新年、あけましておめでとうございます

皆様、あけましておめでとうございます。2024年がやってきました。私はこの新年を、イギリス南東部、ドーバー海峡を臨む港町ドーバーにて迎えました。新年を取材地で迎えられる幸せ。取材に連れている二人の子供たちも毎日元気いっぱいです。

昨年2023年は、振り返るととても愛しい一年でした。

年始めから長く胃腸の状態が悪く、深刻な病気の一歩手前であることがわかり、40歳を過ぎて、体が変化していることを知りました。もっと自分を大切に、食べることや生活すること、生きることについても、以前よりもずっと、自分をいたわって過ごすことを心がけるようになりました。

2月にはトルコ・シリア大地震が発生し、これまで足繁く取材で通ってきたトルコ南部地域に大きな被害があり、多くの親族や知人が被災しました。小さな子供がいるため、すぐに現地に取材に入ることが出来ませんでしたが、その分日本からできることをやろうと、皆さまに募金を募り、現地の親族のネットワーク(私の夫はシリア難民の一人で、夫の家族がトルコ南部に暮らしています)から、被災したシリア難民の家族に送金、配布させていただきました。その額はあわせて約580万円にも及びました。シリア北部の反体制派支配地域にも夫の兄たちが暮らしているため、トルコ側だけでなく、国際支援が入りにくいシリア側にも、兄たちを通じて皆様からの支援をお届けできたことがとても嬉しいことでした。多くの被災者たちが、大変な状況のなか、日本人からの支援を受けたことを心に留めることでしょう。

4月、5月は、所属している「日本写真家協会」からの派遣事業で、専修大学にて、「フォトジャーナリズム論」の講義を6回連続でやらせていただきました。何故写真なのか、一瞬を切り取るとはどういうことか、取材現場での事件や葛藤や覚悟など、まだまだ未熟ではありますが、学生たちに「写真で伝える」ということを毎回、心を込めて講義しました。講義後のリアクションペーパー(講義内容をレポートしてもらうもの)からは、学生たちの熱意が伝わり、大変素晴らしい機会でした。私はまだ、誰かに教えられる域には達していないと感じていますが、それでも、「経験を伝えていく」という機会を、今後も是非いただけたらと願うようになりました。普段はフリーランスフォトグラファーとして一匹狼の私ですので、誰かと共に、なにか芯のある文化をクリエイトしていくことを考えるようになりました。このような機会をいただいた日本写真家協会様、専修大学様に感謝の気持ちでいっぱいです。

その後、6月に入り、トルコ・シリア地震の被災地の取材にようやく入ることができました。小学生になったばかりの7歳の長男と5歳の次男を連れ(子連れ取材をするのは、ほかに預けられる人がいないから)、地震で甚大な被害を受けたハタイ県のシリア人専用の被災者キャンプで、私たちもテント生活をしながら取材をしました。地震報道が下火になり、次第に被災者への支援が少なくなっているなかで、家族や家をを失った多くの被災者たちが、癒えない心の傷を抱えながら、先行きの不安のなかで生きている姿を取材しました。最も印象的だったのは、地震で亡くなった被災者の墓場で、何時間も座り込んで涙を流していたあるシリア人男性の姿でした。男性はシリア中部のハマから逃れてきたシリア難民で、トルコでは10年をかけて安定した暮らしを築きましたが、地震でハタイ県アンタキヤのマンションが倒壊し、20歳前後だった3人の娘を全員失いました。「空爆の絶えないシリアからトルコに逃れてきたのは、娘たちの安全のため。しかしそのトルコで地震が起き、娘たちを死なせてしまった」。男性は娘たちの墓に毎日来ては、傍らに座り、彼女たちに語りかけているそうです。そこに深い愛と深い悲しみを思いました。シリアで生活を失い、避難先のトルコで再び生活を失ったばかりか、愛する娘たちを失った男性。周囲が暗くなりかけてもなお、娘の墓の傍らに座り続けていた、その後姿が、強い記憶として胸に残りました。不条理や悲しみのなかで、人々はいかに生きていくのか。故郷を失った人々の苦難について、フォトグラファーとしていかに彼らに寄り添い、記録をしていけるのか。大変考えさせられました。そしてその道をしっかり歩んで行こうと、思いを心に刻みました。

帰国してからは、被災地取材について、新聞記事や雑誌などに寄稿させていただく機会をたくさんいただき、多くの方に被災者の現状を知っていただけたことに、やりがいを感じました。

しかしその後、帰国した長男に問題が起きました。シリア人被災者の難民キャンプでは、子供たちがほぼ学校に行かずに毎日キャンプのなかで遊んでいた姿を見ており、「学校に行かなくても大人になれるのに、どうして毎日学校に行かなければいけないのか。あの子たち(被災したシリア難民の子供たち)はみんな学校に行っていなかった!」と長男なりの持論を展開し、学校ストライキに。登校しても机にじっと座っていることができない期間が続き、本人にも先生にも申し訳ないことになってしまいました。

世界は動いている。いつ、何が起きるかわからない。世界が動いていくのだから、現場に立ち続けなければいけない。そんな思いでおりましたが、フォトグラファーである前に、私は母親なのです。二人の子供たちを何より優先しなければ、と当たり前のことをしっかり考える機会になりました。今後は、子供たちにもそれぞれ、日本での社会生活があることを尊重し、小学生の長男の学校の長い休みに合わせて取材に出ることにしました。フォトグラファーとして現場に立つことと、母親としての責任のなかで、もがく日々です。

