ここに、サーメル兄がいた〜アサド政権の抑圧の象徴、サイドナヤ刑務所へ〜

(*注意:この記事には、やや過激な内容が含まれますので、ご注意ください)

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シリアの首都ダマスカス郊外、人里から離れた小高い丘の上に、その刑務所がある。その巨大さは、遠方から見るだけでも確認できる。周囲では時折、羊の群れを連れた羊飼いの姿があるだけの荒涼とした場所だ。

刑務所の広大な敷地は、3メートル近いコンクリートの壁と、頑丈な鉄条網によって厳重に囲われ、逃亡者を絶対に逃さないという強い意志を感じさせる。

サイドナヤ刑務所。それは長らく、アサド政権による民衆への抑圧の象徴として恐れられ、「人間の屠殺場」と呼ばれてきた。アムネスティ・インターナショナルによれば、毎週数十人がここで秘密裏に処刑され、2011年から2016年の間に、最大13000人が殺害されたと推定している。またイギリスに本部を置くシリア人権監視団は、サイドナヤ収容所などの収容施設で10万5000人以上が死亡したとしている。

2024年12月8日、シリアのアサド政権が、反体制派によるダマスカス占領とともに崩壊。反体制派はその日のうちに、政権批判などによって囚われていたサイドナヤ刑務所の囚人たちを解放した。

その様子は広くSNSで拡散され、報道の過熱と共に、これまで隠されてきた刑務所内の実態が明らかになりつつある。信じがたいことだが、囚人へのあらゆる方法での拷問、殺害、遺体の処理など、極めて非人道的な行為がここで日常的に行われてきた。その囚人のほとんどが、アサド政権への反対を唱え〝政治犯〟とされた者や、無実の罪で逮捕された者たちだった。

2024年12月17日、私はその悪名高いサイドナヤ刑務所に向かった。

実はこのサイドナヤ刑務所に、夫の兄サーメルが収監されていたとされていた。兄は2012年5月に民主化運動に参加した罪で逮捕され、そのまま行方不明になっていたが、目撃者がおり、サーメルがここにいるらしいことは分かっていた。しかしこの刑務所は、囚人の75%が生きては帰れないとも言われており、その生死は不明のままであった。

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(パルミラにて、羊の解体をした直後のサーメル兄。2009年撮影。冗談を言うのとお肉を食べるのが大好き。よく笑う兄だった。)

12月10日、サイドナヤ刑務所で見つかった囚人の名簿がSNSで拡散され、兄の一人が、その名簿の中にサーメル兄の名前を発見した。

—–2013年10月28日、サーメル・アブドュルラティーフ—–

やはり、サーメル兄はサイドナヤにいた。少なくともこの日までは、兄はここで確かに生きていたのだ。

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(SNSで拡散されたサイドナヤ刑務所の囚人の名簿の中に、サーメル兄の名が残されていた。下から2行目に、〝サーメル・アブドュルラティーフ〟とある)

それから5日後の12月15日のことだった。サーメル兄の死亡の記録が見つかったと、連絡を受けた。

新たに見つかった、サイドナヤで死亡した囚人の名簿。そこに残されていたのは、サーメル兄の死亡の記録だった。出身地や両親の名前から、本人であることは間違いないと思われた。死亡日は、2013年10月30日。しかし兄の死因は書かれておらず、埋葬地についても記載されていなかった。

その知らせを聞いたのは、夫とともにシリアに入国する直前のことだった。「私のお兄さんサーメルは、2013年10月30日に死んでいた」。夫は、それだけを書いた短いメールを私に送ってきた。彼は、言葉にならない思いを、なにも言葉にしないことで、その思いの丈を伝えようとしていた。

私たちがサイドナヤに入ったのは、その二日後のことだ。自分の兄が囚人として囚われ、亡くなったその刑務所に、夫は立とうとしていた。

刑務所の門を通り抜け、丘の上にある巨大な刑務所の建物に向かって舗装された道を登る。ここへ運ばれてくる囚人たちは、どんな思いでこの道を運ばれていったのだろうかと考えた。ここは、75%が生きては帰れないと言われていた刑務所である。そしてサーメル兄も、この道を通ってここにやってきたのだ。

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(サイドナヤ刑務所の入り口の壁は、反体制派によって「FREE SYRIA」とペイントされていた)

アサド政権崩壊のその日、反体制派によって囚人が解放されてから9日が経過したサイドナヤ刑務所。全ての扉は開かれ、誰もがここに立ち入ることができる。周囲は、多くの来訪者で賑わっていた。各国からやってきたジャーナリストたち、行方不明になった家族を探し、何らかの手がかりを求めてやってきた人々、さらにはピクニック気分で見学にやってきたような若者たちまでいた。

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(周囲を遮るもののない、荒涼とした土地の小高い丘の上に、アサド政権の抑圧の象徴として恐れられてきたサイドナヤ刑務所がある。広大な敷地は、コンクリートの壁と有刺鉄線で厳重に囲まれている)

目を引いたのは、トルコから派遣された救助隊AFADが、特殊な機器や巨大なユンボ、さらには訓練を受けた犬まで使い、刑務所の地下にあるとされる隠し部屋と、残されているかもしれない囚人を捜索していたことだ。彼らは地表から深さ4メートル近くも地面を掘り返し、実際に、地下深くにある通路を探し当てていた。私たちは恐る恐る、建物の内部へと入った。人だかりがある方へと近づくと、一階部分で、AFADの隊員が犬を連れて何かをしていた。犬は地下に向かってしばらくの間匂いを嗅ぎ、耳を澄ませ、やがて勢いよく「ワン!」と吠える。その場で飛び交っていたトルコ語とアラビア語を、夫が通訳してくれた。

「下に、まだ人いるかもしれないだって。人いないとき、犬はワンしないだって。犬がワンしただから、ここに人いるかもしれないだって」。

やはりこの刑務所には、まだ見つかっていない隠し部屋があるのではないか。そこに最重要とされている囚人が取り残されているのではないかと、周囲は騒然となっていた(しかし結局、隠し部屋も、囚人も見つからなかったらしい)。