしばらくテント生活を続けた後、別の兄がすでに建てていた家の隣に、自分の家を増改築することに。親族中から借金をしてお金を集め、資材を買い、全て自分たちで建てたそうです。水道も電気も、全て自分たちで引いたというから驚きです。

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(夫の兄ムハンマドが、土地を買って建てたオスマニエ郊外の家。牛を飼い、牛乳やヨーグルトを販売して暮らしている。新しく増築したワーセル兄の家は、家の中央の黒い扉から奥にある)

オスマニエに着いて、まず見せてもらったのがこの新しい兄の家です。コンクリートブロックを積んで自分たちで建てた、と聞き、良かったなあと思いつつ、内心、(地震被害のあった家の多くが耐震基準を満たしていなかったことを考えると)自分たちでまた家を建てて大丈夫なのか、地震が起きたらまた崩れるのではないかと思ってしまいました。

「また地震が来たら、この家・・・、大丈夫ですか?」とはっきり聞いてしまいましたが、親族曰く、「神が守ってくださる」とのこと。

これまでもそうやって自分たちで家を建ててきたし、崩れたらまた建てればいい、との話でした。まあそうなのですが、なんだか悶々としました。悶々としつつも、彼らはずっとその繰り返しで生きてきたのだと思いました。シリアでの空爆で家を失い、シリアやトルコを点々として住まいを変え続け、大地震でまた家を失い、失ってはまた作り上げて、また失って。この先何が起きるかわからない。だからこそ、親族からなるコミュニティで共助の関係性をしっかり作っておいて、自分たちでできる限りのことをやっておく。それでも壊れたらまた作る。それしかないのだと。狭い日本の常識では計り知れない戦災、自然災害を経験してきた彼らの、それが結論であるように思いました。

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(ムハンマド兄(中央)とワーセル兄(前列右)。玄関前にて夜風に涼む。この時点で午後22時。子供たちはまだまだ寝ない)

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(ムハンマド兄が、市場からパンや野菜を買ってきた。ジャガイモ(左上)は100リラ(約700円)、トマトは50リラ(約350円)、ピーマンとキュウリは合わせて40リラ(約280円)、パンは4袋で20リラ(約140円)だったとのこと)

③ムハンマド兄とワーセル兄の家を、ムスタファ・カービースさんが壁塗り

オスマニエ在住のシリア難民ムスタファ・カービースさんは、私がここ数年取材を続けてきた難民の一人です。オスマニエに着いた翌日、朝起きて家の外に出ると、なんとムスタファ・カービースさんがムハンマド兄の家の玄関前の天井を壁塗りしていました。なんでも、私がムスタファ・カービースさんの取材に毎年行くようになり、ムスタファさんの家まで送り迎えをするうち、この家族と繋がりが生まれ、壁塗りの作業を頼んだとか。取材を通し、難民の家族同士の繋がりがあちこちで生まれているようで、とても嬉しいことです。

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(ムスタファさん曰く、地震後に住宅がどんどん作られていることで、仕事が増えているとのこと。こうした壁塗りの仕事は、平均して一日300〜500リラ(約2100円〜3500円)ほどだが、高所作業など危険が伴う仕事の場合は一日1500リラ(約10500円)の収入を得られることもあるそう)

ムスタファさんは脳腫瘍で苦しんでいましたが、二年前に手術をしてから状況が落ち着いているようです。それでもシリアでの空爆に巻き込まれて大怪我をした背中と腎臓の古い傷が痛むため、仕事は週に4日ほど行い、あとは休んでいるとのこと。なんと地震後、7人目の(上の二人の息子は2013年にシリアでの空爆で死亡)赤ちゃんが産まれていました。オスマニエにまた戻ってきたら、ムスタファさんの家を訪問させていただくことにしました。

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被災地のオスマニエ。夫の親族たちは、突然の地震に戸惑い、経済的な打撃を受けながらも、その波の中で再び生活を作り出し、この土地でたくましく生きようとしていました。

引き続き、取材を進めていきます。

(2023年6月10日)

イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました

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日本を出発した翌6月2日、トルコ最大の都市イスタンブールに到着しました。アジアとヨーロッパにまたがり、東西の文化の交流点として栄えてきたこの街で、ある地震被災者の男性を取材しました。

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 お会いしたのはムハンマド・サーレさん(26)。トルコ・シリア大地震後、イスタンブールで暮らしているシリア人です。

ムハンマドさんはもともとシリアのパルミラ出身で、夫とは古い友人でもあります。シリアが内戦状態になった後、安全を求め、2014年にトルコに逃れました。以来、シリア国境に近いトルコ南部のハタイ県アンタキヤで、母親と弟、兄の家族と暮らしながら、建設作業員として働いていました。

2月6日、トルコ・シリア大地震が発生。ムハンマドさん一家が暮らすアンタキヤは特に地震被害が大きかった街のひとつで、建物の倒壊によって多くの行方不明者、死者が出ました。

