カテゴリー: ESSAY
今年も8月6日と8月9日を迎えて
20世紀ジャーナリズムの最も重要な一冊とされる本がある。米国のジャーナリスト、ジョン・ハーシーによる『ヒロシマ』だ。
1945年8月6日、広島に、そして8月9日、長崎に原爆が投下された。米国では、戦争の勝利に人々が熱狂するも、原爆が市民の上に落とされたことや、そこで何が起きているのかを全く知らされることはなかった。原爆投下を戦争終結のための必然だったと肯定したい米国政府と軍部の思惑、隠蔽に加担した記者たちの存在があったからだ。
こうしたなかにあって第二次世界大戦の激戦地を取材してきたジョン・ハーシーは、極秘にヒロシマを取材。さらに米国政府や軍部の検閲をすり抜け、1946年8月、「ニューヨーカー」誌においてヒロシマの惨状を被爆者の視点から明らかにする。その内容に人々は驚愕し、原爆による人体への被害について初めて認識されていった。
2021年に集英社から発刊された『ヒロシマを暴いた男』は、このジョン・ハーシーによる『ヒロシマ』が、どのように生まれたのかを描いている。ヒロシマの真実を伝えることで、核兵器使用の実態を世界に問うた、米国人ジャーナリストの戦いの記録であり、私たち日本人が知らないヒロシマをめぐる物語だ。
以下は、2021年10月に信濃毎日新聞様に掲載いただいた書評です。今年も原爆の日を迎え、昨年執筆した『ヒロシマを暴いた男』の書評を読み返し、ここにご紹介させていただきたいと思います。
::::::::::::::::::::::::::::::::
『ヒロシマを暴いた男』(レスリー・M・M・ブルーム / 集英社)
( 2021年10月信濃毎日新聞様 書評 執筆:小松由佳 )
1ページ目にあるのは原爆投下直後の広島の写真だ。そして次のページには、日本の降伏を祝い、熱狂する200万人の米国市民の写真がある。ほぼ時を同じくして撮られた、対照的なふたつの国の光景から本書は始まる。
1945年8月6日、初めて戦争で使われた核兵器として、原子爆弾が広島に投下された。街は焼け野原となり、その年の暮れまでに推定28万人が死亡。生き残った人々も、長期にわたる深刻な放射線被害に苦しんだ。
しかし、それらの被害について米国では報じられず、人々は知る機会がなかった。原爆投下を戦争終結のための必然だったと肯定したい米国政府と軍部の思惑、隠蔽に加担した記者たちの存在があったからだ。皆戦争に疲弊し、世論調査では回答者の85%が原爆の使用を是認していた。
そうした風潮の米国にあって、ジャーナリストのジョン・ハーシーは広島を取材する。
人間は敵の人間性を見失った結果、残虐行為に走る―というのが、太平洋戦争など第二次世界大戦の激戦地を取材してきたハーシーの教訓だった。そのため彼は、従来のような建物の被害や数字からではなく、6人の被爆者の視点から、被爆の経験や治癒しない傷、貧困や放射線後遺症に苦しむ姿を描いた。
その記事は、軍やGHQの隠蔽、検閲をすり抜け、1946年8月、「ニューヨーカー」誌において「ヒロシマ」という記事で発表される。それは原爆の日本人犠牲者たちを「普通の人間」として描いた最初の記事であり、その内容に人々は驚愕し、共感を呼び覚まされた。
以来「ヒロシマ」は、ジャーナリズムの重要な一冊として世界中で読まれてきた。
晩年、ハーシーは述べている。「1945年以来、世界を原子爆弾から安全に守ってきたのは広島で起きたことの記憶だった」。
原爆投下から76年。地球上では核保有が進み、核の脅威はむしろ増すばかりだ。我々は、「記憶」という財産を未来に伝えることができるだろうか。
ハーシーが暴こうとしたものは、今日も私たちのすぐ近くに存在している。

ヒロシマとナガサキの記憶をはじめ、先人たちが歴史を検証し、語り継いでくださったおかげで、私たちは戦争の惨禍や核兵器の恐ろしさについて学び、次の世代へとつなげることができます。
歴史を検証し、語り継ぐこと。微力ながら、いつも意識をしていたいと思います。
念願の京都国際写真祭、キョウトグラフィーへ

