トルコでのコロナの影響は?

日本では爆発的に新型コロナの感染者が増えているとのこと。トルコではコロナはどうなっているの?と質問されることが多かったので、ご紹介したいと思います。

7月半ばの渡航時、飛行機乗り換えのアブダビやイスタンブールの空港では、すでに人々の半分ほどがノーマスクでした。

さらにトルコ南部に来ると、街中でも、公共の施設内でも、ほとんど誰もマスクをしていません。

オスマニエ郊外の道端で、ビー玉遊びをするシリア人の子供たち。トルコでは子供に人気の遊びだという。
ビー玉をペットボトルに入れ、大事に持ち歩いていた少年。

驚くべきは、先日、感染症にかかってオスマニエの総合病院に行きましたが、医師や看護師などの医療従事者までもがノーマスクか、口マスク(口だけマスクをして鼻にはマスクをかけていない)が圧倒的。診療に来ている患者も、ほとんど誰もマスクをしていません。

トルコでも、コロナの感染者は一定数いると思いますが、もうあまりコロナを気にしてはいないようです。その大きな理由が、自粛に疲れたことと、コロナ対策の失敗による経済の疲弊が深刻であることが挙げられるようです。

コロナ全盛期の昨年4〜6月、例年通りトルコで取材を行い、コロナ禍のトルコを体験しました。その頃はイスラム教徒の断食月ラマダンもあって感染の爆発が懸念され、厳しいロックダウンが行われていました。

例えば、外出時には必ずマスクをしなければならず、土日の外出、夜20時以降の外出も禁止で、違反すると月収に相当するほどの高額な罰金が課せられました(しかし実際人々は、家の中では不特定多数がいてもノーマスク。また土日や夜も、警察のいない道からぞろぞろと建物の影に隠れながら移動し、親族訪問をしていました)。

こうしたなか、コロナ禍で多くのビジネスが破綻し、失業率が非常に高まっていきました。そして9〜12月にかけて、4回にわたるトルコリラの「利下げ」が中央銀行によって行われ、トルコリラは大暴落。物価が昨年と比べて2倍ほどに値上がりしました。

コロナ対策は失敗したとされ、人々はコロナの自粛生活に飽き飽きしているようです。そしてコロナ以上に、上昇した物価の中でどう生活を維持していくかが、人々にとってはるかに大問題なのです。

というわけで、トルコではもはや、コロナを気にする人はあまりいないように感じられます。道路脇のチャイハネ(喫茶店)でも、杖を手にしたお年寄りたちが、ツバを飛ばしあってトランプゲームやおしゃべりに興じています。

お気に入りの青いビー玉を見せてくれる少年。
ビー玉遊びに興じるシリア人の子供(と乱入する私の子供たち)。子連れ取材の苦労の一つは、子供が被写体と仲良くなり、どうしても写真に写り込んでしまうことだ。

実際、私たちもコロナをめぐってこんなことがありました。先日、感染症にかかってゲロゲロ事件が起き、長男が病院で検便をしました。

その結果、腸から「コロナの友だち」のウィルスが見つかったそうで、ちょっとした騒ぎに(医師は「Friend of Corona」が見つかったと話し、そのときだけ、私たちの前でマスクをつけ、私たちが部屋から出るとすぐにマスクを外しました!涙)。

急遽、PCR検査を受けることになりました。その頃体調が悪かった長男が代表して受けたのですが、内心私は気が気ではなかったのです。
親族は頻繁に交流し合う大家族。泊まらせてもらっている夫の兄の家族はもちろん、オスマニエに暮らす親族100人近くが全員感染という大変な事態になるかもしれない。中には高齢者もいるし、どうしよう・・・。

不安を夫の兄に話したところ、「問題ないよ。一緒にコロナを広げていこう」と、冗談とも本気ともとれぬことを真顔で言われ、なんとも反応に苦慮したということがありました。そしてこれが、シリア人がどんなときにも大事にする「ユーモアのセンス」(アラビア語で「ノクタ」と呼ばれる。「冗談」を指す)なのだと後から思いました。