地震が発生した日、ムハンマドさんは友人を訪ねてイスタンブールに来ており、トルコ南部で大地震が起き、アンタキヤでも大きな被害があったことを知りました。家族と連絡が取れず、ムハンマドさんはその日のうちに飛行機でアンタキヤへと戻り、家族を探しました。しかしそこで知ったのは、同居する家族全員が、倒壊したマンションの下敷きになっているという現実でした。

イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました

地震後、多くの住人が建物の下敷きになったアンタキヤでは、人々を救助するための重機が圧倒的に足りませんでした。ようやく8日後に重機での捜索が行われた時には、ムハンマドさんの家族は全員が亡くなっていました。

アンタキヤ郊外の墓地に家族の遺体を埋葬した後、ムハンマドさんは、ショックから何も手につかなくなりました。被災地にいるのが辛く、友人の助言もあってイスタンブールへと移動しました。

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イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました

(ムハンマドさんの部屋の壁に写真が飾られていた。写っているのは数年前のムハンマドさん。地震後、彼を励ますために友人が贈ったものだ。)

そこにはシリア人コミュニティがあり、パルミラ出身の友人も多いため、生活の援助を得ることができます。不動産業に関わる友人が無償で部屋を貸してくれ、ムハンマドさんを元気づけるため、友人たちが毎日彼のもとを訪れます。

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(「趣味は筋トレ」というムハンマドさん。毎朝起きると必ず筋トレをする。気持ちがスッキリするらしい)

最近になってムハンマドさんは、イスタンブールの海を周遊する観光船の乗組員の仕事を夜間だけ始めました。生活を維持するためです。しかし、これからのことを何も考えることができません。家族や、それまでの生活を突然失った喪失感に、ムハンマドさんは苦しんでいます。大地震から4カ月。被災した人々の苦難は今も続いています。

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▼こちらの取材の詳細な内容を、「小松由佳HP有料会員コンテンツ」にてご紹介しています。

https://yukakomatsu.jp/2023/06/05/3835/

*会員でない方も、途中まで記事をお読みいただけます。是非ご覧ください。

▼「小松由佳HP有料コンテンツ」(月額1000円)

https://yukakomatsu.jp/membership-join/

こちらは活動を応援いただくためのサイトです。より良い写真活動ができるよう、応援をどうぞよろしくお願いいたします。活動の裏側を紹介していきます。

▼ 今回の取材が終わる6/25頃まで、地震で被災したシリア難民の生活支援金を集めさせていただいております。

こちらは現地で引き出し、私が直接お渡しさせていただきます。ご協力をよろしくお願いします。

【 地震で被災したシリア難民への支援金 お振込先 】

三井住友銀行

八王子支店

普通

8553199

コマツ ユカ

▼取材活動のカンパを集めさせていただいております。

大変恐縮ですが、私自身も経済的に厳しい活動を続けており、取材カンパを集めさせていただいております。より良い取材活動ができるよう、ご賛同いただける方は、是非ご支援をお願いいたします。

【 小松由佳 取材活動カンパ お振込先 】

三井住友銀行

八王子支店

普通

8495661

コマツ ユカ

以上、よろしくお願いします。

イスタンブールの後は、夫の家族が暮らすトルコ南部オスマニエ県オスマニエへと向かいます。

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(取材には子供たちも同行。カメラの画角に入らないよう、子供たちにあっちにこっちに移動してもらいながらなんとか撮影した。ムハンマドさんには子供たちを暖かく見守っていただき、たくさん可愛がってもらった)

(2023年6月5日)

イスタンブールに暮らす地震被災者、ムハンマド・サーレさん(2023年6月5日)

(こちらは6月3日〜4日に行ったイスタンブールでの取材記事です)

日本を出発した翌6月2日、トルコ最大の都市イスタンブールに到着しました。この街で、ある地震被災者の男性を取材するため、二日間を過ごしました。

まずは子供たちと、イスタンブール旧市街を散歩。

旧市街の坂を登ったところにある、築400年近い重層建築物「buyuk valide han 」(ビユック・バリ・ダハ)へと迷い込みました。

(暗い建物の内部を進むと多くの小部屋が廊下に沿って並んでおり、小部屋の中で職人たちがそれぞれ仕事をしていました。400年前に建造された建物とのこと。室内の石積みの壁や天井から、歴史の厚みを感じます)

(「buyuk valide han 」の外観)

さて、イスタンブールの空気を吸い込んだ後、いよいよ取材が始まりました。

この街でお会いしたのはムハンマド・サーレさん(26)。トルコ・シリア大地震後、イスタンブールで暮らしているシリア人です。

(イスタンブールでムハンマド・サーレさんが暮らす建物(写真下の正面の建物)。新市街の入り組んだ一角にある)

ムハンマドさんはもともとシリアのパルミラ出身で、私の夫と家が近所で古い友人でもあります。2005年に父親が病気で亡くなった後、母親が一人で11人の子供たちを育てました。

しかしシリアが内戦状態になると、一家は安全を求めて2016年にトルコに逃れました。以来、ムハンマドさんは母親と弟、兄の家族とトルコ南部ハタイ県アンタキヤ市に暮らし、建設作業員として働いてきました。

