(こちらの記事は、引き続き、シリア取材の報告です)
シリア中部の夫の故郷パルミラは、世界遺産パルミラ遺跡が残る、古代からのオアシスとして知られています。しかしこの14年間にわたる内戦状態の日々の中で、大きな混乱と破壊を経験した街でもあります。
2011年頃のパルミラの人口は約10万人とされていますが、2022年9月にこの街を取材した際は、街の大部分が空爆で破壊されており、一部の限られた区画に500人ほどの住民が暮らしているに過ぎませんでした。
その頃パルミラは、「マンティカ・アスカリ(軍隊の街)」と呼ばれており、シリア政府軍、ロシア軍、イラン軍の三軍が駐屯し、南下を試みようとするイスラム過激派組織ISや、北部のクルド人勢力に対する軍事の要衝となっていました。古代から、シリア砂漠の中央にあって、交易の要衝として栄えた地理的重要性は現代でも変わらず、この内戦では首都ダマスカスの前哨の地として重要な地点とされたのです。
2015年にイスラム過激派組織ISによってパルミラが占領を受けた際は、2016年にかけ、市民が暮らす街ごと空爆で破壊され(政府軍、ロシア軍による)、街としての機能を徹底的に奪われました。
その後ISは、2017年頃には勢力を失い、パルミラからも去りましたが、街の大部分が破壊されたパルミラには、住民が戻れない状況が続いていました。
それは、単に建物が破壊されたからだけではありませんでした。軍事の要衝であるパルミラでは、政治的にも政府への忠誠を誓い、警察や軍に協力しなければ、この街には残れなかったという事情もあったと親族から聞いています。
私は2022年にこのパルミラを取材し、夫の実家を撮影したわけですが、その際、秘密警察による厳しい監視と、それに積極的に協力する住民の姿を目にしています((詳しくは、季刊誌『Kotoba』(集英社インターナショナル)の12月号にて執筆させていただきました。まだアサド政権崩壊前の原稿です))。
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パルミラに、シリア政府軍だけでなく、イラン軍やロシア軍が駐屯するようになったのは、2016年3月頃からと言われています(その後、2016年12月にパルミラが再びISによる占領を受けた際のIS掃討作戦では、政府軍と共にイラン軍も参加)。
パルミラの住民にとって、政権に軍事協力を行っていたイラン軍やロシア軍の兵士たちは、ほぼ交流がなく、軍事基地内で協力者として働く者以外は、接点のない存在でした。一方で彼らは、政府軍とともに、空き家となった人々の家から、残されていた家具や工芸品、窓枠や扉などの鉄製品を略奪し、転売していたことも報告されています。
わずかに残っていた住民たちは、そうした姿を目にしながら何も言えなかったといいます。
イラン軍やロシア軍は、シリア政府軍と協力関係にあり、アサド政権維持のために対立する敵(反体制派、IS、クルド人勢力など)からシリアを守る任務を負っていましたが、パルミラの住民にとっては決してありがたい存在ではなく、市民の家から略奪を働き(イラン軍、ロシア軍)、街中を空爆で滅茶苦茶に破壊した(ロシア軍)厄介な存在とされていました。それでも人々はアサド政権下、恐怖によって支配されていたため、彼らに従わざるおえなかったのです。
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そうしたパルミラでの情勢を変えたのが、2024年11月20日にパルミラで起きた、イスラエルによる空爆でした。
前回の記事に書きましたが、この日、市内3カ所のイラン軍の施設がミサイル弾によって破壊され、100人近くが死亡しました。
パルミラだけでなく、シリア国内のイラン軍の施設(兵器の保管庫や)、レバノンの親イラン民兵ヒズボラの拠点などが相次いで空爆された結果、イラン軍とヒズボラは、シリア国内での影響力を失うことになり、アサド政権崩壊の要因のひとつとなったとされています(アサド政権を軍事的にサポートしてきたのは、ロシア軍、イラン軍、ヒズボラであった)。
その後、壊滅的打撃を受けたイラン軍は、12月6日までにはパルミラに駐屯するイラン軍兵士の全員がこの街から撤退しました。
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今回の取材では、こうしたイラン軍兵士たちが暮らし、兵器を製造していた場所が残されていると聞き、この街の住民である夫の親族(夫の姪の夫)ムニールに案内いただきました。
そこは、パルミラの中でも富裕層が暮らしていたジャマイーエ地区。この一帯では、政府軍、イラン軍、ロシア軍が、空家となった民家を利用していました。
アサド政権の崩壊後の現在は、政府軍もロシア軍もパルミラを去ったわけですが、彼らが暮らしていた一帯は、今も危険であるとムニールは言います。
彼によれば、つい数日前、この地域にある自分の家に十数年ぶりに戻ってきた元住人が、家に立ち入ったところ、地雷が仕掛けられており、3人が爆死したというのです。
特にイラン軍は、パルミラから撤退する際、たくさんの地雷を埋めていったらしく、住民たちはそのために、かつての自分の家や土地に立ち入ることができないとのことです。
今回、このジャマイーエ地区の中で、すでに反体制派兵士が検査のために立ち入っていた何軒かの家を、兵士に案内してもらいました。
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その家に残されていたものに、私は目を疑いました。
部屋いっぱいに積み上げられていたのは、爆薬や、兵器の部品です。手作りをしたらしい地雷と思しきものもたくさんありました。
「ここ、お家だよね?なんでここに、こんなに爆弾あるの?」。
その場で、アラビア語でそう質問した息子サーメル(8歳)に、私を含め、その場にいた大人たちはみんな沈黙しました。