「呼ばわり山」の夜道の事件

2022年3月のある日、春風に誘われた。山に行こう。

早速おにぎりを握り、ザックにお菓子を詰め、3歳と5歳の二人の子供を連れて郊外へ。目指すは東京都八王子市のはずれにある今熊山(いまくまやま)。標高505メートルの今熊山は、八王子では知られた低山で、かつては「呼ばわり山」として、失踪した人を呼び寄せる霊山として崇められていた。江戸期、多くの参拝客を集め、関東一帯から人々が訪れたとされる。

登山口にて。今熊神社の階段を登り、今熊神社奥宮のある山頂へ。

今も昔も、人は様々な事情から行方が分からなくなることがある。こうした人々の無事を祈り、再会を願って登られた山なのだ。情報網や連絡手段が発達していなかった時代、人との出会いや別れは、現代よりもっと直接的で、深い意味があったろう。

登山口からしばらくは、なだらかな道が続く。

コースタイムでは、登山口から今熊山山頂まで一時間ほどの道のりだ。なだらかで良く踏まれた道を辿り、景色を楽しみつつ山頂を目指した。子供たちはどんぐりや松ぼっくりを拾い、鳥のさえずりに耳を傾け、飛んだり跳ねたり自由に自然を吸収した。やがて山頂に近づくにつれ、苔むした石灯籠やお地蔵さん、朽ちかけた石碑が道端に点在し、古の参拝者たちの面影が偲ばれた。

崩れ、倒れた石碑が点在している。こうした石を、背に担いで登ってきただろう古の人々が偲ばれる。
山頂近くの参拝路にて。「呼ばわり山」として参拝客を集めたかつての雰囲気をとどめる。

20代前半、狂ったように山に足繁く通った時期があった。だが人生の変化は驚くべきもので、その後私は、草原や沙漠のなどの、それぞれの風土に根ざした人間の営みに魅せられ、次第に登山から足が離れていった。さらに長男を出産してからのこの6年は、とにかく運動不足を重ねた。いつかまた、山の世界に戻りたいと心に願いながら。そうして最近になり、子供たちがだいぶ歩けるようになったタイミングで、ようやく山の静謐の世界を子供たちと共有する準備が整ったと感じるようになった。こうして私は今熊山を歩いている。

山頂からひとつ下のピーク、「今熊山 逍遥所(しょうようじょ)」からの眺め。ここは山頂を仰ぎ見る場所。山腹には発電所があり、付近には送電線が張り巡らされている。

石段を登ったその先に、立派な今熊神社奥宮があった。山頂だ。信仰の山として賑わった往時をしのびつつ、広い山頂で子供たちとおにぎりを食べる。帰路は、武蔵五日市駅方向へと下山することにした。

山頂に到着し、喜びの雄叫びをあげる子供たち。ここで登山は終わったと考えていたようだ。

ここで想定内の事態が起きた。「もう歩かない」と子供たちがストライキを起こしたのだ。どうやら、山頂に着けば登山が終わりだと思っていたらしい。普段、高尾山(東京都)でリフトやケーブルカーで下山することが多かったためか、それが登山だと思っていたようだ。本当の登山は、自分の足で安全なところまで降りるものだと力説したが、子供たちは愕然として座り込んでしまった。必死の説得もお菓子大作戦も効果なく、時間は流れた。仕方なく次男をおんぶして下山をしたが、そのうち日が暮れてしまった。人里から離れているから、本当の真っ暗がやってきた。

山で陽が暮れ、心細くなる・・・、というのは嘘で、心の中で、私の中の野生が目覚める。「よし、こうでなくっちゃ」と思う。実は、この登山の本当の計画はここから始まるのだった。それは夜の山を歩くことだった。

次第に視界が利かなくなっていくなかで、不安な表情を見せる子供たちの前に私は立ちはだかった。そしてザックから、ホームセンターで買ったピカピカのヘッドランプを、ドラえもんのような心境で取り出した。

「ヘッドランプ〜」。子供たちは大喜びし、ヘッドランプをつけて夜道を歩いた。

通常なら、明るいうちに行動し、夜が来る前に山を下りるのが良いとされる。だが、普通じゃない登山もしたい。あえて夜の山を歩き、山の夜の静けさや、暗がりの深さを感じてみたい(付き合わされた子供たちにはかわいそうだが)。夜が足元にゆっくりと忍び寄り、全てが深い黒に沈んでいくあの感覚を、最後に味わったのは一体いつのことだろう。