タクシードライバーの兄とムハンマドさんとで家族の暮らしを支えてきましたが、兄が6年前に突然逮捕されてしまいます。シリア難民は、トルコ国内において移動制限があり、仕事をする際も登録された地域から出ることを禁止されています。ムハンマドさんの兄はタクシードライバーとして許可外の地域に出たことで咎められたのです。以来、兄は収監されたままです。

兄の逮捕後、一家の働き手が減り、暮らしは厳しくなりました。それでもムハンマドさんはなんとか生活を維持してきました。

こうしたなか、2月6日にトルコ・シリア大地震が発生しました。ムハンマドさん一家が暮らすアンタキヤでは建物の倒壊によって、多くの行方不明者、死者が出ました。

地震が発生したその日、ムハンマドさんは、友人を訪ねてイスタンブールに来ていました。そしてトルコ南部で大地震が起きたこと、自分が暮らすアンタキヤの街で大きな被害があったことを知りました。彼はその日のうちに飛行機でアンタキヤへと戻り、家族の無事を確認するために自宅へと急ぎました。

(お茶を沸かす。ムハンマドさんの部屋には、毎日多くの友人たちが集まる)

(ムハンマドさんは体を鍛えることが趣味。毎朝欠かさず筋トレをする)

そこでムハンマドさんが見たのは倒壊した自宅でした。同居していた母親と弟、兄の妻と娘の4人とは、地震後、全く連絡が取れません。それでも家族がどこかで避難しているのではないかと希望を抱き、ムハンマドさんは街の郊外の公園や避難所などを探しました。しかし彼らを発見できず、誰も彼らを見ていないことから、家族が瓦礫の中にいることを確信しました。地震発生から24時間ほどが経った頃のことでした。

ムハンマドさんは倒壊した自宅の周りを歩き、家族の名を呼び続けました。やがてある地点から、兄の妻バトュールの声が聞こえることが分かりました。

「私はここにいる、娘も生きている。大きな怪我はしていない。早く助けて。息ができない、水もない」

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トルコ側の地震被災地へ、取材に出発しました!(2023年6月3日)

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(成田空港にて出発直前。行ってきます!)

6月1日、トルコ・シリア大地震のトルコ側の被災地の取材のため、成田空港を出発しました。今回の取材期間は約一ヵ月です。

トルコ側の被災地には、夫の親族や知人がシリア難民として暮らしており、多くが被災。地震後、生活状況が一変しました。倒壊した建物の下敷きになり亡くなった知人、トルコ人による差別や物価の高騰に疲労し、より生活費がかからいシリアへと移動した知人もいます。こうした人々のこの4カ月間を、丁寧に取材する予定です。

折りしも5月28日には、トルコ大統領選の決戦投票が行われ、20年の長期政権を維持するエルドアン大統領の続投が決まりました。

対した野党6党の統一候補クルチダルオール氏とは接戦で、最後までどちらが勝利するか分からない選挙戦でした。大きな争点となったのは、トルコに大量に流入したシリア難民をめぐる処遇です。シリア難民のシリア帰還政策実施は必要だという主張は両者に共通しているものの、クルチダルオール氏はより強硬手段を提起していたことから、もしエルドアン氏が勝利しなければ、多くのシリア難民は強制的にシリアに帰されるかもしれない、という局面でもありました。

今回、エルドアン大統領の続投が決まり、シリア難民として現地に暮らす親族や知人たちから、「とりあえずはホッとした」という声を聞いています。

しかし国内では、難民への排斥感情がかつてないほど高まり、通貨安や高インフレで経済の混乱が続いています。トルコ社会の最底辺層であるシリア難民の立場は決して穏やかではありません。

こうしたコロナ禍、大地震、そして大統領選を経た彼らの現在を、一人一人のエピソードを綴ることで発信していきます。

また、地震によって被災したシリア難民への生活支援金を2月から集めさせていただき、皆様からのたくさんのご支援を現地に送金してきました。今回は、手元にある¥722.000(2023年6月2日現在)を持参し、私が直接、被災した方々に受け渡しいたします。皆様の暖かいお気持ちをありがとうございました。

もしまだ、地震で被災したシリア難民への支援を送りたいと思われる方がいらっしゃいましたら、現地でも支援金をATMで引き出してお渡しできます。以下にお振込先を書いておきます。

【地震で被災したシリア難民への支援金 お振込先 】

三井住友銀行

八王子支店

普通

8553199

コマツ ユカ

また今回の取材は、地震発生からあまり時を経ず、被災地を取材したく計画しました。本来は2月の地震発生後、すぐに現地へと赴きたかったのですが、取材費捻出と子供たちの保育園、小学校の準備があり、タイミングが整いませんでした(そのため、地震後は被災地への支援金集めに奔走することで、これが今の自分の役割だと考えました)。今回、なんとか現地への取材に出ることができ、多くの皆様に活動を支えていただいていることに感謝をしつつ、その分しっかりと取材をしたいと気持ちで身を引き締めております。

とにかく現場に立つこと。人に出会い、見て、感じて、考えること。そして一枚一枚、写真を撮ることを努力します。では行ってきます!

