トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

トルコ側の地震被災地、オスマニエへ

イスタンブールでの取材を終え、トルコ南部のオスマニエ県オスマニエ市にやってきました。高原野菜の産地で農業が盛んなオスマニエは、ほかのトルコの都市よりも物価が安いとされ、多くのシリア難民が暮らしています。私の夫の親族もこの街に2016年以降暮らしていることから毎年訪ねている土地のひとつです。

2月に発生したトルコ・シリア大地震では、このオスマニエが震源地から比較的近く、街の中心部にほど近い高層マンションなどが大きな被害を受け、500人ほどの住人が瓦礫の下敷きになって死亡しました。

この街では、親族やその繋がりから、地震の被害を受けたその後の人々の暮らしを取材しました。

この街では、親族やその繋がりから、地震の被害を受けたその後の人々の暮らしを取材しました。

(地震により倒壊したオスマニエ中心部のマンション跡地。瓦礫はすっかり撤去されている。人間が建てたコンクリートの建物は倒壊したが、地に根を張る木々は倒れることなく緑の葉を揺らしていた)

(倒壊は免れたものの、至る所に亀裂が入ったため、廃墟となったマンション。周囲に立ち入り禁止のテープが貼られていた)

(オスマニエ市街地では、建物に亀裂が入り、無人となったマンションや住居があちこちに散見された。撮影2023年6月8日)

(地震から4カ月、倒壊した建物の瓦礫の撤去が進んでいた)

(エルドアン大統領は、この地震によって住居を失った人々に対し、一年以内に新しい住居を建てて入居させると約束している)

(街の郊外に作られた巨大な公営避難所。仮説住宅が延々と立ち並ぶ。ここに避難しているのはトルコ人のみ)

(地震で家を失い、暮らす家が見つからない人々の多くが、親族を頼って他の街へ移動した。残った人々は、トルコ人なら避難所の仮設住宅に入れるが、シリア人は入れないため、路上の隅や空き地にテントを貼って暮らしている)

地震後、自分たちで家を建てた兄ワーセル

地震前、毎年私が宿泊させてもらっていたのが夫の兄ワーセル一家の家で、オスマニエ市街地のマンションの3階にある貸家でした。
この部屋は、よく風が通る気持ちの良い空間で、窓から眺める山々の眺めが素晴らしく、ベランダでは鳥を飼い、屋上では二匹の陸亀を放し飼いにしていました。私はここに毎年子供たちを連れて泊まり、トルコ取材の基地のひとつとしていました。

しかし地震後、この建物に大きな亀裂が入り、住み続けることができなくなりました。引っ越し先の貸家を探しましたが、多くの住宅が被害を受けたトルコ南部では、住宅需要が高まり、家賃が4倍〜5倍近くに高騰しました。

家賃の値上がりのためなかなか引っ越し先も見つからず、兄の家族はしばらくテント生活を続けた後、別の兄の家の隣に、自分の家を増改築することに。親族中から借金をしてお金を集め、資材を買い、自分たちで家を建てました。

(夫の兄ムハンマドが、3年前から土地を買って建てたオスマニエ郊外の家。牛を飼い、牛乳やヨーグルトを販売して暮らしている。
地震後、家を失った夫の兄ワーセルが、右側部分を増築して家を造った(建物の正面の黒いドアから右側部分)。もともとそこは牛小屋だったが、地震後、牛を外に追い出して家を増築した。牛たちには、代わりにコンクリートブロックを積んで簡易的に牛小屋を作った)

オスマニエにて泊まらせてもらったのが、この新しい兄の家です。コンクリートブロックを積んで自分たちで建てた、と聞き、良かったなあと思いつつ、内心、(地震被害のあった家の多くが耐震基準を満たしていなかったことを考えると)自分たちでまた家を建てて大丈夫なのか、地震が起きたらまた崩れるのではないかとも思ってしまいました。

「また地震が来たら、この家・・・、大丈夫ですか?」とはっきり聞いてしまいましたが、親族曰く、これまでもそうやって自分たちで家を建ててきたし、崩れたらまた建てればいい、との話でした。

それを聞き、故郷を追われてこの10年、彼らはずっとその繰り返しで生きてきたのだと思いました。シリアでの空爆で家を失い、シリアやトルコを点々として住まいを変え続け、大地震でまた家を失い、失ってはまた作り上げて、また失って。