やがて、あたりに夜の静寂が広がった。私たちは夜とひとつになっていく。子供たちは、暗闇への不安を口にした。「オバケ出ちゃったらどうしたらいいの」「ヘビが出たら死んじゃう」。小さい子供も大人も、視界がきかない暗いところが怖い。見えないもののなかに潜む、リスクへの本能的な不安があるからだ。だが、その恐れと同時に存在するだろう、 “未知”への好奇心こそが、人間を人間たらしめているのではないだろうか。

夜の茂みに、生き物の世界がある。「ガサガサ」と何かが動く微かな音がする。そのたび、私たちは立ち止まって耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ました。その正体を全身で感じ取ろうと、危険がないか判断しようとする。安全と快適さとが前提にある街の暮らしでは感じ得ない、生き物としての野生を、自分たちの内面に感じる瞬間だ。

やがて疲れと不安から、子供たちが深刻な表情を見せた。励ましの言葉ももうきかない。こういうときは雰囲気を変えるに限る。場の空気を和ませるため、私は必殺技を繰り出した。

「ブッ!・・・」。夜の暗い山道に、大音量で屁が放たれる。その後の一瞬の静寂、そして子供たちの大笑い。それまで私たちと共にあった “暗闇こわいこわい” は、一瞬にしてどこかへ消えてしまった。一発の屁の、なんたる威力だろうか。人間は、かくもユーモアの力で、恐れや不安を払拭できるのだ。

そのうち登山道が終わり、私たち「ヘッドランプ登山隊」は、集落へと降り立った。すでに時計は夜8時を回り、街灯が仄かに道を照らしているだけで、人ひとり外を歩いていない。駅へと続く大きな橋を渡り、やがて目的地の武蔵五日市駅に到着した。「ああ、これでおうちに帰れる」と長男がひとこと。

自然が内包する未知に触れ、自身の野生に向き合った一日。子供たちとの初めての、本当の登山。その後、「呼ばわり山」の夜道で豪快に放たれた屁の凄みは、今も小松家で語り継がれている。

<完>                

(2022年4月28日)

ウクライナ侵攻を、どう捉えていくべきか〜ロシア通のF氏より、お話をお聞きした〜

2月24日、ウクライナ侵攻が始まって以来、世界の目はウクライナに注がれ、現地からは次々と惨状が伝えられている。あまりに短期間に引き起こされた戦争の悲劇に落ち着くことができず、今も進行する人道危機をどう捉えたらいいのか、私も非常に悩んでしまった。

報道の場では、様々な識者がこの戦争を語っているが、もっと直接、その背後にある歴史や文化から、話を聞きたいと思った。そこで、3月末、知人である北海道新聞の前編集委員、F氏とお会いした。

 F氏は大学時代よりロシア語を学び、ロシアでの留学を経て北海道新聞に就職。以来、記者、編集委員としてロシアの政情を見つめてきた。 約30年勤めた新聞社を退職し、関東に移る矢先にウクライナ侵攻が始まった。北海道新聞社は、特にロシアとの関係が深い新聞社だ。そこで編集委員をされていたF氏が、このウクライナ侵攻をどう捉えているのか。お話をお聞きしたく、北海道から越したばかりのF氏にお会いした。話の内容が非常に勉強になったため、自分自身の記録と、情報の共有のために、以下にまとめることにした。

<以下、F氏のお話より>

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ウクライナ侵攻は、政治問題である前に人道危機だ

 ▼ウクライナ侵攻は、政治問題である前に人道危機だ。子供やお年寄りまでもが巻き込まれている。すでに400万人近い難民が発生したが (3月下旬の段階)、「(ロシアに)降伏すればいい」というのは、力でねじふせるロシアの論理に加担することになってしまう。 

攻撃は軍事施設に限定するというロシアの公式説明に反し、住宅や病院、学校が破壊され、民間人が多数犠牲になっている。これは人道危機であるという観点から、何ができるか考えなければいけないのではないか。

▼ソ連崩壊とともに独立したウクライナはまだ若く、内政には不安定な側面があった。さらに西と東では、言語や歴史認識に大きな違いがある。西ウクライナは、民族意識やウクライナの独自性についての意識が強く、ウクライナ語話者が多い。一方で、ソ連を代表する重工業地帯だったドンバス地方など、東部にはロシアからの移住者が多く、ロシア語話者の住民が多い。大統領選では、親欧州と親ロシアの候補が拮抗し、地域で支持が分かれる経過があった。

▼プーチンはウクライナに侵攻したら、住民に歓迎されると本当に思っていたかもしれない。ロシアの傲慢ではあるが、首尾よくクリミアが併合できたことでプーチンには錯覚が生まれたのではないか。 あのとき国際社会は、もっと厳しくロシアを制裁すべきだった。ロシアも国際法の住人なのだから。