夏過ぎからは、原稿の執筆のお仕事をコンスタントにいただき、大変ありがたいことでした。おかげさまで、2022年まで生活費が厳しくなる度に頑張ったウーバーイーツの自転車の配達員の仕事もやらなくとも生活が回るようになり、充足感を感じました。同時に、もっと写真でストーリーを伝えるお仕事をしたいという気持ちも高まりました。

秋からは、夫がトルコ南部の親族に訪問したことで、しばらく夫のいない期間を満喫。普段、アラブ料理しか食べられない夫のために、手間ひまかかるアラブ料理を作り続けていたことに大変疲労していたという事実にも気づき(気付くのが遅すぎた!)、自分のためにも、そして自分につながる子供たちのためにも、無理をしないことを自分に宣誓。家族のために愛情のこもった料理を作りたいのはやまやまだけれど、生活するには働かねばならず、子供の面倒も見なければならず、洗濯物も洗って干さねばならず、料理だけに時間をかけられないのです。生きるために、家族の平和のために何が大事で、何を削ぎ落としていかなければいけないのかを真剣に考えた秋でした(考えるのが遅すぎた!)。

また秋に、海外向けに発信されるNHKワールドの「Direct Talk 」という番組に出演させていただき、私の写真活動を取り上げていただきました。自分としては、まだまだ納得できる境地には達しておらず、やるべきことが多々ありますが、自分自身を振り返り、内省し、次のステップを具体化するための大変嬉しい機会となりました。

▼ NHKワールド「Direct Talk 」に出演しました

▼小松由佳 出演回    https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/ondemand/video/2105055/

12月に入り、月末からイギリスへ、シリア難民の取材に向かうことに決めました。昨年夏に、トルコ南部から夫の兄や甥たちがヨーロッパへ、難民保護を求め「不法移民」として移動しており、その後、彼らがどのような状況にあるかを取材するためです。しかし問題は、取材費です。経済的に綱渡り生活を送る我が家にとり、物価の高いイギリスへ取材に出るのはかなり敷居が高く、直前まで悩みました。しかし、やはり世界は動いている。そして子供の学校の冬休みに合わせて、子供にもあまり負担がない形で行ける機会が今あるのです。

実は私は以前、ヒマラヤに登っていた時期があったのですが、そこで学んだことのひとつに「チャンスをいかに掴むか」というものがありました。タイミングが整うチャンスはそうそうめぐってこない。だからこそ、いつでもチャンスを掴めるように準備をしておき、チャンスがめぐってきたら、手を伸ばしてパッと掴むというその大切さ。チャンスは自分で生み出すものでもありますが、ヒマラヤのような大自然の中に身を置いたことで、変化し続ける環境のなかで、タイミングを見図り、判断していくことを学んだのです。

その嗅覚が働きました。兄や甥たちが、「不法移民」としてイギリスに入国して一年と一ヵ月が過ぎた今、彼らがどのような状況で過ごしているのかをしっかり取材し、記録したいと思ったのです。問題は取材費です。しかしお気に入りの中古カメラやレンズをいくつか売り、金策をし、なんとか捻出しました。本当にやろうと思えば、なんとかできるものです。

本当に今やりたいこと、本当に今やらなければいけないことは、今やる。それが私の信念です。今、どんなに状況が厳しくとも、やがて時が経てば、やってきたことに価値が生まれていく。そんな活動をしたいです。

2024年は、もっともっと写真を撮ります。もっと歩き回り、人に会い、思考し、激動のこの世界のなかで、写真で何を伝えていけるのか、真剣に模索します。

今、イギリスでは朝の5時50分。傍では二人の子供たちがすごい寝ぞうでスヤスヤ眠っています。二人の寝顔を見ながら私は思います。今年も撮ろう、歩こう、たくさん愛そう、と。

2024年が、皆様にとって愛と安らぎにあふれる一年となりますように。いつも、この有料会員コンテンツの会員様として、活動の応援をいただいていますことに心より感謝しております。いつもありがとうございます。今年も、どうぞよろしくお願いします。

▼現在、イギリスにて、「不法移民」としてトルコから海を渡っていったシリア難民の親族が、どのような状況にあるかを取材中です。大変恐縮ではありますが、取材カンパも募集しています。どうぞご無理なく、よろしくお願いします。

(小松由佳 取材カンパ お振込先)

三井住友銀行 八王子支店 普通 8495661 コマツユカ

以上、大変な長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

(追記)

この文を書き終えた今、能登半島沖で強い地震が発生し、津波警報が出たことを知りました。元旦の日の災害に心を痛めつつ、地元の方々の被害がありませんよう、お祈りしています。

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国外に向けて発信されるNHKワールドの番組「Direct Talk」にて、取材活動を取り上げていただきました。2023年6月に行った、トルコ南部の地震被災地取材について。写真は、シリア人の被災者キャンプでの親子。

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NHKワールドの番組「Direct Talk」の一コマ。墓場に座り、地震で亡くなった娘たちを偲ぶシリア人の男性。これまでシリア難民の取材をしてきたなかでも、最も忘れられないシーンのひとつだった。

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6月の地震被災地の取材中の光景。被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプにてテント生活をしながら取材した。テントの中にいつもたくさんの子供たちがいっぱい入って、跳ねて遊んでいたことが良い思い出だ。

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多くの建物が倒壊したトルコ南東部ハタイ県の県都アンタキヤの建物倒壊地。このような光景が街中にえんえんと続いていた。取材に入ったのは地震から4ヵ月、まだ行方不明者の捜索も続いていた。