この先何が起きるかわからない。だからこそ、親族からなるコミュニティで共助の関係性をしっかり作っておき、自分たちでできる限りのことをやっておく。それでも壊れたらまた作る。日本の常識では計り知ることのできない悲惨な戦災、自然災害を経験してきた彼らにとり、それが結論であるように感じられました。

(玄関前にて夜風に涼むムハンマド兄(中央)とワーセル兄(前列右)と子供たち。この時点で午後22時。子供たちはまだまだ寝ない。私の二人の子供たちもすっかり現地に馴染み、いとこたちと牛小屋や川や放牧地を走り回っている。トルコに行くたびに、子供たちはワイルドになる)

兄たちの家を、ムスタファ・カービースさんが壁塗り

オスマニエ在住のシリア難民ムスタファ・カービースさんは、私がここ数年取材を続けてきた難民の一人です。オスマニエに着いた翌日、朝起きて家の外に出ると、なんとムスタファ・カービースさんがムハンマド兄の家の玄関前を壁塗りしていました。

私がムスタファ・カービースさんの取材に毎年行くようになり、ムスタファさん一家と交流が生まれ、仕事を頼んだとか。取材を通し、シリア人同士の繋がりも生まれているようで嬉しいことです。

(オスマニエに夜遅く着き、翌朝起きて外に出ると、なんと(長年取材してきた)ムスタファ・カービースさんがムハンマド兄の家を壁塗りしていた!)

被災地では多くの家が地震被害を受けたため、住居建築が急ピッチで進められている。壁塗りの仕事も需要が高まり、地震後は仕事が増えたという。

ムスタファさんは脳腫瘍で苦しんでいましたが、二年前に手術をしてから状況が落ち着いているようです(その際は、ムスタファさんの手術後の生活費がなく生活が困窮するため、生活支援カンパを呼びかけさせていただき、多くの方々にご協力いただきました。ありがとうございました)。それでもシリアでの空爆に巻き込まれて大怪我をした背中と腎臓の古い傷が痛み、現在は週に4日ほど働き、あとは休んでいるとのこと。なんと地震後、7人目の(上の二人の息子は2013年にシリアでの空爆で死亡)赤ちゃんが産まれていました。待望の男の子だそうです。オスマニエにまた戻ってきたら、ムスタファさんの家を訪問させていただくことにしました。

被災地のオスマニエ。夫の親族たちは、突然の地震に戸惑い、経済的な打撃を受けながらも、その波の中で再び生活を作り出し、たくましく生きようとしていました。引き続き、取材を進めていきます。

(2023年6月11日)

▼この記事のより詳細な報告を「小松由佳HP有料会員コンテンツ」にて行っています。こちらは全文公開しておりますので是非ご覧ください。

https://yukakomatsu.jp/2023/06/10/3929/

▼小松由佳HP有料コンテンツ(月額1000円)

https://yukakomatsu.jp/membership-join/

こちらは活動を応援いただくためのサイトです。より良い写真活動ができるよう、応援をどうぞよろしくお願いいたします。

トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月10日)

(こちらの記事は、一般公開させていただきます)

①地震被災地、オスマニエへ

イスタンブールでの取材を終え、トルコ南部のオスマニエ県オスマニエ市にやってきました。高原野菜の産地で農業が盛んなオスマニエは、ほかのトルコの都市よりも物価が安いため、多くのシリア難民が暮らしています。私の夫の親族もこの街に2016年以降暮らしており、毎年訪ねている土地のひとつです。

二月に発生したトルコ・シリア大地震では、このオスマニエが震源地から比較的近く、街の中心部にほど近い高層マンションなどが大きな被害を受け、500人ほどの住人が瓦礫の下敷きになり死亡しました。

この街では、親族やその繋がりから、地震の被害を受けたその後の人々の暮らしを取材しました。

(地震により倒壊したオスマニエ中心部のマンション跡地。瓦礫はすっかり撤去されていた)

(倒壊は免れたものの、至る所に亀裂が入ったため、廃墟となったマンション。周囲に立ち入り禁止のテープが貼られていた)

(オスマニエ市街地では、建物に亀裂が入り、無人となったマンションや住居があちこちに散見された。撮影2023年6月8日)

(地震から4カ月、倒壊した建物の瓦礫の撤去が進んでいた)

(人間が建てたコンクリートの建物は倒壊しても、地に根を張る木々は倒れない)