A921AD4B D8BF 4C69 A142 6778F18FED20 トルコ側の地震被災地へ、取材に出発しました!(2023年6月3日) トルコ側の地震被災地へ、取材に出発しました!(2023年6月3日)
(いつの間にかすっかり成長した二人の子供たち。7歳の長男サーメルと、5歳の次男サラームは、共に小さなスーツケースを自分で引っ張り、荷物運びをお手伝いしてくれるようになった)

▼取材の詳細を「小松由佳HP 有料会員コンテンツ」にて発信していきます!

https://yukakomatsu.jp/membership-join/

(こちらは小松の活動を応援いただくための月額1000円のサイトです。今回の取材の経過や裏話、葛藤などをたくさんの写真を交え、より詳細にご紹介していきます。是非、ご登録のうえ応援をよろしくお願いします)

(2023年6月2日)

拙著『人間の土地へ』が、大学入試問題で使用されました(2022年5月23日)

拙著『人間の土地へ』(集英社インターナショナル/2021年)が、なんと今年3月の亜細亜大学様の入試問題の「小論文試験」にて使用されました。

こちらは亜細亜大学様の「入学試験問題 過去問題」として今後公開されるとのこと。入試問題に使っていただけたことは、大変光栄な機会でした。それにしても、なんと難しい問題でしょうか。著者の私も(2)はうまく書けそうにありません。

この試験問題は以下よりダウンロードできます。お時間が許す方は、是非解いてみてください。

申請書-5

申請書-6

(2023年5月23日)

6/1〜6/28まで、トルコ側の地震被災地へ取材に向かいます(2023年5月23日)

トルコ・シリア大地震の発生からまもなく4カ月。被災地の報道が少なくなってきました。その後、地震被害に遭った人々がどのように暮らしているのか、なかなか情報が届かなくなり、また皆様からご支援を集めさせていただき、届けさせていただいたことに対して、その後の状況を伝える責任も感じるようになりました。

現地では急速に復興が始まっており、状況があまり変わらないうちに現地を取材したく、この6月に地震被災地のトルコ側へ取材に向かうことにしました。期間は6月1日から6月28日です。

今回も頭を悩ませたのは子連れの問題です。なにしろ長男は小学生になったばかり。本人には申し訳ないのですが、この間の長男のお世話をする人が身近にいないので、今回も取材へ連れることにしました。その分、取材は短期間で行います。そんなわけで、二人の子供を連れ、6月1日から28日まで取材に行ってきます。地震被災地の現状と、主にシリア難民コミュニティでの人々の暮らしの変化を見つめてきます。

取材後は、記事や写真を新聞紙や雑誌などのメディアにて発表させていただけたらと思っています。昨年の長い取材からあまり時が経っていないこともあり、経済的には辛いところですが、世界が動いている現場に立ち続けたいと思います。また取材の様子は、以下のページにてご報告していきます。

「Coverage of Syrian refugees 2023」

https://yukakomatsu.jp/category/coverage-of-syrian-refugees-2023/

以上、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

(2023年5月22日)

トルコ・シリア大地震の被災者への緊急支援金送付についてご報告(2023年5月23日)

今年2月6日に発生したトルコ・シリア大地震では、両国合わせ、5万6千人超の死亡が確認されました。これまで足繁く取材に通ってきたトルコ南部地域が大きな被害を受け、親族や知人も多数被災したことから、私も個人的に緊急支援を集めさせていただきました。

トルコ側、シリア側には夫の親族が難民として暮らしていることから、彼らを窓口に、地震被害を受けたシリア難民の被災者に、支援金を送り、配布させていただきました。2023年5月23日現在まで、総額¥5.185.394を現地に送付させていただくことができました。

こんなにたくさんのご支援を皆様からいただき、被災地したシリアとトルコの現地へと届けさせていただきましたことをお礼申し上げます。皆様のご協力をどうもありがとうございました。

今後も、写真活動を通じ、人と人とを繋げていくことをしていきたいと思います。

また最近でもちらほら地震被災地へのご支援が届き、私の手元には¥569.484(2023年5月22日時点)の支援金が集まっています。

こちらは、今年6月に地震被災地への取材に向かいますので、私が責任を持って被災者に直接お渡しいたします。以上、ご報告させていただきました。

(2023年5月23日)

シリア在住の兄たちに地震支援金を配布いただきました 〜バーセル兄による現地レポート〜

(こちらの記事は、最後の<裏話>まで、一般の方にも公開しています)

2月6日に発生したトルコ・シリア大地震の支援金について、本当にたくさんの方々から温かいご支援をいただきました。3月17日現在までにいただいたご支援の総額は、¥5,185,394です。現在、そのほとんどを現地に送付中で、¥2,884,000分は、配布が完了しています。そのほかは配布中です。

これらの支援は被災地のトルコ側とシリア側に折半してお送りしました。シリア側では被災地が政治によって分断され、国際支援が入りにくい状況ですが、シリア在住の二人の兄が支援金配布に協力してくれました。