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アンタキヤにて。倒壊した建物の跡地から、台所にあった食材の種が発芽して、トマトやキュウリが育っていた。ひまわりの群生地も。国破れて山河あり。人間の生活は失われても、植物は茂り、生き物の営みは続いていく。

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取材中、滞在したケーンマウラーキャンプにて、ここに暮らすシリア人被災者の子供たちと。私の二人の子供たちも一緒になって毎日遊んだ。私の長男と次男がどこにいるか、お分かりになるだろうか。

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取材中の一コマ。子供たちは、シリア難民の取材に同行しながら、自らのルーツのひとつを感じとってほしいと、母は願う。

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取材前に寄稿させていただいたトルコ・シリア地震の記事。

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取材後、寄稿させていただいたトルコ・シリア地震の記事。「トルコ・シリア大地震 被災者たちは今 〜重なる苦難〜」。地震後、被災者たちがどのように今を生きているのか、それぞれのストーリーを伝えることを心がけた。信濃毎日新聞様にて。

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こちらも信濃毎日新聞様に寄稿させていただいた記事。地震で娘を失った、あるシリア人家族に焦点を当てた。取材では、倒壊したままの彼らの家も見せていただき、地震の被害の大きさに言葉が出なかった。

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地震被災地の取材から帰国した成田空港にて。夫が迎えにきてくれた。

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ズッキーニやナスの中身をくり抜き、ご飯とひき肉を炒めたものを詰め、トマトソースで煮込むアラブ料理のマフシー。アラブ料理は食べる分にはとても美味しいが、作るのは手間暇がかかる。これを日本で毎日作るのは、経済的にも肉体的にも大変だ。今後は無理をしないと決めた2023年。

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日本写真家協会からの派遣事業で、専修大学のフォトジャーナリズム論にて6回講義。写真を撮るということはどういうことかを突き詰めて共に考えていく、という試みをした。

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NHKワールドの番組「Direct Talk」にて、座右の銘を紹介したシーン。「名のない星の輝きに目をこらす」が私の信条。

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日本では、自転車でどこまで行く日々。今年も車の免許が取れなかった。来年こそ、免許を取るのだ!

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2023年12月、イギリス取材へ出発!一歳から取材に同行した長男は、7歳になった。

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ロンドンにて。子連れ取材がいつまで続けられるものやら。いつでも今できることを、懸命に続けていくしかない。私の後に、私の道ができるのだ!

(2024年1月1日)

イスラエルとガザの衝突から一カ月(2023年11月15日)

11月15日。ガザを実効支配するハマスが大規模攻撃を仕掛けてから一ヶ月と7日が経過した。ガザをめぐる状況は、悲惨の一言に尽きる。インフラがほぼ遮断された状況で、ガザの人々は一方的な避難を余儀なくされ、空爆は続き、ガザ側の死者は増え続けている。イスラエル軍はハマス壊滅を謳って地上進侵攻に踏みきり、ガザ北部を掌握。これまで確認されているイスラエル人の死者は1200人ほどである一方、ガザ側の死者は11240人にものぼっている(11月13日時点/ガザ当局発表)。

ハマスによる襲撃直後こそ、イスラエルへの同情論から、自衛権を認める声も多かったが、ガザの市民に多数の死者が出ていることから、次第にイスラエルへの国際世論も厳しくなっている。ガザ市民に対する「ジェノサイド」だという声、また各国首脳からの「停戦を」という声も聞かれる。

こうしたなか、私はガザ市民の犠牲の多さに心を痛めながらも、ガザ側の被害ばかりをクローズアップするメディア報道のあり方にも疑問を感じている。

特に、なぜガザの人々がこうした現状に追い込まれたのか、背景をイスラエルからの抑圧ばかりに結びつけているが、人々の背後で恐怖支配を強いてきたハマスについては、その責任にほとんど触れられていない。

確かにイスラエルは、ガザに対し圧倒的な軍事力で高圧的な支配を続けてきた。だが、イスラエル側の加害だけに着眼し、ガザの人々に同情するだけでは、まさにハマスの情報戦にのせられているようなものだ。ガザ市民の被害の大きさを主張して世界の同情を集め、反イスラエルの機運に持っていくこと。それこそがハマスの狙いなのだから。

ハマスの総資産は6000億円とされる。その驚くべき膨大な資産をもってして、彼らはなぜ、地下トンネルを作っても、(イスラエルでは義務付けられているように)市民を空爆から守るためのシェルターを作らなかったのか。ガザに空襲警報もアイアンドームもないのは、ハマスが資金をそこに使わず、作らなかったからだ。2007年にガザが封鎖されてから、ガザの市民はインフラさえも崩壊して困窮を極めてきたのに、そうしたインフラ支援より兵器開発に力を入れてきたのは誰なのか。こうした部分に、報道でもほとんど目が向けられていないことに疑問を感じている。

また、ガザの人々とハマスは違う、と思いたいのはやまやまだが、さまざまな記事や過去の報道を見るに、現実的には、両者は密接に結びついており、切り離すのは困難だと感じるようになった。大家族が多いガザの人々にとり、そのほとんどが、親族内や知人にハマスのメンバーがおり、ハマスはガザの人々に深く浸透している。というより、ガザの人々の総意を代表するのがハマスなのだ。

報道では「ハマスは設立当時は福祉や教育に力を入れた福祉団体だった」と話す専門家もいるが、設立当初からハマスは、イスラエルの存在を認めず、武力闘争によるイスラエル壊滅を目標とするイスラム教組織だった。そうした理念を持つハマスを、人々は支持してきた。