(オスマニエ郊外に作られたトルコ政府による巨大な避難所の仮説住宅。ここに入居しているのはトルコ人のみ)

(地震で家を失い、暮らす家が見つからない人々の多くが、親族を頼って他の街へ移動した。残った人々は、トルコ人なら避難所の仮設住宅に入れるが、シリア人は入れないため、路上の隅や空き地にテントを貼って暮らしている)

エルドアン大統領は、この地震によって住居を失った人々に対し、一年以内に新しい住居を建てて入居させると約束しています。しかしその対象はトルコ人のみで、シリア人の今後は、これまで以上に厳しいことが予想されます。

②自分たちで家を建てた兄ワーセル

地震前、毎年私が宿泊させてもらっていたのが、オスマニエ市街地のマンションの3階にある夫の兄ワーセルの家でした。

この家は、よく風が通る気持ちの良い空間で、窓から眺める山々の眺めが素晴らしく、ベランダでは鳥を飼い、屋上では二匹の陸亀を放し飼いにしていました。私はこの家に毎年子供たちを連れて泊まり、取材の基地のひとつとしていました。

しかしこの兄の家も地震後、建物に大きな亀裂が入り、住み続けることができなくなりました。引っ越し先の貸家を探しましたが、多くの住宅が被害を受けたトルコ南部では、住宅需要が高まり、家賃が4倍〜5倍近くに高騰しました。

あまりの家賃の値上がりに、なかなか引っ越し先が見つからず、兄の家族はしばらくテント生活を続けた後、別の兄がすでに建てていた家の隣に、自分の家を増改築することに。親族中から借金をしてお金を集め、資材を買い、全て自分たちで建てたそうです。水道も電気も、全て自分たちで引いたというから驚きです。

(夫の兄ムハンマドが、土地を買って建てたオスマニエ郊外の家。牛を飼い、牛乳やヨーグルトを販売して暮らしている。新しく増築したワーセル兄の家は、家の中央の黒い扉から奥にある)

オスマニエに着いて、まず見せてもらったのがこの新しい兄の家です。コンクリートブロックを積んで自分たちで建てた、と聞き、良かったなあと思いつつ、内心、(地震被害のあった家の多くが耐震基準を満たしていなかったことを考えると)自分たちでまた家を建てて大丈夫なのか、地震が起きたらまた崩れるのではないかと思ってしまいました。

「また地震が来たら、この家・・・、大丈夫ですか?」とはっきり聞いてしまいましたが、親族曰く、「神が守ってくださる」とのこと。

これまでもそうやって自分たちで家を建ててきたし、崩れたらまた建てればいい、との話でした。まあそうなのですが、なんだか悶々としました。悶々としつつも、彼らはずっとその繰り返しで生きてきたのだと思いました。シリアでの空爆で家を失い、シリアやトルコを点々として住まいを変え続け、大地震でまた家を失い、失ってはまた作り上げて、また失って。この先何が起きるかわからない。だからこそ、親族からなるコミュニティで共助の関係性をしっかり作っておいて、自分たちでできる限りのことをやっておく。それでも壊れたらまた作る。それしかないのだと。狭い日本の常識では計り知れない戦災、自然災害を経験してきた彼らの、それが結論であるように思いました。

(ムハンマド兄(中央)とワーセル兄(前列右)。玄関前にて夜風に涼む。この時点で午後22時。子供たちはまだまだ寝ない)

(ムハンマド兄が、市場からパンや野菜を買ってきた。ジャガイモ(左上)は100リラ(約700円)、トマトは50リラ(約350円)、ピーマンとキュウリは合わせて40リラ(約280円)、パンは4袋で20リラ(約140円)だったとのこと)

③ムハンマド兄とワーセル兄の家を、ムスタファ・カービースさんが壁塗り

オスマニエ在住のシリア難民ムスタファ・カービースさんは、私がここ数年取材を続けてきた難民の一人です。オスマニエに着いた翌日、朝起きて家の外に出ると、なんとムスタファ・カービースさんがムハンマド兄の家の玄関前の天井を壁塗りしていました。なんでも、私がムスタファ・カービースさんの取材に毎年行くようになり、ムスタファさんの家まで送り迎えをするうち、この家族と繋がりが生まれ、壁塗りの作業を頼んだとか。取材を通し、難民の家族同士の繋がりがあちこちで生まれているようで、とても嬉しいことです。

