イギリスを目指す移民の拠点、カレーへ【イギリス取材レポート-6】

こちらは、2023年12月23日〜2024年1月13日に行ったイギリス取材のレポートです。

<目次>

・カレーへ

・「街の中心部、駅から歩いて5分ほどの橋の下」

・シリア人はみな家族

・空き地での炊き出しへ

・「不法移民」の多様な背景

前回は、ドーバー海峡を渡って「不法移民」がやってくるイギリス南東部のドーバーを、2022年にイギリスに入国した兄アブドュルメナムと甥エブラヒムと訪ねたエピソードについて書きました。また彼らが、トルコでどのような境遇に悩み、どのようにイギリスを目指したのかについて触れました。今回は、イギリスを目指す「不法移民」が、ドーバー海峡を渡るための拠点、フランス北部のカレーを訪ねたエピソードです。

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イギリスを目指す移民の船出の拠点、カレーへ

「ドーバーの街の灯りを近くに見たとき、船に同乗していたみなが涙し、歓声をあげた。ただただ、安心した」。2022年11月、ドーバー海峡を渡り、イギリスに上陸した日のことを、夫の兄アブドュルメナムはそう回想していました。

フランスのカレーの海岸からは、夜になるとドーバーの街の灯りが見えるそうです。不法入国を斡旋する業者は、海を渡るタイミングを見計らって移民たちに船を用意し、集まる場所と時間を指示します。しかし、彼らはその船に同乗することはありません。

「見ろ、あれがドーバーだ。あそこに向かって漕ぎ続けろ」。移民たちは業者にそう指示され、小型ボートに乗り込みます。そして、海の向こう、うっすらと街の灯りが見える方角へと、一心に漕ぎ出していきます。うまくいけば、ドーバーまでは4〜5時間の距離です。もし、海が荒れなければ。強風が吹かなければ。

アブドュルメナムたちが、どのように海を渡ってきたのかを知った私は、彼らの旅の足跡を追うため、フランスのカレーに向かうことにしました。本当は、海底トンネルを走っている電車でフランスに向かった方が、料金もずっと安いのですが、やはりドーバー海峡を渡る移民の取材なのだから、自分も船で海を渡らなければ、と思いました。イギリスのドーバーからはカレーまで、フェリーが一日数本出ており、ちょっと割高でしたが、こちらでカレーに向かうことにしました。

(フェリー乗船前、入国審査を受ける)

カレーまでは、フェリーで所要時間わずか90分。料金は、子供二人分を合わせ、三人で70ポンド(約14000円)です。船の内部にはカフェやバー、ゲームコーナーまであり、広いロビーには上質のソファーが並べられていました。ちょっとした豪華客船なのです。

(ドーバーの街の灯りを振り返る)

15時半に出港してまもなく日が暮れ、あたりは真っ暗に。船の後ろに見えるドーバーの街の灯りが、飴玉のように赤や白や黄色に光り、遠ざかっていきました。この灯りこそ、移民たちにとりイギリス本土の目印なのです。

(スマートフォンの「グーグルマップ」というアプリで、ドーバー海峡横断中の位置を確認。フェリーの航路が地図に出ていた。)

ほどなくして今度は進行方向に、チラチラと街の灯りが見え始めました。フランスの港町、カレー。海を渡る移民が、船出を待つ拠点とする街です。

入国審査を済ませ、カレーの中心部に移動する途中、30歳ほどのイギリス人男性と同じタクシーに乗りました。ロンドンで金融業のコンサルタントをしているという彼は、移民の衣食住をサポートするNGOでのボランティア活動を5年前からカレーでしているそうで、今年も6日間の活動のため来たそうです。移民への厳しい対処を打ち出しているイギリス人でありながら、移民のためのボランティア活動を休日に行っているという彼に、私は質問をしました。

「イギリス政府は今、不法移民に対して厳しい政策に転じようとしていますよね。実際に、移民の現状に触れながらボランティアされているあなたは、その動きをどう考えていますか」

「イギリス政府はクレイジーだ。移民にも、望む人生を選択ができる正当性があるはず」、彼の答えは驚くものでした。彼によれば、確かにイギリスでは、不法移民のこれ以上の受け入れに不満を持つ国民も多い。だが一方で、自分のように、受け入れを進めることで、将来的なイギリスの「人的資産」に繋げられるはずだと考えている若い世代も少なくない、とのことでした。見るからにスマートで、知的な雰囲気を漂わせるこうしたイギリスの若者の「人的資産」という観点からの意見に、なるほどと思うのでした。また、「移民にも、望む人生を選択ができる正当性があるはずだ」という言葉が胸に残りました。

「街の中心部、駅から歩いて5分ほどの橋の下」

その夜、ホテルに着いた私は、子供にご飯を食べさせて寝せて、それからようやく一息をつきました。移民の取材に入るための準備よりも、まずは取材に同行している子供のお世話をしなければなりません。小さな子供を連れながらの取材は、費用面でも体力面でも、そして精神面でも楽ではありませんが、自分がやりたい取材をやっている、という実感があるので苦にはなりません。

ようやく子供たちを寝かしつけた私は、アブドュルメナムに電話をし、カレーに到着したことを伝えました。実はカレーでは、ある目的がありました。海を渡る直前、アブドュルメナムたちが滞在し、野宿していたその場所を、この街で探すというものでした。それにより、不法移民という存在についてより理解を深めたかったのです。

その場所について、アブドュルメナムはこう説明しました。「街の中心部、駅から歩いて5分ほどの橋の下」だと。彼らがこの街にいたのは一年前の2022年の10月のことで、すでに気温は低く寒い日々でした。毎日焚き火をし、小さなテントに眠ったり、毛布をかぶって1ヶ月ほど野宿をしたそうです。橋の下を選んだのは雨が避けられ、わずかでも強風も避けられたからだそうです。同時に、駅に近い場所であることも重要でした。イギリスへの船は、カレーから少し離れた近隣の街の海岸から夜間に出ます。そのため駅から近い場所で待機していなければ、急な船出の連絡があっても電車移動ができないのだそうです。

翌朝、ホテルの窓のカーテンを開けると、カレーの空はどんよりと重い雲が立ち込めていました。雨が降りそうです。街には中世に建築されたキリスト教建築と思しき美しい塔がいくつも伸びており、晴れていたならどんなに美しい景観だったろうかと思いました。その眺めは、海からの入り口として栄えたこの街の歴史を彷彿とさせました。

(カレーのパンフレットより。市街地の景観)
(観光案内所でもらった街の地図)

その日、ホテルを出た私は、観光案内所でもらった街の地図を広げ、アブドュルメナムから聞いた橋を探しました。「街の中心部、駅から歩いて5分ほどの橋の下」。そう広くないこの街で、その場所はきっと見つかるだろうという確信がありました。

移民たちがたむろしているだろう場を探し、私は通行人にも声をかけました。

「ゴミが散乱しているところに彼らはいます(彼らがゴミを散乱させている、というニュアンス)」とちょっと嫌味を含ませて答える若いフランス人男性や、「彼らはよくこの辺りをうろついている。ひと目見れば服装でわかる」と答えたお年寄りがいました。

通行人のそうした口調からは、この街に大量に流入し、長く逗留するようになった移民たちに対し、あまり良い印象を持っていないことが感じられました。

シリア人はみな家族

カレーの駅のロータリーのすぐ近くに、土色に濁った小さな川が流れていました。その川にかかる橋の下に視点を落とした私は、「おや!」とあるものに目が釘付けになりました。そこには、着膨れした15人ほどの男性たちが焚き火を囲んで集まっているではありませんか!!その独特の雰囲気は、遠目にも彼らが、移動中の移民たちであることを物語っていました。こうして私は、アブドュルメナムから聞いたその場所を、実際、あっけなく見つけたのでした。

(橋の下に男たちがたむろして集まっていた)

私は橋の下の移民たちに接触すべく、二人の子供たちの手を引き、ぐんぐんとそこへ近づきました。ヨーロッパを移動していく移民を実際に目にするのは初めてのことで、正直に言えば、私は興奮しました。歴史の動向を、すぐ目の前にしているのだという思いがあったからです。

私が近づくにつれ、彼らは警戒した視線でこちらを見ていました。「シリア人ですか?」と私が話しかけると、一人の男性がこわばった表情のまま「そうだ」と答えました。突然現れた子連れのアジア系の女性に、彼らはかなり警戒したようでしたが、私は、夫がシリアのパルミラ出身で、夫の兄も彼ら同様、ここから一年前にイギリスに渡り、難民収容施設に入っていること。この場所はその兄から教えてもらったことを話しました。そして事前にアブドュルメナムからもらっていたカレーでの一枚の写真―――まさにこの場所で焚き火の前で座っている―――をスマホで見せたところ、「本当にここだ!」と彼らは喜びました。私はアブドュルメナムとビデオ通話をし、この場所を見てもらい、さらに彼らと話してもらいました。

(一年前、まさにこの場所で焚き火をしていたアブドュルメナムの写真)
(イギリスのミルトン・ケインズにいるアブドュルメナムとビデオ通話)

アブドュルメナムは確かに一年前、この場所に寝泊まりし、船出を待っていたそうです。そしてここは、移民たちが次々とイギリスに渡って行っても、後から来たシリアからの移民によって引き継がれていたのでした。

「ああ、自分もここにいた、懐かしい」と話した電話口のアブドュルメナムは、そこにいたシリア人たちを励ましました。さらに、イギリス政府の政策が厳格化に向かっているので、今からでもドイツのほうが行き先としていいかもしれないと、疲労感を交えた表情で、率直な胸の内を話していました。しかしそれを聞くシリア人たちは、「いいや、ここまで来たんだから自分たちはイギリスに行くしかないよ」「イギリスが一番いいはずだ」と笑顔で返していました。

その会話はまさに、一年前のアブドュルメナムに、現在のアブドュルメナムが語りかけているようでもありました。カレーのシリア人たちは、決して疑っていなかったのです。ただイギリスに行きさえすれば、生まれた国の国籍から生じる、この複雑な問題は全て消え去り、自分の人生は好転していくばかりだと。彼らは密入国の斡旋業者からの船出の指示を、ほぼ一カ月近くにわたって今か今かと待ち続けていました。

アブドュルメナムとの通話後、シリア人たちの私たちへの怪訝な眼差しは一転し、「ナフヌ スーリーン クッロ アーイラ」と誰ともなく言い始めました。アラビア語で「シリア人はみな家族」という意味です。アブドュルメナムが、「彼女は弟の妻でシリア人の家族だから、親切にしてあげて」と頼んでくれたようで、彼らは私を「オフティ(アラビア語で“私のお姉さん”、つまり砕けた意味で“同胞”の女性名詞)」と呼び始め、また私の二人の子供たち、サーメルとサラームが、流暢なアラビア語を話すことに喜び、子供を抱っこしたり手を繋ぎ、大変に可愛がってくれました。大家族が多いシリア人たちは、みんな子供好きで、その扱いにも長けているのでした。

橋の下を拠点としているらしいこのシリア人たちは、16歳から35歳ほどの男性で、ほとんどがシリア南部のダラー出身でした。大体がシリアから飛行機でリビアに移動し、そこから地中海を密航。イタリアに上陸後、隣国フランスまで歩いてきたとのこと。シリアからは2カ月ほどの道のりで、なかには密航が露見して、リビアの刑務所に半年近く入れられ、ここまで1年以上かかったという人もいました。リビアの刑務所で、看守に殴られたり蹴られたりの暴行を受けたという若者もおり、顔や腕などに、その傷跡が生々しく残っているのも見せてもらいました。

シリアのなかでも、特に南部ダラーからの移民が激増しているらしく、その背景には、ダラーでは政府への協力が強要され、若い男性は徴兵に加わるか、国を出るかの二者択一が迫られている現実があるようです。またシリアでは、この10年で物価が約20倍に高騰するという経済破綻に加え、インフラもほぼ崩壊し、仕事もなく、この国でこれ以上この生活を続けることに未来を考えられない、という背景があるようでした。印象的だったのは、彼らのほぼ全員が結婚しておらず、「金がなく結婚もできない」とぼやいていたことです。仕事もなく、妻や生まれてくる子供の生活を保証する資金も作れない。そうした境遇も、故郷を離れた一因のようでした。

空き地での炊き出しへ

ドーバー海峡を渡ろうとする、こうした移民たちの生活のサポートをしているのが、イギリスとフランスのNGOです。毎日、朝と夕方に食事の炊き出しが行われる他、三日に一度ほど、シャワーを浴び、スマートフォンの充電をし、洗濯物も洗って乾燥させられる施設を利用することができるとのこと。ここフランスの土地にいるならば、同じ人間として彼らが決して飢えることなく、人間として最低限の生存環境が保障されるように人道的な配慮がなされていました。

(ダラー出身のエイハムさんに手を繋いでもらい、バス停へ)

昼頃、彼らに誘われて炊き出しに向かうことになりました。その会場は郊外の空き地らしく、彼らとバスに乗って移動しました。フランスでは公共政策でバス代がなんと無料です。車内はあちこちから集まってきた30人ほどのシリア人に占拠され、異様な光景に見えましたが、乗り込んでくるフランス人と思しき乗客たちは、別段驚くこともなく、この光景が日常のものであるようでした。

(バスの車内で)

20分ほど経ってバスを降りると、小雨が降っていましたが、やがてそれは激しい雨に変わりました。濡れながら、誰も傘などささず、私たちは道路脇を長い列になって進んでいきました。長男サーメルはエイハムという男性に手を繋いでもらい、次男サラームは複数の男性たちに抱っこや肩車され、頭が濡れないよう毛糸の帽子まで被せてもらっていました。

その途中、食事を終えて戻っていく移民とすれ違うたび、シリア人たちは親しげに挨拶を交わし、私にその出身地を教えてくれるのでした。今カレーで特に多いのはスーダン人で、アフガニスタン人、エジプト人もいる。シリア人はこの街に今、200人ほどいると聞きました。

やがて、トラックの脇に長い列ができた炊き出し会場に到着しました。大鍋から紙皿に盛り付けられるのは、鶏肉とニンジン、ジャガイモ、豆などを煮て、ご飯にかけたもの。雨晒しのなか、食事は雨水でびしょびしょになりましたが、シリア人たちは気にすることなく、談笑しながら平らげていました。

(食事風景。地面に皿を置いて素早く食べる)
(その日によって炊き出しを行うNGOが異なるとのこと。私たちまで食事をいただいた。強い雨の中、懸命に写真を撮り続けるも、レンズがびしょびしょになり、ピント合わせに苦労する)
(炊き出しのご飯。レンズが雨でビショビショになり、ピントが合わず。)
(暖かいお茶を持ってきてくれたシリア人のアフマッド・サラーム(写真左)。雨にぬれて寒いので、早く帰ろうとのこと。)
(食事を終え、バス停まで戻る道すがら、出会ったスーダン人移民たち)
(ひょうきんでフレンドリーなスーダン人移民たち)
(こちらは皆シリア人。同じダラーの出身者が圧倒的に多いこともあり、皆顔見知りのようだ)
(息子はすっかりシリア人のお兄さんたちになつき、ずっと手を繋いでもらった)

(高架橋の下のコンクリートスペースにテントを貼り、拠点としていたスーダン人移民たち。独特のポーズをして、写真を撮って!と声をかけられた)
(ポーズを決めるスーダン人の少年)
(「すごいところに住んでいるんだね、スーダンの人」と長男サーメルが呟いた。この街では、家に住んでいる人と、こうして橋の下で野宿している人と、何が違うのかを訪ねられ、一言で説明しがたかった)
(バス停に着いた頃には、パンツまでびしょびしょの悲惨な状態である。そしてカメラもビショビショになり、もはやピント合わせできなくなる事態に)

(続々と、バス停へと戻ってくるシリア人移民たち)

その後、全身をひどく濡らしながら、私たちはあの橋の下に帰りました。全身が雨で濡れてしまい、「寒い」と震える子供たちのため、シリア人たちが火を焚いてくれました。燃料の薪もNGOから配布されるそうですが、それだけでは足りないため、古い靴や、衣類、木片など、燃えるものをなんでも拾い集めて燃やし、燃料にするのだそう。焚き火の煙が目にしみ、私たちの服は、あの独特の燻された匂いが奥深くまで染み込みました。焚き火を囲み、濡れたジャケットやズボンを黙って乾かすその輪に一緒に座りながら、ここがフランスの、しかも街中であることが信じ難い思いなのでした。

(焚き火の煙が目に染みるらしい次男のサラーム)

「不法移民」の多様な背景

焚き火に集まるシリア人移民たちは、みなこの辺りの路上で寝泊まりしているかと思いきや、なんとホテル暮らしのシリア人移民もいました。聞けば、80ユーロ(約¥14000)の部屋に六人で寝泊まりし、宿泊代を分割しているとのこと。橋の下で寝泊まりしているシリア人と何が違うのか、とストレートに尋ねると、「金があるかないかだ」という答えが返ってきました。いくら6人で宿泊代を割っているとはいえ、一カ月もホテル住まいというのは、大きな出費です(一人当たり負担額が1日約2500円、1ヶ月では約75000円)。しかも彼らは、この街に来るまで、すでに約10000ドル(約¥150万円ほど)をかけてきたらしいのです。こうしたホテル住まいのシリア人の多くは、首都ダマスカス出身者で、よくよく見れば、着ている服や靴、髭や頭髪の手入れも野宿組とは雰囲気が異なり、育ちの良さや裕福さが滲み出ていました。ここで知ったのは、「不法移民」として国境を越えようとする人々は、必ずしも貧困が背景にあるとは限らないことです。ただ国籍の問題によって、正規の手段で国境間の移動ができず、「不法」手段をとらざるをえないのです。

(日本にいる私の夫とビデオ通話をするシリア人たち)

「不法移民」と一口に言っても、共通しているのは「不法に国境を越えていく」という点だけで、その背景は実に多様です。さらにヨーロッパまでのこの移動自体が、高額な資金が必要とされることを考えると、彼らは完全に頼る者のない貧困層とは言えず、むしろ財産を拠出できる「つてのある人々」でもあります。最近では、移民たちが経済的安定を求めて移動してきた「経済難民」なのか、もしくは紛争国での迫害から、真に人道的保護が必要な「難民」なのかを厳格に再定義する動きもヨーロッパの国々では生まれているようです。人道的寛容さから移民を今後も受け入れ続けるべきか、それとも法を厳格化し流入を管理するべきか。ヨーロッパの移民受け入れ国では、その論争が今日も続いているのです。

(エイハムさんからパンを食べさせてもらう次男サラーム)

(15時を過ぎ、夕刻近くになると、テントを立て始め、中に入って眠る者も。日中はテントを張りっぱなしにしないよう警察に注意されているが、夕方以降は黙認されるらしい)

その日、降り続ける雨の中を、子供たちの手を引いてホテルに帰りました。ホテルでは、暖かいシャワーを浴びたいと思いながら、橋の下で今も焚き火に当たっているシリア人たちに、申し訳ない思いでした。

ホテルまでの帰路、広場にはメリーゴーランドが回っており、着飾った人々が、ごく普通に、メリーゴーランドを楽しんでいました。つい先ほどまで焚き火にあたって過ごしていた移民たちの世界と、この街の住民の日常の世界。肌で感じたその大きな乖離に、私は呆然としてしまうのでした。

明日も早朝から、シリア人移民たちの様子を見せてもらう約束をし、ホテルへと帰りました。

<引き続き、次回も、シリア人移民たちと過ごしたエピソードをご紹介します>

玉川学園様の学園誌『全人』様にインタビュー記事を掲載いただきました

東京都町田市にある「学校法人 玉川学園」様の学園誌、『全人』様にて私のインタビュー記事を掲載いただきました。今回の冊子は「特集 戦争をどう学ぶか」という大変考えさせられるテーマで、その一環として私の活動を取り上げていただきました。ほか、難民支援の現場での話や、戦争について知るために読むべき本なども紹介されており、大変読み応えのある内容となっております。

以下、私のインタビュー欄をご紹介させていただきます。このような機会をいただき、改めてこれまでの活動を振り返ることができました。玉川学園様、どうもありがとうございました。

(2024年2月13日)

「不法移民」が海を渡ってやってくるドーバーの街へ【イギリス取材レポート-5】

こちらは、2023年12月23日〜2024年1月13日に行ったイギリス取材のレポートです。

<目次>

・難民認定を待つアブドュルメナムの不安

・ヨーロッパを目指すシリア難民

・「不法移民」がやってくる街、ドーバー

・番外編〜写真家としての苦悩〜

前回は、2022年に「不法移民」としてイギリスに入国した兄アブドュルメナムと甥エブラヒムを、難民収容施設に訪ねたことを書きました。今回は、なぜ彼らが難民として暮らしていたトルコを離れてイギリスに向かったのか。またその旅ではどのようなことがあったのかをレポートします。

難民認定を待つアブドュルメナムの不安

2023年の終わり、私はロンドンの北の街ミルトン・ケインズの難民収容施設に暮らす夫の兄アブドュルメナムと甥のエブラヒムを訪ねました。小型ボートに乗ってドーバー海峡を渡り、「不法移民」としてイギリスに入国してから13カ月目。彼らは現在、難民認定の審査を待っています(前々回の投稿に、収容所での様子をレポートしています)。