私は、5年ほど前に見た、ガザを舞台にしたあるドキュメンタリーを思い出した。タイトルも覚えていないが、イスラエル兵士を殺害するため、息子たちを次々とジハードへと送り出すガザの母親たちを取材したものだった。イスラエル兵士と共に自爆して死んだ息子の死を嘆き悲しむ母親に、すでに息子たちを同じようにジハードで失くしている母親たちが集い、「あなたの息子は天国に行くだろう。喜べ」と声をかける。それでも涙を流す母親に、女性たちは言う。「ガザの母親たちは、みんなこうして息子たちを送り出してきた。あなたもそうならなければならない。これは宿命だ」。衝撃を受けた。番組の最後に、女性の一人がインタビューに答える。「私たちはハマスを支持している。ハマスを支持するしか、もう選択肢が残されていないからだ」。その女性の、形容のしがたいあの眼差しを思い出した。それは悲しみとも、狂気とも言える。今回のハマスとイスラエルの衝突前から、ガザでは長い戦争状態にあったのだ、とも思う。

強硬手段でガザの人々を追い詰めてきたイスラエルの責任も、有効な解決法を示せなかった国際社会の責任もあるだろう。だが、市民をジハードにかりたて、暴力的手段での報復を正義として主導してきたハマスの責任もあるはずだ。そして、そうしたハマスを支持し、ジハードを繰り返してきた人々の責任もまた、全くないとは言えないのではないか。

特に今回、イスラエル軍によるガザの人々の被害ばかりがクローズアップされ、最初に(10月7日に)イスラエル市民に虐殺を行ったハマスへの批判や客観的な分析がされていない印象を受ける。そしてそれこそが、ハマスの戦略ではないだろうか。

いやらしい考えかもしれないが、私はシリア難民やシリア国内の取材を通して、戦争を生きた者がどうなるかを目にしてきた。生きるために、人間は平気で嘘をつく。人も殺す。殺人が正義になる。悲しいかな、戦争とはそういうもので、人間とはそういうものだ。

テロ組織壊滅のために手段を選ばないイスラエルも、イスラム理念の実現のために市民を利用するハマスも、どちらも問題がある。その、どちらにも問題があるということを、直視するべきではないだろうか。

特に今、ガザの被害の大きさからガザ擁護論が高まっているが、弱者は必ずしも正義ではない。イスラエル、ハマス、ガザの人々それぞれに、問われるべきこれまでの責任があるのではないかと考えている。

だからと言って、ガザの人々が犠牲になっていいわけでは決してない。犠牲者がこれ以上増えないように、国際社会としても最大の努力が払われるべきだ。

また、ガザの人々の側から、自分たちが支持してきたハマスがイスラエル人を虐殺したことへの、自分たちの道義的責任についての意見が全く出てこないことも気になっている点だ。ハマスは、赤ちゃんから老人に至るまで、非武装のイスラエル市民を1200人近くも非常に残酷な方法で殺害し、さらに250人近い人質をガザに連れ去ったのだ。卑怯であり、非道である。ガザの人々はハマスに恐怖支配されているとされているから、本当のことを公然とは話せないのかもしれない。だが、ハマスが行ったことの責任の一端は、ハマスを支持してきた人々にもあるはずだ。それについてガザの人々はどう考えているのか。こうしたことがほとんど報道から見えてこないことが疑問だ。

まさに今、生きるか死ぬかの状況にあるガザの人々に対し、極めて手厳しい意見かもしれない。だが、多角的に、客観的に事実を捉えていたい。そしてそこに生きる一人一人の人間の尊厳を尊重したいからこそ、一人一人が持つべき「選択の責任」についても問い、直視したいのである。

(2023年11月15日)

230812 福島被災地 編集後 5 福島の被災地へ① 〜あの日は終わらない〜 福島の被災地へ① 〜あの日は終わらない〜

福島の被災地へ① 〜あの日は終わらない〜

この8月、震災以後初めて、福島の被災地を歩きました。2011年の東日本大震災と、その後も福島で続いている放射能被害についてずっと気になってはいましたが、触れることができずに時間が流れていました。今回、お盆に秋田の実家に帰るため、鈍行列車で三日かけて北上し、その途中で福島の被災地を訪ねました。

これまで、ある意味で必然的に、フクシマを扱ってきた写真家や表現者の友人・知人たちが周りにも多くいて、フクシマをどう伝え続けているのか、ずっと気になっていました。また、福島からの避難者の方にもお会いする機会があり、ある日突然故郷を離れなければいけなかったこと、いつ帰れるか分からないことへの苦悩をお聞きする機会もありました。

こうした中、改めて被災地へと目を向け、その土地を訪ねてみたいと思いました。以下は、7歳と4歳の子供を連れながら、福島の被災地を訪ねた小さな旅の記録です。フクシマの今をどう捉えたらいいのか。私は未だに自問自答しています。その答えのない問いを、これからも考えていきます。

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あの日は終わらない

福島県いわき市の「久之浜(ひさのはま)」。松の木が並ぶ堤防を抜けると、青々とした海が広がった。かつてここは、太平洋に面した小さな漁師町だった。あの震災の日までは。

2011年3月11日、午後2時46分。三陸沖で大地震が発生し、日本観測史上最大のマグニチュード9.0を計測した。地震から約1時間後、大津波が沿岸の街に押し寄せる。久之浜にも7メートルの津波が襲来した。久之浜地区の死者は33名。全壊・大規模 半壊465棟、半壊・一部損壊は202棟にのぼった。

「小さな漁師町で、その日上がった魚や貝は無償で住民に配られていました。サンマの季節にはどの家も味醂干しを作って家の前に干して、食べ比べをするんです。商店も病院もあって、駅も近く歩いて行けるので、若い人も年寄りもみんな出歩けて、互いに気遣い合っているいい街でした」