シリア、パルミラ出身の私の夫は16人兄弟の末っ子で、上には11人の兄がいます。夫の家族のほとんどがトルコ南部に難民として暮らしていますが、シリアには二人の兄とその家族が残っています。一人はトルコ軍が占領するアレッポ県アル・バーブに暮らすアブドュルラティーフ兄、もう一人はクルド勢力統治下のラッカ県ラッカに暮らすバーセル兄です。

(中央で下を向いているのがアブドュルラティーフ兄。2009年、パルミラの自宅にて。小松撮影)

アレッポ県アル・バーブに暮らすアブドュルラティーフ兄は、内戦以前はパルミラで家屋の不動産業を営んでおり、性格も真面目で真っ直ぐ。兄弟の中でもかなり硬派(兄弟は全員硬派でしたが)な人物でした。道で見かけた女性に四年間片思いした末に結婚したというエピソードも。2016年以降、家族のほとんどがトルコに逃れていきましたが、アブドュルラティーフ兄はシリアから出ることをせず、トルコ側にシリアの食料品の輸出の商売をすることで生活を維持しています。兄が販売するシリア産のオリーブオイルやザクロの濃縮液、ナスの油漬けなどは、トルコで難民になったシリア人の間でもかなり需要があるらしく、商売はうまくいっているようです。

(バイクに乗り、沙漠へラクダの放牧に向かうバーセル兄。2009年、パルミラにて。小松撮影)

(ラクダの放牧中、昼食を食べながらふざける男たち。左側がバーセル。右端のサーメル兄が、友人のハーレッドの顔に、豆のディップをつけ始めた。サーメル兄もハーレッドも2012年に民主化デモに参加して逮捕され、今も行方が知れない。2009年、パルミラにて。小松撮影)

バーセル兄は、パルミラで家業にしていたラクダの放牧の仕事を、今も続けている唯一の兄です。暮らしているのはクルド勢力統治下のラッカ県ラッカ。かつてはイスラム過激派ISの首都となり、ISによる恐怖政治が行われていた地ですが、現在はクルド人の統治下、比較的安定した状況とのことです。

今回、その二人が、皆さまからの支援金をシリア北部および北西部の被災者へ配布しました。以下、そのレポートになります。

バーセル兄からの現地レポート

(3月15日に電話取材をした内容です。バーセル兄は被災地に支援を届けてラッカに帰ってきてから、しばらく沙漠にラクダの放牧に出ており連絡が取れず、お話を聞くのが遅くなりました)

・・・簡単に自己紹介をしてください

私は普段、シリアのラッカ県ラッカに妻や子供たちと暮らしています。仕事はラクダの飼育・放牧業です。ラッカは現在、クルド勢力の統治下にあって政情は比較的安定しています。ここでは地震の被害はありませんでしたが、日本からの支援金を被災地に届けるため、シリア北部のアレッポ県アル・バーブ、北西部イドリブ県に2月末から数日間行ってきました。

・・・支援金を届けた被災地は?

アレッポ県のアル・バーブ、ジェンディレス、アフリンと、イドリブ県のダーナ、サルマダです。

最初に、アレッポ県アル・バーブに向かい、そこに暮らす兄のアブドュルラティーフと合流しました。アル・バーブは地震の被害があまりなかったのですが、被災地から多くの住人がここに避難しています。まず彼らに支援を渡しました。

それからアレッポ県、イドリブ県に行きました。最も被害がひどかったのがアレッポ県のジェンディレスでした。現地では、地域の人々と相談しながら支援金を配布しました。

(左からラッカ、アル・バーブ、ジェンディレス、サルマダ)

(左上の渦状マークが震源地。赤丸は、建物の倒壊被害が激しかった場所。まさにシリア・トルコ国境付近がその被害が大きかったことがわかる)

・・・およそ何家族に支援金を配布できましたか?

およそ80家族です。地震で父親や母親などを失くした3人家族から、子供がたくさんいる8人家族まで人数はさまざまですが、およそ80家族、大体450人ほどに支援金を配りました(日本円にして大体¥10000〜¥15000の範囲で配布いただきました)。

・・・シリアでは、配布した支援金はどのような用途に使われますか?

全てが不足しているので、何にでも使われます。ここでは地震で全てを失った人々がたくさんおり、衣類や食料、毛布、暖をとるための燃料費、テントを買うための資金として使われたようです。

・・・被災地ではどのように人々が暮らしていますか?

被災地ではほとんどの住人がテントか、平屋の建物が、建物の軒下部分で生活しています。被災地の多くの建物にヒビが入っていて、住み続けるのが不安ですし、それ以上に地震が再び来ても、建物の下敷きにならないように注意しているのです。

2月6日に起きた地震は、あまりに突然のすごい地震だったので、皆、今も地震を恐れています。多くの子どもたちや女性が、いつ地震が起きるかもしれない恐怖でよく眠れず、食欲が戻らず、トラウマになっています。

私が訪ねた被災地の中で最も悲惨だったのが、クルド人が多く暮らしていたアレッポ県ジェンディレスでした。ここではかなりの建物が倒壊しました。瓦礫の山がえんえんと続く光景を目にして、ここで起きたことが信じられず、目を疑いました。たくさんの死者が出ましたが、まだ遺体の捜索が続いています。重機が少ないので、捜索はまだまだ終わらないでしょう。この街では生き残った人々も怪我人が非常に多く、手足を失くした子どもたち、若者、老人たちをたくさん目にしたことが忘れられません。