親族も、私たちがコロナかもしれないという事態に戸惑ったはずです。しかし、〝とりあえず今は笑い飛ばして気にしない〟、というのがいかにも彼ららしいなと思いました。起きていないことをくよくよ考えてもしょうがないのです。

シリア人の家族を持って日々感じるのは、彼らは計画性を持って何かをすることがあまりない一方で、何かが起きる前から物事を不安に考えたりすることもないこと。ことが起きてから、その時に考えればいいと捉えているようです。過去でも未来でもなく、常に今を生きている人々なのです。

その後、PCR検査の結果が4日後に出て(非常に時間がかかる)陰性とわかりホッとしました。

コンクリートブロックを積んで建てられているオスマニエの家。多くの家には庭があり、イチジクやザクロ、オリーブの木々が生えている。

現在はコロナのほか、サル痘などの感染が広がりつつありますが、私たちにとってこのトルコ南部で最も警戒しなければいけないのは、やはり先日かかってしまったような食物から来る感染症です。一週間繰り返した下痢と嘔吐は、近年経験したことのない大変な事態でした。

引き続き、体調管理に努めながら取材を続けます。

7月終わり、陽が落ちるのは20時頃。その頃から涼しくなるため、人々はベランダや屋上で涼んだり、親族や知人の家に訪問へ行ったりと、ゆったりした夜を過ごす。子供たちが24時近くまで路上でサッカーをしていることも。

トルコで今、シリア難民が直面していること

トルコに来てから感染症にかかってダウンしていましたが、ようやく回復してきました。療養中は、シリア難民の一人である夫の兄ワーセルの家でお世話になりました。シリア難民のコミュニティの中にいると、枕元でも、日々彼らの身に起きているさまざまな情報が入ってきます。

トルコでは、なんとこの一年間で物価が2倍に高騰

例えば、昨年と比べてトルコの物価がいかに高騰したか、深刻な危機感を現地の人々から感じています。

トルコでは、昨年9月から12月にかけて中央銀行が4回の「利下げ」を強行に実施したため、トルコの通貨リラが大暴落(昨年12月の物価上昇率は36%)。トルコリラは、一年でなんと半分以下にまで下がり、インフレが止まらない状況に国内各地で抗議運動が起きています。こうしたなか、トルコ社会の最底辺で生きているシリア難民の生活苦も限界に達しつつあります。

(*リラ暴落を受け、トルコ人労働者には給与の値上げがされたが、ほとんどのシリア人には行われていない)

(シリア人が主食とする薄いパン「ホブス」は、昨年の今頃は、8枚入りで2.5リラ(約18円)。現在は6枚入りで4.5リラ(約36円)に値上がり)

(卵は昨年30個で16リラ(約130円)。今年は48リラ(約400円)に値上がり)

(ヨーグルト4キロで昨年は4.5リラ(約33円)、今年は12リラ(約110円)に値上がり)

トルコ人による反シリア人感情も高まっている

また、こうした物価高騰や失業率増加のなかで、トルコ人による反シリア人感情が高まっています。シリア人への差別や攻撃も増加しており、シリア人を見れば、「シリア人はシリアに帰れ」とおもむろに言われることも増えたとのことを親族から聞きました。

イスタンブールやガズィアンテップ、イズミルなどの大都市では、差別を受けたシリア人とトルコ人との衝突により、死者が出る事件もたびたび起きています。滞在しているオスマニエの親族の家の前でも、つい数日前、シリア人の子供がトルコ人の子供に恐喝を受け、ナイフで切りつけられて怪我をする事件が起きました。周りのトルコ人の大人たちはそれを止めなかったとのこと。

(夫の兄がオスマニエで営む小さな商店では、シリア人への嫌がらせとして、店が焼き討ちにあったり、ガラスを割られたりする事件が起きた)