そう語るのは、あの日まで久之浜に暮らしていた知人、安藤栄作さんだ。自宅は海からわずか15メートル。その日、用事のため離れた街に出ていた安藤さんの自宅兼アトリエは、自宅前に繋いでいたイヌの「ユイ」ごと、津波に呑まれていった。

安藤さんは、丸太を手斧で叩いて刻む技法で知られる彫刻家だ。現在は奈良県に拠点を置き、生活再建と作品の創造に明け暮れている。

「久之浜にもし行くことがあったら、駅前の和菓子屋さんに行って、柏餅を食べてみてください。昔ながらの味でとても美味しいんです」。

安藤さんからそんなメールをいただいたことがきっかけで、今年8月、鈍行列車で3日間をかけた秋田への帰省の折、久之浜に立ち寄った。あの日を境に、地震と津波と原発事故によって奪われた生活の痕跡を、わずかでも目にしたかった。

福島県いわき市北部にある久之浜駅。

久之浜駅で電車を降りると、真夏の強い日差しが体に刺さった。

駅で下車すると、夏の強い日差しが体に刺さった。安藤さんから教えてもらった和菓子屋でヨモギがたっぷり入った柏餅を買い、歩いて300mほど離れた浜へ向かった。海に近づくにつれ、更地や新築の家が目に入る。この辺り一帯が津波で流されたのだ。

久之浜駅の正面の大通り。この辺りまで7mの津波が押し寄せた。

大通りにあった「東日本大震災地蔵尊」。

古いお地蔵さまが奥に安置されていた。いつの時代も、人間は祈りと共に生きてきたのだ。

津波によって住宅が流された跡地と思われる空き地。

「暑い」と駄々をこねる4歳の次男。

「もう歩けない」と座り込む次男。

津波で家屋が流されたと思われる空き地に残されていた瓦礫。

震災後、海辺に造られた堤防の下に、小さな社があった。地元の人が、「奇跡の神社」と呼ぶ秋葉神社だ。津波で流されずに残ったことが、住民に力を与えたという。付近の石碑には、「大地震が起きたら大津波が来る」「直(す)ぐ逃げろ、高台へ。一度逃げたら絶対戻るな」と教訓が記されていた。

堤防を登った先に広がるこの海に、かつての砂浜はない。波打ち際には大量のテトラポットが積まれ、荒々しい波飛沫が上がっていた。この海が、津波となって押し寄せた・・・。現場に立ってもなお、あの日の津波の威力がにわかには信じられなかった。

津波で社が流されず、「奇跡の神社」と呼ばれる稲荷神社。今も住人に大切に守られていた。

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『月刊みんぱく』2023年8月号に寄稿させていただきました

大変光栄なことに、国立民族学博物館発行の月刊誌『みんぱく』(2023年8月号)様に寄稿させていただきました。

〜「人々は嘘をついているのではなく、「あえて真実を語らない」。いや「語れない」のだ。それが、このシリアを生きなければならない彼らからの、見えないメッセージなのだ。〜(文中より)

(『月刊みんぱく』「特集 政治的なるものと不条理の超克」国立民族学博物館 発行(2023年8月号))

(「これが、あのパルミラ・・・」小松由佳)

当初、原稿執筆テーマとして伝えられていたのは、「独裁下を生きる知恵」。世界各国の独裁政権下で、人々がどのように生きてきたか、生きているのかについて特集するということでした。私はこの10年ほど、シリア難民の取材を行ない、また昨年2022年には、11年ぶりのシリア国内取材に入りました。そうした背景から、内戦状態のシリアについて、フォトグラファーとしての視点から書けることを、というお話でした。

依頼をいただき第一に感じたのは、このような深みのある内容を書かせていただけることへの僥倖、そして「なんという難しいテーマだろう・・・」ということでした。雑誌の発行元が「国立」博物館であるため、そのバックにあるものを考えると、内容に大変気を遣いました。というのも、事実は事実として示しながらも、政治的な中立性を持たせなければならないからです。

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終戦の日、ご紹介したい一冊

8月15日は終戦の日。あの戦争から78年が経ちました。戦争は終わりましたが、戦争が残した傷は、今もその時代を生きた人々や戦後を生きた人々の中に消えずに残っています。戦争の悲惨さは、長期間にわたって人間を苦しめ、境遇を左右し続けることでもあります。終戦の日を迎え、是非皆様にお薦めしたい一冊があります。

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『ヨシアキは戦争で生まれ、戦争で死んだ』改訂版 

 面高直子著/ 講談社

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<小松による書評>

その本の表紙写真を飾るのは、爽やかな笑顔の軍服の青年だ。ページをめくると次に現れるのは、自転車に乗ってこちらを見つめる幼い男の子の写真。

後田義明(うしろだ よしあき)とスティーブ・フラハティ。それは日本人として生まれ、アメリカ人として死んだ一人の青年の名だ。

神奈川県大磯町にある孤児院エリザベス・サンダース・ホーム。戦後生まれた多くの混血児が引き取られた孤児院である。米兵の父親を持つ後田義明も、母の手に引かれ、4歳でここにやってきた。敗戦国日本で、米軍兵士との間に生まれた混血児たちは、当時「あいのこ」と呼ばれ、差別を受けた。混血児を生んだ義明の母も、周囲からの協力が得られず、差別を受けながら女手一人で子供を育てることに苦しんだ。手に職をもって生活が安定するまで・・・。そう考え、幼い息子を連れたのがエリザベス・サンダース・ホームであり、自転車に乗る義明の写真は、施設に預けるその日、おめかしをして撮られたものだった。