ジェンディレスやアフリンなどのアレッポ県の被災地では、みんなテント暮らしでしたが、彼らは人生で初めてのテント暮らしのようで、何から何まで苦労していました。自分たち家族はパルミラの砂漠で生まれ育ったので、幼い時からテント生活を体験していて、テントでの生活の心得もありますが、そうした経験の全くない人々が突然テントで暮らすのは大変なことです。

(3月1日、アレッポ県ジェンディレスでの捜索活動の様子。アブドュルラティーフ兄が撮影)

・・・シリアでは国際支援も入っていましたか?

はい。NGOが人々にテントや食糧を配布しているのを見ました。しかしその量はわずかで、十分な量ではありませんでした。シリア側では、地震の被害の規模に対して、支援は驚くほど少なく、全てが全く足りていません。私はSNSでトルコ側の被災地に大規模な支援が入っている様子をいつも見ていましたが、シリアでは同じではありません。被災地の人々も、そうした状況を嘆いていました。

・・・現地で今も必要とされているものは何ですか?

やはり生活を維持していくためのお金です。地震で家や仕事を失い、これからどうやって暮らしていけばいいか途方に暮れている人々がたくさんいます。地震で手足を失ったりと、重傷を負った人々でさえ、必要な医薬品を買えずにいます。また食糧、燃料などがほとんどの人々にとって常に不足しています。

・・・トルコからシリアへと移動してくるシリア人を目撃しましたか?

はい、たくさん見ました。シリア側では国際支援こそ少ないですが、物価はトルコ側に比べて安く、またここにいるのは同じシリア人なので、同胞として助け合いの精神が強く、トルコにいるよりも暮らしやすいです。ただイドリブ県では空爆の危険もあります。しかしそれ以上に、今、家族の生活を維持できるかどうかが大事です。シリア人はもう、そこまで追い込まれているのです。

・・・追加でシリアの被災地に支援金を送りたいのですが、あなたにまた届けてもらえますか?

光栄な仕事なのですが、次回は難しいかもしれません。今回、自分が暮らすラッカ(クルド勢力統治下)から、アレッポ県(トルコ軍占領下)、イドリブ県(反体制派勢力統治下)と、それぞれの支配地域をまたいで移動するのが本当に大変で、移動のための証明書を作ったり、提示したりとトラブル続きでした。ラッカからアル・バーブもイドリブもそう遠くはないのですが、支配勢力が違い、それぞれ仲がとても悪いので、移動制限が厳しく、私たちに自由はないのです。

・・・移動制限が厳しく、自由がなくともあなたがシリアで暮らし続けるのは何故ですか?

シリアはトルコに比べて生活水準が落ちますが、なんといっても自分が生まれた国で、自分たちの文化で暮らすことができます。ラッカは以前はIS(イスラム過激派組織)の首都になり、恐怖政治のもとで苦労もしましたが、今は情勢は比較的落ち着いています。ただクルド勢力支配下なので、クルド人が優遇されています。まあ、ラクダを飼って、砂漠で放牧をして静かに暮らす分には問題ありませんが。

・・・今回、危険を冒して被災地まで支援金を配布しに行ってもらい、大変助かりました。

どういたしまして。こちらこそ、シリア人のためにたくさんの支援を送ってくれた日本の人々に、どうもありがとうと言いたいです。本当にありがとうございました。

(支援金を配布した男性と周囲の様子。3月1日、アレッポ県ジェンディレスにて、アブドュルラティーフ兄が撮影)

▼上の動画の翻訳文

アブドュルラティーフ兄:こんにちは。私たちはジェンディレスにいて、アブ・ムハンマドさんと一緒です。地震の後、彼の家は倒壊してしまいました。何が起こったのか教えてもらえますか?

アブ・ムハンマド:地震が起きたとき、私たち家族は寝ていましたが、急いで家から出て外に逃げました。朝の4時15分頃のことでした。 私たちが庭に立っていると、家が入っていた建物が倒壊しました。ここに住んでいたアラブ人とクルド人の半分が亡くなってしまいました。どうか神のご慈悲がありますように。

この男性は(アブドュルラティーフ兄のことか)、地震で生き残った人々への支援を持ってきてくれ、分配するように話してくれました。私たちは大変感謝しています。神がその行為に報いてくださいますように。あなたたちのような人々がたくさんいるように祈っています。どうもありがとうございます。

<最後にひとこと>

この地震では、取材で出会ってきたシリア難民のほとんどが被災したため、彼らのためにできることをしたいと支援金集めを始めました。たくさんの方々からご賛同いただき、現在まで¥5,185,394ものご支援をいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。

