福島の被災地へ① 〜あの日は終わらない〜

この8月、震災以後初めて、福島の被災地を歩きました。2011年の東日本大震災と、その後も福島で続いている放射能被害についてずっと気になってはいましたが、触れることができずに時間が流れていました。今回、お盆に秋田の実家に帰るため、鈍行列車で三日かけて北上し、その途中で福島の被災地を訪ねました。

これまで、ある意味で必然的に、フクシマを扱ってきた写真家や表現者の友人・知人たちが周りにも多くいて、フクシマをどう伝え続けているのか、ずっと気になっていました。また、福島からの避難者の方にもお会いする機会があり、ある日突然故郷を離れなければいけなかったこと、いつ帰れるか分からないことへの苦悩をお聞きする機会もありました。

こうした中、改めて被災地へと目を向け、その土地を訪ねてみたいと思いました。以下は、7歳と4歳の子供を連れながら、福島の被災地を訪ねた小さな旅の記録です。フクシマの今をどう捉えたらいいのか。私は未だに自問自答しています。その答えのない問いを、これからも考えていきます。

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あの日は終わらない

福島県いわき市の「久之浜(ひさのはま)」。松の木が並ぶ堤防を抜けると、青々とした海が広がった。かつてここは、太平洋に面した小さな漁師町だった。あの震災の日までは。

2011年3月11日、午後2時46分。三陸沖で大地震が発生し、日本観測史上最大のマグニチュード9.0を計測した。地震から約1時間後、大津波が沿岸の街に押し寄せる。久之浜にも7メートルの津波が襲来した。久之浜地区の死者は33名。全壊・大規模 半壊465棟、半壊・一部損壊は202棟にのぼった。

「小さな漁師町で、その日上がった魚や貝は無償で住民に配られていました。サンマの季節にはどの家も味醂干しを作って家の前に干して、食べ比べをするんです。商店も病院もあって、駅も近く歩いて行けるので、若い人も年寄りもみんな出歩けて、互いに気遣い合っているいい街でした」

そう語るのは、あの日まで久之浜に暮らしていた知人、安藤栄作さんだ。自宅は海からわずか15メートル。その日、用事のため離れた街に出ていた安藤さんの自宅兼アトリエは、自宅前に繋いでいたイヌの「ユイ」ごと、津波に呑まれていった。

安藤さんは、丸太を手斧で叩いて刻む技法で知られる彫刻家だ。現在は奈良県に拠点を置き、生活再建と作品の創造に明け暮れている。

「久之浜にもし行くことがあったら、駅前の和菓子屋さんに行って、柏餅を食べてみてください。昔ながらの味でとても美味しいんです」。

安藤さんからそんなメールをいただいたことがきっかけで、今年8月、鈍行列車で3日間をかけた秋田への帰省の折、久之浜に立ち寄った。あの日を境に、地震と津波と原発事故によって奪われた生活の痕跡を、わずかでも目にしたかった。

福島県いわき市北部にある久之浜駅。

久之浜駅で電車を降りると、真夏の強い日差しが体に刺さった。

駅で下車すると、夏の強い日差しが体に刺さった。安藤さんから教えてもらった和菓子屋でヨモギがたっぷり入った柏餅を買い、歩いて300mほど離れた浜へ向かった。海に近づくにつれ、更地や新築の家が目に入る。この辺り一帯が津波で流されたのだ。

久之浜駅の正面の大通り。この辺りまで7mの津波が押し寄せた。

大通りにあった「東日本大震災地蔵尊」。

古いお地蔵さまが奥に安置されていた。いつの時代も、人間は祈りと共に生きてきたのだ。

津波によって住宅が流された跡地と思われる空き地。

「暑い」と駄々をこねる4歳の次男。

「もう歩けない」と座り込む次男。

津波で家屋が流されたと思われる空き地に残されていた瓦礫。

震災後、海辺に造られた堤防の下に、小さな社があった。地元の人が、「奇跡の神社」と呼ぶ秋葉神社だ。津波で流されずに残ったことが、住民に力を与えたという。付近の石碑には、「大地震が起きたら大津波が来る」「直(す)ぐ逃げろ、高台へ。一度逃げたら絶対戻るな」と教訓が記されていた。

