(*こちらの記事は、一般の皆様にも公開させていただきます。写真は簡易編集・低画素のものです。)
2024年11月20日の午後のことです。シリア中部の街パルミラに突然、大小異なる二機の戦闘機が飛来し、大きな戦闘機から数発のミサイルが発射されたのです。その様子を、パルミラの住民たちは家の外に出て、大騒ぎで見ていたそうです。
私の夫の姪にあたるオンム・ムハンマドもその一人です。その日のことを、彼女はこう語りました。
「パルミラが空爆に遭うのは本当に久しぶりだったので、みんな慌てました。でもその戦闘機を見て、あれは(これまで見慣れている)シリア政府軍のものではないとすぐ分かりました。戦闘機からミサイルが斜め横に発射されると、まもなく〝ドーン〟というすごい轟音が響き渡りました。地面が大きく揺れて、大量の煙と埃がここまで飛んできたんです」
オンム・ムハンマドによれば、その直後、パルミラに駐屯していたイラン軍の兵士たちが集団になってこの近くまで逃げてきたとのこと。彼らはパニック状態に陥っており、攻撃したのはアメリカかイスラエルかもしれないと話していたそう。その様子から住民たちは、標的がイラン軍の施設だったことを知ったのでした。
「でも」とオンム・ムハンマドは続けました。
「イラン軍はシリア政府軍に協力し、私たちの家(パルミラ市民の家)から略奪を繰り返してきました(2015年〜2016年にかけて激しく行われたパルミラでの空爆で住民の多くが去ると、政府軍・イラン軍・ロシア軍は空き家になった家から、家具や、窓枠、扉などの鉄製品を運び出して略奪し、転売したとされる)。だから彼らが空爆されたからといって、同情は全くしません」。
この11月20日の出来事を、シリア人権監視団(英国)は、〝空爆があったのは、パルミラの市内の親イラン民兵組織の武器庫などの関連施設の3カ所で、会合中だったヒズボラ戦闘員4人を含む92人が死亡。イスラエルによる、最も激しいシリア攻撃だった〟としています。
*参考記事
(「ヒズボラへの「補給路」シリア、イスラエルの空爆で92人死亡…米仲介の停戦交渉の行方は不透明」読売新聞オンライン2024年11月23日)https://www.yomiuri.co.jp/world/20241122-OYT1T50174/#
オンム・ムハンマドによると、この空爆で亡くなったのはヒズボラ戦闘員やイラン軍兵士、政府軍兵士だけでなく、その協力者として働いていたパルミラの住民も数多く犠牲になったそうです。
空爆の背景にあったのは、レバノンの親イラン民兵組織であるヒズボラ、それを支援するイランと、イスラエルとの関係悪化でした。イスラエルはレバノンでヒズボラと交戦しており、イランからシリア経由でヒズボラに武器が密輸されていると指摘していました。
そのため、シリア国内のイラン軍施設を空爆で破壊することで、この国でのイラン軍の影響力を失わせると共に、ヒズボラの弱体化も狙ったようです。
このイスラエルによる空爆地点が、オンム・ムハンマドの家から1キロほどしか離れていない場所であると聞き、オンム・ムハンマドの夫ムニールが、その場所に連れてくださいました。
そこは2011年以前、シナアという名の学校があったところでした。学校の体育館や校舎はそのままイラン軍の施設として使用され、敷地内には新たに軍事施設が作られていたようです。
ムニールは、バイクから下りたばかりの私たちに言いました。「舗装されたところだけを歩いて。土の上は歩かないように」。
イスラエルによる空爆後、パルミラに駐屯していたイラン軍は壊滅的な打撃を受け、12月6日には全員がこの街から撤退したわけですが、その際、彼らは地雷をあちこちに埋めて去っていったようなのです。そのため、アサド政権崩壊後も、イラン軍が残した地雷を踏んで亡くなるパルミラの住民が立て続けに出ていることを聞きました。
こうした地雷について、反体制派兵士たちが撤去を進めてはいますが、埋蔵量が多く、追いついていないとのことでした。そのため、イラン軍が駐屯していた一帯には多くの地雷が埋まっていること、歩き回ってはいけないと注意を受けました。
私はその場で、同行していた8歳の息子に、地雷について説明をしました。足で踏むと爆発する爆弾がこの辺りにあるかもしれないから、みんなと同じところだけ歩くんだよ、コンクリートの上だけしか行っちゃいけないよ、と。
「イランの人、なんでそんな危ないものをわざと埋めたの?」と息子が尋ねるので、返答に困りました。まさか、見ず知らずの住民や敵を殺害するため、とは言えません。息子が同行するシリアの取材では、こうした返答に困ることが度々ありました。
イラン軍の軍事施設として利用されていたらしい倉庫のような建物の中には、脱ぎ捨てられた大量の軍服と軍靴が散乱していました。
ムニールによれば、11月20日にイスラエルによって空爆を受けた後、イラン軍兵士たちは全員私服になり、バスに乗ってパルミラから去っていったと言います。その時点で、まだアサド政権は崩壊前でしたが、すでに兵士としての戦闘意欲は無かったようです。
パルミラに駐屯していたイラン軍兵士たちは政府軍よりもはるかに多く、恐らく3000人ほどはおり(ムニール談)、彼らが一斉に私服でパルミラから去っていく光景に住民たちは驚いたそうです(ムニール談)。
そのイラン軍兵士たちが脱ぎ捨てたであろう軍服や靴などが、積み上がったままそこに残されており、さらに付近には、コインランドリーにあるような大型の洗濯乾燥機が2台ありました。
大変意外だったのは、そこに野良犬が住み着いていたことです。犬たちはイラン人兵士が脱ぎ捨てた軍服の上に座ってくつろいでおり、私たちが来ても吠えたり驚くこともなく、寝転んだままじっと私たちを見ていました。
その人間に慣れた様子から、この犬たちはイラン軍の兵士たちによって飼われ、世話されていたのかもしれないと思いました。
恐らく、11月20日のイスラエルによる空爆や、その後に兵士たちが大挙して去っていく姿も目にしたかもしれません。犬たちにとっては、ここで何が起きているのか、なぜ兵士たちがいなくなったのか、全く理解できなかったことでしょう。犬たちがそこで、まるで飼い主を待っているかのように座っていたその姿に、私はなんとも言えぬ気持ちになりました。
同時に、これまでパルミラの住民たちにイラン人による略奪や地雷の設置などの非道行為をさまざま聞かされてきましたが、彼らもまた、犬を可愛がり、世話する普通の人々であったかもしれないとも思ったのでした。
ムニールによると、イラン軍が去った後のこの倉庫には、窓枠や鉄の扉などの鉄製品や家具などが大量に保管されており、イラン軍兵士たちがパルミラの空き家から略奪したものだったとのことです。それを今度は、イラン軍が去った後、パルミラの住民の一部が略奪行為に