さらにこの支援金の日本からの送付、現地での受け取り、配布については、日本に暮らすシリア人や、現地のシリア難民の親族や知人に活動を支えていただいています。

シリアではバーセル兄たちが、トラブルに見舞われながら異なる支配勢力間を通過し、イドリブでは空爆の危険もある中、受け渡しに協力してくれました。またトルコ側では、夫の家族12人が、家事や仕事の合間を縫い、支援金の受け取りのために銀行の窓口に並んでくれました(トルコに暮らすシリア難民は、一度に受け取れる額は1ヶ月一人当たり約¥170000までと規制があるため)。また日本に暮らすシリア人の知人が、手数料がかからない国際送金の方法を提案してくれ、その方のアラブ系銀行の口座から、一度ヨルダンの夫の兄の口座を経由して、シリアやトルコに送金するという方法が実現しました。

支援金をお送りくださった皆様、また支援金の受け取りや配布に協力してくださったたくさんのシリア人の親族・知人のご協力により、これらの支援が多くの被災地の家族のもとに届いています。引き続き、この活動を報告していきたいと思います。皆様、どうもありがとうございました。

<ここからは裏話です>

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トルコ・シリア大地震 支援金の送付状況(2023年3月7日時点)

トルコ・シリア大地震の緊急支援として、集めさせていただいた支援金を、現地在住の信頼できる親族や知人を通し、現地のシリア人ネットワークから配布させていただいています。トルコ側ではシリア人は困窮層が多いこと、またシリア側の北西部イドリブ県は反体制派遅配地域であり国際支援が入りにくい地域であるため、シリア人を対象にピンポイントで必要な支援をお届けしています。以下は現時点までの支援金の送付状況になります。

*どの地域にいくらの支援金が配布されたか、現在集計中です。追ってご報告いたします。

<送金日・金額>

2月15日 送金 ¥515,000 トルコへ

2月17日 送金 ¥507,000 シリアへ

2月21日 送金 ¥507,000 シリアへ

2月22日 送金 ¥507,000 トルコへ

2月27日 送金 ¥338,000 トルコへ

3月7日 送金 ¥510,000 トルコ・シリアへ

             〜 送金総額 ¥ 2,884,000 〜

<送付先>

●トルコ南部ガズィアンテップ県ガズィアンテップ県ガズィアンテップ・及びその近郊

・16家族87人(人数はおおよその数。倒壊家屋が多く、シリア人はテントが足りていない状況)

( 配布者 ワーセル・アブドュルラティーフ / アブドュルマリク・アサド )

●トルコ南部オスマニエ県オスマニエ

・1家族4人(貸家が被害を受け、失職し困窮している家族への支援)

( 配布者 ワーセル・アブドュルラティーフ )

●トルコ南部ハタイ県アンタキヤ

・6家族28人(人数はおおよその数。市街地では大変被害が大きく復旧の見通しが立たないため、多くの住人が街から移動。シリア人はテントが足りていない模様)

( 配布者 アブドュルラフマン・モヘイミド  )

●トルコ南部ハタイ県レイハンル

・21家族147人 (人数はおおよその数。アンタキヤからの避難家族が大変多い。シリア人はテント、薪・石炭・毛布などが足りていない)

( 配布者 アブドュルラフマン・モヘイミド / ムハンマド・サリーム )

●シリア北部アレッポ県ジェンディレス

●シリア北西部イドリブ県イドリブ

・38家族295人(人数はおおよその数。配布者はシリア在住の小松の夫の兄二人。全てが全く足りていないとの報告あり。国際支援があまり入っていない)

( 配布者 バーセル・アブドュルラティーフ  /  アブドュルラティーフ・アブドュルラティーフ  )

<支援金の分配>

支援金の分配については、シリア難民として現地在住の小松の親族や知人が、シリア人ネットワークの繋がりから、困窮した家族を優先に行っています。金額は、その家族の生活状況に応じ、現地の判断に一任しています。

現地で人々に最も必要とされているのがテントです。トルコ側では、公的な支援が受けられず、今も路上で暮らすシリア人の家族がいます。テントの購入費はひと家族あたり日本円で約35000〜40000円ほど(地域により購入可能金額に差があり)かかり、多くが困窮世帯のシリア人にとり、自力での購入は非常に難しい状態です。支援金はテントの購入費として、また暖をとるための薪・石炭や毛布、食料など、生活維持をするための支援金として使っていただいています。

〜現地への支援金送付・配布は現在も進行中です。現地からの写真やレポートも、まもなくご報告させていただきます〜

共同通信様に寄稿させていただきました

2月6日に発生したトルコ・シリア大地震から1カ月のタイミングで、共同通信様に記事を書かせていただきました。秋田魁新報様、信濃毎日新聞様など、全国の地方紙に配信され、五月雨式に掲載されたようです。

IMG 7907 共同通信様に寄稿させていただきました 共同通信様に寄稿させていただきました
(2023年3月2日 信濃毎日新聞)

<以下、記事全文です>

再び生活奪われたシリア難民

トルコ・シリア大地震から6日で1カ月。死者が5万人を超え、現地では混乱状態が続いている。

トルコには、内戦から逃れてきた360万人以上のシリア難民が暮らし、その数はシリア難民全体の7割弱に及ぶ。大量の難民を、トルコでは比較的寛容な立場で受け入れてきた。