(ムスタファさん曰く、地震後に住宅がどんどん作られていることで、仕事が増えているとのこと。こうした壁塗りの仕事は、平均して一日300〜500リラ(約2100円〜3500円)ほどだが、高所作業など危険が伴う仕事の場合は一日1500リラ(約10500円)の収入を得られることもあるそう)

ムスタファさんは脳腫瘍で苦しんでいましたが、二年前に手術をしてから状況が落ち着いているようです。それでもシリアでの空爆に巻き込まれて大怪我をした背中と腎臓の古い傷が痛むため、仕事は週に4日ほど行い、あとは休んでいるとのこと。なんと地震後、7人目の(上の二人の息子は2013年にシリアでの空爆で死亡)赤ちゃんが産まれていました。オスマニエにまた戻ってきたら、ムスタファさんの家を訪問させていただくことにしました。

被災地のオスマニエ。夫の親族たちは、突然の地震に戸惑い、経済的な打撃を受けながらも、その波の中で再び生活を作り出し、この土地でたくましく生きようとしていました。

引き続き、取材を進めていきます。

(2023年6月10日)

イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました

日本を出発した翌6月2日、トルコ最大の都市イスタンブールに到着しました。アジアとヨーロッパにまたがり、東西の文化の交流点として栄えてきたこの街で、ある地震被災者の男性を取材しました。

 お会いしたのはムハンマド・サーレさん(26)。トルコ・シリア大地震後、イスタンブールで暮らしているシリア人です。

ムハンマドさんはもともとシリアのパルミラ出身で、夫とは古い友人でもあります。シリアが内戦状態になった後、安全を求め、2014年にトルコに逃れました。以来、シリア国境に近いトルコ南部のハタイ県アンタキヤで、母親と弟、兄の家族と暮らしながら、建設作業員として働いていました。

2月6日、トルコ・シリア大地震が発生。ムハンマドさん一家が暮らすアンタキヤは特に地震被害が大きかった街のひとつで、建物の倒壊によって多くの行方不明者、死者が出ました。

地震が発生した日、ムハンマドさんは友人を訪ねてイスタンブールに来ており、トルコ南部で大地震が起き、アンタキヤでも大きな被害があったことを知りました。家族と連絡が取れず、ムハンマドさんはその日のうちに飛行機でアンタキヤへと戻り、家族を探しました。しかしそこで知ったのは、同居する家族全員が、倒壊したマンションの下敷きになっているという現実でした。

地震後、多くの住人が建物の下敷きになったアンタキヤでは、人々を救助するための重機が圧倒的に足りませんでした。ようやく8日後に重機での捜索が行われた時には、ムハンマドさんの家族は全員が亡くなっていました。

アンタキヤ郊外の墓地に家族の遺体を埋葬した後、ムハンマドさんは、ショックから何も手につかなくなりました。被災地にいるのが辛く、友人の助言もあってイスタンブールへと移動しました。

(ムハンマドさんの部屋の壁に写真が飾られていた。写っているのは数年前のムハンマドさん。地震後、彼を励ますために友人が贈ったものだ。)

そこにはシリア人コミュニティがあり、パルミラ出身の友人も多いため、生活の援助を得ることができます。不動産業に関わる友人が無償で部屋を貸してくれ、ムハンマドさんを元気づけるため、友人たちが毎日彼のもとを訪れます。

(「趣味は筋トレ」というムハンマドさん。毎朝起きると必ず筋トレをする。気持ちがスッキリするらしい)

最近になってムハンマドさんは、イスタンブールの海を周遊する観光船の乗組員の仕事を夜間だけ始めました。生活を維持するためです。しかし、これからのことを何も考えることができません。家族や、それまでの生活を突然失った喪失感に、ムハンマドさんは苦しんでいます。大地震から4カ月。被災した人々の苦難は今も続いています。