親族によれば、学校でもシリア人の子供がトルコ人の子供に嫌がらせを受けたり、差別される機会が増えてきたとのことです。

2023年のトルコ大統領選の結果によっては、シリア難民の状況はますます厳しいものになりそう

こうしたなか、来年は現エルドアン大統領の再選をかけた大統領選挙が控えています。

高インフレでエルドアン大統領の支持率が低迷しているのを受け、野党は6党で共闘し、約20年ぶりの政権交代を目指しています。

これまでシリア難民の受け入れに比較的寛容な立場をとってきたエルドアン大統領ですが、庶民の生活が圧迫されているトルコでは、400万人超のシリア難民を受け入れ続けることへ不満が噴出しています。こうした不満に応える形で、エルドアン大統領は今年5月、100万人のシリア難民を(現在トルコに暮らすシリア難民の四分の一)母国に帰還させる計画を公表しました。現在、シリア北部のトルコ占領地に、住宅やインフラ建設を進めています。

しかしエルドアン大統領の支持率は大幅に下落したままで、来年の大統領選で負けるかもしれないという見方もトルコでは有力です(報道では、勝率は五分五分とのこと)。

仮にエルドアン大統領が選挙で負ければ、新しい大統領になるだろう野党の候補者は、シリア難民の帰還政策をより強硬に押し進めるとされており、シリア人の苦境はますます加速していきそうです。

「もしエルドアンが負けたら、自分たちは一秒もトルコにいられなくなる」。夫の兄ワーセルはそう話し、不安を隠せない様子です。

(物価の上昇から、シリア人の多くが食費を極端に切り詰めている。こちらは親族の家のある日の昼食。炊き込みご飯と豆のスープ「アダス」。肉は高いので、特別な時だけしか食べない)

シリア難民にとり、トルコはシリアと言葉や民族も違い、職に就くのも困難で、シリアより2倍近く物価が高い国です。もともと困難な状況下でなんとか生活を維持してきたのですが、一昨年からのコロナ禍による不況、さらに昨年からの物価の高騰が続き、差別も増えたうえ、政策上でもシリア人の帰還が進められるとなると、ますます追い詰められていくことになります。

追い詰められるシリア人の、最後の選択肢

こうした流れを受け、多くのシリア人はこの先もトルコに暮らすことに希望を持てず、先手を打ち始めています。その一つの形が、ヨーロッパへ渡るという選択です。

イタリアやドイツ、スウェーデン、オランダ、イギリス、スイスなどのヨーロッパ諸国では、国境までたどり着いて「難民」として登録されれば、生活の保証と自立に向けたプログラムを受けることができます。こうした国々では、難民という立場の権利から、将来的に家族を呼び寄せて、安定した生活を送れる可能性が高いのです。

多くのシリア難民にとって「ヨーロッパへ渡る」ということは、密入国業者の手を借り、不法に海を渡ることを指します。

それはまず、安全面で非常にリスクが高い行為です。また密入国にかかる費用は信じられないほど高額です。それでも、行き場がなくなったシリア人は、海の向こうに希望を見出して、不法にヨーロッパを目指すのです。

こうした動きは、最近になって激増しており、私の親族の中でも起きています。

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ゲロゲロ事件のその後と、マヨネーズとアレルギー。

(作ってもらった自家製マヨネーズを茹でジャガイモに混ぜて、喜ぶ子供たち。4日間のジャガイモと塩だけの食事の後で、マヨネーズがこんなに美味しい食べ物だと強烈に実感)

トルコに来ていきなり親子三人ともにお腹を壊し、ほぼ寝たきりになっている日々。この5日間はほとんど、お腹と家計に優しい「茹でジャガイモ」だけを食べ続けています。こんなにジャガイモばかり食べ続けたことはなかった、というくらいジャガイモだらけです。

塩をふった「茹でジャガイモ」だけの食事にも飽きが出てきたところで、泊めてもらっている家(夫のお兄さんの家)のお母さんが、ジャガイモにつけ合わせるマヨネーズを作ってくれました。

(左が自家製マヨネーズ。茹でジャガイモを潰して混ぜると、これだけで素晴らしいご馳走だ!)