京都を舞台に年に一度開催される国際的な写真祭があります。その名も「KYOTOGRAPHIE (キョウトグラフィー) 京都国際写真祭」。今年は4月9日から5月8日にかけて開催されました。この期間、京都市街地の数多のギャラリーで、素晴らしい写真展示やイベントが行われます。このキョウトグラフィーに、ついに先月末、訪れることができました。
*KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 https://www.kyotographie.jp
*開催要項より 「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」は、世界屈指の文化都市・京都を舞台に開催される、日本でも数少ない国際的な写真祭です。一千年の長きにわたって伝統を守りながら、その一方で先端文化の発信地でもあり続けてきた京都。その京都がもっとも美しいといわれる春に開催されます。日本および海外の重要作品や貴重な写真コレクションを、趣のある歴史的建造物やモダンな近現代建築の空間に展開し、ときに伝統工芸職人や最先端テクノロジーとのコラボレーションも実現するなど、京都ならではの特徴ある写真祭を目指します。
キョウトグラフィーは、日本では数少ない国際写真祭です。毎年行きたくてたまらなかったのですが、6年前に長男を出産して以来、サバイバル育児生活が続き、なかなか訪問できずにおりました。
ところが今回、子供たちを泊まりで預かってくださる知人が現れたことで、ようやく念願が叶いました。六年ぶりに夜行バスに乗り、六年ぶりに子供から離れて二泊三日の一人旅。一人で長時間を自由に過ごす感覚を、数年ぶりに味わいました。やはり、一人じっくり考えたり感じたりする時間は、創作活動にとって必要ですね。
京都では丸二日間、街中をレンタルサイクルで走り回り、写真の世界に浸りました。寝ても覚めても写真だらけのなんと贅沢な時間だったことでしょう。ここでは、目にした中でも特に印象に残り、心の奥深くにビビビッときた展示についてご紹介したいと思います。
キョウトグラフィーで、心が震えた展示の数々
私にとって「心の琴線に触れる写真」とは、写真自らが物語る写真です。その写真に反映される時代性や、写真家独自の視点、そして感性に訴えかける「何か」(→言葉にできないもの)があるか。私たちが生きているのがどういった世界なのか。そうしたことを感じさせ、考えさせる写真が、素晴らしい写真だと思っています。
「呼ばわり山」の夜道の事件
2022年3月のある日、春風に誘われた。山に行こう。
早速おにぎりを握り、ザックにお菓子を詰め、3歳と5歳の二人の子供を連れて郊外へ。目指すは東京都八王子市のはずれにある今熊山(いまくまやま)。標高505メートルの今熊山は、八王子では知られた低山で、かつては「呼ばわり山」として、失踪した人を呼び寄せる霊山として崇められていた。江戸期、多くの参拝客を集め、関東一帯から人々が訪れたとされる。

今も昔も、人は様々な事情から行方が分からなくなることがある。こうした人々の無事を祈り、再会を願って登られた山なのだ。情報網や連絡手段が発達していなかった時代、人との出会いや別れは、現代よりもっと直接的で、深い意味があったろう。

コースタイムでは、登山口から今熊山山頂まで一時間ほどの道のりだ。なだらかで良く踏まれた道を辿り、景色を楽しみつつ山頂を目指した。子供たちはどんぐりや松ぼっくりを拾い、鳥のさえずりに耳を傾け、飛んだり跳ねたり自由に自然を吸収した。やがて山頂に近づくにつれ、苔むした石灯籠やお地蔵さん、朽ちかけた石碑が道端に点在し、古の参拝者たちの面影が偲ばれた。


20代前半、狂ったように山に足繁く通った時期があった。だが人生の変化は驚くべきもので、その後私は、草原や沙漠のなどの、それぞれの風土に根ざした人間の営みに魅せられ、次第に登山から足が離れていった。さらに長男を出産してからのこの6年は、とにかく運動不足を重ねた。いつかまた、山の世界に戻りたいと心に願いながら。そうして最近になり、子供たちがだいぶ歩けるようになったタイミングで、ようやく山の静謐の世界を子供たちと共有する準備が整ったと感じるようになった。こうして私は今熊山を歩いている。


石段を登ったその先に、立派な今熊神社奥宮があった。山頂だ。信仰の山として賑わった往時をしのびつつ、広い山頂で子供たちとおにぎりを食べる。帰路は、武蔵五日市駅方向へと下山することにした。