ただ、一方で帝政ロシア時代から保養地として名高く、黒海艦隊もあるクリミアでは、ウクライナ独立後、自分たちはなぜウクライナの一部なのか、という戸惑いがなかったわけでもない。ロシアの生活レベルは相対的に高く、ロシアへの帰属を望む住民もいたかもしれない。クリミアや東部のロシア語話者の住民には、反ロシアの民族主義的主張には違和感を持つ人も少なくなかったと思う。

本当の平和は、相手を尊重するところからしか生まれない

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信濃毎日新聞様に寄稿させていただきました(2022年4月8日)

大変光栄なことに、ウクライナ侵攻について寄稿させていただきました。以下、本文より抜粋です。

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「過熱する連日のウクライナ侵攻の報道を目にし、シリア難民を取材する一人として感じることがある。中東の一角で起きることと欧州の一角で起きることでは、世界を取り巻く危機意識も、人間の命の重みも、扱われ方が同じではないということだ。ロシアに対抗する西欧諸国の連帯の早さも、規模も、内容も、全てがシリアでのケースとは大違いだ。」

「それにしても泥沼の戦争を経験し、その苦しみを誰よりも知っているはずのシリア人が、報酬を求めて他国の戦争に加担する構図は、悲惨としか言いようがない。」

「他国に侵略した軍の一員としての責任は負うべきだ。だが同時に、こうした兵士たちが私たちとさほど変わらない人間であることを忘れてはいけないと感じる。彼らも誰かを愛し、誰かから愛される存在であり、家族や恋人など、帰りを待っている多くの人々がいるだろう。

 そうした一人一人が、戦地に立ち、殺戮に加担しなければいけない戦争の狂気、構造の問題をこそ考えたい。その視点を失ってしまうとき、私たちもまた、戦争が引き起こす人間の分断に巻き込まれていくのではないだろうか。」

写真雑誌『CAPA』様に寄稿させていただきました(2022年3月号)

「写真家×SDGs 未来に手渡す写真」コーナーにて。

「イデオロギーは、ときに真実を覆うことがある。それに対し、生きた生身の人間がそこにいるという“存在そのもの”は、決して覆うことができない。語られることのない多くの人間の物語、その一つ一つに唯一無二の輝きがあること。そのありのままを、写真に切り撮っていく。それが、写真家としてこの世界に生きる挑戦だと信じている」(本文より)

「公益社団法人 日本写真家協会」の正会員となりました(2022年4月6日)

大変光栄なことに、この度、日本最大の職業写真家の組織である「公益社団法人 日本写真家協会(Japan Professional Photographers Society, 略称JPS)」の正会員となりましたことをご報告させていただきます。

写真家としてまだまだ未熟ではあり、何より経済的なサバイバル状態ですが、この時代をいかに写し取っていけるかを問い続け、表現の道を突き詰めていきます。今後も活動へのご理解と応援とを、どうぞよろしくお願いいたします。

*公益社団法人 日本写真家協会

https://www.jps.gr.jp/aboutjps/

オンラインイベント「見えない入管問題を考える〜収容者の家族として〜」(2022年3月30日開催分)

3月30日、入管問題をテーマとしたオンラインイベントを行いました。

前回、映画「牛久」を見て考えたことをオーディオプログラムとしてあげさせていただきましたが、今回のイベントは、「入管問題」をテーマに、その続きとなります。

イベントでは、ガーナ人の配偶者が牛久(茨城県牛久市)の入管施設に2年3ヶ月にわたって収容されたカタクリ子さん(偽名・入管収容者 妻の会会員)をお招きし、お話いただきました。

驚いたのは、旦那さんがあまりに突然に収容となったことや、その後の家族の生活も、さらには精神状態も、次第に追い込まれていったこと。また「入管収容者の家族」として、区別や差別を受けてきたこと。

法治国家として、在留資格に問題がある外国籍の方々を法的に取り締まることは当然のことですが、問題は処遇です。収容期間を示されることなく、収容者の自由を心身ともに奪い、大きな負担を家族にも強いる入管施設の現状は、やはりどこか構造上の問題があるのではないかと感じました。第三者による監視や運営などがあれば、まだ風通しが良くなるのかもしれません。

いずれ、「世論の高まりが入管問題を変えていくはず」とカタクリ子さんが言われたように、私たちが関心を持ち続けることが大切だと思いました。

当事者から具体的なお話をお聞きできた貴重な時間でした。

◀︎イベントの収録動画はこちらより(有料会員様限定の動画です)

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