しかしイギリスでは今、国内で急増する移民への危機感から、移民の処遇についての法を厳格化する方向へと向かいつつあり、2022年1月以降に入国し、難民申請を行なっている「不法移民」をルワンダに送還する計画も審議されています(*参考資料1)。

*参考資料1  「不法入国者らをルワンダに移送するイギリスの計画が物議 「ルワンダは安全」は本当か」(朝日新聞GROBE +  2024.1.15)

https://globe.asahi.com/article/15108107

この法案は、難民申請者をイギリスから6500km離れたアフリカ東部ルワンダに移送するというもので、2022年1月以降にイギリスに不法入国した人が対象。イギリス政府は、ルワンダがこれまで隣国などから13万人の難民・移民も保護してきた「安全な国」だと主張していますが、欧州人権裁判所やイギリスの最高裁判所は「ルワンダが移民にとって安全な国と認められない」という判断を下し、2022年6月には、難民申請者をルワンダへ空路移送する第1便が、出発直前にキャンセルされるという出来事もありました。現在もスナク首相は移民のルワンダ移送計画を目指していますが、ルワンダでの移民の処遇の安全性については、疑問視されているのが実情です。

こうした動きを、まさにその法案の対象者であるアブドュルメナムも耳にしていました。

〝トルコからイギリスに渡るため、あちこちに借金をして旅の資金を用意し、命からがらこの国に来た。それなのに難民認定が下りず、ルワンダやトルコに送還されてしまうかもしれない〟

その不安と気疲れから、アブドュルメナムはすっかりやつれていました。

ヨーロッパを目指すシリア難民

夫の兄であるアブドュルメナムはシリア中部のパルミラに生まれ、家畜の獣医を目指して学んでいました。しかし2012年以降、シリアでの紛争によってその道を閉ざされ、2016年にトルコに避難しました。トルコで小さな商店を経営して生活を再建し、シリアの政情が安定したら、いつの日か故郷に帰るのが夢でした。

(シリアにいた頃のアブドュルメナム。家業のラクダの放牧を手伝いながら、獣医になるため学んでいた)

しかし2020年年初め、全世界で新型コロナウィルスが大流行すると、トルコではコロナ後の急激な物価上昇に見舞われます。シリア難民全体の7割に相当する380万人が避難生活を送っていたトルコでは、これ以上のシリア難民を受け入れ続けることに不満が噴出し、「シリア人はシリアに帰るべき」という世論が高まっていきます。

こうしたシリア人への不満は露骨な差別を生んだほか、国内のシリア難民の三分の一ほどをシリア北部に帰還させる「シリア人帰還政策」がトルコ政府によって進められます。

物価上昇、差別、そして帰還政策。こうした一連の問題のなかで、紛争が続く故郷シリアには帰れず、トルコにも安心して暮らせないシリア人たちが唯一の希望と考えるようになったのが、ヨーロッパへの移動でした。それは難民に理解のあるヨーロッパの国で難民認定を受け、保護を受けながら生活再建を図る、というものでした。

こうした移民のヨーロッパへの旅は、高額なうえに危険であることが知られています。

国境間の不法な移動を斡旋する業者への支払として、一人当たり9000ドルか10000ドルが必要とされ(トルコ南部の平均月収約300ドルの30倍以上にも及ぶ額だ。2022年当時)、さらに海を渡る小型ボートの転覆による死亡事故や、山や荒野を歩き続ける際の、暑さ、寒さ、飢えによる死亡例も少なくありません。しかしそれでも人々は進みます。難民認定を受けられれば、生活が保障され、安定した生活を送れるのだという希望があるからです。

コロナ後、アブドュルメナムが経営していた商店でも、トルコ人による嫌がらせや万引き、店の破壊行為があったにもかかわらず、警察の対応がとてもお粗末だったそうです。アブドュルメナムは、自分がシリア人であるため、ここではトルコ人と対等には守られないのだと不満を募らせていったそうです。このままでは、自分の子供たちも自分が経験してきたような理不尽さ、不平等のもとで生きなければいけないかもしれない。その思いが、アブドュルメナムを悩ませるようになります。そして彼は決断しました。自分の子供たちが、より良い未来を送るために。

(2022年8月、ヨーロッパへの移動の旅に出る直前のアブドュルメナム。5年間経営したトルコ南部オスマニエの食料品店で)

2022年8月24日、アブドュルメナムは、ヨーロッパを目指してオスマニエの自宅を出発します。まずトルコからギリシャまで地中海を密航し、それからほぼ約1カ月半をかけ、ほぼ徒歩で(!)フランスに到達。そして最後に、フランスの港町カレーから、ドーバー海峡を横断してイギリスを目指すのです。

「不法移民」がやってくる街、ドーバー

イングランド南東部、ケント州ドーバー。イギリス本土で最もフランスに接近したこの街は、フランスまではわずか34キロ。古来より、絶えず外敵の侵入に晒される一方、新しい文化や時代の先端が海を越えてやってくる入り口でした。現代では、安定した生活を夢見、小型ボートでフランスから海を渡ってやってくる不法移民が上陸する地でもあります。

(ドーバー城から仰ぐドーバーの街)

ミルトン・ケインズでアブドュルメナムたちを取材した私は、ドーバーの白い崖の上にそびえる城、ドーバー城に登り、眼下に広がる青緑色の海を眺めました。この城は古くはローマ時代から近年では冷戦期まで、イギリスの防衛を担った城として知られており、城壁から臨む海の向こうにうっすらとフランスの大地が見えました。この海を、小さなボートを漕ぎ、命懸けで渡ってくる移民たち。ちょうど数日前、一年前にこの海を渡ってきたアブドュルメナムの話が思い出されました。

・・・フランスのカレーの海岸からは、夜になるとイギリスのドーバーの街の灯りが見える。不法入国を斡旋する業者は移民たちの船には同乗せず、海を渡るタイミングを見計らい、船を用意し、集まる場所と時間を指示する。

「見ろ、あれがドーバーだ。あそこに向かって漕ぎ続けろ」。そう指示され、移民たちは小型ボートに乗り込む。そして街の灯りの方角へと一心に漕ぎ出していく。ドーバーまでは4〜5時間の距離だ。海が荒れなければ。強風が吹かなければ・・・。

アブドュルメナム一行が数時間、航海を続け、ついにドーバーの街の灯りを間近にしたとき、船に同乗していたみなが涙し、歓声をあげたそうです。2022年11月1日のことでした。

(ドーバー城の城門の一部)
(ドーバー城から、海沿いの白い崖方面を眺める。なだらかな大地の上に遊歩道が伸びている)
(ドーバー城の高台から眺めるドーバー海峡。写真左側の水平線の向こうにうっすらと、フランスの大地が見える)

アブドュルメナムたちのように、ドーバー海峡を渡ってくる不法移民が増加し始めたのは2018年以降とされています。イギリス内務省の報告によれば、2018年の299人、2020年の8466人、2021年の28526人を経て、2022年には45774人(アブドュルメナムとエブラヒムもこの一人)、2023年には約30000人が小型ボートでイギリスに到達しました。その9割が上陸後、難民申請を行なっています。

イギリスでは難民申請者もここ数年で急増しており、2015年の32733人、2021年の60950人を経て、2022年には89000件にも達しました。こうした難民認定の審査には、平均して15カ月(2024年1月時点)がかかり、申請者はイギリス政府の庇護を受けながらその期間を過ごすことになります。

移民たちは、どのように、何を思いながらこの海を渡ってくるのでしょうか。私はアブドュルメナムとエブラヒムの足跡を訪ね、フェリーでドーバー海峡を渡り、フランスのカレーに向かうことにしました。

番外編〜写真家としての苦悩「「不法移民」としてのポートレートをどう撮るべきか」〜

ここからは、写真家としての撮影手法の葛藤について書きたいと思います。

ミルトン・キーンズでアブドュルメナムたちに会った私は、どうしたら、彼らの今を物語るポートレートを撮ることができるだろう、と考えていました。ただあるがままを切り撮るだけでなく、彼らが置かれている状況や、そこに存在する意味を、いかに比喩的で抽象的なメッセージで、見る側に問いかけることができるだろうか。

アブドュルメナムたちの場合、イギリスに不法入国をして一年が過ぎ、難民収容施設にいるわけですが、その狭い一室で鬱々と過ごしている彼らの姿だけでなく、「不法移民」たる彼らの背景に意味を持たせることができるような、屋外での撮影を希望していました。

そこで浮かんだのは、ドーバーの海を背景に、アブドュルメナムとエブラハムのポートレートを撮影してはどうだろう、というものでした。彼らがトルコから移動するうえで、最も危険で困難だったというドーバーの海をバックに、彼らから自然に染み出てくる感情や表情を撮ることはできないだろうかと思ったのです。

しかし葛藤もありました。それは、果たしてドーバーの海まで行くことが、彼らにとって、また彼らのドキュメンタリーとして自然なことなのか。不自然ではないのかという問いでした。アブドュルメナムは現在引きこもり状態にあり、本人たちだけでドーバーに行くシチュエーションは成り立たないだろうとも思ったからです。

しかし考えた末、やはりドーバーの海を背景に、二人を撮りたいと思いました。ドキュメンタリーとして不自然かどうか、という判断は、より経験を積んでいった後の自分に任せるとして、今は思いのままに、これだ、と思った撮影を行うことにしました。

アブドュルメナムとエブラヒムにも相談したところ、快く承諾してくれ、さらにロンドンに暮らす兄アブドュッサラームの車で、ドーバーに連れて行ってもらえることになりました。

アブドュッサラームはアブドュルメナムの4歳上の兄。彼曰く、「アブドュルメナムはこのところずっと引きこもり状態で精神的に良くない。ドーバー行きは彼にとっても良いリフレッシュになるだろう」とのこと。その日、アブドュルメナムとエブラヒムが、朝早くミルトン・ケインズから電車でロンドンまで出てきてくれることになり、私たちは「ユーストン」というロンドン中心部の大きな駅に、(電車の乗り換えが苦手な)彼らを迎えに行きました。

12月の終わりのその日、電車でやってきたアブドュルメナムとエブラヒムがアブドュッサラームの家で休憩した後、皆で車に乗ってロンドンから1時間半ほど離れたドーバーに向かいました。

(ドーバーへの出発前、アブドュッサラームが近所のパン屋で買ってきた焼きたてのクロワッサンを美味しそうに食べるアブドュルメナム。ロンドンのヒンチュリーにあるアブドュッサラームの家にて。イギリス人のアブドュッサラームの奥さんに遠慮しているようで、この一年で2回しかここに来ていなかった)
(アブドュッサラームが所有する、電気で充電するタイプの自動車。生活に余裕があることをうかがわせた)
(ドーバーに向かう車内にて。前日に床屋で散髪したというエブラヒム)

ドーバーは、海沿いにそり立つ白い崖が有名で、その崖の上は遊歩道になっています。私はそこで、アブドュルメナムとエブラヒムのポートレート撮影をさせてもらうことにしました。

遊歩道では強風が吹き荒れており、一帯は背の低い草が生えているだけの荒涼とした土地でした。海を眼下に見渡すことができ、遠くにうっすらとフランスの大地が見えています。

(強風のなか、ドーバーの白い崖の上の遊歩道を歩く。)

アブドュルメナムとエブラヒムは、一年前にドーバー海峡を渡ってきて以来、再びこの海を見るのは初めてとのこと。命懸けで渡ってきた海を前に、どういった心境になるのだろうかと少し心配しました。

「海を前にしてどう感じる?」と聞くと、アブドュルメナムは、「nothing(別に何も)」とのこと。「ドーバーに上陸したときは、どの辺りから上陸したの?」と聞くと、「I forget(忘れた)」とのことで、あまり細かいことを覚えておらず、感傷的にもならないようでした。しかしじっと海を眺める彼の表情は、言語化できない感情があることを物語っていました。そうしたものこそ、写真に写し撮りたいと思いました。

ドーバーを渡ってきたアブドュルメナムとエブラヒムと、ドーバーの海を眺めた時間。それは、写真家として忘れられない時間になりました。その海を眺めながら、私はこの国で彼らが、どのように移民として新しい生活を切り開いていくのか、取材を続けていこうと決意するのでした。

(自撮りをするアブドュルメナム)

(2024年1月29日)

イギリス取材から帰国しました。ドーバー海峡を渡る移民との交流の日々を思い返しています

あっという間のイギリス取材を終え、1月13日夜に日本に戻ってきました。

今回も7歳と5歳の二人の子供を連れた子連れ取材。3週間弱のこの取材では、ロンドンに到着するなりスーツケースが空港で行方不明となり、三日後に見つかるという事件が起きましたが、その後も取材後半に、レスターという街で、財布をすられてほぼ一文なしになるという事件が起きました。

偶然立ち寄ったチャリティーショップ(売上の一部を慈善団体や福祉団体に寄付するリサイクルショップ)で中古服を見ていたところ、混雑した店内で、肩がけカバンのチャックをいつの間にか開けられて財布をすられてしまったのです。中に入っていたクレジットカードやマイナンバーカード、健康保険証などと現金をほとんど失いました。二人の幼い子供を抱え、異国で一文なしになるという突然の事態。幸い、パスポートだけは手元にあったため、イギリス在住の兄にサポートを受けながら、なんとか帰国することができました。

しかしそんなことは、もはや記憶から消えてしまうほどに、もっと深刻で、悲しい事態が私たちを襲いました。

今回の取材は、ドーバー海峡を渡ってイギリスへと入国する「不法移民」をテーマとし、移民たちがボートに乗ってやってくるドーバー海峡のイギリス側の街ドーバーや、彼らが海を渡る拠点とするフランス側の街カレーにも向かいました。

そのカレーでは、まもなく海を渡ろうとするシリア人コミュニティを取材し、三日間、一緒に焚き火にあたったり、話を聞いたりして過ごしました。彼らのほとんどが二ヶ月をかけてシリアから旅をしており、カレー中心部の橋の下や公園などにテントを張って、極寒の中を野宿していました。彼らからは、私の二人の子供たちをとても可愛がってもらい、たくさん抱っこしてもらい、本当にお世話になりました。私はそんな、彼らの写真をたくさん撮りました。彼らは、密入国業者による船出の指示を、一ヶ月近くにわたってカレーで待ち続けていました。

1月12日、ほぼ一文なしになった私たちが、ロンドンの空港からなんとか帰国するその日の朝、カレーで船出を待つシリア人の一人から連絡がありました。今晩、ついにボートでイギリス側に渡ることになった、と。海が穏やかで、天候が安定しており、海上警備隊が付近にいないことを条件に、彼らは夜の闇に紛れ、手漕ぎボートで海を渡っていくのです。そして対岸にあるイギリスに上陸し、難民申請をするのが目的です。

ちょうど一年前、夫の兄アブドュルメナムと甥のエブラヒムも、同じルートでここからドーバー海峡を渡りました。その際、ボートが転覆して溺れ、冬の海で死にかけたそうです。エブラヒムは救助隊によって心肺蘇生を施され、奇跡的に蘇生したと聞きました。まさに命がけの航海なのです。そして、そうまでして移民たちがイギリスを目指すのは、そこに行けば人生が大きく変わるのだという希望、というよりも信念を抱いているからです。

これから、暗闇の海を渡っていくだろう彼らの姿を思いながら、私は日本へと帰る飛行機に乗りました。そして私たちが日本に到着するまでの間、彼らは航海に出発したようでした。

13日深夜、羽田空港に到着した私は、スマートフォンをチェックし、彼らの安否を確認しましたが、消息がつかめませんでした。

日本時間14日の昼頃になって、現地から一報が入りました。私がカレーで一番お世話になったシリア人男性エイハムさんとその親族や友人、合計6人が、ボートの転覆により海に投げ出され、溺れて亡くなったというのです。

(フランスでのカレーでの取材を終え、イギリスへと戻る最終日、彼らとさようならを交わす。「次回はイギリスでまた会いましょう」が別れの言葉だった。写真中央がエイハムさん)

(1月14日未明、カレー近郊の海でボートが転覆し、溺死したエイハムさん。シリア南部ダラーの出身だった)

その知らせを半信半疑で聞きましたが、やがて、報道でも死者の名が公表されました。残念ながら、亡くなったのがカレーでお世話になったあのエイハムさんたちであることが、疑いようのない事実となりました。

なんということでしょう。不法移民としてボートで海を渡っていくことが、命がけの危険な航海であることは知っていましたが、つい10日前、隣で一緒にチョコレートを食べ、焚き火にあたり、子供たちを抱っこしてもらったあの人たちが、二日前にドーバーの海に呑まれ、今はこの世にいないのです。遠いシリアから長い旅を続け、イギリス本土の街の明かりを目にしながら、暗く冷たい海の中に沈んでいく最期のとき、彼らは何を思ったでしょう。私はただ、人間の不平等を思います。

彼らが密入国費用として約1000ドル(約150000円)を支払い、自ら小型ボートを漕いで4〜5時間をかけ、命がけで渡っていくドーバー海峡。同じ海を、私はフェリーで、70ユーロ(日本円で約11000円)を支払い、90分で快適に、安全に渡れるのです。そして彼らと私たちとを分けるのは、ただ、生まれた国とその国籍なのです。

(カレーの海で。夜になると、ドーバー海峡をはさんでイギリス側のドーバーの街の灯りが見える)
(カレー中心部の橋の下で野宿をしていたシリア人たち)
(ここで一カ月に渡り、野宿をしながら船出のタイミングを待っていた。昼も夜も焚き火にあたって過ごしていた)
(彼らに、二人の子供たちをとても可愛がってもらった)
(夜のドーバー海峡。この海を、彼らは渡っていく)

取材を終え、日本に戻りましたが、私はまだ心の整理がつきません。つい10日前に取材をさせてもらったあのシリア人たちが、ドーバー海峡で溺死してしまった現実を受け止めきれず、夜も昼も彼らのことを考え続けています。

そして、日本ではなかなか報道されない不法移民の問題について、もっと移民たちの背景にあるものや、彼らの思い、そして受け入れ国側の問題についても、もっと深めていきたいと思うのでした。今回の取材は、その始まりなのかもしれません。今回も子連れパニック取材ではありましたが、大変に深みのある取材ができました。自分自身の、写真表現に対する大きな変革も経験しました。

この取材では、物価が高いイギリスやフランスで、移動費や交通費、食費など、何につけてもとにかくお金がかかり、ギリギリの取材予算の中で、皆様にたくさんの応援をいただきましたことに大変感謝しております。おかげさまで、取材の全日程を終えることが出来ました。皆様、どうもありがとうございました。この取材内容を、世の中にしっかり発表していくことに努めます。

並行して、現地からレポートできなかった内容を、今後、以下のように順次ご紹介していきたいと思います。

*「不法移民」がどういった背景を持った人々で、どのような問題が現地で起きているのか。日本では報道されていないこうした問題をより多くの皆様に知っていただきたく、取材レポートを一般皆様にも公開させていただきたく思います。一方で、取材中の裏話や、詳しい取材内容については、こちらの「小松由佳HP有料会員コンテンツ」での限定公開とさせていただく予定です。

大変長くなりましたが、帰国のご報告でした。

最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。  小松由佳

                             (2024年1月16日)

難民収容施設のアブドュルメナム兄と、世界一美味しいシュワルマ【イギリス取材レポート-4】

(この記事は、2023年12/24〜2024年1/13までのイギリス取材の記録です)

ロンドン中心部から電車で1時間半ほど離れたニュータウン、ミルトンキーンズ。この街の難民収容施設に、夫の兄アブドュルメナムと、夫の甥エブラヒムが暮らしている。私はアブドュルメナム兄に会うため、この街を目指した。

アブドュルメナムもエブラヒムも、2022年11月にイギリスに「不法移民」として入国後、現在も難民申請中だ。住居こそ、難民収容施設で暮らさなければいけないものの、事前に報告すれば行動の自由もあり、買い物も遠方へ宿泊を伴った旅も可能とのこと。

ちょうどその前日は、年末だったこともあり、ロンドンに住む兄が素敵なクリスマスディナーを用意してくれ(詳細はひとつ前の投稿をご覧ください)、アブドュルメナムとエブラハムも招待したのですが、アブドュルメナムは体調が悪いとのことで、エブラヒムだけやってきた。そして翌朝、私たちは施設に帰るエブラヒムと一緒に、ミルトンキーンズを訪ねることに。

エブラハムは、この一年で英語がだいぶ話せるようになったものの、英語の読み書きはまだあまりできず、電車の乗り換えもまだ難しいとのこと。

(地下鉄から電車へ乗り換えのユーストンの駅にて)

今回の取材では、デジカメにオールドレンズをつけて臨んでいる。マニュアルフォーカスのため、動きのある被写体に対してピント合わせが難しく、ピントがボケてしまうことが多々あり。この一枚も、とても良いシーンだったがボケてしまった。しかし最新レンズのオートフォーカス機能ばかり使っていると、自分の眼で対象を捉え、何を伝えたいかを瞬時に判断し、ピントを絞ったりと、「写真を思考する」力が落ちていいってしまうように感じられる。また、一瞬の行為を記録するのだから、そもそもボケたりブレたりするのは当然で、それが写真であって、むしろ、ボケたりブレたりしない写真ばかりが世にあふれ過ぎていることの不自然さもこのところ感じている。ボケてもブレても、伝えたいことが伝わるならいいではないか、というのが私の持論だが、所属している「日本写真家協会」の重鎮の皆様には怒られそうである。今回の取材では、カメラの機能の良さで写真を撮るのではなく、写真の原点に還ったマニュアル的な撮り方をしたいと思い、実践している。