シリアでは、マヨネーズは買うものではなく、自分の家で作るもの。このマヨネーズが、ニンニクが効いていてとても美味しいのです。レシピをご紹介します。

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【シリア風自家製マヨネーズのレシピ】

〈材料〉
・卵白2つ分
・ニンニク1〜2かけら(お好みの量で)
・塩ひとつまみ
・サラダ油(卵白の量の半分くらい、お好みの量で)

〈作り方〉
全部をミキサーにかけて混ぜるだけ。あら簡単!できたマヨネーズは冷蔵庫に入れて、早めに食べましょう。

日本で一般的なマヨネーズは卵黄を使って作られるようですが、シリアのマヨネーズは卵白が主役の白いマヨネーズなのです。ニンニクが効いており、鶏肉のローストや、フライドポテトによく合います。是非お試しあれ!

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(食欲も少しだけ回復してきた)

ところで本題の体調ですが、私と次男が回復してきたものの、長男がなかなかよくならず、ひどい下痢と嘔吐が続いています。

長男は病院で処方された薬を飲んだところ、全身に赤い発疹ができました。翌日その病院に行って相談したところ、薬によるアレルギー反応と言われ、特定の薬を抜くように指示されて抗アレルギー薬を注射、発疹が引きました。

ところが翌日、再びひどい発疹が全身に。病院に行くと、抗アレルギー薬を注射され、新しい薬を処方されました。ところが翌日になると、さらに薬アレルギーと思われる赤い発疹が。長男の体は腫れ上がりました。

この病院は薬のアレルギー反応にあまり注意を払わないようだったので、別の病院へ。事情を話したところ、そこでも抗アレルギー薬の注射と、全く別の薬の処方をされました。

ところが翌日、なんとまた、長男にまた赤い発疹ができ、熱も上がりました。

新しい薬の処方と、アレルギー反応と、抗アレルギー薬の注射。同じことが3回も繰り返され、長男の体は点滴と抗アレルギー薬の注射の連続でダメージ大。赤い発疹がなぜ出たのか、何のアレルギーなのかを知りたいのですが、医師たちは薬をどんどん変えて新しいものを出すだけで、長男に処方された薬は、最初の病院のものを含めると11種類にも及び、その診療のあり方に疑問を感じ始めました。

長男にとっては、下痢よりも、薬によるアレルギー反応のほうがむしろ重篤で、処方された薬を飲めば飲むほど体調が悪くなって、衰弱していきました。

そこで考えた末に、処方された薬の服用を全てやめることにしました。日本から持ってきた最低限の薬(腸の薬ビオスリー)と、自家製ポカリスエットを飲んで水分補給し、ゆっくり休むよう、計画を切り替えようと考えています。
以下、その判断について(かなりマニアックです)。

・検便の結果、長男の腸の中でウィルス感染があると分かっており、ウィルスの場合、抗生物質は効かない。よって抗生物質の服用はなし。

・処方された薬について知人の元看護師に問い合わせし、以下が分かった。感染による下痢には勧められていない2種類の薬、吐き気止め「メタパミド」と下痢止め「トリブダット」が処方されていた。通常は、感染からの下痢は菌を出す方がいいと考えられ、理由なく下痢を止めることはされない。飲まない方が良し。
また、高熱がある時は服用不可と説明書に書いてある下痢止め「Gisflor」が処方されている。さらに抗ヒスタミン(アレルギー薬)「Deloday」は、12歳以下の子供への使用の安全性が確立されていない。服用が不安。