ここで想定内の事態が起きた。「もう歩かない」と子供たちがストライキを起こしたのだ。どうやら、山頂に着けば登山が終わりだと思っていたらしい。普段、高尾山(東京都)でリフトやケーブルカーで下山することが多かったためか、それが登山だと思っていたようだ。本当の登山は、自分の足で安全なところまで降りるものだと力説したが、子供たちは愕然として座り込んでしまった。必死の説得もお菓子大作戦も効果なく、時間は流れた。仕方なく次男をおんぶして下山をしたが、そのうち日が暮れてしまった。人里から離れているから、本当の真っ暗がやってきた。

山で陽が暮れ、心細くなる・・・、というのは嘘で、心の中で、私の中の野生が目覚める。「よし、こうでなくっちゃ」と思う。実は、この登山の本当の計画はここから始まるのだった。それは夜の山を歩くことだった。
次第に視界が利かなくなっていくなかで、不安な表情を見せる子供たちの前に私は立ちはだかった。そしてザックから、ホームセンターで買ったピカピカのヘッドランプを、ドラえもんのような心境で取り出した。
「ヘッドランプ〜」。子供たちは大喜びし、ヘッドランプをつけて夜道を歩いた。

通常なら、明るいうちに行動し、夜が来る前に山を下りるのが良いとされる。だが、普通じゃない登山もしたい。あえて夜の山を歩き、山の夜の静けさや、暗がりの深さを感じてみたい(付き合わされた子供たちにはかわいそうだが)。夜が足元にゆっくりと忍び寄り、全てが深い黒に沈んでいくあの感覚を、最後に味わったのは一体いつのことだろう。

やがて、あたりに夜の静寂が広がった。私たちは夜とひとつになっていく。子供たちは、暗闇への不安を口にした。「オバケ出ちゃったらどうしたらいいの」「ヘビが出たら死んじゃう」。小さい子供も大人も、視界がきかない暗いところが怖い。見えないもののなかに潜む、リスクへの本能的な不安があるからだ。だが、その恐れと同時に存在するだろう、 “未知”への好奇心こそが、人間を人間たらしめているのではないだろうか。


夜の茂みに、生き物の世界がある。「ガサガサ」と何かが動く微かな音がする。そのたび、私たちは立ち止まって耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ました。その正体を全身で感じ取ろうと、危険がないか判断しようとする。安全と快適さとが前提にある街の暮らしでは感じ得ない、生き物としての野生を、自分たちの内面に感じる瞬間だ。
やがて疲れと不安から、子供たちが深刻な表情を見せた。励ましの言葉ももうきかない。こういうときは雰囲気を変えるに限る。場の空気を和ませるため、私は必殺技を繰り出した。
「ブッ!・・・」。夜の暗い山道に、大音量で屁が放たれる。その後の一瞬の静寂、そして子供たちの大笑い。それまで私たちと共にあった “暗闇こわいこわい” は、一瞬にしてどこかへ消えてしまった。一発の屁の、なんたる威力だろうか。人間は、かくもユーモアの力で、恐れや不安を払拭できるのだ。

そのうち登山道が終わり、私たち「ヘッドランプ登山隊」は、集落へと降り立った。すでに時計は夜8時を回り、街灯が仄かに道を照らしているだけで、人ひとり外を歩いていない。駅へと続く大きな橋を渡り、やがて目的地の武蔵五日市駅に到着した。「ああ、これでおうちに帰れる」と長男がひとこと。

自然が内包する未知に触れ、自身の野生に向き合った一日。子供たちとの初めての、本当の登山。その後、「呼ばわり山」の夜道で豪快に放たれた屁の凄みは、今も小松家で語り継がれている。
<完>
(2022年4月28日)
「続 人間の土地へ」
人間は、未知なるものに惹かれ、それを知ろうとする存在だ。例え先が見えず、大きなリスクが待ち受けているとしても、見たことのない世界を見たいと願い、知らないことを知ろうとする。そして、私もまたそうした一人でありたいと思ってきた。
Read more
コロナの傘の下とアリさんのおうち
新型コロナウィルス。その名を初めて聞いたのが今年1月。それから、あれよあれよと言う間に感染は広がり、社会も生活もすっかり変わってしまった。緊急事態宣言こそ解除されたが、今なお私たちは見えないコロナの傘の下にあって、いかにひとつのつながりあった世界に生きているかを感じさせられる。
Read more