ミルトン・キーンズ駅に到着し、彼らが難民収容施設に向かう。

ミルトンキーンズ駅から徒歩10分ほどの難民収容施設の前にて。ここに4ヶ月前から暮らしている。外観は一般的なホテルだ。

建物の一階部分にあるエブラヒムとアブドュルメナムの部屋へ。入り口には係官がいて、出入りする際の記録を記入した。建物は新しく、設備も整っているように見えた。

ドアを開くと、右側にトイレ付きのシャワールームがあった。新しく綺麗だ。その奥の扉を開けると、アブドュルメナムとエブラヒムが二人で暮らしている部屋があった。ドアを開いてまず目に入ったのは、アブドュルメナムの大きな背中だ。彼はイスラムのお祈り中だったので、祈りが終わるのを私たちは静かに待った。その間、兄の背中をまじまじと見つめた。来ているTシャツの皺だらけの様子に、なんとも男だけの生活臭を感じるのであった。

部屋に入るなり目に入った、兄の背中のインパクトは大きかった。

アブドュルメナムとは、トルコ以来、一年ぶりの再会である。挨拶を交わし、互いの無事をねぎらう。

「昨日のアブドッサラーム兄の家の夕食会に来なかったね。風邪をひいて具合が悪いと聞いたけど、大丈夫?」と尋ねると、「実は、具合が悪くはなかったけど、そういう気分じゃなかった」とのこと。イギリスに来て一年と一ヵ月が過ぎ、トルコに残してきた妻や子供たちにも会えず、難民認定の許可が出るかも先行きが分からず、毎日将来のことを考え、不安で気疲れているとのこと。自分の家族が側にいないのに、イギリスでみんなで集まって賑やかに夕食を楽しむなんて、気が進まない、というのが本音のようだった。ただ、アブドッサラーム兄やその妻を傷つけないように「風邪をひいた」と話したとのこと。

アブドュルメナム兄の弟である私の夫ラドワンからのお土産を渡す。¥2900で買ったユニクロのセーターである。寒くなってきたから、ジャケットやセーターを日本からお土産にしてほしいとの要望があり、夫が用意したものだ。

イギリスでは、「不法移民」の難民認定の結果が出るまでの平均期間は15カ月。アブドュルメナムは現在、申請してから13カ月が経過。ヨーロッパ諸国の中でもイギリスでは、急増する「不法移民」への厳しい処遇を打ち出し始めており、今後やってくる「不法移民」に対して、ルワンダに送還する計画も審議されている。こうした動きをアブドュルメナムもインターネットの報道から知っており、自分に難民認定が下りないのではないか、トルコへと送還されるのではないかと不安な日々だという。何よりトルコに残した妻や三人の子供たちと長く離れており、それが大変辛いとのこと。また、イギリスの曇りがち、雨がちのしっとりした気候も、シリア中部の砂漠気候で生まれ育ったアブドュルメナムにとっては疲労する一因とのことだった。

「毎日、今後のことを考え続けてすごく疲れている。考えすぎて、髪の毛がほとんど抜けてしまった」と話し、帽子をとって頭部を見せるアブドュルメナム。

確かに、頭頂部はほとんど髪の毛がなくなっていた。ヨーロッパへの移動の旅の厳しさに加え、難民申請中のこの生活でも大きな疲労とストレスにさらされ続けたのだろう。

「髪の毛が抜けてしまった」と繰り返すアブドュルメナムに、こんなときは黙っていては良くないと思い、「・・・また生えるよ」と励ました。それでも沈黙が続くので、「その頭、撮ってもいい?」と冗談を言ってカメラを向けると、「ノー」と笑って帽子を被るアブドュルメナム。とにかく頭髪が薄くなったことを気にしているようで、人に会ったり外出する際は、いつも帽子を被っているそうだ。

(*)アブドュルメナムは夫の兄で、15年来の知り合いのため、こういうシビアな会話の際は、ジョークで返すのが家族の文化と理解し、あえてこのような発言をしております。全ての取材対象者にこのような不謹慎な発言をするわけではありません。

それからしばらくぼんやりするアブドュルメナム。2022年8月、ヨーロッパへの移動の旅に出る直前の、希望に満ちて生き生きした彼の表情と全くかけ離れた表情だ。彼が直面している現実の厳しさを知った。アブドュルメナムは無表情でいることが多くなり、目つきもトローンとしているように感じられた。

アブドュルメナムと私が、シリアスな話をしている間、大音量でテレビ鑑賞するエブラヒムと子供たち。なんと、放映されているのはドラえもん。エブラヒムはこの後、長男を「ノビター」、次男を「ドラエモーン」と呼ぶように。アニメは、言葉の壁や人種、宗教の違いを軽々と飛び越える。その力は素晴らしい。

隣で「ドラえもん」の音声を聞きながら、アブドュルメナムたちがいかにヨーロッパを徒歩で横断し、命からがらイギリスにやってきたかを聞く。ものすごくシリアスな話を聞いているはずが、「ドラえもん」の音声が気になってしょうがなし。ギリシャからフランスまでは二カ月間、ほぼ徒歩で移動し、野宿を続けた。歩くのも、寝るのも、食べるのも、全てが厳しかったという。写真はフランスのカレーの街で、焚き火をしている様子。アブドュルメナムとエブラヒムは、オランダで別れた別の兄と三人で、2022年8月24日から旅を続けた。二人がイギリスに入国したのは11月1日だった。

携帯電話の中に、ヨーロッパ移動の旅の写真を探すアブドュルメナム。

アブドュルメナムは、私のフェイスブックの投稿を読んでおり、ロンドンの信じがたい物価の高さのなかで、私たちが一本10ポンド(約2000円)のシュワルマ(鶏肉などを巻いたアラブ風サンドイッチ)を夕食に3人で分けて食べたことを知っていた。そして「お前たち、ロンドンでシュワルマが高くてまともに食べられなかったんだろう。今日はシュワルマを作るからみんなで食べよう」と、自ら腕を振るってくれることに。自分が精神的に辛いなかで、私たちを喜ばせようとしている兄の温かい心に、胸がじんわり。

台所に立つ兄の顔をまじまじと見ると、この一年の間にずいぶんやつれ、痩せたことを感じた。

シュワルマの中に入れる鶏肉は、二日前からスパイスに漬け込んで準備してくれていたとのこと。

兄のような難民認定を待つ不法移民に、イギリス政府から一週間に一人当たり食費が45ポンド(約¥9000)支給されているとのことだった。一週間で日本円で¥9000ほどと聞けば、そこそこ良いのではと感じるが、イギリスの物価は日本より1.5倍ほど高いので、日本の感覚で言えば、一週間に¥5000〜¥6000くらいか。贅沢はできないが、食べてはいける支給額だ。

この鶏肉を買うため、他の日の食費を節約して準備したようで、ありがたく、申し訳なかった。

「シュワルマ」は、歳を重ねるごとにみんなますます好きになるメニューだよ」と笑顔で語るアブドュルメナム。

しかしイギリスで、アブドュルメナム兄に料理を作ってもらい、それを食べることになるとは全く予想しなかった。通常、アラブの男性はこういうことはしない。家事、特に客人をもてなす料理は全て女性の役割とされるからだ。

イギリスの難民収容施設には部屋ごとに大体台所がついているそうで、アブドュルメナムも、イギリスに来てから食事の用意が必要で、自分で料理をするようになったとのこと。

真剣に料理中。

部屋もトイレも台所も、大変綺麗に掃除して使っていた。台所もピカピカだ。トルコでは掃除も調理も何もしていなかった(全部奥さんがやっていた)のにこの変化はすごい!

スパイスに漬けた鶏肉を炒め、ポテトを油で揚げる。

鶏肉を漬け込んだ残りのスパイスのタレも炒める。これもシュワルマの中に入れると、とても美味しいとのこと。

ポテトフライと炒めた鶏肉を平たいパンの上に乗せ、最後にマヨネーズをたっぷりかける。それを巻いてから、さらにフライパンで表面をこんがり焼けば、シュワルマの出来上がりだ。

難民収容施設、と聞き、タコ部屋のようなところをイメージしていたが、さすが人道的配慮を重んじるイギリスと言えるのか、部屋は設備が整っており快適そうで、不法に入国した人々と言えど、人権を尊重していることが伝わってくるような施設の待遇だった。だが一方で思った。このような施設を用意し、難民認定がおりるまでの平均一年以上もの間、経費を捻出しなければいけないイギリス政府の負担は、相当なものだろうと。

黙々とシュワルマを作るアブドュルメナム。エブラヒムと私の子供たちは、ドラえもん鑑賞中。

ついにシュワルマの出来上がりだ!こげている!

出来上がったシュワルマを前に、満足そうなアブドュルメナム。シリアでは、シュワルマといえばコーラとのことで、コーラも用意してくれていた。

子供たちが食べやすいように、小さく切り分けてくれた。小さな子供を見ると、一年以上会えずにいる自分の3人の子供たちがとても恋しくなるという。

アブドュルメナム兄の特製のシュワルマ。鶏肉にスパイスの味が染み込み、本当に美味しかった。私たちに食べさせたいと思って数日前から準備してくれていた、世界一美味しいシュワルマ。

まぎれもなく、世界一美味しいシュワルマだった。

この難民収容施設でご馳走になったアブドュルメナム兄のシュワルマの美味しさを、私たちは一生忘れないだろう。

ミルトンキーンズから、電車に乗って再びロンドンに戻る。最後に、アブドュルメナムとエブラヒムが暮らす難民収容施設を振り返った。トルコからヨーロッパへの危険で厳しい旅を終えた後も、この国で「不法移民」として続く複雑な状況、兄たちの精神的な疲労を知った一日だった。

ヨーロッパへ渡った後の「不法移民」が、どのような状況に置かれるのか、何を思いながらどのように難民申請期間を過ごし、難民として認定された後には、どのようにこの国で生きていくのか、引き続き取材をしていきたい。

<アブドュルメナム兄に再会して>

・イギリスの、「不法移民」の難民認定にかかる平均期間は15カ月。より申請者が多いドイツよりも、期間が長い。

・兄がトルコを出発した一年前とは、表情も精神的状態も非常に異なっていた。希望が見出せず、常に不安であり、家族と離れている期間が長く、精神的に参っていることが感じられた。

・同じ難民収容施設にはシリア人はおらず、スーダン人などアフリカから渡ってきた人々や、アフガニスタン人やパキスタン人などが多いとのこと。

(2023年1月5日)

新年、あけましておめでとうございます

皆様、あけましておめでとうございます。2024年がやってきました。私はこの新年を、イギリス南東部、ドーバー海峡を臨む港町ドーバーにて迎えました。新年を取材地で迎えられる幸せ。取材に連れている二人の子供たちも毎日元気いっぱいです。

昨年2023年は、振り返るととても愛しい一年でした。

年始めから長く胃腸の状態が悪く、深刻な病気の一歩手前であることがわかり、40歳を過ぎて、体が変化していることを知りました。もっと自分を大切に、食べることや生活すること、生きることについても、以前よりもずっと、自分をいたわって過ごすことを心がけるようになりました。

2月にはトルコ・シリア大地震が発生し、これまで足繁く取材で通ってきたトルコ南部地域に大きな被害があり、多くの親族や知人が被災しました。小さな子供がいるため、すぐに現地に取材に入ることが出来ませんでしたが、その分日本からできることをやろうと、皆さまに募金を募り、現地の親族のネットワーク(私の夫はシリア難民の一人で、夫の家族がトルコ南部に暮らしています)から、被災したシリア難民の家族に送金、配布させていただきました。その額はあわせて約580万円にも及びました。シリア北部の反体制派支配地域にも夫の兄たちが暮らしているため、トルコ側だけでなく、国際支援が入りにくいシリア側にも、兄たちを通じて皆様からの支援をお届けできたことがとても嬉しいことでした。多くの被災者たちが、大変な状況のなか、日本人からの支援を受けたことを心に留めることでしょう。

4月、5月は、所属している「日本写真家協会」からの派遣事業で、専修大学にて、「フォトジャーナリズム論」の講義を6回連続でやらせていただきました。何故写真なのか、一瞬を切り取るとはどういうことか、取材現場での事件や葛藤や覚悟など、まだまだ未熟ではありますが、学生たちに「写真で伝える」ということを毎回、心を込めて講義しました。講義後のリアクションペーパー(講義内容をレポートしてもらうもの)からは、学生たちの熱意が伝わり、大変素晴らしい機会でした。私はまだ、誰かに教えられる域には達していないと感じていますが、それでも、「経験を伝えていく」という機会を、今後も是非いただけたらと願うようになりました。普段はフリーランスフォトグラファーとして一匹狼の私ですので、誰かと共に、なにか芯のある文化をクリエイトしていくことを考えるようになりました。このような機会をいただいた日本写真家協会様、専修大学様に感謝の気持ちでいっぱいです。

その後、6月に入り、トルコ・シリア地震の被災地の取材にようやく入ることができました。小学生になったばかりの7歳の長男と5歳の次男を連れ(子連れ取材をするのは、ほかに預けられる人がいないから)、地震で甚大な被害を受けたハタイ県のシリア人専用の被災者キャンプで、私たちもテント生活をしながら取材をしました。地震報道が下火になり、次第に被災者への支援が少なくなっているなかで、家族や家をを失った多くの被災者たちが、癒えない心の傷を抱えながら、先行きの不安のなかで生きている姿を取材しました。最も印象的だったのは、地震で亡くなった被災者の墓場で、何時間も座り込んで涙を流していたあるシリア人男性の姿でした。男性はシリア中部のハマから逃れてきたシリア難民で、トルコでは10年をかけて安定した暮らしを築きましたが、地震でハタイ県アンタキヤのマンションが倒壊し、20歳前後だった3人の娘を全員失いました。「空爆の絶えないシリアからトルコに逃れてきたのは、娘たちの安全のため。しかしそのトルコで地震が起き、娘たちを死なせてしまった」。男性は娘たちの墓に毎日来ては、傍らに座り、彼女たちに語りかけているそうです。そこに深い愛と深い悲しみを思いました。シリアで生活を失い、避難先のトルコで再び生活を失ったばかりか、愛する娘たちを失った男性。周囲が暗くなりかけてもなお、娘の墓の傍らに座り続けていた、その後姿が、強い記憶として胸に残りました。不条理や悲しみのなかで、人々はいかに生きていくのか。故郷を失った人々の苦難について、フォトグラファーとしていかに彼らに寄り添い、記録をしていけるのか。大変考えさせられました。そしてその道をしっかり歩んで行こうと、思いを心に刻みました。

帰国してからは、被災地取材について、新聞記事や雑誌などに寄稿させていただく機会をたくさんいただき、多くの方に被災者の現状を知っていただけたことに、やりがいを感じました。

しかしその後、帰国した長男に問題が起きました。シリア人被災者の難民キャンプでは、子供たちがほぼ学校に行かずに毎日キャンプのなかで遊んでいた姿を見ており、「学校に行かなくても大人になれるのに、どうして毎日学校に行かなければいけないのか。あの子たち(被災したシリア難民の子供たち)はみんな学校に行っていなかった!」と長男なりの持論を展開し、学校ストライキに。登校しても机にじっと座っていることができない期間が続き、本人にも先生にも申し訳ないことになってしまいました。

世界は動いている。いつ、何が起きるかわからない。世界が動いていくのだから、現場に立ち続けなければいけない。そんな思いでおりましたが、フォトグラファーである前に、私は母親なのです。二人の子供たちを何より優先しなければ、と当たり前のことをしっかり考える機会になりました。今後は、子供たちにもそれぞれ、日本での社会生活があることを尊重し、小学生の長男の学校の長い休みに合わせて取材に出ることにしました。フォトグラファーとして現場に立つことと、母親としての責任のなかで、もがく日々です。

夏過ぎからは、原稿の執筆のお仕事をコンスタントにいただき、大変ありがたいことでした。おかげさまで、2022年まで生活費が厳しくなる度に頑張ったウーバーイーツの自転車の配達員の仕事もやらなくとも生活が回るようになり、充足感を感じました。同時に、もっと写真でストーリーを伝えるお仕事をしたいという気持ちも高まりました。

秋からは、夫がトルコ南部の親族に訪問したことで、しばらく夫のいない期間を満喫。普段、アラブ料理しか食べられない夫のために、手間ひまかかるアラブ料理を作り続けていたことに大変疲労していたという事実にも気づき(気付くのが遅すぎた!)、自分のためにも、そして自分につながる子供たちのためにも、無理をしないことを自分に宣誓。家族のために愛情のこもった料理を作りたいのはやまやまだけれど、生活するには働かねばならず、子供の面倒も見なければならず、洗濯物も洗って干さねばならず、料理だけに時間をかけられないのです。生きるために、家族の平和のために何が大事で、何を削ぎ落としていかなければいけないのかを真剣に考えた秋でした(考えるのが遅すぎた!)。

また秋に、海外向けに発信されるNHKワールドの「Direct Talk 」という番組に出演させていただき、私の写真活動を取り上げていただきました。自分としては、まだまだ納得できる境地には達しておらず、やるべきことが多々ありますが、自分自身を振り返り、内省し、次のステップを具体化するための大変嬉しい機会となりました。

▼ NHKワールド「Direct Talk 」に出演しました

▼小松由佳 出演回    https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/ondemand/video/2105055/

12月に入り、月末からイギリスへ、シリア難民の取材に向かうことに決めました。昨年夏に、トルコ南部から夫の兄や甥たちがヨーロッパへ、難民保護を求め「不法移民」として移動しており、その後、彼らがどのような状況にあるかを取材するためです。しかし問題は、取材費です。経済的に綱渡り生活を送る我が家にとり、物価の高いイギリスへ取材に出るのはかなり敷居が高く、直前まで悩みました。しかし、やはり世界は動いている。そして子供の学校の冬休みに合わせて、子供にもあまり負担がない形で行ける機会が今あるのです。

実は私は以前、ヒマラヤに登っていた時期があったのですが、そこで学んだことのひとつに「チャンスをいかに掴むか」というものがありました。タイミングが整うチャンスはそうそうめぐってこない。だからこそ、いつでもチャンスを掴めるように準備をしておき、チャンスがめぐってきたら、手を伸ばしてパッと掴むというその大切さ。チャンスは自分で生み出すものでもありますが、ヒマラヤのような大自然の中に身を置いたことで、変化し続ける環境のなかで、タイミングを見図り、判断していくことを学んだのです。

その嗅覚が働きました。兄や甥たちが、「不法移民」としてイギリスに入国して一年と一ヵ月が過ぎた今、彼らがどのような状況で過ごしているのかをしっかり取材し、記録したいと思ったのです。問題は取材費です。しかしお気に入りの中古カメラやレンズをいくつか売り、金策をし、なんとか捻出しました。本当にやろうと思えば、なんとかできるものです。

本当に今やりたいこと、本当に今やらなければいけないことは、今やる。それが私の信念です。今、どんなに状況が厳しくとも、やがて時が経てば、やってきたことに価値が生まれていく。そんな活動をしたいです。

2024年は、もっともっと写真を撮ります。もっと歩き回り、人に会い、思考し、激動のこの世界のなかで、写真で何を伝えていけるのか、真剣に模索します。

今、イギリスでは朝の5時50分。傍では二人の子供たちがすごい寝ぞうでスヤスヤ眠っています。二人の寝顔を見ながら私は思います。今年も撮ろう、歩こう、たくさん愛そう、と。

2024年が、皆様にとって愛と安らぎにあふれる一年となりますように。いつも、この有料会員コンテンツの会員様として、活動の応援をいただいていますことに心より感謝しております。いつもありがとうございます。今年も、どうぞよろしくお願いします。

▼現在、イギリスにて、「不法移民」としてトルコから海を渡っていったシリア難民の親族が、どのような状況にあるかを取材中です。大変恐縮ではありますが、取材カンパも募集しています。どうぞご無理なく、よろしくお願いします。

(小松由佳 取材カンパ お振込先)

三井住友銀行 八王子支店 普通 8495661 コマツユカ

以上、大変な長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

(追記)

この文を書き終えた今、能登半島沖で強い地震が発生し、津波警報が出たことを知りました。元旦の日の災害に心を痛めつつ、地元の方々の被害がありませんよう、お祈りしています。

国外に向けて発信されるNHKワールドの番組「Direct Talk」にて、取材活動を取り上げていただきました。2023年6月に行った、トルコ南部の地震被災地取材について。写真は、シリア人の被災者キャンプでの親子。

NHKワールドの番組「Direct Talk」の一コマ。墓場に座り、地震で亡くなった娘たちを偲ぶシリア人の男性。これまでシリア難民の取材をしてきたなかでも、最も忘れられないシーンのひとつだった。

6月の地震被災地の取材中の光景。被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプにてテント生活をしながら取材した。テントの中にいつもたくさんの子供たちがいっぱい入って、跳ねて遊んでいたことが良い思い出だ。

多くの建物が倒壊したトルコ南東部ハタイ県の県都アンタキヤの建物倒壊地。このような光景が街中にえんえんと続いていた。取材に入ったのは地震から4ヵ月、まだ行方不明者の捜索も続いていた。

アンタキヤにて。倒壊した建物の跡地から、台所にあった食材の種が発芽して、トマトやキュウリが育っていた。ひまわりの群生地も。国破れて山河あり。人間の生活は失われても、植物は茂り、生き物の営みは続いていく。

取材中、滞在したケーンマウラーキャンプにて、ここに暮らすシリア人被災者の子供たちと。私の二人の子供たちも一緒になって毎日遊んだ。私の長男と次男がどこにいるか、お分かりになるだろうか。

取材中の一コマ。子供たちは、シリア難民の取材に同行しながら、自らのルーツのひとつを感じとってほしいと、母は願う。

取材前に寄稿させていただいたトルコ・シリア地震の記事。

取材後、寄稿させていただいたトルコ・シリア地震の記事。「トルコ・シリア大地震 被災者たちは今 〜重なる苦難〜」。地震後、被災者たちがどのように今を生きているのか、それぞれのストーリーを伝えることを心がけた。信濃毎日新聞様にて。

こちらも信濃毎日新聞様に寄稿させていただいた記事。地震で娘を失った、あるシリア人家族に焦点を当てた。取材では、倒壊したままの彼らの家も見せていただき、地震の被害の大きさに言葉が出なかった。

地震被災地の取材から帰国した成田空港にて。夫が迎えにきてくれた。

ズッキーニやナスの中身をくり抜き、ご飯とひき肉を炒めたものを詰め、トマトソースで煮込むアラブ料理のマフシー。アラブ料理は食べる分にはとても美味しいが、作るのは手間暇がかかる。これを日本で毎日作るのは、経済的にも肉体的にも大変だ。今後は無理をしないと決めた2023年。

日本写真家協会からの派遣事業で、専修大学のフォトジャーナリズム論にて6回講義。写真を撮るということはどういうことかを突き詰めて共に考えていく、という試みをした。

NHKワールドの番組「Direct Talk」にて、座右の銘を紹介したシーン。「名のない星の輝きに目をこらす」が私の信条。

日本では、自転車でどこまで行く日々。今年も車の免許が取れなかった。来年こそ、免許を取るのだ!