・たび重なる薬のアレルギー反応と、抗アレルギー薬注射への体への負担を、医師があまり丁寧に考えていない。また同じアレルギー反応が起こることへの不安が大きい。

医療について、土地が変わればそのあり方も随分変わるものだと実感しつつ、自分たちの命を守る責任は、最後は自分たちにあるのだとしみじみ。

(泊めてもらっている親族の家の窓から、オスマニエ市街地を眺める。シルクロードの時代から栄えた歴史ある街で、周囲を山に囲まれている。朝夕は、鳩の群れが飛び交う)

そんなわけで、医療の手を一旦離れることにしました。そしてジャガイモ生活はまだ続きます。早く取材に出たいと思う毎日です・・・!涙

(食事の時間は、楽しいひととき)

(2022年7月23日)

ゲロゲロ事件が発生しました

(この文章には不快な表現が含まれる可能性があります)

オスマニエに来てからあまりの暑さで、何日もよく寝られぬ夜が続いていました。ある日、夕食を食べた後から子供たちも私も腹痛を覚え、その夜、大変なゲロゲロ事件が発生しました。

それは深夜のこと。遠くで子供の泣く声が聞こえたように思い、ふと目を覚ました私は、なんとも言えぬ匂いがたちこめているのに気が付きました。この匂いは、まさか・・・!

急いで部屋の電気をつけると、次男が寝ていたマットの上にこんもりと、あってはならないものがあるではありませんか!それもふた山も。それは、ゲロゲロの山だったのです。

次男はあちこちに吐きながら転がり回って(暑くて寝られないため)寝ており、くしくも寝ていたのはカーペットなどをきれいに揃えたばかりの夫の母の家で、そのあまりの惨状に、私はこれが夢であってほしい・・・と心から思いました。

とりあえず髪や耳までゲロゲロまみれの次男を起こし、ハンマーム(シャワーだけのお風呂場)に連れて行って体を洗い流し、服を着替えさせたところで、次男は今度はお腹を下し、上からも下からもゲロゲロ事件が発生しました。

次男をハンマームで待たせ、部屋のゲロゲロの山を掃除し、絨毯やマットを洗剤で洗って洗濯機にかけ、ようやく次男を寝かせて、「ああ、大変な夜だった・・・」と体を伸ばしたのも束の間。

長男が起き出し、「ゲボ(ゲロのこと)出そう」とのこと。そりゃ大変だ!とゲロゲロ用の袋を探している間に「もう出ちゃう!」と言うので、長男の片手を引っ張り、「早く早く」、と急かしてハンマームまで連れて行く途中、長男の体が重くなり、動かなくなりました。そして、なんということでしょう。廊下のカーペットの上に、ゲロゲロの山が出来てしまったのです。

次男同様に、長男も下痢と嘔吐でえらいことになっていると、さっき寝たはずの次男も起きてきてハンマームで再びゲロゲロ。そのうち、私自身もだんだん具合が悪くなってきて、もらいゲロゲロになりました。三人ともハンマームでゲロゲロ。それは、まるでこの世の終わりのような大変な惨状だったのでした。

その後子供たちを寝せるも、すぐに代わる代わる、「ゲボ出そう!」「ゲリ!」と起き出し、彼らをハンマームに連れて行った回数は長男が5回、次男が4回。朝までほとんど寝られないえらい夜になりました。

トルコ入りしてから水や食事にも気をつけていたのですが、おそらく、夜の暑さなど気候の違いからくる疲れが身体にたまり、食事の違いによって抵抗力も落ち、何かの食当たりを起こして一気にゲロゲロ事件に繋がったようです。

(ひどい下痢が続き、トイレから10メートル以内にいないと間に合いません。トイレのすぐ近くの床に臥して過ごす日々。万が一のためにゲロゲロ袋も常備。)

皆様からいただいた胃腸薬とキューピーコーワゴールドを重宝させていただき、私と次男はだいぶ回復しましたが、この四日間、ジャガイモとヨーグルトだけしか食べられない状態が続いています。肋骨が浮き出てきました。

長男の体調はまだ優れず、ひどい下痢と嘔吐を繰り返しています。一昨日から長男をオスマニエの病院に連れ、点滴を受け、薬を処方してもらいましたが、まだ快復まで時間がかかりそうです。