「必ず迎えに来るからね」。母とのその約束は果たされず、11歳になった義明は養子縁組のため、カバン一つを携えてアメリカに渡る。混血児たちのより良い将来のため、人種が多様なアメリカに渡ることが良いと考えたエリザベス・サンダース・ホームの方針からだった。義明はそこでスティーブという名を与えられ、新しい生活が始まった。

天性のスポーツの才能からスター選手として活躍し、学園の人気者だった義明だが、混血という出自に悩み、自分の居場所を探し続けた。やがてアメリカ国民としての義務を果たすため、〝正義〟と信じるベトナム戦争へ志願。そして1969年、22歳の若さで戦死する。

 9年後、日本のテレビ番組で義明の死を知ったのは実母、後田次恵だった。物語は後田次恵の半生へと引き継がれる。母も子も、それぞれに過酷な戦後を生きた。戦争がもたらす幾重もの悲劇。しかしそこにあって、生きることを諦めない人間の姿がある。涙なくしては読めない、母と子の物語である。

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この本を読んだのは3年前のことです。その日、本を一気に読み終えた私は、深い悲しみに、一睡もすることができませんでした。日本人として生まれ、アメリカ人として死んでいった義明の生涯を思い、二度とこうした悲劇が起きないよう、こうした人々の存在を知り、平和につながるための活動をしたいと思いました。これまで読んだ本の中で、ここまで心が震えた本は他にはありませんでした。

この本に描かれているのは、米兵との混血児として生まれた後田義明、そしてその母親である次恵、そして「エリザベス・サンダース・ホーム」の創始者である澤田美喜です。それぞれが、戦争で大きな傷を負いながら、戦後を必死に生きようとしていました。

エリザベス・サンダース・ホームと澤田美喜

義明が連れられた「エリザベス・サンダース・ホーム」とは、敗戦後のGHQの占領下、進駐軍兵士と日本人女性との間に生まれた孤児のための救済施設でした。現在も神奈川県大磯町に現存し、児童養護施設として親と暮らすのが難しい子どもたちの自立活動に関わっています。

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CBB3029D 698D 487D 8B6E 8E9B3B360BA0 2月6日に発生したトルコ大地震。夫の親族や知人が多数被災しています。 2月6日に発生したトルコ大地震。夫の親族や知人が多数被災しています。

2月6日に発生したトルコ大地震。夫の親族や知人が多数被災しています。

トルコ南部で6日午前4時17分(日本時間同日午前10時17分)にマグニチュード(M)7.8の大地震が発生しました。この地域には、シリア難民である夫の親族が多数暮らしており、私が毎年難民の取材を行ってきた地域でもありました。

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今年も8月6日と8月9日を迎えて

20世紀ジャーナリズムの最も重要な一冊とされる本がある。米国のジャーナリスト、ジョン・ハーシーによる『ヒロシマ』だ。

1945年8月6日、広島に、そして8月9日、長崎に原爆が投下された。米国では、戦争の勝利に人々が熱狂するも、原爆が市民の上に落とされたことや、そこで何が起きているのかを全く知らされることはなかった。原爆投下を戦争終結のための必然だったと肯定したい米国政府と軍部の思惑、隠蔽に加担した記者たちの存在があったからだ。

こうしたなかにあって第二次世界大戦の激戦地を取材してきたジョン・ハーシーは、極秘にヒロシマを取材。さらに米国政府や軍部の検閲をすり抜け、1946年8月、「ニューヨーカー」誌においてヒロシマの惨状を被爆者の視点から明らかにする。その内容に人々は驚愕し、原爆による人体への被害について初めて認識されていった。

 2021年に集英社から発刊された『ヒロシマを暴いた男』は、このジョン・ハーシーによる『ヒロシマ』が、どのように生まれたのかを描いている。ヒロシマの真実を伝えることで、核兵器使用の実態を世界に問うた、米国人ジャーナリストの戦いの記録であり、私たち日本人が知らないヒロシマをめぐる物語だ。

以下は、2021年10月に信濃毎日新聞様に掲載いただいた書評です。今年も原爆の日を迎え、昨年執筆した『ヒロシマを暴いた男』の書評を読み返し、ここにご紹介させていただきたいと思います。

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『ヒロシマを暴いた男』(レスリー・M・M・ブルーム / 集英社)

( 2021年10月信濃毎日新聞様 書評 執筆:小松由佳 ) 

1ページ目にあるのは原爆投下直後の広島の写真だ。そして次のページには、日本の降伏を祝い、熱狂する200万人の米国市民の写真がある。ほぼ時を同じくして撮られた、対照的なふたつの国の光景から本書は始まる。

 1945年8月6日、初めて戦争で使われた核兵器として、原子爆弾が広島に投下された。街は焼け野原となり、その年の暮れまでに推定28万人が死亡。生き残った人々も、長期にわたる深刻な放射線被害に苦しんだ。

しかし、それらの被害について米国では報じられず、人々は知る機会がなかった。原爆投下を戦争終結のための必然だったと肯定したい米国政府と軍部の思惑、隠蔽に加担した記者たちの存在があったからだ。皆戦争に疲弊し、世論調査では回答者の85%が原爆の使用を是認していた。

そうした風潮の米国にあって、ジャーナリストのジョン・ハーシーは広島を取材する。

人間は敵の人間性を見失った結果、残虐行為に走る―というのが、太平洋戦争など第二次世界大戦の激戦地を取材してきたハーシーの教訓だった。そのため彼は、従来のような建物の被害や数字からではなく、6人の被爆者の視点から、被爆の経験や治癒しない傷、貧困や放射線後遺症に苦しむ姿を描いた。