▼こちらの取材の詳細な内容を、「小松由佳HP有料会員コンテンツ」にてご紹介しています。

https://yukakomatsu.jp/2023/06/05/3835/

*会員でない方も、途中まで記事をお読みいただけます。是非ご覧ください。

▼「小松由佳HP有料コンテンツ」(月額1000円)

https://yukakomatsu.jp/membership-join/

こちらは活動を応援いただくためのサイトです。より良い写真活動ができるよう、応援をどうぞよろしくお願いいたします。活動の裏側を紹介していきます。

▼ 今回の取材が終わる6/25頃まで、地震で被災したシリア難民の生活支援金を集めさせていただいております。

こちらは現地で引き出し、私が直接お渡しさせていただきます。ご協力をよろしくお願いします。

【 地震で被災したシリア難民への支援金 お振込先 】

三井住友銀行

八王子支店

普通

8553199

コマツ ユカ

▼取材活動のカンパを集めさせていただいております。

大変恐縮ですが、私自身も経済的に厳しい活動を続けており、取材カンパを集めさせていただいております。より良い取材活動ができるよう、ご賛同いただける方は、是非ご支援をお願いいたします。

【 小松由佳 取材活動カンパ お振込先 】

三井住友銀行

八王子支店

普通

8495661

コマツ ユカ

以上、よろしくお願いします。

イスタンブールの後は、夫の家族が暮らすトルコ南部オスマニエ県オスマニエへと向かいます。

(取材には子供たちも同行。カメラの画角に入らないよう、子供たちにあっちにこっちに移動してもらいながらなんとか撮影した。ムハンマドさんには子供たちを暖かく見守っていただき、たくさん可愛がってもらった)

(2023年6月5日)

イスタンブールに暮らす地震被災者、ムハンマド・サーレさん(2023年6月5日)

(こちらは6月3日〜4日に行ったイスタンブールでの取材記事です)

日本を出発した翌6月2日、トルコ最大の都市イスタンブールに到着しました。この街で、ある地震被災者の男性を取材するため、二日間を過ごしました。

まずは子供たちと、イスタンブール旧市街を散歩。

旧市街の坂を登ったところにある、築400年近い重層建築物「buyuk valide han 」(ビユック・バリ・ダハ)へと迷い込みました。

(暗い建物の内部を進むと多くの小部屋が廊下に沿って並んでおり、小部屋の中で職人たちがそれぞれ仕事をしていました。400年前に建造された建物とのこと。室内の石積みの壁や天井から、歴史の厚みを感じます)

(「buyuk valide han 」の外観)

さて、イスタンブールの空気を吸い込んだ後、いよいよ取材が始まりました。

この街でお会いしたのはムハンマド・サーレさん(26)。トルコ・シリア大地震後、イスタンブールで暮らしているシリア人です。

(イスタンブールでムハンマド・サーレさんが暮らす建物(写真下の正面の建物)。新市街の入り組んだ一角にある)

ムハンマドさんはもともとシリアのパルミラ出身で、私の夫と家が近所で古い友人でもあります。2005年に父親が病気で亡くなった後、母親が一人で11人の子供たちを育てました。

しかしシリアが内戦状態になると、一家は安全を求めて2016年にトルコに逃れました。以来、ムハンマドさんは母親と弟、兄の家族とトルコ南部ハタイ県アンタキヤ市に暮らし、建設作業員として働いてきました。

タクシードライバーの兄とムハンマドさんとで家族の暮らしを支えてきましたが、兄が6年前に突然逮捕されてしまいます。シリア難民は、トルコ国内において移動制限があり、仕事をする際も登録された地域から出ることを禁止されています。ムハンマドさんの兄はタクシードライバーとして許可外の地域に出たことで咎められたのです。以来、兄は収監されたままです。

兄の逮捕後、一家の働き手が減り、暮らしは厳しくなりました。それでもムハンマドさんはなんとか生活を維持してきました。

こうしたなか、2月6日にトルコ・シリア大地震が発生しました。ムハンマドさん一家が暮らすアンタキヤでは建物の倒壊によって、多くの行方不明者、死者が出ました。

地震が発生したその日、ムハンマドさんは、友人を訪ねてイスタンブールに来ていました。そしてトルコ南部で大地震が起きたこと、自分が暮らすアンタキヤの街で大きな被害があったことを知りました。彼はその日のうちに飛行機でアンタキヤへと戻り、家族の無事を確認するために自宅へと急ぎました。

(お茶を沸かす。ムハンマドさんの部屋には、毎日多くの友人たちが集まる)

(ムハンマドさんは体を鍛えることが趣味。毎朝欠かさず筋トレをする)

そこでムハンマドさんが見たのは倒壊した自宅でした。同居していた母親と弟、兄の妻と娘の4人とは、地震後、全く連絡が取れません。それでも家族がどこかで避難しているのではないかと希望を抱き、ムハンマドさんは街の郊外の公園や避難所などを探しました。しかし彼らを発見できず、誰も彼らを見ていないことから、家族が瓦礫の中にいることを確信しました。地震発生から24時間ほどが経った頃のことでした。