(消化に優しいジャガイモとヨーグルトだけを食べ続けています。子供たちは、突然の下痢に備えてオムツに履き替え)
(頻繁に水を飲む。オスマニエの市場や病院に近い親族の家に移動し、療養しています。)

昨日朝には、長男の体全体に赤いプツプツ状の発疹ができたため、同じ病院に連れていったところ、処方した薬のアレルギーと言われました。しかしどの薬が合わなかったのか調べることはなく、抗アレルギーの注射だけをして終わりました。

今回、オスマニエ在住の親族に連れてもらったのは、オスマニエで一番整った病院のひとつとのことでしたが、医師はパソコンの前に立ったまま、患者を一眼見て、薬だけ処方します。

検便や血液検査の結果についての説明もなく、また患者の同意や薬品の説明もなく、いきなり注射や点滴をします。同行してくれた現地在住の甥に聞くと、ここではそれが普通とのこと。日本の医療とはいろいろ違いもあり、不安も感じますが、現地でできることをやっていただいています。

(腹痛を訴える長男。日本の薬に比べ、トルコの病院の処方する薬があまり効かないように感じる(それとも普段慣れていない強力なウイルスなのか?)。四日経っても下痢と嘔吐にあまり改善なし。)
(お腹を壊したとき、シリア人は民間療法としてハーブティーをよく飲みます。数種類のハーブをミックスしたお茶「ズーラート」(写真左)やタイムのお茶「ザータル」(写真右)は、どこの家庭でもたくさん台所にあり、お湯で煮出して砂糖をたっぷり入れて飲むのが一般的です。私たちも、滞在している親族の家のお母さんに作ってもらっています。)

そんなわけで、トルコに着いていきなり感染症にかかり、親子でダウンしております・・・。

【ゲロゲロ事件メモ】

1 〜トルコの病院事情〜(オスマニエ在住の親族の話)

トルコには政府系の病院と私立の病院とがあり、トルコで難民として登録されているシリア難民は、政府系の病院の診察をほぼ無料で受けられる。薬代も無料。しかし政府系の病院は診察が雑で、丁寧に診療してもらえないとのこと。

私立の病院では、シリア難民は実費を請求され、また政府系病院に比べて高額なため、なかなかかかることができないが、丁寧な診察が期待できる。政府系の病院では見つからなかった病気が判明したり、より良い治療に繋がることも。

シリア難民として暮らす親族は、病状によって政府系病院と私立病院を使い分けているらしい。今回私が連れていってもらったのは私立病院。

2 〜診察代〜

私立病院にて、診療費一人375トルコリラ(約3000円)。薬代125トルコリラ(約1000円)。

オスマニエの平均日収が約1500円ほどなので、下痢と嘔吐の症状の診察代・薬代は、平均日収の二日分に相当し、非常に高額。

義父ガーセムのお墓参りへ

〜トルコ南部オスマニエにて〜

(ガーセム・アブドュルラティーフ、1939年1月1日生誕し(アブドュルラティーフ一家は全員正式な誕生日が不明で、誕生日は1月1日だ)、2021年5月31日に死没。お墓にお水をたっぷりかける。長男はまだ、人が死ぬということがどういうことかを理解しておらず、「ジッド(アラビア語で「おじいちゃん」)はどこ?」と探し回っていた。)

シリア難民としてトルコで4年近くを過ごし、昨年5月末に86歳で亡くなった義父ガーセム。昨年、亡くなる2、3日前に握手をしてお別れしてから、その死はあまりにも突然のことでした。

(毎日のように家の屋上で火を焚き、パルミラを懐かしんでいたかつてのガーセム。)
(その手は大きく、皮膚が厚く、長年風土とともにあった彼の生涯を思わせた。パルミラでは100頭のラクダの放牧が生業だった。)