堤防を登った先に広がるこの海に、かつての砂浜はない。波打ち際には大量のテトラポットが積まれ、荒々しい波飛沫が上がっていた。この海が、津波となって押し寄せた・・・。現場に立ってもなお、あの日の津波の威力がにわかには信じられなかった。

津波で社が流されず、「奇跡の神社」と呼ばれる稲荷神社。今も住人に大切に守られていた。

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『月刊みんぱく』2023年8月号に寄稿させていただきました

大変光栄なことに、国立民族学博物館発行の月刊誌『みんぱく』(2023年8月号)様に寄稿させていただきました。

〜「人々は嘘をついているのではなく、「あえて真実を語らない」。いや「語れない」のだ。それが、このシリアを生きなければならない彼らからの、見えないメッセージなのだ。〜(文中より)

(『月刊みんぱく』「特集 政治的なるものと不条理の超克」国立民族学博物館 発行(2023年8月号))

(「これが、あのパルミラ・・・」小松由佳)

当初、原稿執筆テーマとして伝えられていたのは、「独裁下を生きる知恵」。世界各国の独裁政権下で、人々がどのように生きてきたか、生きているのかについて特集するということでした。私はこの10年ほど、シリア難民の取材を行ない、また昨年2022年には、11年ぶりのシリア国内取材に入りました。そうした背景から、内戦状態のシリアについて、フォトグラファーとしての視点から書けることを、というお話でした。

依頼をいただき第一に感じたのは、このような深みのある内容を書かせていただけることへの僥倖、そして「なんという難しいテーマだろう・・・」ということでした。雑誌の発行元が「国立」博物館であるため、そのバックにあるものを考えると、内容に大変気を遣いました。というのも、事実は事実として示しながらも、政治的な中立性を持たせなければならないからです。

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終戦の日、ご紹介したい一冊

8月15日は終戦の日。あの戦争から78年が経ちました。戦争は終わりましたが、戦争が残した傷は、今もその時代を生きた人々や戦後を生きた人々の中に消えずに残っています。戦争の悲惨さは、長期間にわたって人間を苦しめ、境遇を左右し続けることでもあります。終戦の日を迎え、是非皆様にお薦めしたい一冊があります。

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『ヨシアキは戦争で生まれ、戦争で死んだ』改訂版 

 面高直子著/ 講談社

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<小松による書評>

その本の表紙写真を飾るのは、爽やかな笑顔の軍服の青年だ。ページをめくると次に現れるのは、自転車に乗ってこちらを見つめる幼い男の子の写真。

後田義明(うしろだ よしあき)とスティーブ・フラハティ。それは日本人として生まれ、アメリカ人として死んだ一人の青年の名だ。

神奈川県大磯町にある孤児院エリザベス・サンダース・ホーム。戦後生まれた多くの混血児が引き取られた孤児院である。米兵の父親を持つ後田義明も、母の手に引かれ、4歳でここにやってきた。敗戦国日本で、米軍兵士との間に生まれた混血児たちは、当時「あいのこ」と呼ばれ、差別を受けた。混血児を生んだ義明の母も、周囲からの協力が得られず、差別を受けながら女手一人で子供を育てることに苦しんだ。手に職をもって生活が安定するまで・・・。そう考え、幼い息子を連れたのがエリザベス・サンダース・ホームであり、自転車に乗る義明の写真は、施設に預けるその日、おめかしをして撮られたものだった。

「必ず迎えに来るからね」。母とのその約束は果たされず、11歳になった義明は養子縁組のため、カバン一つを携えてアメリカに渡る。混血児たちのより良い将来のため、人種が多様なアメリカに渡ることが良いと考えたエリザベス・サンダース・ホームの方針からだった。義明はそこでスティーブという名を与えられ、新しい生活が始まった。

