サイドナヤ刑務所に生きていた兄、サーメル

シリア人ならば、「サイドナヤ刑務所」の名を知らない者はいません。

首都ダマスカス郊外にあり、常時1000人以上が収監されていたとされるこの刑務所は、アサド政権による抑圧の象徴として、恐れられてきました。

2011年以降、シリアではアサド政権反対派を中心とする約13万人以上が政府軍によって拘束され、国内のさまざまな施設に収容されてきました。

そこでは、殴打、監禁、飢餓状態、性暴力、電気ショック、鞭打ちなど、人間が考えつくあらゆる方法の拷問が常態化していましたが、最終的に囚人たちが行き着く場所がサイドナヤ刑務所でした。

この刑務所から生きて帰ったある囚人は、アムネスティ・インターナショナルのインタビューでこう語っています。

「囚人たちは自ら死ぬか、自分の親族や友人を殺すかの選択を迫られた。自分が最初にいた刑務所で、囚人たちは人肉食を強いられたが、サイドナヤ刑務所に比べれば、その刑務所は「天国」だった」。

また他の元囚人は、「他の刑務所は「尋問」(拷問を含む)のためだったが、それが終わるとサイドナヤに移送され「死ぬ」ことになった」と語っています(“Former Detainee Describes Atrocities Inside Syrian Prison”www.wbur.org. 9 February 2017. Retrieved 11 July 2017.)。

実際、サイドナヤ刑務所に入った囚人の75%は、生きて帰ることができないとされましたが、一体、どれだけの人々がここに収監され、そして殺害されたのか、今となってはわかりません。刑務所内には火葬場の痕跡もあり、囚人たちの遺体がここで焼却処理されていたらしいことも報告されています。

シリア人権監視団(SOHR)によると、内戦以来、3万人の被拘禁者がここで残酷な手段によって殺害されたとされ(2021年1月)、一方、アムネスティ・インターナショナルは、「2011年9月から2015年12月の間に、サイドナヤで5,000人から13,000人が非合法に処刑された」と推定しています(2017年2月)。

この刑務所に拘束されたほとんどが、アサド政権への政治犯と見なされた人々で、ほとんどが一般市民でした。刑務所への収監とともに囚人たちは消息不明となり、家族は長年、本人の生死すら分からない状態が続いていました。

シリア中部のパルミラ出身の私の夫の兄には、サーメルという名の兄がいました。大柄で力が強く、ユーモアを愛し、大食い。肉が大好きで、「毎日美味しい肉が食べられるから」という理由で、シュワルマ(アラブ風サンドイッチ)屋で働いていました。

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(葡萄棚の下で、羊の解体をした直後のサーメル兄。この日、飼っていた羊をさばいて、家族でバーベキューをした。サーメルは肉を食べるのが大好きだった。2009年、パルミラにて撮影。)
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(母子ラクダの餌やりを終えて、ひと息つくサーメル兄と父親ガーセム。2009年、パルミラにて。パルミラの街は2015〜16年にかけて空爆により破壊され、ガーセムも自宅を失って2016年にトルコに逃れた。その後、2021年5月にトルコ南部のオスマニエにて亡くなるまで、シリアに再び帰ることを願い続けていた)

そのサーメルは、2011年以降、シリア各地で勃発した民主化運動に啓発され、パルミラでの運動に参加。仲間たちと大通りを歩き、「シリアに自由を!」と叫びました。それは、市民によるごく平和的な民主化デモでしたが、アサド政権は軍隊を投入してこれを弾圧し、市民に多くの死傷者が出ました。さらに、こうした民主化デモに参加した者を警察に取り締まらせ、サーメルも追われる身となりました。

サーメルは半年近くにわたって砂漠を逃げ回り、身を隠しましたが、数カ月ぶりにパルミラの実家に帰ったところを密告され、実家に警察が踏み込んできて逮捕されたのでした。

それは2012年5月のことで、私はその日、首都ダマスカスでその報を聞きました。当時、私の夫は(まだ結婚前ですが)2年間の兵役の義務のために政府軍の兵士として徴兵をされており、その夫と会っていたときに、サーメルが逮捕されたという知らせが届いたのでした。その時の夫は、数時間にわたって言葉を発することができませんでした。

「シリアでは政治犯として逮捕をされると、行方不明になったまま、生死すら分からなくなる。ひどい拷問も受ける。兄がこれから、そうした境遇に置かれていくことを思うと耐えられない」。のちに、夫がそう語ったことを思い出します。

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(サーメル兄の死を知ってショックを受ける夫ラドワン。2012年5月。この時から、私のシリア内戦や難民の取材が始まっていった)

あれから12年、サーメル兄の行方は分からないままでしたが、彼がサイドナヤ刑務所にいるのを見た人がおり、そこにいるらしいことは分かっていました。

夫の家族は、サーメルがいつか釈放される日が来るのではないかと待ち続け、〝囚人を解放する手助けをする〟と語る者からの詐欺にもあい、大金を払ってしまったこともありました。しかしサーメルは帰ることなく、アサド政権崩壊の2024年12月8日を迎えました。

シリアには、サーメルと同じ境遇の多くの家族がいます。こうした人々は、アサド政権崩壊後、行方不明の家族を探して全国からサイドナヤ刑務所に集まりました。サイドナヤに収監されていた囚人たちの一部は解放されましたが、その一部は数日前のハマ陥落の日に、政権側によって人質としてラタキアに送られ、アサド政権崩壊後、ほとんどが殺害されました。

しかしサイドナヤ刑務所の内部には囚人リストが残されており、このリストが現在、人々の手によってSNSで公開されています。

その膨大な囚人リストのなかに、サーメルの名があるのを兄の一人が見つけました。

〝2013年10月28日、サーメル・アブドュルラティーフ〟

少なくともこの日までは、サーメル兄はサイドナヤ刑務所の中で生きていたのです。その確かな証拠が、ここに残されていました。