2023年12月、イギリス取材へ出発!一歳から取材に同行した長男は、7歳になった。

ロンドンにて。子連れ取材がいつまで続けられるものやら。いつでも今できることを、懸命に続けていくしかない。私の後に、私の道ができるのだ!

(2024年1月1日)

海を渡ったエブラヒムとの嬉しい再会【イギリス取材レポート-3】

(この記事は、12/24〜1/13までのイギリス取材を写真で記録した記事です。こちらの記事は、「有料会員」以外の方にも公開しています)

ロンドン北部のヒンチュリーに暮らす兄、アブドュッサラームの家を拠点に、昨年、「不法移民」としてイギリスに入国した夫の兄や甥の取材を始めました。アブドュッサラームは、11年前にイギリスに渡り、イギリス人の女性と結婚し、安定した暮らしを送っています。

そのアブドュッサラームを頼り、昨年の冬、私の夫の兄アブドュルメナムと夫の甥エブラヒムが、「不法移民」としてこのイギリスに上陸しました。現在二人は、ロンドンから北に車で1時間ほど離れたミルトン・キーンズの難民収容施設に暮らしており、この二人がこの取材のターゲットです。二人は今、難民申請中で、難民認定を待っている段階ですが、入国して一年と 一ヶ月が経った今も、まだ認定が下りていません。さらにイギリスでは、欧州諸国のなかでも「不法移民」に対して厳しい処遇をとる方向性へと舵取りをしつつあり、今後やってくる「不法移民」に対し、イギリス本土への定住を認めず、ルワンダに送還する計画も国会で審議されています。こうしたなかで、難民申請中の兄たちは、どのように収容施設で今を過ごしているのでしょうか。

12月27日、クリスマスは過ぎたものの、日本からやってきた私たちをもてなすため、アブドュッサラーム兄が家族でクリスマスのお祝いの夕食を用意してくれました。その席にエブラヒムもやってきて、私たちは一年ぶりに彼に会うことができました。

(兄の家に到着した翌朝、近所を散歩中、路上で靴を見つけた。イギリスでは、誰かに何かを譲りたい時は、こうして路上に置いておくそうで、早速私がもらう。これはいい文化だ!)

(エブラヒムを待つ間、リビングにて遊ぶ子供たち)

(アブドュッサラーム兄の家の廊下に飾られていた義父ガーセムの写真。右上の一枚を除き、これらの写真は私が撮影したもの。兄は一年に一回はトルコで難民として暮らす父親に会いに行っていた)

(兄が朝食を作ってくれた。自炊を予想していたものの、私の動きを上回る効率の良さで、兄が食事の用意をする。聞けば、いつも奥さんよりも食事作りをしているそうで、料理は大好きとのこと。兄を観察すると、いつも動き回り、こまめに掃除をし、調理をし、洗濯物を干して畳んでいる。結婚している男性がそうした仕事までするのは、シリアの兄たちの家族やコミュニティでは考えられないことだ。「自分はただ、良き夫で父親であるように努力しているんだよ」とアブドュッサラーム兄。努力家で、働き者で、責任感が強い兄の姿を知り、兄がイギリスで安定した暮らしを手に入れた理由をそこに感じた。)

(兄の奥さんのお母さんが作った、チョコレートのお菓子をいただく。内側に生チョコが包まれていて、とても美味しかった。お菓子やご馳走を作り、親しい友人や家族と幸せなひとときを過ごすイギリスのクリスマスの雰囲気を、私たちも味わわせてもらった)

(エブラヒムがやってきた!ロンドンから北に、車で1時間ほど離れた街ミルトン・キーンズの難民収容施設にいるエブラヒム(夫の甥)が、アブドュッサラーム兄の奥さんの車で家にやってきた!エブラヒムは今回の取材対象者の一人。本当は、先に私が彼らの施設に向かい、そこで再会したかったのだが、アブドュッサラーム兄の家でクリスマスのご馳走を食べることになり、兄たちがエブラヒムを呼んだ)
(子供たちとも一年ぶりの嬉しい再会。昨年8月、私たちはトルコからヨーロッパへと渡っていくエブラヒムを見送った。13歳だった彼は14歳になっていた。一年の間に体も大きく成長し、顔つきが変わり、声変わりしていた。また驚いたのは、以前は一言も英語を話せなかった彼が、流暢な英語を話すようになっていたことだ。一年という歳月が持つ、変化の可能性の大きさを知る。そしてエブラヒムが、この一年でどれだけの変化を経験したのかも考える)

(私の子供たちも、トルコでよく遊んでくれたエブラヒムのことを覚えていて、すぐに嬉しそうにじゃれていた。トルコでは、エブラヒムの母親のアリアと私が仲が良いため、家に泊めてもらったり一緒にご飯を食べたりと、とても近い関係だった)

(「エブラヒム、サッカーしよう!」と子供たちがせがみ、公園でサッカーをすることに)

(この辺りは比較的裕福な人々が暮らす閑静な住宅街。その静かななかを、奇声をあげて公園まで走り抜ける三人)

(ロンドンは毎日小雨が降っており、芝生は泥でぐちゃぐちゃだ。サッカーをするところがないとゴネ始める長男)

(エブラヒムのポートレート撮影中、クッションの投げ合いになる。この後アブドュッサラーム
兄に「お前たち、何しているんだ!」と怒られた)

(アブドュッサラーム兄の奥さんからクリスマスプレゼントにパソコンをもらい、大喜びするエブラヒム。14歳のエブラヒムは、三ヶ月前から学校に通い始めた。学習用のパソコンを持っておらず、自分で買えない状況のため、小学校教師であるアブドュッサラームの妻が、クリスマスプレゼントとして買った。)

(アブドュッサラーム兄の娘アーヤ(10歳)から、パソコンの設定をしてもらうエブラヒム。彼がシリアで生まれてすぐに戦争が始まり、シリア各地で避難生活を繰り返したエブラヒムは、シリアでもトルコでもほとんど学校に通えず、アラビア語やトルコ語の読み書きもできなかった。イギリスでは今、毎日学校に通い、英語を学び、多くの友人を作っている。まさに今、彼の人生が大きく変わっていく途上だ)

(アブドュッサラームが用意した七面鳥の丸焼き。内側にレモンやオレンジを詰め、表面にハーブと塩をすり込んで、4時間以上オーブンで焼いた。なんと豪華なクリスマスの夕食だろう(クリスマスは過ぎたが)。七面鳥の巨大さに一同大興奮)

(キッチンで手伝いをするエブラヒム)

(夕食の光景。ナイフとフォークをきちんと使っているエブラヒムの姿に驚く。キッチンのテーブルが小さいので、ここでは子供たちだけで座って食べ、大人はリビングで食べた)

<エブラヒムと再会 雑記>

・エブラヒムは、私の夫の兄アーメルの息子。6人兄弟の長男で、昨年のトルコ出発時は13歳、現在14歳になっていた。

・エブラヒムは、昨年の8月24日にトルコ南部のオスマニエを出発し、11月1日にイギリスに入国した。ギリシャからはわずかに車で移動した区間もあったが、ほぼ徒歩でフランスまで移動し、フランスからはボートでドーバー海峡を渡り、イギリスに上陸した。ドーバー海峡では乗っていた船が沈没し、溺れそうになりながら泳いでひき返し、救助されたそう。ドーバー海峡を渡るのは命がけだった。

・エブラヒムがシリアで生まれてすぐ、シリアは内戦状態となっていき、エブラヒムの家族はシリア各地で避難生活を繰り返した。エブラヒムは、シリアでもトルコでもほとんど学校に通えず、アラビア語やトルコ語の読み書きもできなかった。イギリスでは今、毎日学校に通い、英語を学び、多くの友人を作っている。英語もすっかり上手になった。彼の人生が大きな変化を迎えているのを目の当たりにした。

・「イギリスでの生活はどう?」とエブラヒムに聞くと、「good」とのこと。「トルコでの生活と比較するとどう?」と聞くと、「別に同じだよ」と即答。少し間を置いてから、「トルコでの生活はすごく厳しかった」と答えた。その言葉の奥にある彼の感情を、丁寧に取材しなければと思った。13歳で家族から離れ、ギリシャから歩き続け、海を渡ってイギリスに来た彼の人生の劇的変化を、私もまた、理解するのに時間がかかるだろうと思った。

・エブラヒムは現在、一緒にイギリスに渡った彼の叔父にあたるアブドュルメナム(私の夫の兄)と同じ部屋で暮らしており、食事はアブドュルメナムが作っている。トルコにいる家族とは、毎日インターネット通話で連絡をとっている。「すごく家族が恋しいよ」とエブラヒム。

・エブラヒムが通っている学校は「クリスマス休暇」で1/6まで休み。今後、学校での勉強風景、友人たちと会話したり遊ぶ様子なども撮影したい。

(2023年12月30日)

ロンドン在住の義兄の家へ【イギリス取材レポート-2】

こちらは2023年12月24日〜2024年1月13日までのイギリス取材の記録です。12月26日は、ロンドン北部に暮らすアブドュッサラーム兄と合流し、自宅で手料理をご馳走になり、泊めてもらいました。

(ロンドンのケンジントンにて街歩き)

(ケンジントンの風景。イギリスの歴史を物語る美しい街並み。これらの建物のほとんどは人々が暮らすマンションだ)
(住宅街にそびえ立つ石造りの古い教会)

(ケンジントンのパブにて、ロンドン在住の兄と待ち合わせ)

(このパブの壁にはテレビがいくつもあり、サッカーを放映中。人々は午前中からビールやワインを飲みながらサッカー観賞をし、くつろいでいた)

(「アンモ・アブドュッサラーム(アブドュッサラームおじさん)はまだ?」)

(イギリス名物の「フィッシュアンドチップス」なるものを注文した。北海でとれたタラの唐揚げとポテトフライ。「ご馳走だ!」と喜ぶ子供たち)

(夫の兄であるアブドュッサラームと合流。わざわざロンドン北部の自宅から地下鉄に乗って迎えにきてくれた。兄は2012年からイギリス在住で、奥さんはイギリス人。10歳の娘がいる。)

(兄と会うのは2011年以来、12年ぶり。流暢な英語を話し、仕事も生活も安定しているという。人生の充実が、その姿からうかがえた。サーメルとサラームは、初めて会うおじさん。)

(兄の家にしばらくお世話になるため、自宅に移動。地下鉄に乗る)

(ロンドンの地下鉄は大変古く、戦時中は防空壕として使われたという)

(地下鉄は「Tube」と呼ばれる。その名の通り、土管のような、大変狭くて細長い車内。)

(兄が暮らすのはロンドン北部の Finchley Cemtral駅の近く。閑静な住宅が並ぶ静かな街)

(駅から自宅へ向かう大通り)

(兄はロンドンの暮らしをとても気に入っている。外国ルーツでも、働けば働くほど豊かになれるからだという)

(兄の自宅付近。横並びにつながっているビクトリア様式の建築の家。購入すると大変高額とのこと)

(6年ほど暮らしている兄の家。二階部分が兄一家の借りている部屋。なんと家賃は日本円で25万円ほど!!!!。自分たち家族で支払うのは困難なため、自宅の一室を学生に貸して、風呂場とトイレを共用にして、家賃として10万円ほどをもらっている)

(来年、この近くに家を買う予定だ)

(二階部分がアブドュッサラーム一家の暮らす部屋。築100年以上経っている伝統的家屋だ)

(一階には扉が二つ。右側の扉を開けた先が兄一家の家。扉の先は階段になっている。2階と3階部分が自宅)

(3階の夫婦の寝室から庭を眺める。この家には15m×40mほどの庭が一部屋ごとについており、兄一家は畑として利用している。庭を眺めていたら、大きなリスが木に登っていくのが見えた)

(2階のリビングに飾られたクリスマスツリーの前で。ツリーの周りには、もらったプレゼントがたくさん置かれていた)

(近所のビクトリア公園を通って買い物へ。サーカスが来ており、公園に大きなテントが張られていた。夕方3時半になると、暗くなり始めた)

(夕食を作るアブドュッサラーム。普段から奥さんよりも料理を作っているという。イギリス人の奥さんは小学校教師で、帰宅が18時になるため、夕食の準備はアブドュッサラームが担当だという)

(本日のメニューは、アラブ料理の「スィーニーヤ」。アブドュッサラームの弟である私の夫は、ほとんど料理を作らず、家事の手伝いも全くしないと話すと、「夫婦ともに外で働いているのだから、家事も分担するべきだ」とのこと。シリアにいた頃は、夫が家事を分担する生活は考えたことがなかったが、イギリスに来て、そうした感覚に自然になっていったという)
(ミニトマトを敷き詰めた上に、刻んだ玉ねぎとパセリを混ぜた羊肉の挽肉を乗せていく)

(最後に表面にくぼみを作り、水をかけてから10分ほど火にかけ、その後オーブンで30分ほど焼く)

(キッチンもリビングもほの暗い。この家では、夜になるとこうこうと明かりを灯さず、暗さを楽しんで過ごす)

(テキパキと料理するアブドュッサラーム。私の夫と兄弟とは思えない)

(出来上がった「スィーニーヤ」。)

(6畳ほどのキッチンに置かれた四角い小ぶりなテーブルで食事。)

(イギリスに来てから初めての、ちゃんとした食事である!)

(近所のお菓子屋さんで買ったケーキをいただく。ようやく私たちにクリスマスが来た!)

(ケーキを食べ終えてご満悦な長男)

(私の夫から、アブドュッサラーム兄へのお土産。イギリスでは工具が大変高いらしく、日本はずっと安価で良質とのこと)

<12月26日の記録 アブドュッサラームの話など>

・アブドュッサラーム兄と合流し、自宅で手料理をご馳走になり、泊めてもらった。兄は8年ほど、ガラス製造工場で働いていたが、昨年転職し、現在はヒースロー空港の建築現場で、鉄筋の組み立ての特殊な仕事をして働いている。勤務は毎日18時から朝の4時までの夜勤。帰宅してから家族で朝食を食べ、妻と子供が学校や仕事に行くのを見送ってから睡眠をとる。午後に起きて夕食を作り、仕事へ向かう。家族団欒の時間は朝とのこと。現在の月収は約70万円。小学校教師の奥さんは月収60万円ほど。暮らしは大変安定しているように感じられた。

・「ここでの生活に満足しているが、もし住む国を選べたなら、イギリスには住まなかった」とアブドュッサラーム。シリアのからりとした砂漠気候で生まれ育ったので、雨や曇りの多いイギリスの冬の天気が辛いとのこと。

・アブドュッサラームの話:付近にはアラブ人が多く住んでいる。近くにイラン人やアラブ人などの食料品店も多く、食べるものに全く不自由しない。国外にルーツを持つ者としてのイギリスでの暮らしは、全くストレスがない。理由は、アラブコミュニティがあり、アイデンティティが保たれる。シリアの文化が、比較的イギリスと近い。英語が流暢に話せる。安定した仕事がある。安定した家族関係がある。お金が溜まっている。コロナ後に顕著になってきたイギリスの物価の高さについて、「気にならない」。その分、安定した収入があるため。

・アブドュッサラームからは、将来への不安なく、これまでの自分の選択を肯定し、より良い人生の時間のために努力し、人生を楽しんでいることが感じられた。成功している移民の一例として感じられた。

<空港でロストバゲージとなっていたスーツケースが発見される!>

24日以来行方不明だったスーツケースが手元に戻ってきました。26日の夜、「あなたのスーツケースが見つかりました」との連絡があり、2時間後に配達される。良かった!同じ服のまま過ごした4日間が終わり、何よりカメラの充電器が手元に戻り、ホッとした。これで写真が撮れる!皆様、ご心配をおかけしました。

ロンドンに到着!いきなり試練に見舞われております【イギリス取材レポート-1】

(こちらの記事は、有料会員以外の一般の方にも公開しております)

12月24日、早朝の便で羽田空港を出発し、イギリスへと旅立ちました!

私は2015年以降、トルコ南部のシリア難民コミュニティを取材してきました。当初、そこではシリア帰還を夢見て、トルコに根を張ろうと努力してきたシリア難民の姿がありました。しかしコロナ後の物価高やシリア人差別、トルコ政府主導のシリア人帰還政策に希望を見いだせなくなり、経済力のある人々から、多くがヨーロッパを目指すようになりました。

トルコで難民として暮らしていた彼らは、ほとんどがパスポートを持たず、正規ルートでは国境を超えられません。そのためヨーロッパに渡るには、不法に越境を繰り返してヨーロッパを目指すしかないのです。こうした人々は「不法移民」と呼ばれ、受け入れ側のヨーロッパの国々でも、その数の多さも問題となり、移民・難民受け入れについてのさまざまな議論が巻き起こっています。

昨年2022年8月には、それまでトルコ南部オスマニエに暮らしていた夫の兄や甥たちが、ヨーロッパへと不法移民として移動していきました。ちょうど取材のためにトルコに入っていた私は、兄や甥が、ヨーロッパへと海を渡っていくのを目撃しました。あのときの衝撃は今も忘れられません。

ヨーロッパへと渡る旅は、まずトルコからギリシャ側を目指し、密入国業者の手引きで闇に紛れて小型船に乗ります。ときどきトルコの沿岸警備隊に見つかって強制送還されたりを繰り返しながら(兄は4回も強制送還されました)密航し、入国が既成事実となると、ギリシャの難民収容施設で簡易登録を受けた後、密入国業者の情報網を利用し、徒歩や野宿でドイツやオランダなどを目指していくというもの。その旅は非常に高額で、2022年8月当時は、一人当たり日本円で約100万円ほどの支払いが必要だったと聞きました。トルコ南部の平均月収は4万円であるため、平均年収の2倍ほどに相当する大変な額です。かつ、密航船が転覆して命を落としたりなどのリスクも大きく、人々は、命をかけてヨーロッパを目指して行きます。しかし、難民保護の仕組みが整っているヨーロッパの国々で難民認定を受け、生活再建を目指すことができたなら、安定した暮らしが保障されます。

今回の取材では、一年前にイギリスに不法移民として渡った夫の兄アブドュルメナムと、甥のエブラヒムを取材します。シリアが内戦状態となる以前から彼らのことは知っており、彼らがあっという間に故郷を追われ、トルコで難民として苦労しながら生きてきたかもこれまで目にしてきました。

そうしたら彼らが、命からがらたどり着いたイギリスで、どのように夢見た暮らしを実現していくのか。難民として生きるということはどういうことで、彼らはシリアという故郷をどのように、どこにとどめながら生きていくのか。

今回の取材では、イギリスに至るまでの彼らの旅と、現在の彼らがどのようにそこに暮らしているのかを訪ねます。

海を渡っていったシリア難民のその後を、心を込めて取材してきます。ということで、気合を入れて出発しました!

