人間は、未知なるものに惹かれ、それを知ろうとする存在だ。例え先が見えず、大きなリスクが待ち受けているとしても、見たことのない世界を見たいと願い、知らないことを知ろうとする。そして、私もまたそうした一人でありたいと思ってきた。

ヒマラヤ登山、土地をめぐる長い旅、内戦下のシリアの取材やシリア人男性との結婚など、振り返れば、「安定」とは程遠い方向へと歩いてきた。判断を迫られるとき、自分にとって〝いかに未知の要素が強いか、より不確定要素が高いか〟を求めてきたように思う。

9月に上梓させていただいたノンフィクション本、『人間の土地へ』(集英社インターナショナル)。ヒマラヤに登り、シリアの沙漠の暮らしに出会い、内戦を目撃し、難民となってゆく人々の姿を記録した一冊だ。人間が土地に生きるとはどういうことなのか、普遍的な問いをそこに投影した。
本の売れない時代、さらに売れにくい分野の本ではあったが、大変ありがたいことに重版が決まった。地平線の皆様をはじめ、多くの方々に応援いただき、一つの作品を世に出せたこと、そして多くの方に読んでいただける機会をいただいたことに心から感謝している。

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それにしても本を読み返してみると、よくこのでこぼこ道を来たものだと、めぐり合わせの不思議を思う。私たちが歩く道は、無数の選択の連続のうえにつくられるが、一方で、もしかしたら、私たちは流れにただ舟を浮かべているだけなのかもしれない。流れはときに速く、悠々と、私たちを知らぬ土地へと導いていく。

シリア難民の一人である夫と結婚し、8年目を迎えた。夫は2013年に来日してからなかなか日本社会に馴染めず、現在は逆に、「馴染まないで生きること」を試みているようだ。
夫は、シリア中部の沙漠にルーツを持ち、2011年まではラクダの放牧業に従事していた。内戦が起きなければ、彼は今もラクダと共に沙漠を歩いていただろう。
夫はアラブ人が「人生の価値」と信じる「ゆとりの時間」を重視し、「意図的な低収入」を実践している。日本の伝統や資本主義経済になじまない夫の流儀は、外から見るには観察していて面白いが、家族として一緒に暮らすには限りなくサバイバルでもある。だが、そんな独特の視点からは気づきも多い。

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最近の夫との論争の的は、保育園だ。保育園に子供を預けることが、親の生活を通して、子供が世界を知る機会を奪っている、というのである。子供は親と過ごすことで、家族の文化や仕事、世界観という最も重要な部分を吸収するのに、その姿を見せないばかりか、その重要な役割を他者に任せるなんて何事か!この土地に生きるための知恵や文化を子供に教えられていない、というのだ。

かつてのシリアでの暮らしは、沙漠とオアシスの家を季節ごとに往復する悠々自適たるもので、アラブの伝統とイスラムの教義、そして沙漠という唯一無二の自然に彩られていた。
夫も家族もほとんど学校に通わず、文字の読み書きはできなかった。する必要もなかったようだ。学ぶとは、学校で知識を得ることではなく、生活を通し、沙漠という風土に生きるための知恵を自ら五感で経験し、継承することだった。
本当の知恵は、生きた人間から、その姿を見たり話を聞くことで、自ら感じ、醸造するもの。夫にとってはそれこそが「子供を育てる」ということで、親が子供に与えられる最も重要な仕事なのだった。代々沙漠に生きた彼の一族が、そうやって土地との絆を結んできたことを思う。

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夫はキャリアや経済的安定に関心がなく、むしろお金では買えないもの、お金では測れないものにどこまでも価値を置いている。いかに家族で団欒するか、いかに時間をかけて何かをやるか。効率や速さは重要でないばかりか、むしろ心の余裕を侵害する悪だと考えている。だから経済至上主義には染まらない。そんな夫の姿に疲れ、ときに変人扱いし、「せめてちゃんと働くか家事・育児に協力せんかい!」と迫ったこともあった。しかし最近では、時流に流されることのない人間のひとつの豊かさを体現しているようにも思える。

コロナ禍のもと、写真の仕事に窮した私は、ウーバーイーツ(デリバリーサービス)の配達員としての新しいキャリアをスタートさせた。夕食後、2人の子供たちを電動自転車の前後に乗せて、ひたすら自転車をこぐ。子供を連れるのは、夫が預からないからという切実な事情もあるが、子供たちが行きたがるからだ。そのうち子供もこの仕事を手伝ってくれている。「こんにちは、ウーバーイーツです」と店やお客様に元気よく挨拶する係は長男で、次男は坂道の登り坂で、「ママガンバレ、ママガンバレ」と言って応援する係である。そして長男には、一回の配達につき50円を与えている。長男は車を買うといって貯金をしており、もう3000円ほど貯まっている。

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夜の街を走りながら、心に響くのは美輪明宏の「ヨイトマケの唄」だ。「母ちゃんのためなら、エンヤコラ!」。こうしてウーバーイーツの配達を子供と一緒にし、ここに生きる姿を見せる。ちょっとだけ、夫の言葉を意識してみる。シリアでは沙漠の放牧で子供に人生を教え、日本ではウーバーイーツの配達で人生を教える。なんたる違いか。どうしようもないが、今はこれでいいのだ。

「よきことはカタツムリのように進む」。インド独立の父マハトマ・ガンディーの言葉だ。人間にとって真に価値あるものは、時間をかけて実現されるものだとする。

(2020年12月)