(イスラムの祈りのとき。トルコに来てからは、一人屋上で過ごすのがガーセムの日課になっていた。)

オスマニエに到着し、まず向かったのが、郊外の丘陵地にあるガーセムのお墓です。ここは比較的お墓代が安価な公営墓地で、シリア人のお墓も増えつつあるとのこと。なるほど、トルコ語に混じって、アラビア語が刻まれた新しいお墓があちこちに作られていました。

(オスマニエの公営墓地。トルコ人のお墓に混じり、難民として暮らすシリア人のお墓も増えている。多くのお墓には赤や白の花が咲いている。故人の家族が頻繁にやってきては水を与えていることを感じさせた。)

イスラム教では、人が亡くなったら24時間以内に地中に埋葬しなければいけません。訃報が届いたらすぐに、近親者や友人などが故人の家に集まり、故人を埋葬するための準備が行われます。そして故人の身体を白い布でくるみ、良い香りの香水をふって、地中2メートル近くに掘られた穴に土葬します。

穴を掘ったり埋めるのは故人の近親者の役割で、特に遺体の上に最初に土をかぶせるのは故人に最も近い男性(故人の息子など)が行います。

穴を埋めた上には一段高く石を積んで囲い、誰かが上を踏んだり歩いたりしないよう、故人に敬意を払います。オスマニエのほとんどのお墓では、石の囲いの内側を花壇のようにして、花を植えていました。

日本でもお墓参りではお墓に水をかけますが、イスラム教でも同じです。故人を思い出しながら、お墓にたっぷりと水をかけます。ただし日本のように線香をあげたり、供物を供えたりはしません。

夫の兄によると、一週間に一度の頻度でお墓参りに来ているそう。亡くなった故人を悼み、死後もその冥福を祈る姿は、例え宗教が違えど、人間は皆共通なのだと改めて思いました。

ガーセムの面影を感じながら、彼が残したものをたどる取材がこれから始まります。

(ガーセムが眠るオスマニエ郊外の墓地。丘陵地や森林に、いくつかの区画に分けて墓地が作られている。丘を登ると、子供たちのお墓があり、アラビア語で名前が刻まれたシリア人のお墓が目立った。)

(2022年7月19日)

最初の取材地、オスマニエに到着しました!

14日に日本を出発してからアブダビとイスタンブールにて乗り換えをし、トルコ南部の街オスマニエに到着しました。オスマニエは落花生や高原野菜の産地として知られ、トルコ南部でも物価が安いことからシリア難民のコミュニティがある街のひとつです。

この街で、5年ほど前から難民として暮らしている夫の家族、アブドュルラティーフ一家を訪ね、親族の家を転々としながら取材をします。

ところで、トルコ南部はすさまじい暑さです!
オスマニエの日中の気温は40度近く、夜も暑さがあまり和らぎません!
難民の家族の家に泊まっているためクーラーや扇風機もあまりなく(ここではクーラーは非常に高価で、クーラーがあるシリア難民の家庭はほんの一部です)、日本でクーラーに慣れてしまった軟弱な私の体には、夜の暑さがこたえて寝られずに過ごしています。

そして最も大変なのは、イスラム文化の土地であるため、日中はもちろん夜に寝る時さえ、女性は常に「長ズボンに長袖」でいなければいけません(体の線が露わにならない服装が良しとされるため)。これが一番こたえます。とにかくもう、「・・・暑い・・・!」としか言えません。熱中症にならないよう水分を取り、あとはひたすら耐えるのみ・・・。

夜は横になってから1時間ほどは寝られず、「・・・暑い!」と転げ回り、そのうち寝たり起きたりして朝になります。転げ回らないと暑くて寝られません。
今後、8月にかけてますます暑くなっていくのを考えると、恐ろしい限りです。

ちなみに今、トルコからすぐそこのヨーロッパでも記録的熱波が発生中。山火事があちこちで起きたり、暑さのための死者もかなり出ているとか。

(2022年7月18日)