天性のスポーツの才能からスター選手として活躍し、学園の人気者だった義明だが、混血という出自に悩み、自分の居場所を探し続けた。やがてアメリカ国民としての義務を果たすため、〝正義〟と信じるベトナム戦争へ志願。そして1969年、22歳の若さで戦死する。

 9年後、日本のテレビ番組で義明の死を知ったのは実母、後田次恵だった。物語は後田次恵の半生へと引き継がれる。母も子も、それぞれに過酷な戦後を生きた。戦争がもたらす幾重もの悲劇。しかしそこにあって、生きることを諦めない人間の姿がある。涙なくしては読めない、母と子の物語である。

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この本を読んだのは3年前のことです。その日、本を一気に読み終えた私は、深い悲しみに、一睡もすることができませんでした。日本人として生まれ、アメリカ人として死んでいった義明の生涯を思い、二度とこうした悲劇が起きないよう、こうした人々の存在を知り、平和につながるための活動をしたいと思いました。これまで読んだ本の中で、ここまで心が震えた本は他にはありませんでした。

この本に描かれているのは、米兵との混血児として生まれた後田義明、そしてその母親である次恵、そして「エリザベス・サンダース・ホーム」の創始者である澤田美喜です。それぞれが、戦争で大きな傷を負いながら、戦後を必死に生きようとしていました。

エリザベス・サンダース・ホームと澤田美喜

義明が連れられた「エリザベス・サンダース・ホーム」とは、敗戦後のGHQの占領下、進駐軍兵士と日本人女性との間に生まれた孤児のための救済施設でした。現在も神奈川県大磯町に現存し、児童養護施設として親と暮らすのが難しい子どもたちの自立活動に関わっています。

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2月6日に発生したトルコ大地震。夫の親族や知人が多数被災しています。

トルコ南部で6日午前4時17分(日本時間同日午前10時17分)にマグニチュード(M)7.8の大地震が発生しました。この地域には、シリア難民である夫の親族が多数暮らしており、私が毎年難民の取材を行ってきた地域でもありました。

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今年も8月6日と8月9日を迎えて

20世紀ジャーナリズムの最も重要な一冊とされる本がある。米国のジャーナリスト、ジョン・ハーシーによる『ヒロシマ』だ。

1945年8月6日、広島に、そして8月9日、長崎に原爆が投下された。米国では、戦争の勝利に人々が熱狂するも、原爆が市民の上に落とされたことや、そこで何が起きているのかを全く知らされることはなかった。原爆投下を戦争終結のための必然だったと肯定したい米国政府と軍部の思惑、隠蔽に加担した記者たちの存在があったからだ。

こうしたなかにあって第二次世界大戦の激戦地を取材してきたジョン・ハーシーは、極秘にヒロシマを取材。さらに米国政府や軍部の検閲をすり抜け、1946年8月、「ニューヨーカー」誌においてヒロシマの惨状を被爆者の視点から明らかにする。その内容に人々は驚愕し、原爆による人体への被害について初めて認識されていった。

 2021年に集英社から発刊された『ヒロシマを暴いた男』は、このジョン・ハーシーによる『ヒロシマ』が、どのように生まれたのかを描いている。ヒロシマの真実を伝えることで、核兵器使用の実態を世界に問うた、米国人ジャーナリストの戦いの記録であり、私たち日本人が知らないヒロシマをめぐる物語だ。

以下は、2021年10月に信濃毎日新聞様に掲載いただいた書評です。今年も原爆の日を迎え、昨年執筆した『ヒロシマを暴いた男』の書評を読み返し、ここにご紹介させていただきたいと思います。

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『ヒロシマを暴いた男』(レスリー・M・M・ブルーム / 集英社)

( 2021年10月信濃毎日新聞様 書評 執筆:小松由佳 ) 