今回の取材では、写真撮影に集中するため、動画インタビューなどは撮らず、写真だけをとにかく撮ります。一枚の写真から、その人の人生が浮かび上がってくるような、そんな写真を撮りたいと思います。

23日の夜から羽田空港で眠り、24日の中国東方航空の早朝の便で、北京乗り換えでイギリスへ。この便は、私と子供たち、計3人で往復¥310000という、かなりお得な値段だったのですが、懸念事項がひとつありました。

それは、北京での乗り換え時間が1時間しかないことです。急いで乗り継ぎをし、飛行機に乗れてホッとしたものの、その後、乗り継ぎ時間が短いことによる問題が発覚することになるのでした。

24日の夕刻、ロンドン郊外のヒースロー空港に到着した際、いくら待っても出てこない預け荷物のスーツケース。係の方に調べてもらうと、「あなたの荷物は明日着きます」とのこと。

なんでも、荷物の移動が、飛行機の乗り継ぎに間に合わなかったというのです。航空券を取るときは、自分たちの移動時間だけでなく、荷物の運搬の時間も考えて取らなければと、ガクッとするのでした。安い航空券にはリスクがある・・・。

空港の荷物管理の会社の方より、「明日、私の荷物をホテルまで配達します」とのことで、とりあえず私たちは予定通りホテルまで移動することに。

そしてロンドン西部のカムデンというエリアに地下鉄で移動。ロンドンは、肌感覚として東京より暖かく、小雨が降っていました。クリスマスイブの夜ということで、若者たちが大はしゃぎしている姿も(それを撮れば良かった!)。

夕食を食べに繰り出す大通り。クリスマス前後は、かなりのお店が閉まっています。空いているのは、ケンタッキーとピザ屋とマクドナルドとアラブレストランくらいでした。

カムデンはロンドンの中でも移民が大変多いエリアとのこと。行き交う人々も、働く人々も、移民が大変多く見受けられます。ホテル探しや道を聞くのに、パキスタン人、スリランカ人、アフガニスタン人、フィリピン人、エジプト人の方々に、お世話になりました。

改めて、彼らを撮らせて貰えばよかった、声をかければよかった、と写真をもっと貪欲に撮ることについて、後から振り返って反省中。

アラブレストランで、夕食にチキンサンドイッチのシュワルマを買おうとしたところ、なんとひとつ10ポンド(日本円で約¥2000)。日本だと高くてもひとつ¥700円ほどのサンドイッチですが、とにかく物価の高さに驚きます。ミネラルウォーターも1リットルで2.6ポンドで、日本円で約¥500でした。もはや、まともに外では食べられません。この日は、シュワルマ一本とミネラルウォーターを買って、3人で分けて食べました。

(シュワルマを買ったお店のエジプト人のお兄さんと子供たちと一緒に撮影。写真のピントが合わず!)

今回は全ての写真を、オートフォーカスではなく、マニュアルフォーカスで撮ります。一枚一枚を丁寧に撮るためです。そのためピント合わせが困難で、ピントが合わずに終わってしまうこともあり。しかしそのデメリットよりも、マニュアルフォーカスでしかたどり着けない境地に期待しています。


「シュワルマを一人一本食べたい」と主張する長男に、「シュワルマ一本2000円。3本食べたら6000円!高し!」と話し、今日は3人で一本食べようと説得。悲しそうな長男。されど、ロンドンのシュワルマ高し!

上の写真のタイトルは、「10ポンドのシュワルマを一人一本食べられなかったクリスマス・イブの夜」で決まりだ!

届かなかったスーツケースに全ての着替えを入れていた私たちは、シャワーを浴び、そのままの服で寝ました。

翌日25日、ロンドンのクリスマスの朝。窓を開けたら、もわ〜っとした柔らかな、風と雲の間のようなものが流れ込んできました。霧というよりももっと風に近いもの。ロンドンに来たのだと、実感しました。

本日はホテルを移動し、引き続きロンドン滞在です。クリスマスである今日25日と明日26日は、クリスマス休みということで電車、地下鉄、バスなどの公共交通機関は全てストップ。そのため、取材を始めるのは移動が可能となる27日からに。

交通機関が動いておらず、ホテルまでの移動が大変ですが、幸運と言おうか不運と言おうか、スーツケースがない私たちは、軽身で移動できるのです!

しかしやはり、二人の子供たちを連れての移動は楽ではありません。当初、本日のホテルがあるケンジントンまで1時間半ほど歩いて移動しようかと思いましたが、お腹が空いた、おしっこ漏れそう、うんち出そう、お兄ちゃんに叩かれた、お腹が痛い、などと、次々と苦情と陳情が子供から母親である私に寄せられ、ロンドンの街並みにうっとりしながら写真をじっくり撮るのも余裕なし。いきなり子連れ取材の大変さに直面する一日に。

(モーニントン・クレセント駅前にて。ナポレオン3世にちなんだ雰囲気のある石像が、鳩だらけに)

(ロンドンの街並みは、建物ひとつひとつの装飾の美しさ、佇まいの優雅さに息を飲みますが、よく見ると、ストリートアートも至るところで爆発中。古き良きロンドンと、新しいロンドンの文化?が、見受けられました)

やがて歩くのを諦め、ウーバータクシーで本日のホテルまで到着しましたが、無情にもカメラの電池が切れてしまいました。充電器がスーツケースの中にあるため、スーツケースが届くのを待つしかありません。結局、本日はスーツケースの連絡なく、配送されず!涙

そして夕食は、外に繰り出すも、付近で空いているのは高級レストランばかりで、結局昨晩と同じ、アラブ風サンドイッチのシュワルマに決定。しかし本日は、昨晩の息子の悲しそうな顔を思い出し、特別、シュワルマを二つ注文し、3人で分けて食べました。全部で20ポンド(4000円!)。私の経済状態と、ロンドンの物価の釣り合いがとれていないとこうなる、というクリスマスになりました。

本日も着替えなく、そのままの服で寝るしかなし。まあ、着替えが数日間なくても大したことはないのですが、カメラの充電器がないのが痛いところ。

やがて26日をまわった深夜になり、ヒースロー空港の荷物管理の会社から、恐ろしいメールが届きました。

「本日25日、あなたの荷物は空港に届きませんでした。あなたの荷物は、ラホール(パキスタン)か、北京にある可能性がありますが、詳細は分かりません。空港に届いたら、あなたに連絡します」

ホワ、ホワット!

取材中、もうパンツも靴下も服もこのままでいいので、とにかくカメラの充電器だけは返してください、と叫びたくなるクリスマスの夜。写真が撮れないではないか!

いきなりえらいことになっているロンドン取材。

しかし私は「鈍感の塊」でできているので、仮にスーツケースが紛失しても、生きてさえいればなんとかなるという思いが率直のところ。カメラとパソコンさえ手元にあるので、あとは本当になんとかなるのです。というか、スーツケースの中に入っているもので、本当になくなって困るのは、パンツと靴下とカメラ充電器で、そのどれもが、究極は、お金を出せばロンドンでも買えるものだということに気づく。世界にたったひとつしか無いものが、スーツケースに入っていなかったことにホッとする私。そしてスーツケースに、自炊用のソース焼きそばが3袋入っていたことも思い出して、賞味期限が気になる私。

振り返れば、ロンドンの華やかなクリスマスに期待していたものの、現実は、スーツケースが届かず、着替えなく、物価の高さにシュワルマを分け合う慎ましやかなクリスマスに。初めてのイギリスは、到着して早々、試練に見舞われております。

(2023年12月25日)

イギリスへ、シリア難民の取材に向かいます!

突然ですが、本日からイギリスへ 12月24日〜1月13日

突然ですが、本日からイギリスへ、シリア難民の取材に行ってきます。こうして皆様に取材のお知らせをお送りしておりますが、2時間後にはスーツケース詰め込みを完了させ、3時間後には羽田空港に向けて出発しなければいけません。しかし、準備がまだ半分ほどしか終わっていません。そのうちのひとつとして、やるべきことの最重要の準備の一つが、この有料コンテンツの配信です。ということで、今、気合を入れて、部屋で暴れ回っている子供たちを尻目にパソコンを打っています。

10月以来、ガザとイスラエルで起きていることについて大変悶々とし、皆様にもその思いをご相談させていただきました。しかし、自分がいま何をするべきかを考えるとき、これまで続けてきたことを懸命に、淡々と続けることで、自分の立場からできることを頑張りたいと思いました。

そうしたなかで、かねてから取材を考えていた、「ヨーロッパへ不法移民として渡ったその後のシリア難民」をテーマに、12/24〜1/13までイギリスへ向かうことに決めました。実は、目的地が物価の高いイギリスであることや、今回も二人の子連れとなるため、費用や効率を考えて直前まで躊躇しましたが、今しか見れない世界を見ること、それを写真で記録していくことを改めて考え直し、やはりこの時期に行くことに決めました。

何故今なのか。それは、この春から長男が小学生になり、基本的には小学校の休みに合わせて取材に出ることにしたためです。そうなると私には、夏休み、冬休み、春休みが取材対象期間であり、この冬休みも、長期取材に向かえる貴重な時期なのです。

長男サーメル(写真手前)を抱っこするエブラヒム(写真後ろ)。トルコ南部オスマニエにて。2020年撮影。エブラヒムは2022年夏、13歳で(!!!)ヨーロッパへ渡った。現在、ロンドン北部の街に暮らしている。
夫の兄、アブドュルメナムと三人の子供たち。2022年8月撮影。この写真を撮った翌日、ヨーロッパへ渡る旅へと出発した。トルコ南部オスマニエにて。現在はエブラヒムと一緒に、ロンドン北部の街に暮らしている。

以下、取材の概要です。

取材テーマ

「ヨーロッパに不法移民として渡ったシリア難民のその後」

取材時期

2023年12月24日〜2024年1月13日

取材内容

  • 不法移民としてイギリスに渡ったシリア難民が、今どのように過ごしているのかリサーチ。
  • 実際に、昨年夏にトルコを出発し、秋にイギリスに渡った夫の兄や甥を取材。
  • ドーバー海峡をどのように渡ったか、フランス側・イギリス側の街を歩き、不法移民が海を渡る施設や痕跡を取材。

取材者

小松由佳(41)・長男サーメル(7)・次男サラーム(5)

目指す写真

「一枚の写真に、その人の人生が浮かび上がってくるような、そんな写真が撮りたい」

項目別取材予算

さて、この取材に向け、最も準備に時間を要したのは、なんといっても取材費です。

これまでのトルコやシリアと異なり、物価が大変高いイギリスへの取材は経済的にかなり大変で、取材費は約2倍かかります。実りある取材のため、心を鬼にして、大切にしていたフィルムカメラを2つ、レンズを3つ、中古カメラ店に売り(涙)、金策に励みました。

このイギリス取材の経費は以下のように計画しています。

▼航空券代 中国東方航空 310000円(大人1名+子供2人  3人分往復)購入済

(意外とリーズナブルでしたが、三人分となるとやはり高いです)

▼宿泊費

150000円

(子連れであることもあり、宿泊費はかなり高額。節約を心がけます)

▼交通費

50000円(電車やバスでの国内移動費)

▼食費

50000円(可能な限り自炊します)

▼取材お礼費

70000円 

(長時間取材のお礼、コーディネート代、通訳代など)

▼その他、交際費、雑費

30000円

▼▼合計 660000円 ▼▼

(絶対に、これ以上は使わないように心がける)

「そこに人間がいるから」

今回、この「ヨーロッパに不法移民として渡ったシリア難民のその後」取材の内容を発表させていただける媒体が新聞、雑誌などで3つほどあり、大変ありがたいとこではありますが、その原稿料・写真使用料を回収したとしても、収入は、取材経費660000円の半分にもなりません。こうした取材は常に、経済的には完全に赤字覚悟で、ただ自分の表現の経験を積むため、伝えていく行為を続けるため、取材に向かうという形です。

かつて、イギリスの登山家マロリーが、「なぜ山に登るのか」と聞かれて「そこに山があるから」と答えたことが知られていますが、私は「なんのために写真を撮るのか」と聞かれたら、「そこに人間がいるから」と答えたい心境です。今しか見ることができない世界、今しか撮れない人間の姿がそこにあるから、取材に向かいます。

今回は特に、不法移民としてイギリスに渡った兄や甥の取材がメイン取材です。彼らがその後、ヨーロッパでどのように難民としての一歩を踏んでいるのか、その記録となります。

しかし、数日前に、その兄に電話で話をしたところによると、兄は一年近く難民収容施設のホテル住まいですが、すでに時給2500円ほどで「ウーバーイーツ」で働き始め、貯金もだいぶ溜まっているようです。私に「イギリスはなんでも高いから、お前たちはお金ないだろう。飯をおごってやる」という話もし、なんと、この一年で、小松ファミリーよりも貯金を蓄えているようなのです。それを聞き、諸行無常の理を感じるとともに、シリア人たちが命をかけてヨーロッパに渡っていく、その先にある夢や理想、安定の姿を感じましたし、正直なところ、私もイギリスに出稼ぎに行きたくなりました。ウーバーイーツの配達で時給2500円!(ちなみに日本では、というより私が暮らす東京都八王子市では、自転車でのウーバーイーツの配達は、今や時給400円くらいです)。

以上、イギリス取材の概要でした。

まだほとんど準備が終わっていないにも関わらず(さすがにこれは大変!)、この晴れやかな気持ちはなんなのかと考えると、今回は中東地域ではなく、ヨーロッパに向かう、という心理的背景が大きいことにも気づきました。ここ10年ほどは、毎年中東地域に向かい、特にここ5年ほど撮影してきたトルコ・シリア国境地域は、カメラを持って歩いているだけで警察に連行されるような(国境のため基本的に屋外での撮影は禁止だった)政治的・地理的に複雑な土地でした。さらにイスラム文化を撮ることへのリスペクトと障壁の間で葛藤してきましたので、今回の取材地では、そうした「写真を撮るうえでの自由への渇望」から解放されるような、そんな気さえするのです。

私にとって初めてのイギリスです。二人の子供と、元気に出発します。では、行ってきます!!

(2023年12月23日)

青梅市のコインランドリーにて写真展を開催します(2023年12月21日〜2024年1月30日)

青梅市のコインランドリー兼カフェ「LAUNDRY & CAFE Sunrise(ランドリー&カフェ サンライズ)」様にて、小さな写真展示をさせていただきます。青梅市の地域を盛り上げる活動の一環として、お声がけいただきました。

実は写真展は、毎回経費の出費が多いため、なかなか開催に踏み切れない事情がありましたが、地域を盛り上げていく活動の一環として展示を行いたいという声をお聞きし、私がこれまで見てきた世界や、撮った写真が、そうした活動に役立てられたら素敵なだなあという思いもあり、開催させていただくことになりました。

写真は38点用意し、コインランドリーの大家さんが3回ほどに分けて展示写真を入れ替えてくださるとのことです。また1月27日の14時からは、会場にてトークイベントもさせていただきます。1月23日火曜日は、10時〜17 時まで在廊予定です。

<会場>

LAUNDRY & CAFE Sunrise(ランドリー&カフェ サンライズ)
Webサイト… https://www.instagram.com/sunrise030610/(インスタグラム)
営業時間… ランドリー 7:00〜23:00 / カフェ 11:00〜15:00 *注意 カフェ営業は水木のみ。
定休日… ランドリー年中無休 / カフェ 水曜日
住所… 東京都青梅市梅郷 1-180-1
電話… 0428-85-8773

以下、会場についての詳細です。カフェの営業時間については、事前に調べてから行かれることをお勧めします。カフェのフルーツサンドイッチや、お弁当(予約制)は大変美味しそうです!

以下、チラシです。

これまで、カメラメーカーのギャラリーでの写真展がメインでしたが、こうした地域の場で展示させていただける機会も大変嬉しいことです。この写真展が、青梅市の地域の方に喜んでいただけましたら大変嬉しく思います。

(2023年12月23日)

秋田魁新報様 連載エッセイが掲載されました 「アシナガバチと過ごした夏」(2023年12月16日掲載)

秋田魁新報様 連載エッセイ 12月16日掲載 「アシナガバチと過ごした夏」

こちらは一か月半に一度の頻度で、秋田魁新報様に掲載させていただいておりますエッセイです。今回は、我が家に巣を作ったアシナガバチとの思い出について書きました。「おのれ〜!こんなところに巣を作るとは」と鼻息を荒くしたアシナガバチの出現でしたが、観察するうち、次第に視点が変わっていきます。

(2023年12月23日)

11月24日オンライン懇親会の報告 〜最近の活動・取材計画〜 


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11月24日、この「HP有料会員コンテンツ」のオンライン懇親会を行わせていただきました。初めての試みということで、何人集まるか不安だったのですが、20名ほどの皆様にご参加いただき、活動の報告と交流会をさせていただきました。皆さまと活発な意見交換もさせていただき、また写真活動を続けるうえでの葛藤もお話させていただいたりと、大変嬉しい時間でした。ご参加いただきました皆様、どうもありがとうございました。

こちらのオンライン懇親会は、一ヶ月半に一度ほどのペースで、今後も開催していきたいと思っています。以下、オンライン懇親会のご報告をさせていただけたらと思います。

以下が懇親会の議題でした。

まず初めに10〜11月の最近の活動について報告しました。

< 『 NHKワールド 「Direct talk」 』 出演について >

・番組は、海外に向けて発信する英語の番組。大変光栄な機会だった。一方、「自分の写真表現」をまだほとんど確立できていないことを感じている。もっともっと、写真家としての仕事をしたい。人間一人ひとりのエピソードを、独自の視点から伝えることをしたい。 

・番組で座右の銘として紹介したのは、「名のない星に目をこらす」という言葉。夜空が美しいのは、名のある明るい星の光だけでなく、名のない無数の星の光があるから。同じように、じっと目を凝らさなければ見えることのない、それぞれの土地でひたむきに生きる人間一人ひとりの唯一無二のエピソードに、じっと目を凝らしていたい、という意味から。

次に、連載をさせていただいている秋田魁新報社の記事をご紹介しました。10月に執筆したものです。

今年は、全国的にクマの被害が報告されており、私の郷里の秋田でも例年の6倍以上と言われるクマによる被害が出ています。以前は考えられなかった市街地でもクマが多数出没し、まさに異常事態。

私は以前、登山に熱中していた時期がありました。山を始めた秋田では、山がどういう場で、そこにどのように臨むのかを多くの先輩方から教えていただきました。今考えると、古来から山の文化に依った土地で、現代的なスポーツとしてではない、精神文化的な「登山」を教えていただいたのだと感じています。

その後、大学山岳部で本格的な登山を学び、20代半ばの2007年ごろまでは登山を中心にした生活を送り、憧れのヒマラヤの高峰にも登りました。その後は新たな地平線を求め、厳しいヒマラヤの世界から離れましたが、その後も山で得た学びや感覚は、私の原点として心から離れずにおります。

前置きが長くなりましたが、クマの被害が相次ぐ故郷の現状から、これまで山を登るなかで出会った先輩たち、先人たちの、自然との向き合い方、繋がりについて改めて思い起こすようになりました。その一人が、この記事に書いた、小国(おぐに)マタギの藤田栄一さんでした。藤田さんにお会いしたのは10年ほど前の2013年のこと。福島・新潟・山形三県にまたがる飯豊連峰の麓、山形県小国町で、かつてマタギの棟梁として知られた一人でした。

「自然との共生とは、昔からの、人間と自然との関わりを維持することではないか。狩猟もそのひとつだ」。藤田さんは、人間が狩猟という手段で積極的に自然界と関わることで、大型動物の繁殖制御をし、さらに動物と人間の棲家の境界性を認識し合う、という考えを持っていました。

「人間が自然から遠ざかりつつある今、動物との間に保たれてきた境界線が失われようとしている」。当時80代だった藤田さんの言葉を、改めて思い起こし、記事でご紹介させていただきました。こちらの秋田魁新報社様では連載のお仕事をいただき、大変にありがたいことです。

ほか、雑誌『kotoba』(集英社インターナショナル)への連載『人間のいない土地』の第3回 「砂漠へ、ラクダの乳を搾りに」についてご紹介しました。こちらは、最近ようやく提出が終わってホッとしたところです。

写真は、校正原稿です。『人間のいない土地』は、再来年の書籍化を目指して全部で10回ほどの連載を予定しています。毎回10000字近く書かねばならず、遅筆な私は毎回フーフー言いながら書いております。

今回の、第3回 「砂漠へ、ラクダの乳を搾りに」では、2021年5月にトルコで亡くなった義父ガーセムについて、彼がどのようにシリアを離れ、難民となったのか、そしてどのように異郷で亡くなったかを書きました。

第一次世界大戦後のフランスによる委任統治領時代のシリアに生まれ、時代の激動に生き、その晩年に内戦状態を経験し、パルミラを離れなければいけなかったガーセム。トルコ南部で、難民として最後の日々を過ごした彼の最後の言葉は、「砂漠へ、ラクダの乳を絞りに行ってくるよ」でした。義父への感謝と尊敬と慎みを込めて、難民となっていくということがどういくことなのかを描きました。こちらが掲載された雑誌『kotoba』は12月6日に発売です。是非書店でお手に取っていただけましたらと思います。

また、10月7日からのイスラエルとガザの衝突以降、頭から離れずにいるこの問題について、自分なりにどう取り組んできたのかをお話ししました。

ガザ側・イスラエル側、双方の話を聞き、それぞれの立場から考えたく、トークイベントを企画し、お話を聞きましたが、理解が深まった一方、さらに悶々としております。しかし写真家として何ができるかを真剣に考えるようになりました。この議題は、後半に再度登場しますので、そちらで詳しくお話いたします。