しかしその同情論は近年、コロナ禍で一変した。トルコ政府の経済政策の失敗で物価が上昇。社会の不満がシリア難民に向かった。「シリア人はシリアに帰るべきだ」と排他的風潮が高まっていた。

こうした中で、地震は発生した。シリア人は再び地震が起きる不安におびえている。建物の倒壊を恐れて家に戻れず、路上や空き地、公園、畑などにテントを張り避難している。各国から支援物資が届けられたが、暖を取るための薪や石炭、毛布、テントなどが今も不足しているという。

シリア国境の移動規制が緩和したこともあり、シリアに移動するシリア人も多い。トルコの首都アンカラの非政府組織(NGO)で働いていたムサンナ・アルバクルも、その一人。給与が安い上、アンカラの物価が高騰し、生活は限界に達していた。地震後、家賃が2倍に上がったことが追いうちをかけた。

アンカラやメルシンなどのトルコ南部の大都市では、被災地から親族を頼って移動してくるトルコ人も多く、住居需要が高まっている。既に入居していたシリア人を家主が追い出し、新たに親族を招き入れることも増えた。そのため、地震で直接被災しなかったムサンナのようなシリア人が、法外な家賃を請求され、生活基盤を失うケースが多く報告されている。

また被災後、シリア人はトルコ人と比べ、明確な格差をつけられるようになった。特に支援物資の配給や捜索の場で顕著だ。物資を受け取れずに、避難所を利用できないこともあった。さらに不満のはけ口となり、暴力事件に巻き込まれることも増えた。こうした動きから、ムサンナはシリアへの移動を決めた。

「内戦が続くシリアでは空爆の危険もあります。しかしトルコに比べたら、シリアは私たちにとって楽園です」。ムサンナ一家は現在、国境に近いイドリブ県サルマダの親族の家に身を寄せている。シリアはトルコに比べ物価が安く、住民から差別を受けることもない。何より、誰からも虐げられないという安心感がある。

だが問題もある。シリアでは、国内が政治的に分断され、人道支援すらままならない。地震の被害を受けたシリア北西部イドリブ県でも、反体制派支配地域であるため支援が入りにくい。今回も地震発生から3日後になってようやく支援が入った。トルコ側に比べると圧倒的に支援体制が弱い。

「この地震は、シリアの空爆の恐怖を呼び起こさせました。そして一度シリアで失った生活を、もう一度奪いました」。

状況が落ち着いたら、ムサンナは再びトルコに戻るつもりでいる。生活は困難だが、子供たちのため、選択肢の多い環境に身を置きたいと考えているからだ。

被災地では、住居不足と地震への恐れから、避難生活がしばらく続くだろう。こうした状況下、圧倒的に困窮層が多かったシリア人が、さらに生活苦へと追い込まれていくことが懸念される。シリア人にとって、この地震による被災は、これまで続いてきた終わりの見えない避難生活の延長線上でしかない。

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14 編集後 12 共同通信様に寄稿させていただきました 共同通信様に寄稿させていただきました
(カンやビンなどの資源物を集めるシリア難民、カーセム・アウラージ。ハタイ県レイハンル。2017年。このあたりはレイハンルの旧市街で古い建物が多く、地震で被害を受けた)

記事について、ひとこと

記事を寄稿させていただき、大変光栄なことでした。一方で、地震から1カ月が経ち、報道も少なくなり、現地の様子が臨場感をもって伝えられなくなりつつあると感じています。

多くの国際支援が現地に届いていますが、支援の格差やシリア人への排他的風潮が見られ、地震で直接被災しなかったにもかかわらず、家を追い出され、シリアに帰ることを選択するシリア人も少なくないようです。被災地では、今も多くの人々がテントを手に入れられず、倒壊の危険のある建物にやむなく住み続けたり、路上で暮らしています。残念ながらそのほとんどがシリア人で、トルコの公的な支援から排除されているようです。ハタイ県レイハンルに暮らす知人の話では、NPOがテントを配布していたが、列に並ぼうとしたところ、トルコ人の警察や警備員に拒否され、追い払われたとのこと。アンタキヤ、レイハンル、ガジィアンテップなどの複数のシリア人の知人から同じ話を聞いております。大変残念なことです。

記事執筆にあたり話を聞いたシリア人、ムサンナ・アルバクルの話が忘れられません。「シリアでは空爆の危険もあります。しかしトルコに比べたら、シリアは私たちにとって楽園です」。空爆の危険があっても、インフラが非常に不安定でも(電気、ガスなどは1日のうち半分使えれば良いほう)、シリア人故の差別や理不尽な立退などを迫られることのないシリアは、何より安心できる土地だというのです。これまで異郷に生きようと努力してきたシリア人の、深い失望と悲しみを感じるのでした。

「この地震は、一度シリアで失った生活を、もう一度奪いました」というムサンナの言葉からは、延々と続く不安定な避難生活への、疲労感が感じられます。記事の最後に書きましたが、シリア人にとって、この地震による被災は、これまで続いてきた終わりの見えない避難生活の延長線上でしかないのです。