1ページ目にあるのは原爆投下直後の広島の写真だ。そして次のページには、日本の降伏を祝い、熱狂する200万人の米国市民の写真がある。ほぼ時を同じくして撮られた、対照的なふたつの国の光景から本書は始まる。

 1945年8月6日、初めて戦争で使われた核兵器として、原子爆弾が広島に投下された。街は焼け野原となり、その年の暮れまでに推定28万人が死亡。生き残った人々も、長期にわたる深刻な放射線被害に苦しんだ。

しかし、それらの被害について米国では報じられず、人々は知る機会がなかった。原爆投下を戦争終結のための必然だったと肯定したい米国政府と軍部の思惑、隠蔽に加担した記者たちの存在があったからだ。皆戦争に疲弊し、世論調査では回答者の85%が原爆の使用を是認していた。

そうした風潮の米国にあって、ジャーナリストのジョン・ハーシーは広島を取材する。

人間は敵の人間性を見失った結果、残虐行為に走る―というのが、太平洋戦争など第二次世界大戦の激戦地を取材してきたハーシーの教訓だった。そのため彼は、従来のような建物の被害や数字からではなく、6人の被爆者の視点から、被爆の経験や治癒しない傷、貧困や放射線後遺症に苦しむ姿を描いた。

その記事は、軍やGHQの隠蔽、検閲をすり抜け、1946年8月、「ニューヨーカー」誌において「ヒロシマ」という記事で発表される。それは原爆の日本人犠牲者たちを「普通の人間」として描いた最初の記事であり、その内容に人々は驚愕し、共感を呼び覚まされた。

以来「ヒロシマ」は、ジャーナリズムの重要な一冊として世界中で読まれてきた。

晩年、ハーシーは述べている。「1945年以来、世界を原子爆弾から安全に守ってきたのは広島で起きたことの記憶だった」。

原爆投下から76年。地球上では核保有が進み、核の脅威はむしろ増すばかりだ。我々は、「記憶」という財産を未来に伝えることができるだろうか。

ハーシーが暴こうとしたものは、今日も私たちのすぐ近くに存在している。

ヒロシマとナガサキの記憶をはじめ、先人たちが歴史を検証し、語り継いでくださったおかげで、私たちは戦争の惨禍や核兵器の恐ろしさについて学び、次の世代へとつなげることができます。

歴史を検証し、語り継ぐこと。微力ながら、いつも意識をしていたいと思います。

念願の京都国際写真祭、キョウトグラフィーへ

京都を舞台に年に一度開催される国際的な写真祭があります。その名も「KYOTOGRAPHIE (キョウトグラフィー) 京都国際写真祭」。今年は4月9日から5月8日にかけて開催されました。この期間、京都市街地の数多のギャラリーで、素晴らしい写真展示やイベントが行われます。このキョウトグラフィーに、ついに先月末、訪れることができました。

*KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 https://www.kyotographie.jp

*開催要項より                                「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」は、世界屈指の文化都市・京都を舞台に開催される、日本でも数少ない国際的な写真祭です。一千年の長きにわたって伝統を守りながら、その一方で先端文化の発信地でもあり続けてきた京都。その京都がもっとも美しいといわれる春に開催されます。日本および海外の重要作品や貴重な写真コレクションを、趣のある歴史的建造物やモダンな近現代建築の空間に展開し、ときに伝統工芸職人や最先端テクノロジーとのコラボレーションも実現するなど、京都ならではの特徴ある写真祭を目指します。

キョウトグラフィーは、日本では数少ない国際写真祭です。毎年行きたくてたまらなかったのですが、6年前に長男を出産して以来、サバイバル育児生活が続き、なかなか訪問できずにおりました。

ところが今回、子供たちを泊まりで預かってくださる知人が現れたことで、ようやく念願が叶いました。六年ぶりに夜行バスに乗り、六年ぶりに子供から離れて二泊三日の一人旅。一人で長時間を自由に過ごす感覚を、数年ぶりに味わいました。やはり、一人じっくり考えたり感じたりする時間は、創作活動にとって必要ですね。