昨年からのウクライナ侵攻や、今年世界各地で起きた大地震や洪水などの災害、さらに最近起こったイスラエルとガザとの衝突の裏で、ほとんど報道がなくなってきたシリア難民の現状についてもお話ししました。

こちらはあくまで、シリア難民である私の夫や、近所に住む夫の甥のムハンマド(2020年に二年間の労働のため来日)、及びその周囲のシリア人ネットワークからの情報です。

こちらの写真は、ヨルダンに一ヶ月ほど渡航して戻ってきたムハンマドと久々に会い、サイゼリヤでご飯を食べている写真です。ムハンマドは、日本に来た頃は料理上手でよく料理を率先してしてくれたのですが、最近は仕事の後で調理をする体力も気力もないそうで、「忙しい」「疲れた・・・」が口癖に。なんとも、「仕事で疲れ切っている日本人サラリーマン」のようになっており、ほとんど調理しなくなったとか! ムハンマドは夫と同時期にヨルダンへ行き、夫は難民として暮らしている家族に会いにトルコへ渡りましたが、ムハンマドはビザの問題(*)があるため、トルコには行けず、ヨルダンとドバイに滞在して帰ってきました。

*夫はムハンマドと同じシリア国籍だが、ビザが「日本人の配偶者」なので、トルコビザ取得があまり困難ではない。ムハンマドは来日するまでトルコで難民生活を送っていたこと、家族が暮らすトルコに戻りたいと希望しているため、これ以上シリア難民を入国させたくないトルコ政府の思惑から、トルコビザがなかなかおりずに入国できない、という困った事態になっています。

帰国したムハンマドのため、「うちに来てみんなでご飯食べようよ」と誘いましたが、ムスリム文化のため、親族ではあっても、夫のいない家に私と子供たちとムハンマドがいるのはダメとのことで、夫のいない間、ムハンマドとご飯を食べるのは、もっぱらムハンマドのお気に入りの近所の「サイゼリヤ」(お手頃なイタリアンレストラン)でした。

全く料理する気がなくなったムハンマドは、サイゼリヤで数日分食いだめをするとのことで、夫が帰ってくるまでの二週間近く、なんと4回も、私たちも一緒にサイゼリアに行くことに。以下、サイゼリアでのムハンマドの話です。

<ムハンマドの話>

・自分のトルコ入国ビザは、今後数年間おりないかもしれない。日本の生活は、仕事と家の往復で、これは我々シリア人にとって「人生とはいえない」。そのため、どうせトルコビザ発給を待つなら、同じアラブ民族が暮らすヨルダンかドバイで働きながら待とうかと下見をしに行った。しかしヨルダンもドバイも、収入に対する生活費の割合が高いと感じ(収入の半分が家賃代、あとの半分が食費に消え、ほぼ貯金ができない)、日本のほうが、働けば生活は安定し、貯金もできる。治安面でも日本がとても暮らしやすいことを実感し、ヨルダンやドバイでは、早く日本に帰りたくなっていた。

・(私の夫の兄の妻Rから、「シリアに暮らす妹のために洗濯機を買うお金をカンパしてもらえないか」と言われていることについて私が相談したところ)、シリアは今、1日に1〜2時間しか電気が使えない。洗濯機代を送っても、そもそも使えるだけの電気が来ない。自分の姉もシリアに暮らしているが、6年間洗濯機なんか使っていない。兄の妻Rは、「洗濯機代をカンパして」と言って、洗濯機を買わず、生活費に充てるんじゃないか。今、シリア国内の生活は本当に大変だ。電気もガスも水道も、1日数時間しか使えない。100ドルあれば、5人ほどの家族が暮らすのに十分だが、それだけ稼ぐのも本当に難しい。一家に2人の男性がいて、ようやく家族の生活が成り立つといった感じ。トルコに暮らすシリア人の暮らしも年々厳しくなっているが、シリアの比ではない。そんなシリアの悲惨さに、国際社会は目を向けなくなってきている。由佳はシリア国内についてもっと支援してほしい。でもシリア国内は、取材は危ないから行かないでほしい。

・ハマスとイスラエルの問題については、どちらも悪いと思っている。自分も子供の時から、パルミラのシェイフ(イスラムの宗教指導者)に、「イスラエルは敵だ」「イスラエルにはジハードで身を捧げよ」と教えられて育って、トルコで難民生活を送るまでは、それが正しいと思っていた。もしパレスチナに産まれていたら、自分も爆弾をつけて自爆テロに向かっただろう。でも、2012年からシリア政府軍を脱走してトルコで難民生活を送るようになって、「オープンマインドになった」(視野・価値観が広がった)。故郷のパルミラはイスラム色が強く、そうした社会しか知らなかったが、トルコでいろんなムスリムのあり方に触れた。それで考え方も変わった。自分たちに「イスラエルにジハードせよ」と語っていたパルミラのシェイフは、間違っていたと思うし、クレイジーだ。なぜならその標的は、イスラエルの普通の人々も対象で、憎むべき存在として教えられていた。ガザの人々も、狭い空間で、狭いイスラムの思考に陥っていると思う。正直、クレイジーな思考回路だ。ガザの人は、「イスラエル人やイスラエル兵を爆弾テロで攻撃するのはジハードだ」と思っているが、そんなのジハードではないと思う。ハマスも、ガザの人々も、イスラム教徒としてやり方が間違っている。自分は難民になって、トルコや日本で暮らしてそれが分かった。

・しばらくは日本で働いてお金を貯めて、トルコビザが降りるのを待つしかない。自分ではどうにもできない問題だ。

ちなみに肝心なことを言い忘れましたが、ムハンマドは10 月に、シリア国内に暮らす女性とオンライン結婚式を挙げ、現在オンライン夫婦生活を送っています。なぜ「オンライン」かというと、ムハンマドはトルコビザがおりずトルコに入国できないため、二人が会うのは「オンライン」しか方法がないからです。

二人はまだ、一度もリアルで会ったことがありません。互いに、両親が紹介し、オンラインでお見合いをして決めた結婚です。ムハンマドがリアルに奥さんに会うには、①ムハンマドのトルコビザが取れてから、②一人当たり3000ドルという大金を、シリア・トルコ間の密入国斡旋業者に支払い、奥さんをトルコに招聘し、③奥さんが不法にトルコ国境を越えてくる、といった道のりになります。今、ムハンマドと同じように、オンライン結婚式・オンライン夫婦生活を送るシリア人は少なくありません。シリア人の、国籍やビザをめぐる複雑さゆえの現実です。こうしたオンライン結婚式についても、次回トルコに渡航した際は取材できたらと思っています。

また私の夫について。夫も10月初めから一ヶ月半ほど、ヨルダンとトルコへ家族に会いに帰省していました。「人生には砂漠が必要だ」とのことで、精神的安定を得るため、ヨルダンとサウジアラビアの国境の砂漠で遊牧民ベドウィンの知人とテント生活を送り、ラクダの群れの世話をしたそうです。毎日、ラクダの乳を絞ったり、放牧に出て、素晴らしい砂漠の滞在だったとのことでしたが、ラクダの世話より、私たち家族の世話をちゃんとしてくれ、と思うのでした(夫が支払いを担当している家賃支払いを二ヶ月分踏み倒して中東に行ってしまった!現在踏み倒し家賃を回収中!涙)。

ちなみにこのベドウィンの知人というのは、かつて夫の故郷、シリア中部のパルミラ郊外の砂漠に暮らしていた方々だそう。30年前にラクダの群れを引き連れて(おそらく不法に?)ヨルダンの国境を越え、そのままこの砂漠で暮らしているそうです。国境をほとんど意識していない、なんとも大らかな遊牧民の世界なのです。

写真左は、絞ったばかりのラクダの乳。淡白な味がします。写真真ん中は夫です。

ヨルダンで砂漠の生活を満喫した夫は、トルコ南部に暮らす家族のもとへ。トルコのシリア難民コミュニティでは、例年にもまして大きな変化が起きていました。

トルコでは、コロナ後の経済政策の失敗により、深刻な物価高が進行しています。さらに2月に発生したトルコ・シリア大地震では、多くのシリア人が再び生活を失いました。シリアとの国境に近いトルコ南部の街レイハンルでは、三年前と比べて5倍近い物価高になっているとの話も聞いており、特に家賃の高さにシリア難民は苦しんでいます。こうしたなかで、地震後、復興に関する仕事が増え、多くのシリア人が建設業に従事しているそうです。

シリア難民にとっては生活の厳しさは増すばかりですが、働けば、それだけ豊かになれるチャンスが増えてきている状況のようです。

写真は、トルコ南部オスマニエに暮らす夫の兄やその妻、子供たちが、総出でオレンジ果樹園の摘み取りの仕事をしている風景です。なんと、季節限定ではありますが、一人当たり1日1000トルコリラ(約5000円)の収入が得られるそうで(私の日収より高いかもしれません!涙)、平均日収は二年前の5倍です。何よりも驚いたのは、兄の妻たちまで働きに出ていることでした!

実は、兄の妻たちに、毎年こう言われていたのです。

「由佳はどうして、日本でいつも外に働きに出ているの?女は毎日家にいて、完璧な家事と育児をするべきよ。外で働くのをやめなさい。ちゃんと家に座って、夫と子供に尽くしなさい」。

夫の故郷パルミラの伝統的な文化(アラブ民族とイスラム教、両方の文化)では、女性は家族以外の男性と接する場に出るべきではない、基本的に家にいるのが良い、とされ、私もそれを毎回諭されていたわけですが(もちろん私は聞き流していましたが)、その彼女たちが、わずか2、3年の間に、今ではほぼ全員が外に率先して働きに出ているではありませんか!!

「あなたたちも働きに出ているじゃないの!」とつっこみたくなりまして、柔らかくつっこみを入れたところ、兄の妻Rいわく、「毎日1000トルコリラももらって、服やスマートフォンを買ったのよ」とウキウキしておりました。自分で働いてお金をもらい、それを自分のために使う、ということに目覚めたようです。

彼女たちは三年ほど前までは、外出時は全身に黒いマントを身につけ、目だけを出して外出するスタイルだったのですが、今はヒジャーブで髪を隠すのみ。服装も思考も、大変な変化を迎えています。これには驚きました。時代も、人も、変化するのです。

直近で計画している取材についてもお話しました。

現在の私の取材スタイルは子連れ取材です。子供を連れると撮影チャンスを逃したり、集中できず、えらいことになるのですが、私が見るしか選択肢がないので、連れて行くしかない状況です。長男が一歳になったタイミングでこれまで6年間、子連れパニック取材を続けてきました。

その長男がこの春から小学生になったため、基本的には今後、子供の学校の長期休みに合わせて長期取材に向かいたいと思っています。そうなると、夏休み、冬休み、春休みしかタイミングがなくなってくるのですが、子供たちもあと数年したらより成長し、取材について来なくなる日も来るでしょう。あと数年の間はこのスタイルで頑張るしかありません。

そんなわけで、この冬休みに子連れパニック取材に向かいたいと思っています。行き先は、イギリスです。取材先としては初めてのヨーロッパで、こちらもシリア難民の取材です。

これまで10年近く取材をしてきたトルコ南部のシリア難民コミュニティでは、物価上昇とシリア人への差別、トルコ政府によるシリア人帰還政策への不安から、次々と難民たちがヨーロッパに移動しており、昨年9月から今年にかけ、夫の親族も10人近くがドイツやオランダ、イギリスなどに渡りました。通常、男性が一人で向かい、その国で難民として保護されたら、後から家族招聘する、というパターンです。

このような中で、夫の兄や甥がイギリスに渡りました。彼らはギリシャまでは小型船で密航し、ギリシャから歩いて(!!!)フランスまで行き、フランスからドーバー海峡をゴムボートで渡り、2回ボートが転覆して、溺れたりしながらなんとかイギリスに到達しました。そうやって海を渡っていった夫の甥エブラヒムはまだ13歳。

今彼は、ロンドン郊外の難民収容施設で、認定を待っているところだそうです。まもなく学校にも通い始めるとか。イギリスにきたばかりの彼が、今後、どのように難民として生きていくのか、その取材の第一弾をしたいと思っています。

こちらの取材は、「故郷を失ったシリアの人々が、難民としていかにこの時代を生きていくのかを見つめることで、人間とはどういう存在かを写真で表現していく」という私自身のライフワークの取材です。ウクライナやイスラエルに注目が集まっている今、メディアや日本社会からの需要はほとんどないかもしれません。しかし、世界に散らばりながらそれぞれの異郷で生きようとするシリア難民の姿を記録していくことは、意義があると信じています。

今後の写真活動の方向性について、考えていることについてもお話ししました。

これまで、写真活動の方向性については、模索し続けてきました。私が最もやりたいドキュメンタリーの分野は、収益化するのが大変難しく、また、収入の不安定な夫と二人の小さな子供を抱え、家族の経済も担いながら、私自身も収入の不安定なドキュメンタリーを撮り続けることは、一言で言えば、「サバイバル」です。

少しでも活動を収益に繋げるため、また多くの人に現場を広く知っていただくため、ここ数年は取材内容を新聞にも寄稿させていただきましたが、大手メディアの記者の仕事と同じことをしているにすぎないのではないかという疑問も生まれてきました。

私が本当にやりたいのは、「政情をジャーナルすることではなく、人間のエピソードをより掘り下げることで、”人間とはどういう存在であるのか”を写真で表現すること」です。また、より普遍的なものを希求したいという思いに駆られるようになりました。

新聞記事などの仕事は、多くの方に読んでいただける影響力のある仕事で大変貴重な機会ではありますが、一方で、多くの人にとってよりわかりやすい情報を端的に届けることが求められ、その部分が目指す写真表現とは異なることもまた感じるようになりました。

自分が前面に出て書いたり話したりするより、私は作品表現に徹し、作品が語るように。それを見た人が、それぞれにそこから何かを感じ、考えるきっかけになれば。そういう表現がしたいと思いました。それはつまり、写真家としての表現です。

今後どのような取材をしたいか、頭の中で温めている企画がいくつかあります。

取材企画① 「もう一人の先祖」

これは、私の故郷秋田の小松家に伝わる、もう一人の先祖の物語です。幕末期、秋田藩は東北の諸藩の中でも唯一、新政府軍側についたことから周囲の藩に攻められ、その援助のために佐賀藩や長州藩から多くの藩士が支援に駆けつけました。こうした戊辰戦争の戦いのひとつが、当時私の先祖が住んでいた地域でも繰り広げられ、佐賀藩士の「竹村庫之蒸(たけむら くらのじょう)」という人が、先祖の家の横で討死したため、周囲の人が墓を作って丁重に埋葬したそうです。数年後に、秋田の地で命を落とした藩士の遺族たちが九州からやってきましたが、その中に竹村庫之蒸の家族(竹村庫之蒸の母親?)がいたそうです。私の祖母の祖母が、その墓のすぐ隣に住んでいたたため、その遺族から、「佐賀から秋田までは大変遠いので、恐らくもう二度と来れないだろう。息子の墓を大事に守ってくれませんか」とお願いされ、「代々この墓を守っていきます」と約束した、と聞いています。それが1870年代または1880年代のことらしいのですが、このような逸話が小松家に伝えられています。そのため我が家では、毎年お盆になると、先祖の墓のほかに、この佐賀藩士の墓も墓参りをして供養をしています。小松家にとっては、その方は「もう一人の先祖」なのです。さて、この竹村庫之蒸が、本当に佐賀藩士だったのか(諸説あり)。仮に本当に佐賀藩士だったら、佐賀のどこで生まれ育ち、どのように秋田にやってきたのか。この「もう一人の先祖」の出自をたどることで、今や忘れられようとしているある先祖の物語を可視化したいという試みです。

取材企画② 「サーメルのババはシリア人」

シリア人の私の夫は、日本に来て10年目。(撤去された放置自転車など、行政が安く払い下げた中古自転車をコンテナに積み込み、ヨルダンに送る仕事を5年前から手がけています。ヨルダンに送られた自転車は、現地で難民として暮らす夫の兄が受け取り、それをシリア人難民キャンプに運美、そこで売られます。広大な難民キャンプでは、「代々木」「富ヶ谷」「渋谷」などとステッカーに書かれた日本からの自転車を、シリア難民が使っているのです。日本での夫の仕事がヨルダンのシリア難民に使われているというその流れを、写真絵本のような形でまとめられたらと思っています。「サーメルのババはシリア人」のサーメルは私の長男の名前、ババはアラビア語で父親のこと。こんなタイトルにできたら面白いですね。

取材企画③ パクラワ

パクラワは、トルコやアラブなどの国々で愛されている国民的お菓子。ピスタチオなどのナッツをパイ生地で挟んで砂糖蜜で固めた、とにかく甘〜いお菓子です。トルコ南部、大都市ガズィアンテップの周辺はピスタチオの一大産地で、毎年夏になると、多くのシリア難民がピスタチオ農園で収穫の仕事を担っています。彼らがどのようにそこで難民として暮らし、働いているのか。そうして収穫されたピスタチオからパクラワができるまでを、仕事に関わる難民たちの視線から、繋げてみたいと思っています。

いずれにしても、「人間とはどういう存在であるのか。それぞれの土地で、どのように風土と繋がって生きようとしているのか」を、表現したいという思いに駆られています。

このところ、大変に悶々としているのがイスラエルとガザの衝突についてです。自分なりにガザ側、イスラエル側からの意見を聞き、考え続けてきました。確かにイスラエル側の強硬な支配が続き、ガザの人々が不条理のもとに置かれてきたことは事実です。イスラエル側のガザへの激しい空爆で、1万5000人近い市民の犠牲者がごく短期間で出たことも、悲劇としか言いようがありません。

しかしこうしたなかで、私がSNSで参加しているイスラム教徒のグループの中から、ユダヤ人へのヘイトともとれるメッセージが、平和を祈る文面と共に出てきたり、またメディアや専門家の中でも、一方の側から、片方を激しく非難し、犠牲者へのリスペクトに欠けるような言葉が出てくることについて、違和感も感じました。また都内では、ガザで起きていることを知るための多くのイベントが開催されています。そこでは歴史的事実を認識し、イスラエル軍によるこれ以上の殺戮を止め、戦闘停止に繋げたいという意図があることも分かるのですが、一方への激しい怒りや憎しみを伴う感情的な発信も多く、平和を語りながら分断や対立を生み出してしまっているのではないかという思いになりました。

私は、独自の立場を取ろうと思っています。イスラエルとガザ、どちらの犠牲者にもリスペクトを保ち、冷静に、客観的に、起きている事態の理解に努めています。イスラエルの肩を持つわけではありませんが、日本ではメディア報道も、専門家も、ガザよりに傾いているような印象を受けています(イスラエルに戦闘停止を求める一方で、ハマスに対しては250人近い人質の解放や、現在もイスラエル側に撃たれているミサイル発射の停止について一言も触れない、ハマス側からの情報についてファクトチェックが不十分なまま報道されるなど)。

そうしたなかで、私はやはり「写真家の仕事をしたい」と改めて意識するようになりました。

ジャーナリストではなく、政治専門家ではなく、「写真家」としてできることは何か。一方を非難したり、政情を批評するのではなく、あくまで双方の人間の痛み、悲しみ、心情に寄り添い、そこから見えるものを表現していくこと。それこそが写真家の仕事ではないか、と思っています。そのうえで、私は今のようなスタンスで、この複雑で大変難しいイスラエルとガザの問題に向き合っていたいと思います。

・「それぞれの立場から考え続ける」

・「白黒つけない」

・「憎まない」というスタンスを

・「写真家としてできることを考え続ける

「中立であることは、逃げである」という意見もありました。しかし、私はそう思いません。そもそも「中立」なのではなく、私自身のポジショニングにある、と思っています。それは一方への批判や怒りや憎しみではなく、双方の連帯の動きにこそ注視し、賛同していくというスタンスです。そもそも、どちらかにつかねばならないというスタンスこそが、分断の思考に囚われているように感じるのです。

こちらは11月22日の朝日新聞の「コラムニストの眼」という記事です。NYタイムズのコラムニストであるニコラス・クリストフが、紛争で愛する家族を失った人々とつくるイスラエルとパレスチナの共同非営利団体「ペアレンツ・サークルー家族フォーラム」の活動を紹介しています。以下、記事中より。

「暴力を暴力で止めることはできません。私たちはそれを100年試し、そして機能しなかったのです」

「互いへの人間性を認めなくなる過程の中で、互いに相手を道徳的に劣った存在とみなすようになった」

「国家の数が一つであれ、二つであれ、五つであれ、私たちはこの土地を共有しなければなりません。そうでなければ、この同じ土地を子供たちの墓場として共有することになるでしょう」

「私たちは放火犯からではなく、和解、癒やし、進歩のために人間の能力を示す消防士たちから学ぶべきなのだ」

葛藤しながらも、現場で連帯を試みようとする人々の言葉が、大変印象的でした。こうした双方の連帯の動きにこそ、私は心を寄せていたいと思うのです。

報告会の最後は、皆様からの質問や、自由な意見交換の時間とさせていただきました。さまざまなご意見や質問をいただき、皆さまありがとうございました。質問内容としては、甥のムハンマドが日本に再入国するのにビザの問題は起きなかったのか、トルコ在住のシリア難民の女性たちが外で働くようになったことについて、女性たち自身はポジティブな変化として捉えられているのか、などの質問をいただきました。