その記事は、軍やGHQの隠蔽、検閲をすり抜け、1946年8月、「ニューヨーカー」誌において「ヒロシマ」という記事で発表される。それは原爆の日本人犠牲者たちを「普通の人間」として描いた最初の記事であり、その内容に人々は驚愕し、共感を呼び覚まされた。

以来「ヒロシマ」は、ジャーナリズムの重要な一冊として世界中で読まれてきた。

晩年、ハーシーは述べている。「1945年以来、世界を原子爆弾から安全に守ってきたのは広島で起きたことの記憶だった」。

原爆投下から76年。地球上では核保有が進み、核の脅威はむしろ増すばかりだ。我々は、「記憶」という財産を未来に伝えることができるだろうか。

ハーシーが暴こうとしたものは、今日も私たちのすぐ近くに存在している。

IMG 6044 今年も8月6日と8月9日を迎えて 今年も8月6日と8月9日を迎えて

ヒロシマとナガサキの記憶をはじめ、先人たちが歴史を検証し、語り継いでくださったおかげで、私たちは戦争の惨禍や核兵器の恐ろしさについて学び、次の世代へとつなげることができます。

歴史を検証し、語り継ぐこと。微力ながら、いつも意識をしていたいと思います。

念願の京都国際写真祭、キョウトグラフィーへ

京都を舞台に年に一度開催される国際的な写真祭があります。その名も「KYOTOGRAPHIE (キョウトグラフィー) 京都国際写真祭」。今年は4月9日から5月8日にかけて開催されました。この期間、京都市街地の数多のギャラリーで、素晴らしい写真展示やイベントが行われます。このキョウトグラフィーに、ついに先月末、訪れることができました。

*KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 https://www.kyotographie.jp

*開催要項より                                「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」は、世界屈指の文化都市・京都を舞台に開催される、日本でも数少ない国際的な写真祭です。一千年の長きにわたって伝統を守りながら、その一方で先端文化の発信地でもあり続けてきた京都。その京都がもっとも美しいといわれる春に開催されます。日本および海外の重要作品や貴重な写真コレクションを、趣のある歴史的建造物やモダンな近現代建築の空間に展開し、ときに伝統工芸職人や最先端テクノロジーとのコラボレーションも実現するなど、京都ならではの特徴ある写真祭を目指します。

キョウトグラフィーは、日本では数少ない国際写真祭です。毎年行きたくてたまらなかったのですが、6年前に長男を出産して以来、サバイバル育児生活が続き、なかなか訪問できずにおりました。

ところが今回、子供たちを泊まりで預かってくださる知人が現れたことで、ようやく念願が叶いました。六年ぶりに夜行バスに乗り、六年ぶりに子供から離れて二泊三日の一人旅。一人で長時間を自由に過ごす感覚を、数年ぶりに味わいました。やはり、一人じっくり考えたり感じたりする時間は、創作活動にとって必要ですね。

京都では丸二日間、街中をレンタルサイクルで走り回り、写真の世界に浸りました。寝ても覚めても写真だらけのなんと贅沢な時間だったことでしょう。ここでは、目にした中でも特に印象に残り、心の奥深くにビビビッときた展示についてご紹介したいと思います。

キョウトグラフィーで、心が震えた展示の数々

私にとって「心の琴線に触れる写真」とは、写真自らが物語る写真です。その写真に反映される時代性や、写真家独自の視点、そして感性に訴えかける「何か」(→言葉にできないもの)があるか。私たちが生きているのがどういった世界なのか。そうしたことを感じさせ、考えさせる写真が、素晴らしい写真だと思っています。

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SWM 0653 3 「呼ばわり山」の夜道の事件 「呼ばわり山」の夜道の事件

「呼ばわり山」の夜道の事件

2022年3月のある日、春風に誘われた。山に行こう。

早速おにぎりを握り、ザックにお菓子を詰め、3歳と5歳の二人の子供を連れて郊外へ。目指すは東京都八王子市のはずれにある今熊山(いまくまやま)。標高505メートルの今熊山は、八王子では知られた低山で、かつては「呼ばわり山」として、失踪した人を呼び寄せる霊山として崇められていた。江戸期、多くの参拝客を集め、関東一帯から人々が訪れたとされる。

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登山口にて。今熊神社の階段を登り、今熊神社奥宮のある山頂へ。

今も昔も、人は様々な事情から行方が分からなくなることがある。こうした人々の無事を祈り、再会を願って登られた山なのだ。情報網や連絡手段が発達していなかった時代、人との出会いや別れは、現代よりもっと直接的で、深い意味があったろう。

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登山口からしばらくは、なだらかな道が続く。

コースタイムでは、登山口から今熊山山頂まで一時間ほどの道のりだ。なだらかで良く踏まれた道を辿り、景色を楽しみつつ山頂を目指した。子供たちはどんぐりや松ぼっくりを拾い、鳥のさえずりに耳を傾け、飛んだり跳ねたり自由に自然を吸収した。やがて山頂に近づくにつれ、苔むした石灯籠やお地蔵さん、朽ちかけた石碑が道端に点在し、古の参拝者たちの面影が偲ばれた。

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崩れ、倒れた石碑が点在している。こうした石を、背に担いで登ってきただろう古の人々が偲ばれる。
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山頂近くの参拝路にて。「呼ばわり山」として参拝客を集めたかつての雰囲気をとどめる。