京都では丸二日間、街中をレンタルサイクルで走り回り、写真の世界に浸りました。寝ても覚めても写真だらけのなんと贅沢な時間だったことでしょう。ここでは、目にした中でも特に印象に残り、心の奥深くにビビビッときた展示についてご紹介したいと思います。

キョウトグラフィーで、心が震えた展示の数々

私にとって「心の琴線に触れる写真」とは、写真自らが物語る写真です。その写真に反映される時代性や、写真家独自の視点、そして感性に訴えかける「何か」(→言葉にできないもの)があるか。私たちが生きているのがどういった世界なのか。そうしたことを感じさせ、考えさせる写真が、素晴らしい写真だと思っています。

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「呼ばわり山」の夜道の事件

2022年3月のある日、春風に誘われた。山に行こう。

早速おにぎりを握り、ザックにお菓子を詰め、3歳と5歳の二人の子供を連れて郊外へ。目指すは東京都八王子市のはずれにある今熊山(いまくまやま)。標高505メートルの今熊山は、八王子では知られた低山で、かつては「呼ばわり山」として、失踪した人を呼び寄せる霊山として崇められていた。江戸期、多くの参拝客を集め、関東一帯から人々が訪れたとされる。

登山口にて。今熊神社の階段を登り、今熊神社奥宮のある山頂へ。

今も昔も、人は様々な事情から行方が分からなくなることがある。こうした人々の無事を祈り、再会を願って登られた山なのだ。情報網や連絡手段が発達していなかった時代、人との出会いや別れは、現代よりもっと直接的で、深い意味があったろう。

登山口からしばらくは、なだらかな道が続く。

コースタイムでは、登山口から今熊山山頂まで一時間ほどの道のりだ。なだらかで良く踏まれた道を辿り、景色を楽しみつつ山頂を目指した。子供たちはどんぐりや松ぼっくりを拾い、鳥のさえずりに耳を傾け、飛んだり跳ねたり自由に自然を吸収した。やがて山頂に近づくにつれ、苔むした石灯籠やお地蔵さん、朽ちかけた石碑が道端に点在し、古の参拝者たちの面影が偲ばれた。

崩れ、倒れた石碑が点在している。こうした石を、背に担いで登ってきただろう古の人々が偲ばれる。
山頂近くの参拝路にて。「呼ばわり山」として参拝客を集めたかつての雰囲気をとどめる。

20代前半、狂ったように山に足繁く通った時期があった。だが人生の変化は驚くべきもので、その後私は、草原や沙漠のなどの、それぞれの風土に根ざした人間の営みに魅せられ、次第に登山から足が離れていった。さらに長男を出産してからのこの6年は、とにかく運動不足を重ねた。いつかまた、山の世界に戻りたいと心に願いながら。そうして最近になり、子供たちがだいぶ歩けるようになったタイミングで、ようやく山の静謐の世界を子供たちと共有する準備が整ったと感じるようになった。こうして私は今熊山を歩いている。

山頂からひとつ下のピーク、「今熊山 逍遥所(しょうようじょ)」からの眺め。ここは山頂を仰ぎ見る場所。山腹には発電所があり、付近には送電線が張り巡らされている。

石段を登ったその先に、立派な今熊神社奥宮があった。山頂だ。信仰の山として賑わった往時をしのびつつ、広い山頂で子供たちとおにぎりを食べる。帰路は、武蔵五日市駅方向へと下山することにした。

山頂に到着し、喜びの雄叫びをあげる子供たち。ここで登山は終わったと考えていたようだ。

ここで想定内の事態が起きた。「もう歩かない」と子供たちがストライキを起こしたのだ。どうやら、山頂に着けば登山が終わりだと思っていたらしい。普段、高尾山(東京都)でリフトやケーブルカーで下山することが多かったためか、それが登山だと思っていたようだ。本当の登山は、自分の足で安全なところまで降りるものだと力説したが、子供たちは愕然として座り込んでしまった。必死の説得もお菓子大作戦も効果なく、時間は流れた。仕方なく次男をおんぶして下山をしたが、そのうち日が暮れてしまった。人里から離れているから、本当の真っ暗がやってきた。