今思えば、せっかく参加くださっている皆様同士、親しくなれるように簡単な自己紹介を頂いたらよかったと思っております。こちらのオンライン懇親会は、定期的に開催していけたらと思います。皆様、引き続きよろしくお願いします。

以上、第一回目のオンライン懇親会のご報告でした。最後まで読んでいただきありがとうございました。

<<追伸>>

トルコ・ヨルダンから帰国した夫から、イスラエルとガザの問題について考えを聞いたところ、こんな話がありました。

トルコ南部のオスマニエ県に暮らす夫の一家の総意として、「ハマスは間違ったよ」という意見を持っているそうです。パレスチナ人の豊かさは、シリアでも大変知られているそうで、トルコのイスタンブールでも、多くのパレスチナ人が豪遊していることで裕福さが知られていたそうです。「彼らはこんなに経済状況がいいのに、どうしてイスラエルに反抗したのか。確かに故郷を追われたのは可哀想だけど、(イスラエルによって何らかの経済補償がパレスチナ人に行われていることもシリア人の間では知られた話のようで)経済的な不安がなく暮らせる状況で、圧倒的なイスラエルの軍事力を知りながら抵抗運動を、それもジハードのような過激な方法で行ってきたのは、間違ってきたと思う」と。さらに、「パレスチナは永遠に平和にはならないだろう」ともみんなで話したそうです。アラブ人は皆、母親の乳をもらいながら、「パレスチナはアラブ人のもの」と言われて育つそうです。

「パレスチナは我々のもの」。そう教えられて育ったアラブ人にとって、パレスチナの奪還は使命のようなものなのだとか。一方でイスラエル人もまた、パレスチナの地にユダヤの国を作ることは長い長い悲願でした。双方が、ここに自分たちが暮らす正当性を信じて疑わないのです。

そんな、「パレスチナは永遠に平和にはならないだろう」という夫や家族の言葉を聞いて、私は思わず聞き返しました。「じゃあ私たちはどうすればいいの?」。

夫は「ただ祈るしかない」と即答しました。その横顔に、中東地域で繰り返される戦争の悲劇への、当事者としての諦めのようなものを、ふと感じてしまうのでした。

(2023年11月29日)

イスラエルとガザの衝突から一カ月(2023年11月15日)

11月15日。ガザを実効支配するハマスが大規模攻撃を仕掛けてから一ヶ月と7日が経過した。ガザをめぐる状況は、悲惨の一言に尽きる。インフラがほぼ遮断された状況で、ガザの人々は一方的な避難を余儀なくされ、空爆は続き、ガザ側の死者は増え続けている。イスラエル軍はハマス壊滅を謳って地上進侵攻に踏みきり、ガザ北部を掌握。これまで確認されているイスラエル人の死者は1200人ほどである一方、ガザ側の死者は11240人にものぼっている(11月13日時点/ガザ当局発表)。

ハマスによる襲撃直後こそ、イスラエルへの同情論から、自衛権を認める声も多かったが、ガザの市民に多数の死者が出ていることから、次第にイスラエルへの国際世論も厳しくなっている。ガザ市民に対する「ジェノサイド」だという声、また各国首脳からの「停戦を」という声も聞かれる。

こうしたなか、私はガザ市民の犠牲の多さに心を痛めながらも、ガザ側の被害ばかりをクローズアップするメディア報道のあり方にも疑問を感じている。

特に、なぜガザの人々がこうした現状に追い込まれたのか、背景をイスラエルからの抑圧ばかりに結びつけているが、人々の背後で恐怖支配を強いてきたハマスについては、その責任にほとんど触れられていない。

確かにイスラエルは、ガザに対し圧倒的な軍事力で高圧的な支配を続けてきた。だが、イスラエル側の加害だけに着眼し、ガザの人々に同情するだけでは、まさにハマスの情報戦にのせられているようなものだ。ガザ市民の被害の大きさを主張して世界の同情を集め、反イスラエルの機運に持っていくこと。それこそがハマスの狙いなのだから。

ハマスの総資産は6000億円とされる。その驚くべき膨大な資産をもってして、彼らはなぜ、地下トンネルを作っても、(イスラエルでは義務付けられているように)市民を空爆から守るためのシェルターを作らなかったのか。ガザに空襲警報もアイアンドームもないのは、ハマスが資金をそこに使わず、作らなかったからだ。2007年にガザが封鎖されてから、ガザの市民はインフラさえも崩壊して困窮を極めてきたのに、そうしたインフラ支援より兵器開発に力を入れてきたのは誰なのか。こうした部分に、報道でもほとんど目が向けられていないことに疑問を感じている。

また、ガザの人々とハマスは違う、と思いたいのはやまやまだが、さまざまな記事や過去の報道を見るに、現実的には、両者は密接に結びついており、切り離すのは困難だと感じるようになった。大家族が多いガザの人々にとり、そのほとんどが、親族内や知人にハマスのメンバーがおり、ハマスはガザの人々に深く浸透している。というより、ガザの人々の総意を代表するのがハマスなのだ。

報道では「ハマスは設立当時は福祉や教育に力を入れた福祉団体だった」と話す専門家もいるが、設立当初からハマスは、イスラエルの存在を認めず、武力闘争によるイスラエル壊滅を目標とするイスラム教組織だった。そうした理念を持つハマスを、人々は支持してきた。

私は、5年ほど前に見た、ガザを舞台にしたあるドキュメンタリーを思い出した。タイトルも覚えていないが、イスラエル兵士を殺害するため、息子たちを次々とジハードへと送り出すガザの母親たちを取材したものだった。イスラエル兵士と共に自爆して死んだ息子の死を嘆き悲しむ母親に、すでに息子たちを同じようにジハードで失くしている母親たちが集い、「あなたの息子は天国に行くだろう。喜べ」と声をかける。それでも涙を流す母親に、女性たちは言う。「ガザの母親たちは、みんなこうして息子たちを送り出してきた。あなたもそうならなければならない。これは宿命だ」。衝撃を受けた。番組の最後に、女性の一人がインタビューに答える。「私たちはハマスを支持している。ハマスを支持するしか、もう選択肢が残されていないからだ」。その女性の、形容のしがたいあの眼差しを思い出した。それは悲しみとも、狂気とも言える。今回のハマスとイスラエルの衝突前から、ガザでは長い戦争状態にあったのだ、とも思う。

強硬手段でガザの人々を追い詰めてきたイスラエルの責任も、有効な解決法を示せなかった国際社会の責任もあるだろう。だが、市民をジハードにかりたて、暴力的手段での報復を正義として主導してきたハマスの責任もあるはずだ。そして、そうしたハマスを支持し、ジハードを繰り返してきた人々の責任もまた、全くないとは言えないのではないか。

特に今回、イスラエル軍によるガザの人々の被害ばかりがクローズアップされ、最初に(10月7日に)イスラエル市民に虐殺を行ったハマスへの批判や客観的な分析がされていない印象を受ける。そしてそれこそが、ハマスの戦略ではないだろうか。

いやらしい考えかもしれないが、私はシリア難民やシリア国内の取材を通して、戦争を生きた者がどうなるかを目にしてきた。生きるために、人間は平気で嘘をつく。人も殺す。殺人が正義になる。悲しいかな、戦争とはそういうもので、人間とはそういうものだ。

テロ組織壊滅のために手段を選ばないイスラエルも、イスラム理念の実現のために市民を利用するハマスも、どちらも問題がある。その、どちらにも問題があるということを、直視するべきではないだろうか。

特に今、ガザの被害の大きさからガザ擁護論が高まっているが、弱者は必ずしも正義ではない。イスラエル、ハマス、ガザの人々それぞれに、問われるべきこれまでの責任があるのではないかと考えている。

だからと言って、ガザの人々が犠牲になっていいわけでは決してない。犠牲者がこれ以上増えないように、国際社会としても最大の努力が払われるべきだ。

また、ガザの人々の側から、自分たちが支持してきたハマスがイスラエル人を虐殺したことへの、自分たちの道義的責任についての意見が全く出てこないことも気になっている点だ。ハマスは、赤ちゃんから老人に至るまで、非武装のイスラエル市民を1200人近くも非常に残酷な方法で殺害し、さらに250人近い人質をガザに連れ去ったのだ。卑怯であり、非道である。ガザの人々はハマスに恐怖支配されているとされているから、本当のことを公然とは話せないのかもしれない。だが、ハマスが行ったことの責任の一端は、ハマスを支持してきた人々にもあるはずだ。それについてガザの人々はどう考えているのか。こうしたことがほとんど報道から見えてこないことが疑問だ。

まさに今、生きるか死ぬかの状況にあるガザの人々に対し、極めて手厳しい意見かもしれない。だが、多角的に、客観的に事実を捉えていたい。そしてそこに生きる一人一人の人間の尊厳を尊重したいからこそ、一人一人が持つべき「選択の責任」についても問い、直視したいのである。

(2023年11月15日)

NHKワールド「Direct Talk」に出演させていただきました

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Documenting the Lives of Refugees: Komatsu Yuka / Photographer

Photographer Komatsu Yuka has been documenting the lives of Syrian refugees who fled to Turkey to escape the conflict in Syria, only to now once again find themselves displaced by earthquakes.

・・・放送日:10月17日(火)10:15 | 14:15 | 20:40 :10月18日(水)01:15 (NHK World)・・・

(*こちらはオンデマンド放送で視聴可能です)

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なんと、世界へ向けて発信されるNHKワールドの番組に、私の活動を取材いただきました。15分ほどの短い枠で、これまでのシリア難民の取材や、今年2月のトルコ・シリア地震の被災地取材の様子などを取り上げていただきました。特に、”写真を通して伝えたいことは何か”を取材いただいています。

私は写真家としては全く未熟で、理想とする境地は遠く、自分でも納得できる活動に全く追いついていません。今はまだ、種を蒔いている、という心境です。しかしだんだんと、向かうべき方向性が見えてきました。そこへと着実に、歩いていきたいと思います。今後とも、応援をどうぞよろしくお願いいたします。

▼NHK WORLD-JAPAN トップページ  https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/directtalk/

▼小松由佳 出演回    https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/ondemand/video/2105055/

「座右の銘」は?と聞かれ、私が書いたのはこの言葉です。

 「 名のない星の輝きに目をこらす 」 小松由佳

夜空が美しいのは、明るい星の輝きだけでなく、目に見えないくらい小さな、たくさんの名のない星の輝きがあるからです。見えない小さな星々の輝きをそっと見つめるように、ひとりひとりの人間の唯一無二のエピソードを大切に記録していきたい、という思いを込めました。

私の活動を取り上げてくださったNHKワールド様、どうもありがとうございました。

(2023年11月15日)

『オンライン対談「イスラエル市民から見たハマスとガザ」2023年10月27日収録 /  イスラエル市民H氏 × フォトグラファー小松由佳』を一般公開しています

2023年10月7日から始まったガザのハマスとイスラエルとの衝突に、世界が注目しています。先日はガザの人々の現状について、ガザ取材の長いジャーナリスト、古居みずえさんにお聞きしました。そのうえで今回は、イスラエル側の視点からお話をお聞きしたいと、イスラエル在住18年、イスラエル市民権を持つ日本人男性、平林裕介さんに対談をいただきました。

「イスラエル側の言い分が一人にでも伝わり、少しでも考えるきっかけになったら嬉しいです。多くの人に私たちの側のストーリーを知ってほしいというのが願いです」とのことで、講師謝礼も不要であるし、多くの方に見ていただけるよう動画視聴料も不要にしてほしいとのことでした。そのため当初、この有料会員コンテンツ内での公開のみの予定でしたが、平林さんの希望により、対談は一般公開・無料視聴可能とさせていただきました。

今回のハマスによる越境や民間人の殺戮が、イスラエル市民にはどう映ったのか。人々はどのような日常を送り、ガザやハマスに対して何を思っているのか。ガザ側の視点だけでなく、イスラエル側の視点も考えることで、さまざまな視点から事実を考えていくことをしたいと思います。ぜひご視聴ください。

*以下、「小松由佳HP有料コンテンツ」のページからご覧ください

オンライン対談「イスラエル市民から見たハマスとガザ」2023年10月27日収録 / イスラエル市民H氏 × フォトグラファー小松由佳 

*「小松由佳HP」では、より良い写真活動ができるよう、活動を応援いただく有料会員を募集しております。月額1000円で、活動の裏話などをご紹介していきます。是非応援をお願いいたします!

オンライン対談「イスラエル市民から見たハマスとガザ」2023年10月27日収録 / イスラエル市民H氏 × フォトグラファー小松由佳

はじめに

2023年10月7日から始まったガザのハマスとイスラエルとの衝突に、世界が注目しています。先日はガザの人々の現状について、ガザ取材の長いジャーナリスト、古居みずえさんにお聞きしました。そのうえで今回は、イスラエル側の視点からお話をお聞きしたいと、イスラエル在住18年、イスラエル市民権を持つ日本人男性、平林裕介さんに対談をいただきました。

平林さんとの出会いは2008年。共通の知人である作家の西木正明さんからのご紹介で、イスラエルを旅した際、イスラエル中部のテルアビブのご自宅で泊めていただきました。その当時5歳ほどだったとても可愛かった息子さんが、現在は成長して兵役中であり、ガザに侵攻するらしいとの報も聞いており、衝撃を受けておりました。今回のハマス侵攻後は、以前にもましてテルアビブにミサイルが飛んでくるらしく、そのような大変な時にオンライン対談に応じてくださいました。

「イスラエル側の言い分が一人にでも伝わり、少しでも考えるきっかけになったら嬉しいです。多くの人に私たちの側のストーリーを知ってほしいというのが願いです」とのことで、講師謝礼も不要であるし、多くの方に見ていただけるよう動画視聴料も不要にしてほしいとのことでした。そのため当初、この有料会員コンテンツ内での公開のみの予定でしたが、平林さんの希望により、対談は一般公開・無料視聴可能とさせていただきました。

また発言によって本人がSNSなどでの中傷に晒されないよう、どこまでプライバシー保護をするかのご相談も、「名前等は伏せなくてもいいです。ミサイルやテロリストに比べれば、ネット中傷は怖くありません」とのこと。”自分たちの思いを広く知ってほしい”という覚悟が伝わってきました。

テルアビブでは夕方、毎日のようにハマスからミサイルが飛んでくると聞いてはいましたが、収録中にもミサイルが飛んできました。平林さんは一時避難し、その後戻りました。大変な状況下で(平林さんにとっては日常とのこと)対談下さったことに感謝するとともに、実に色々と考えさせられるお話でした。

今回のハマスによる越境や民間人の殺戮が、イスラエル市民にはどう映ったのか。人々はどのような日常を送り、ガザやハマスに対して何を思っているのか。ガザ側の視点だけでなく、イスラエル側の視点も考えることで、さまざまな視点から事実を考えていくことをしたいと思います。ぜひご視聴ください。

対談内容

・イスラエルに暮らす、ということ(どのような経緯でイスラエルに移住し、暮らして何年目か。どのような毎日か)

・日常として感じるパレスチナ問題(これまでパレスチナとの問題にどのような思いを持ってきたか、シェルターがあること、ミサイルがよく飛んでくる、など日常的な問題について。特にテルアビブというガザ地区の近くに住んでいることで感じることなど)。

・今回のハマスとの衝突は、イスラエル社会や、平林さんの周囲でどのように受け止められたか。兵役に行っている息子や友人とはどのような会話をしたか。現地の雰囲気は?また、今回のハマスによる攻撃や誘拐、民間人の殺害の意図をどのように考えているか(イスラエルとサウジアラビアとの和平交渉によって、ガザの問題も和平の道で行われることに反発しての攻撃だった、など)。

・イスラエル軍によるガザへの地上進行は近いとされ、ガザ北部地区から市民が南部に避難するように言われている。こうした中でも南部へのイスラエル軍による空爆が起きているが、イスラエル市民としてはこの状況をどう捉え、状況がどうなることを希望しているのか(市民への攻撃を意図しているのではなく、あくまでハマス壊滅を狙っているのだ、など、具体的な意見が知りたい)。

・ハマスという存在をどう捉えているか(ハマスとガザの人々は別として考えるべきなのか)。

・イスラエル社会の中では、アラブ系イスラエル人も社会の一員として、さまざまな職を得て一緒に暮らしている。こうしたアラブ系イスラエル人との共生がどのように行われているのか、または問題も起きているのかについて。

・現在、周辺諸国も巻き込んだ「核戦争」になるかもしれないという大変深刻な事態である。この問題が、どのような状態になることが理想と考えているのか。

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▼オンライン対談「イスラエル市民から見たハマスとガザ」2023年10月27日収録 /  イスラエル市民H氏 × フォトグラファー小松由佳

https://youtu.be/sHOZ9581xzQ

平林さんのお話から、心に残ったエピソード

・ガザのハマスから毎日のようにミサイルが飛んでくる→シェルターへ避難する。これが日常になっている。

(実際、対談中もミサイルが飛んできて、警戒アラートが鳴り避難した)

・ガザにはハマスだけではないイスラム武装グループがおり、民間人が迎合して参加しているケースが多い。「ガザの一般人=ハマス」ではないが、両者の線引きは極めて難しい。

・イスラエル軍は、ガザ北部から人々を南部に避難させた後、今後は逆に北部から南部に人々を移動させるのではないかと(イスラエルの市民間では)考えられている。

・平林さん:「とにかくガザの武装解除をしたい」→小松:「イスラエルによるガザへの同じ政策が今後も続けば、今回たとえハマスを掃討できたとしても、また同じ集団が現れるのでは?」→平林さん:「人の心を変えることは難しいが、モノの流入を制限することで物理的に武装できなくすることはできるのではないか」

・小松:「意見が噛み合わない、対話ができない相手とどう対話していけばいいのか」→平林さん「対話で解決しないという方法もあるのかもしれない」

・イスラエル在住の日本人は、日本でのパレスチナ寄りの報道のあり方に怒りや違和感を感じている。

・現在のパレスチナは、これまでのパレスチナ自身の政治選択の結果、こうなったと多くのイスラエルの市民は考えている。現状をイスラエルのせいだけにしないでほしい。

・イスラエル社会の中では、アラブ系イスラエル人と、非アラブ系イスラエル人との共生はあまり進んでいない。

・今回、ハマスに殺害されたイスラエル人の中には、アラブ系イスラエル人も40人くらい含まれていた。ハマスは、同じアラブ人(パレスチナ人)でもイスラエル領に住んでいる人は殺害する。

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▼対談いただいた平林さんが、読売新聞で紹介されていました!

https://www.yomiuri.co.jp/national/20231028-OYT1T50247/(「出動するよ」19歳の息子が戦場へ・・・イスラエル在住日本人男性「一般市民は殺さぬように」2023年12月29日)

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▼平林さんへのご質問などある方は、小松までお問合せください

「小松由佳HP有料コンテンツ」では、”これからの世界を生きるためのクリエイティブな議論ができる場”を目指しております。ぜひ今回のゲストの平林さんにご質問のある方、またはオンラインミーティングされたい方などは、小松までご連絡ください。質問されたい方が多いようでしたら、平林さんを囲んでのオンラインミーティングも企画したいと思います。

「ジャーナリスト古居みずえさんに聞くガザの今」(2023年10月19日)アーカイブ動画

2023年10月7日からパレスチナ自治区ガザ地域ハマスとイスラエルの間で大規模衝突が始まり、イスラエルのガザ侵攻が目前とされました。そのタイミングで、ガザの取材経験が長い古居さんに現地のお話をお聞きしました。 実際に現地と繋がってきた人々の話を聞くことで、肌感覚で紛争地の現実を感じ取るとともに、その本質について考え続けたいと思います。

こちらは「小松由佳HP有料コンテンツ」会員限定公開動画です。ご視聴には、「小松由佳HP有料コンテンツ」へのご入会が必要です。

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オンラインイベント「ジャーナリスト古居みずえさんに聞くガザの今」を開催します

 「ジャーナリスト古居みずえさんに聞くガザの今」
  10月19日(木) 20:00〜21:30 

10月7日から始まったパレスチナ自治区ガザ地域ハマスからの大規模攻撃によって、イスラエルとハマスとの軍事衝突が深刻な事態に直面しています。イスラエルはハマスの壊滅のため、まもなくガザに地上進行を開始するとみられ、情勢は緊迫しています。

こうした状況を受け、ガザでの取材経験の長いジャーナリスト、古居みずえさんからお話を聞く機会を持たせていただくことにしました。

私たちは遠い日本におり、直接的には何もできないかもしれませんが、実際に現地と繋がってきた人々の話を聞くことで、肌感覚で紛争地の現実を感じ取るとともに、その本質について考え続けることを試みたいと思います。

司会・進行 小松由佳(ドキュメンタリーフォトグラファー)

<古居みずえさんについて>
  https://sites.google.com/seisen-u.ac.jp/huruimizueworld

<内容詳細>                     
当日は、1時間ほど古居さんにお話いただき、その後、皆様からの質問やご意見をいただく時間を30分ほどとらせていただく予定です。あらかじめ、以下のような内容をお聞きしたいと古居さんにはお願いしております。