ムハンマドさんは倒壊した自宅の周りを歩き、家族の名を呼び続けました。やがてある地点から、兄の妻バトュールの声が聞こえることが分かりました。

「私はここにいる、娘も生きている。大きな怪我はしていない。早く助けて。息ができない、水もない」

▼ここからは有料会員のみ閲覧できます

コンテンツの残りを閲覧するにはログインが必要です。 お願い . あなたは会員ですか ? 会員について

トルコ側の地震被災地へ、取材に出発しました!(2023年6月3日)

(成田空港にて出発直前。行ってきます!)

6月1日、トルコ・シリア大地震のトルコ側の被災地の取材のため、成田空港を出発しました。今回の取材期間は約一ヵ月です。

トルコ側の被災地には、夫の親族や知人がシリア難民として暮らしており、多くが被災。地震後、生活状況が一変しました。倒壊した建物の下敷きになり亡くなった知人、トルコ人による差別や物価の高騰に疲労し、より生活費がかからいシリアへと移動した知人もいます。こうした人々のこの4カ月間を、丁寧に取材する予定です。

折りしも5月28日には、トルコ大統領選の決戦投票が行われ、20年の長期政権を維持するエルドアン大統領の続投が決まりました。

対した野党6党の統一候補クルチダルオール氏とは接戦で、最後までどちらが勝利するか分からない選挙戦でした。大きな争点となったのは、トルコに大量に流入したシリア難民をめぐる処遇です。シリア難民のシリア帰還政策実施は必要だという主張は両者に共通しているものの、クルチダルオール氏はより強硬手段を提起していたことから、もしエルドアン氏が勝利しなければ、多くのシリア難民は強制的にシリアに帰されるかもしれない、という局面でもありました。

今回、エルドアン大統領の続投が決まり、シリア難民として現地に暮らす親族や知人たちから、「とりあえずはホッとした」という声を聞いています。

しかし国内では、難民への排斥感情がかつてないほど高まり、通貨安や高インフレで経済の混乱が続いています。トルコ社会の最底辺層であるシリア難民の立場は決して穏やかではありません。

こうしたコロナ禍、大地震、そして大統領選を経た彼らの現在を、一人一人のエピソードを綴ることで発信していきます。

また、地震によって被災したシリア難民への生活支援金を2月から集めさせていただき、皆様からのたくさんのご支援を現地に送金してきました。今回は、手元にある¥722.000(2023年6月2日現在)を持参し、私が直接、被災した方々に受け渡しいたします。皆様の暖かいお気持ちをありがとうございました。

もしまだ、地震で被災したシリア難民への支援を送りたいと思われる方がいらっしゃいましたら、現地でも支援金をATMで引き出してお渡しできます。以下にお振込先を書いておきます。

【地震で被災したシリア難民への支援金 お振込先 】

三井住友銀行

八王子支店

普通

8553199

コマツ ユカ

また今回の取材は、地震発生からあまり時を経ず、被災地を取材したく計画しました。本来は2月の地震発生後、すぐに現地へと赴きたかったのですが、取材費捻出と子供たちの保育園、小学校の準備があり、タイミングが整いませんでした(そのため、地震後は被災地への支援金集めに奔走することで、これが今の自分の役割だと考えました)。今回、なんとか現地への取材に出ることができ、多くの皆様に活動を支えていただいていることに感謝をしつつ、その分しっかりと取材をしたいと気持ちで身を引き締めております。

とにかく現場に立つこと。人に出会い、見て、感じて、考えること。そして一枚一枚、写真を撮ることを努力します。では行ってきます!

(いつの間にかすっかり成長した二人の子供たち。7歳の長男サーメルと、5歳の次男サラームは、共に小さなスーツケースを自分で引っ張り、荷物運びをお手伝いしてくれるようになった)

▼取材の詳細を「小松由佳HP 有料会員コンテンツ」にて発信していきます!

https://yukakomatsu.jp/membership-join/

(こちらは小松の活動を応援いただくための月額1000円のサイトです。今回の取材の経過や裏話、葛藤などをたくさんの写真を交え、より詳細にご紹介していきます。是非、ご登録のうえ応援をよろしくお願いします)

(2023年6月2日)