20代前半、狂ったように山に足繁く通った時期があった。だが人生の変化は驚くべきもので、その後私は、草原や沙漠のなどの、それぞれの風土に根ざした人間の営みに魅せられ、次第に登山から足が離れていった。さらに長男を出産してからのこの6年は、とにかく運動不足を重ねた。いつかまた、山の世界に戻りたいと心に願いながら。そうして最近になり、子供たちがだいぶ歩けるようになったタイミングで、ようやく山の静謐の世界を子供たちと共有する準備が整ったと感じるようになった。こうして私は今熊山を歩いている。

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山頂からひとつ下のピーク、「今熊山 逍遥所(しょうようじょ)」からの眺め。ここは山頂を仰ぎ見る場所。山腹には発電所があり、付近には送電線が張り巡らされている。
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石段を登ったその先に、立派な今熊神社奥宮があった。山頂だ。信仰の山として賑わった往時をしのびつつ、広い山頂で子供たちとおにぎりを食べる。帰路は、武蔵五日市駅方向へと下山することにした。

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山頂に到着し、喜びの雄叫びをあげる子供たち。ここで登山は終わったと考えていたようだ。

ここで想定内の事態が起きた。「もう歩かない」と子供たちがストライキを起こしたのだ。どうやら、山頂に着けば登山が終わりだと思っていたらしい。普段、高尾山(東京都)でリフトやケーブルカーで下山することが多かったためか、それが登山だと思っていたようだ。本当の登山は、自分の足で安全なところまで降りるものだと力説したが、子供たちは愕然として座り込んでしまった。必死の説得もお菓子大作戦も効果なく、時間は流れた。仕方なく次男をおんぶして下山をしたが、そのうち日が暮れてしまった。人里から離れているから、本当の真っ暗がやってきた。

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山で陽が暮れ、心細くなる・・・、というのは嘘で、心の中で、私の中の野生が目覚める。「よし、こうでなくっちゃ」と思う。実は、この登山の本当の計画はここから始まるのだった。それは夜の山を歩くことだった。

次第に視界が利かなくなっていくなかで、不安な表情を見せる子供たちの前に私は立ちはだかった。そしてザックから、ホームセンターで買ったピカピカのヘッドランプを、ドラえもんのような心境で取り出した。

「ヘッドランプ〜」。子供たちは大喜びし、ヘッドランプをつけて夜道を歩いた。

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通常なら、明るいうちに行動し、夜が来る前に山を下りるのが良いとされる。だが、普通じゃない登山もしたい。あえて夜の山を歩き、山の夜の静けさや、暗がりの深さを感じてみたい(付き合わされた子供たちにはかわいそうだが)。夜が足元にゆっくりと忍び寄り、全てが深い黒に沈んでいくあの感覚を、最後に味わったのは一体いつのことだろう。

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やがて、あたりに夜の静寂が広がった。私たちは夜とひとつになっていく。子供たちは、暗闇への不安を口にした。「オバケ出ちゃったらどうしたらいいの」「ヘビが出たら死んじゃう」。小さい子供も大人も、視界がきかない暗いところが怖い。見えないもののなかに潜む、リスクへの本能的な不安があるからだ。だが、その恐れと同時に存在するだろう、 “未知”への好奇心こそが、人間を人間たらしめているのではないだろうか。

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夜の茂みに、生き物の世界がある。「ガサガサ」と何かが動く微かな音がする。そのたび、私たちは立ち止まって耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ました。その正体を全身で感じ取ろうと、危険がないか判断しようとする。安全と快適さとが前提にある街の暮らしでは感じ得ない、生き物としての野生を、自分たちの内面に感じる瞬間だ。

やがて疲れと不安から、子供たちが深刻な表情を見せた。励ましの言葉ももうきかない。こういうときは雰囲気を変えるに限る。場の空気を和ませるため、私は必殺技を繰り出した。

「ブッ!・・・」。夜の暗い山道に、大音量で屁が放たれる。その後の一瞬の静寂、そして子供たちの大笑い。それまで私たちと共にあった “暗闇こわいこわい” は、一瞬にしてどこかへ消えてしまった。一発の屁の、なんたる威力だろうか。人間は、かくもユーモアの力で、恐れや不安を払拭できるのだ。

SWM 0626 2 「呼ばわり山」の夜道の事件 「呼ばわり山」の夜道の事件

そのうち登山道が終わり、私たち「ヘッドランプ登山隊」は、集落へと降り立った。すでに時計は夜8時を回り、街灯が仄かに道を照らしているだけで、人ひとり外を歩いていない。駅へと続く大きな橋を渡り、やがて目的地の武蔵五日市駅に到着した。「ああ、これでおうちに帰れる」と長男がひとこと。

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自然が内包する未知に触れ、自身の野生に向き合った一日。子供たちとの初めての、本当の登山。その後、「呼ばわり山」の夜道で豪快に放たれた屁の凄みは、今も小松家で語り継がれている。

<完>                

(2022年4月28日)

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「続 人間の土地へ」

人間は、未知なるものに惹かれ、それを知ろうとする存在だ。例え先が見えず、大きなリスクが待ち受けているとしても、見たことのない世界を見たいと願い、知らないことを知ろうとする。そして、私もまたそうした一人でありたいと思ってきた。


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コロナの傘の下とアリさんのおうち

新型コロナウィルス。その名を初めて聞いたのが今年1月。それから、あれよあれよと言う間に感染は広がり、社会も生活もすっかり変わってしまった。緊急事態宣言こそ解除されたが、今なお私たちは見えないコロナの傘の下にあって、いかにひとつのつながりあった世界に生きているかを感じさせられる。


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