・ガザ地域とはどのような場所か。そこで人々はどのように暮らしてきたのか。

・ジャーナリストとしてガザを取材するなかで感じてきたこと。

・今回の衝突を受けて、何を考えているか。今後、どのような解決法が最善と思えるか。

また今回の報道では、なかなかガザの人々の暮らしの部分が見えてこず、これまでそこで何が起きてきたのか、人々はどのような思いで生きてきたのかを知る機会が限られていると感じました。そこで、古居さんのお話から、ガザの日常を肌感覚で感じとりたいと思っています。


<その他>

・参加費1000円(「小松由佳HP有料コンテンツ会員」の皆様は、無料でご視聴可能いただけます。詳しくは会員コンテンツのメール配信をご覧ください)
・こちらはzoomを使用したオンラインイベントです。zoomのアカウントをお持ちでない方は、イベント開始前までにご登録をお済ませください。
・zoom情報は、開催前日までに、お申し込みサイトからメールでお知らせいたします。
・有料会員の皆様は参加無料。後日録画動画の視聴可能です。
・当日参加できない方も、後日、オンライン視聴(視聴期限あり)が可能です。
・チケット販売は、事務手続きの都合上、イベント開催日の19時までで締め切らせていただきます。

(お申込先)

https://peatix.com/event/3734905/view

以上、どうぞよろしくお願いいたします。

小松由佳

(2023年10月17日)

イスラエルとハマスの大規模衝突に思うこと(2023年10月12日)

10月7日、大変なニュースが飛び込んできました。パレスチナ自治区ガザ地域を実効支配するハマスからの大規模攻撃により、イスラエルの民間人が多数死傷。さらにガザ側から、ハマスの戦闘員が国境の壁を越えてイスラエルに侵入し、少なくとも100人以上の民間人や外国人を人質としてガザへ連れ去ったという衝撃的な報道でした。

イスラエル政府はこれを受けてハマスへの報復を宣言し、過去になかったほどのガザ地区への激しい空爆に踏み切りました。10月11日までに、イスラエル・ガザの双方の死者数は2000人を超え、さらにイスラエルが地上からのガザへの攻撃を間も無く開始すると見られています。

この緊迫した状況に、7日以来、私は落ち着くことができず、悶々として過ごしています。今回のイスラエルとハマスの大規模衝突について、考えていることをぜひお話させてください(いてもたってもいられず)。こちらは20分ほどのオーディオプログラムです。2005年にイスラエルを訪問した当時のことも含め、お話しました。

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福島の被災地へ② 〜富岡町と原発事故〜

前回の「福島の被災地へ①〜あの日は終わらない〜」では、2011年の震災で津波被害があった福島県いわき市の「久之浜(ひさのはま)」を訪ねたエピソードをご紹介しました。

▼ 「福島の被災地へ①  〜あの日は終わらない〜」

 https://yukakomatsu.jp/2023/09/19/4338/

今回は、その続編として、いわき市から常磐線に乗って福島を北上し、原発事故後、放射能の被害があった富岡町を訪ねたエピソードです。

恥ずかしながら、私はこれまで原発事故の被害状況や、その後の被災地の状況を意識してしっかり見つめてきませんでした。今回、自分の足で被災地を歩き、原発事故後の「放射能」の問題について考えました。

現在、被災地にはさまざまな震災の伝承施設がある。「震災伝承施設イラストマップ」より。前回記事のいわき市「久之浜」は青丸、今回訪ねた富岡町の「とみおかアーカイブ・ミュージアム」は赤丸で表示。

「フクシマの被災地に行くなら、見ておいたほうがいい」。被災地に何度も足を運んでいる知人に勧められたのが、富岡町にある「とみおかアーカイブ・ミュージアム」だ。こちらは富岡町による博物館で、東日本大震災と原発災害によって失われた人々の日常の営みを、「震災遺産」として収蔵・展示している。

一日に数本しかない常磐線の電車に揺られ、富岡駅で下車。駅からバスに乗車し、「とみおかアーカイブ・ミュージアム」に向かおうとしたところ、その日は土曜日でバス会社が休みだった。そこで、駅に停まっていた2台のタクシーのうち、初老の運転手が座るー台に乗った。

「とみおかアーカイブ・ミュージアム」は、駅からタクシーで15分ほどの距離だ。

富岡駅にて。震災時、海から300mほど離れたこの場所まで津波が押し寄せ、駅舎は流された。こちらは震災後に作られた駅舎だ。

とみおかアーカイブ・ミュージアム

目的地まで、タクシーの運転手とあどけない話。「(遠方から人が多く来るだろう)土曜日なのに、バスが運休だった」とぼやくと、「バス会社も助成金もらって運営してるから、やる気ないんだ〜」とのこと。

富岡町は震災後、町の大部分が「居住制限地域」となり(2017年まで)、現在も町の北側が「帰還困難地域」となっている。震災後は一気に人口が減り、戻ってくる人も少ないので、助成金を出してもらわないとバス会社も利用者が少なくて経営維持できないのだそう。特にバス利用者のほとんどが原発関連、復興関連の労働者とのことで、仕事が休みの土曜日は需要がないから休みらしい。聞けば、運転手はこのあたりの出身で、なんと30年近く原発職員として働いていたそうだ。原発事故後、危険な作業をさせられることが増えたため、辞職したとのこと。

富岡町の南端に、福島第二原発がある。

2022年10月時点での人口は11824 人、実際の居住者数は2063人。震災前人口比のわずか13%だ。

原発で働いていたという運転手の話をもっと聞きたかったが、目的地の「とみおかアーカイブ・ミュージアム」に到着したため、2時間後にまた来ていただくことにした。

「震災遺産」

「とみおかアーカイブ・ミュージアム」は、震災や原子力災害によって生じた「震災遺産」を収蔵・展示する大熊町による博物館だ。

展示はまず、富岡町の古代の歴史から始まり、やがて近代へとテーマが移っていく。人々がこの街でいかに暮らしていたのか、そして震災後、何が失われたのかが、視覚的によくわかった。

江戸時代、富岡は相馬路(陸前浜街道)の宿駅「富岡宿」として栄えた。

戦前・戦後の暮らしがモノクロ写真で展示されていたが、特に「農」をめぐる生活の写真には、心に込み上げるものがあった。祭りの日の晴れ姿や、町内運動会に笑う男たち、稲刈り後の田で遊ぶ子供たちの姿など、かつて土地とともにごく当たり前にここにあった暮らしが、失われた。

そして近代の富岡町の展示は、戦後の原発誘致へと切り替わっていく。

原発誘致は、財政難の富岡町が、経済発展を目指して行った一大事業だった。

原発の誘致・建設が、当初から、地域の経済発展と雇用創出を願う、地域住民の大きな期待とともに始まったものだったことを初めて知った。

「出稼ぎ者がなくなった」

さらに原発ができたことで、農を担ってきた人々の暮らしも大きく変わった。特に、展示されていた「出稼ぎ者がなくなった」という言葉は、胸にズシリとに響いた。秋田県生まれの私は、雪が降り続く冬、多くの秋田の男性があちこちに出稼ぎに出ていったことを知っているからだ。貧しい東北の農村が、明るい未来を託して誘致した原発事業。ここに原発が造られたことで、地域の経済は確かに潤い、雇用も創出され、人々の暮らしも、以前より明るいものになった。それは、確かだった。

だが一方で、町民にもれなく配布されていたという原発ポスターからは、いかにこの地域が原発と密接に存在していたかを感じさせ、その「普通感」がなんとも違和感でもあった。

そして2011年のあの日、東日本大震災が発生。街は津波で流され、深刻な原発事故も起きた。それまで暮らしていた町が、家が、放射能に汚染されるという未曾有の事態。多くの住民が、街を離れて避難した。その時、住民たちは何を思ったろうか。この地域に経済的安定をもたらしてくれた原発と、その後、歴史に刻まれた深刻な事故。私は、あのタクシー運転手に話を聞きたいと思った。

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福島の被災地へ① 〜あの日は終わらない〜

この8月、震災以後初めて、福島の被災地を歩きました。2011年の東日本大震災と、その後も福島で続いている放射能被害についてずっと気になってはいましたが、触れることができずに時間が流れていました。今回、お盆に秋田の実家に帰るため、鈍行列車で三日かけて北上し、その途中で福島の被災地を訪ねました。

これまで、ある意味で必然的に、フクシマを扱ってきた写真家や表現者の友人・知人たちが周りにも多くいて、フクシマをどう伝え続けているのか、ずっと気になっていました。また、福島からの避難者の方にもお会いする機会があり、ある日突然故郷を離れなければいけなかったこと、いつ帰れるか分からないことへの苦悩をお聞きする機会もありました。

こうした中、改めて被災地へと目を向け、その土地を訪ねてみたいと思いました。以下は、7歳と4歳の子供を連れながら、福島の被災地を訪ねた小さな旅の記録です。フクシマの今をどう捉えたらいいのか。私は未だに自問自答しています。その答えのない問いを、これからも考えていきます。

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あの日は終わらない

福島県いわき市の「久之浜(ひさのはま)」。松の木が並ぶ堤防を抜けると、青々とした海が広がった。かつてここは、太平洋に面した小さな漁師町だった。あの震災の日までは。

2011年3月11日、午後2時46分。三陸沖で大地震が発生し、日本観測史上最大のマグニチュード9.0を計測した。地震から約1時間後、大津波が沿岸の街に押し寄せる。久之浜にも7メートルの津波が襲来した。久之浜地区の死者は33名。全壊・大規模 半壊465棟、半壊・一部損壊は202棟にのぼった。

「小さな漁師町で、その日上がった魚や貝は無償で住民に配られていました。サンマの季節にはどの家も味醂干しを作って家の前に干して、食べ比べをするんです。商店も病院もあって、駅も近く歩いて行けるので、若い人も年寄りもみんな出歩けて、互いに気遣い合っているいい街でした」

そう語るのは、あの日まで久之浜に暮らしていた知人、安藤栄作さんだ。自宅は海からわずか15メートル。その日、用事のため離れた街に出ていた安藤さんの自宅兼アトリエは、自宅前に繋いでいたイヌの「ユイ」ごと、津波に呑まれていった。

安藤さんは、丸太を手斧で叩いて刻む技法で知られる彫刻家だ。現在は奈良県に拠点を置き、生活再建と作品の創造に明け暮れている。

「久之浜にもし行くことがあったら、駅前の和菓子屋さんに行って、柏餅を食べてみてください。昔ながらの味でとても美味しいんです」。

安藤さんからそんなメールをいただいたことがきっかけで、今年8月、鈍行列車で3日間をかけた秋田への帰省の折、久之浜に立ち寄った。あの日を境に、地震と津波と原発事故によって奪われた生活の痕跡を、わずかでも目にしたかった。

福島県いわき市北部にある久之浜駅。

久之浜駅で電車を降りると、真夏の強い日差しが体に刺さった。

駅で下車すると、夏の強い日差しが体に刺さった。安藤さんから教えてもらった和菓子屋でヨモギがたっぷり入った柏餅を買い、歩いて300mほど離れた浜へ向かった。海に近づくにつれ、更地や新築の家が目に入る。この辺り一帯が津波で流されたのだ。

久之浜駅の正面の大通り。この辺りまで7mの津波が押し寄せた。

大通りにあった「東日本大震災地蔵尊」。

古いお地蔵さまが奥に安置されていた。いつの時代も、人間は祈りと共に生きてきたのだ。

津波によって住宅が流された跡地と思われる空き地。

「暑い」と駄々をこねる4歳の次男。

「もう歩けない」と座り込む次男。

津波で家屋が流されたと思われる空き地に残されていた瓦礫。

震災後、海辺に造られた堤防の下に、小さな社があった。地元の人が、「奇跡の神社」と呼ぶ秋葉神社だ。津波で流されずに残ったことが、住民に力を与えたという。付近の石碑には、「大地震が起きたら大津波が来る」「直(す)ぐ逃げろ、高台へ。一度逃げたら絶対戻るな」と教訓が記されていた。

堤防を登った先に広がるこの海に、かつての砂浜はない。波打ち際には大量のテトラポットが積まれ、荒々しい波飛沫が上がっていた。この海が、津波となって押し寄せた・・・。現場に立ってもなお、あの日の津波の威力がにわかには信じられなかった。

津波で社が流されず、「奇跡の神社」と呼ばれる稲荷神社。今も住人に大切に守られていた。

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ラジオ出演のお知らせ TOKYO FM「SDGs学部ミライコード」(番組HPにて試聴可能です) 

TOKYO FMのラジオ番組、「SDGs学部ミライコード」に出演させていただきました。番組パーソナリティをつとめるのは、イラン出身の女優でもあり、人権活動家としても知られるサヘル・ローズさん。一回の収録を、2回分に分けて放送いただきました。以下、番組のHPよりご試聴いただけます。

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#76 シリア難民の現在、子連れパニック取材記

https://audee.jp/voice/show/68316

#77 人が生きる=SDGs

https://audee.jp/voice/show/68692

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ちなみにSDGsとは、「持続可能な開発目標」。「世界中にある環境問題・差別・貧困・人権問題といった課題を、世界のみんなで2030年までに解決していこう」という計画・目標のことです。 この番組では、さまざまな分野の方を招き、この時代を生きるためのさまざまな問題についてお話をしているそうです。過去の番組もさかのぼって試聴することができます。

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また以下は、今回の収録の裏話や考えたことなどです。10分ほどの音声をお聞きいただけます。

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『月刊みんぱく』2023年8月号に寄稿させていただきました

大変光栄なことに、国立民族学博物館発行の月刊誌『みんぱく』(2023年8月号)様に寄稿させていただきました。

〜「人々は嘘をついているのではなく、「あえて真実を語らない」。いや「語れない」のだ。それが、このシリアを生きなければならない彼らからの、見えないメッセージなのだ。〜(文中より)

(『月刊みんぱく』「特集 政治的なるものと不条理の超克」国立民族学博物館 発行(2023年8月号))

(「これが、あのパルミラ・・・」小松由佳)

当初、原稿執筆テーマとして伝えられていたのは、「独裁下を生きる知恵」。世界各国の独裁政権下で、人々がどのように生きてきたか、生きているのかについて特集するということでした。私はこの10年ほど、シリア難民の取材を行ない、また昨年2022年には、11年ぶりのシリア国内取材に入りました。そうした背景から、内戦状態のシリアについて、フォトグラファーとしての視点から書けることを、というお話でした。

依頼をいただき第一に感じたのは、このような深みのある内容を書かせていただけることへの僥倖、そして「なんという難しいテーマだろう・・・」ということでした。雑誌の発行元が「国立」博物館であるため、そのバックにあるものを考えると、内容に大変気を遣いました。というのも、事実は事実として示しながらも、政治的な中立性を持たせなければならないからです。

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「トルコ・シリア大地震 被災地取材 オンライン報告会(8月22日開催)」の録画視聴について

8月22日、6月に行ったトルコ・シリア大地震の被災地取材のオンライン報告会を行わせていただきました。

以下は、報告会をレコーディングしたデータとなります。ご自由にご視聴ください。
なお、すみませんがこちらのデータのインターネットへの投稿や第三者へのシェアはご遠慮いただきますよう、お願いいたします。

(こちらは、「小松由佳HP有料コンテンツ」の会員様は無料でご覧いただけます。その他の皆様は、視聴料1000円、または「困窮者枠利用で無料」でご利用いただけます。HPの「コンタクト」よりお問合せください)

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トルコ・シリア大地震の被災地取材 オンライン報告会について 

*日時:2023年8月22日 19:00〜21:00

*参加費1000円。ただし、HP有料会員、地震被災者支援金を下さった方、困窮している方などは無料。(HP有料会員の皆様には、直接zoomのURLをご連絡しております)

*こちらはzoomを使用したオンラインイベントです。報告会に入室する「招待URL」は、申し込み後にメールにてお送りいたします。

<はじめに> 

今年2月6日に発生したトルコ・シリア大地震。マグニチュード7.8の巨大地震とその後の余震により、多くの建物が倒壊し、両国で5万人強の犠牲者が出ました。それから4カ月が経った今年6月、被災地の状況を取材するためトルコ南部に向かいました。

主な取材地は、甚大な被害があったトルコ南東部のハタイ県アンタキヤや、避難者が多く暮らすレイハンルです。これらの街で、特に地震で被災したシリア人の状況を取材しました。

地震大国の日本に暮らす私たちにとっても、地震被害は決して遠い国の出来事ではありません。被災地で目にしたこと、感じたことを是非皆様と共に共有させていただけたらと思い、オンライン取材報告会を企画しました。ぜひご参加ください。

<お申し込み先> https://peatix.com/event/3673916/view

(地震によって倒壊した家を案内いただく。トルコ南東部クルクハンにて)

<取材報告会の要旨>
・大地震の発生
・被害状況
・倒壊したかつての家と被災者
・シリア人とトルコ人の支援格差
・シリア人被災者キャンプ、ケーンンマウラーキャンプ
・被災者をとりまく現状
・地震の教訓を考える

以上、よろしくお願いします。

終戦の日、ご紹介したい一冊

8月15日は終戦の日。あの戦争から78年が経ちました。戦争は終わりましたが、戦争が残した傷は、今もその時代を生きた人々や戦後を生きた人々の中に消えずに残っています。戦争の悲惨さは、長期間にわたって人間を苦しめ、境遇を左右し続けることでもあります。終戦の日を迎え、是非皆様にお薦めしたい一冊があります。

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『ヨシアキは戦争で生まれ、戦争で死んだ』改訂版 

 面高直子著/ 講談社

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<小松による書評>

その本の表紙写真を飾るのは、爽やかな笑顔の軍服の青年だ。ページをめくると次に現れるのは、自転車に乗ってこちらを見つめる幼い男の子の写真。

後田義明(うしろだ よしあき)とスティーブ・フラハティ。それは日本人として生まれ、アメリカ人として死んだ一人の青年の名だ。

神奈川県大磯町にある孤児院エリザベス・サンダース・ホーム。戦後生まれた多くの混血児が引き取られた孤児院である。米兵の父親を持つ後田義明も、母の手に引かれ、4歳でここにやってきた。敗戦国日本で、米軍兵士との間に生まれた混血児たちは、当時「あいのこ」と呼ばれ、差別を受けた。混血児を生んだ義明の母も、周囲からの協力が得られず、差別を受けながら女手一人で子供を育てることに苦しんだ。手に職をもって生活が安定するまで・・・。そう考え、幼い息子を連れたのがエリザベス・サンダース・ホームであり、自転車に乗る義明の写真は、施設に預けるその日、おめかしをして撮られたものだった。

「必ず迎えに来るからね」。母とのその約束は果たされず、11歳になった義明は養子縁組のため、カバン一つを携えてアメリカに渡る。混血児たちのより良い将来のため、人種が多様なアメリカに渡ることが良いと考えたエリザベス・サンダース・ホームの方針からだった。義明はそこでスティーブという名を与えられ、新しい生活が始まった。

天性のスポーツの才能からスター選手として活躍し、学園の人気者だった義明だが、混血という出自に悩み、自分の居場所を探し続けた。やがてアメリカ国民としての義務を果たすため、〝正義〟と信じるベトナム戦争へ志願。そして1969年、22歳の若さで戦死する。

 9年後、日本のテレビ番組で義明の死を知ったのは実母、後田次恵だった。物語は後田次恵の半生へと引き継がれる。母も子も、それぞれに過酷な戦後を生きた。戦争がもたらす幾重もの悲劇。しかしそこにあって、生きることを諦めない人間の姿がある。涙なくしては読めない、母と子の物語である。

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この本を読んだのは3年前のことです。その日、本を一気に読み終えた私は、深い悲しみに、一睡もすることができませんでした。日本人として生まれ、アメリカ人として死んでいった義明の生涯を思い、二度とこうした悲劇が起きないよう、こうした人々の存在を知り、平和につながるための活動をしたいと思いました。これまで読んだ本の中で、ここまで心が震えた本は他にはありませんでした。

この本に描かれているのは、米兵との混血児として生まれた後田義明、そしてその母親である次恵、そして「エリザベス・サンダース・ホーム」の創始者である澤田美喜です。それぞれが、戦争で大きな傷を負いながら、戦後を必死に生きようとしていました。

エリザベス・サンダース・ホームと澤田美喜

義明が連れられた「エリザベス・サンダース・ホーム」とは、敗戦後のGHQの占領下、進駐軍兵士と日本人女性との間に生まれた孤児のための救済施設でした。現在も神奈川県大磯町に現存し、児童養護施設として親と暮らすのが難しい子どもたちの自立活動に関わっています。

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信濃毎日新聞様に寄稿させていただきました

長野県の新聞社、信濃毎日新聞様に、6月の地震被災地取材の内容を2回に分けて寄稿させていただきました。取材内容を多くの方々に知っていただける素晴らしい機会をいただき、大変光栄なことでした。

「トルコ・シリア大地震 被災地はいま」〜重なる苦難〜 「上」・「下」

(信濃毎日新聞 2023年7月28日)

(信濃毎日新聞 2023年8月2日)

今後もこのようなお仕事をたくさんやらせていただけるよう、努力したいと思います。

*新聞への寄稿について裏話

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