山で陽が暮れ、心細くなる・・・、というのは嘘で、心の中で、私の中の野生が目覚める。「よし、こうでなくっちゃ」と思う。実は、この登山の本当の計画はここから始まるのだった。それは夜の山を歩くことだった。

次第に視界が利かなくなっていくなかで、不安な表情を見せる子供たちの前に私は立ちはだかった。そしてザックから、ホームセンターで買ったピカピカのヘッドランプを、ドラえもんのような心境で取り出した。

「ヘッドランプ〜」。子供たちは大喜びし、ヘッドランプをつけて夜道を歩いた。

通常なら、明るいうちに行動し、夜が来る前に山を下りるのが良いとされる。だが、普通じゃない登山もしたい。あえて夜の山を歩き、山の夜の静けさや、暗がりの深さを感じてみたい(付き合わされた子供たちにはかわいそうだが)。夜が足元にゆっくりと忍び寄り、全てが深い黒に沈んでいくあの感覚を、最後に味わったのは一体いつのことだろう。

やがて、あたりに夜の静寂が広がった。私たちは夜とひとつになっていく。子供たちは、暗闇への不安を口にした。「オバケ出ちゃったらどうしたらいいの」「ヘビが出たら死んじゃう」。小さい子供も大人も、視界がきかない暗いところが怖い。見えないもののなかに潜む、リスクへの本能的な不安があるからだ。だが、その恐れと同時に存在するだろう、 “未知”への好奇心こそが、人間を人間たらしめているのではないだろうか。

夜の茂みに、生き物の世界がある。「ガサガサ」と何かが動く微かな音がする。そのたび、私たちは立ち止まって耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ました。その正体を全身で感じ取ろうと、危険がないか判断しようとする。安全と快適さとが前提にある街の暮らしでは感じ得ない、生き物としての野生を、自分たちの内面に感じる瞬間だ。

やがて疲れと不安から、子供たちが深刻な表情を見せた。励ましの言葉ももうきかない。こういうときは雰囲気を変えるに限る。場の空気を和ませるため、私は必殺技を繰り出した。

「ブッ!・・・」。夜の暗い山道に、大音量で屁が放たれる。その後の一瞬の静寂、そして子供たちの大笑い。それまで私たちと共にあった “暗闇こわいこわい” は、一瞬にしてどこかへ消えてしまった。一発の屁の、なんたる威力だろうか。人間は、かくもユーモアの力で、恐れや不安を払拭できるのだ。

そのうち登山道が終わり、私たち「ヘッドランプ登山隊」は、集落へと降り立った。すでに時計は夜8時を回り、街灯が仄かに道を照らしているだけで、人ひとり外を歩いていない。駅へと続く大きな橋を渡り、やがて目的地の武蔵五日市駅に到着した。「ああ、これでおうちに帰れる」と長男がひとこと。

自然が内包する未知に触れ、自身の野生に向き合った一日。子供たちとの初めての、本当の登山。その後、「呼ばわり山」の夜道で豪快に放たれた屁の凄みは、今も小松家で語り継がれている。

<完>                

(2022年4月28日)

「続 人間の土地へ」

人間は、未知なるものに惹かれ、それを知ろうとする存在だ。例え先が見えず、大きなリスクが待ち受けているとしても、見たことのない世界を見たいと願い、知らないことを知ろうとする。そして、私もまたそうした一人でありたいと思ってきた。


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コロナの傘の下とアリさんのおうち

新型コロナウィルス。その名を初めて聞いたのが今年1月。それから、あれよあれよと言う間に感染は広がり、社会も生活もすっかり変わってしまった。緊急事態宣言こそ解除されたが、今なお私たちは見えないコロナの傘の下にあって、いかにひとつのつながりあった世界に生きているかを感じさせられる。


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