「転げ回った朝」(オスマニエ トルコ 2022)

7月14日、シリア難民の取材に出発しました

成田空港にて

今年もなんとか出発できました

今年もシリア難民の取材に出発しました。取材期間は7/14〜10/5です。コロナ禍やウクライナ侵攻などで国際情勢が揺れ動くなかですが、健康と安全に留意しながら取材に向かいます。

取材出発にあたり、たくさんの皆様に活動支援カンパをいただきました。ドル札や、日焼け止めクリーム、キューピーコーワゴールドなどの栄養補給剤もお送りいただき、大変助かりました。本当にどうもありがとうございました。

今年も取材は子連れで、6歳の長男と3歳の次男も一緒です。すでに成田空港で子供が行方不明になりかけ、パニック取材になりそうな予感ですが、子供たちもトルコで親族に会えるのが楽しみなようです(シリア人の夫の家族が難民としてトルコ南部在住のため)。

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シリア難民取材2022 〜主な取材内容〜

以下は、今年の取材の主なテーマです。主な取材地はトルコ、シリアです。

1 現在のシリア難民の状況。暮らしや精神的な変化について。

2020年からのコロナ禍により、シリア難民をめぐる状況は苦境に拍車がかかっています。経済的自立ができないまま、コロナ禍によって失業したままの難民も多く、安全が保証されている代わりに物価が高く就労も困難なトルコでの生活を諦め、シリアに帰ろうとする家族も増えています。2022年のシリア難民をめぐる現状を取材します。

2 トルコ政府によるシリア難民帰還政策の影響

現在トルコには、380万人近いシリア難民(シリア難民全体の8割に及ぶ)が暮らしていますが、今年、トルコ政府は約100万人のシリア難民の帰還政策を実施すると発表しました。2012年以降、大量に流入したシリア難民の存在が、現在もトルコ社会で大きな問題になっています。シリア難民に対してどのような帰還政策が行われようとしているのか。人々の反応について取材したいと思います。

3 シリア難民の故郷、パルミラの現在を取材

トルコ南部に暮らすシリア難民のうち、シリア中部のパルミラ出身者にフォーカスし、現在の彼らの暮らしとともに、彼らの故郷についての記憶、思いを取材します。その後、彼らの故郷パルミラを訪ね、現在の様子を取材します(シリアは単身で入国予定)。シリアに入るのは10年ぶりです。治安がまだ不安定ですが、できうる限りのリスク管理をして向かいます。

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小さな子連れのため、取材ペースもゆっくりですが、その分、人との出会いをじっくりと味わいながら、心を込めて写真を撮りたいと思います。

取材の経過はHPの「SYRIAN REFGEESS 2022 」のページにて更新していく予定ですので、こちらもご覧ください。

▼小松由佳HP 「Syrian refugees 2022」

https://yukakomatsu.jp/category/coverage-of-syrian-refugees-2022/

では元気に行ってきます!

(2022年7月15日)

いま見るべき映画 〜アフガニスタン難民のドキュメンタリー「FLEE(フリー)」〜

6月10日に公開されたアフガニスタン難民のドキュメンタリー映画「FLEE(フリー)」。是非多くの方に見ていただきたい素晴らしい作品だ。

『FLEE(フリー)』 https://transformer.co.jp/m/flee/

本作の英題である“FLEE”とは、危険や災害、追跡者などから(安全な場所へ)逃げるという意味。

難民とはどういった存在なのか。葛藤や苦しみ、恐れ、不安、絶望感などが、登場人物の細やかな心情の変化によって描写され、やがて見る者一人一人が、その感情を追体験する。

特徴的なのは、この映画がアニメーションという手法で描かれていることだ。ドキュメンタリーにしてアニメーション。その理由は、やがて物語の進行とともに明かされていく。

「この物語は事実である」。その言葉から映画は幕を開ける

「この物語は事実である」。その言葉から映画は幕を開け、アニメーションでしか描けない世界観へと私たちは没入していく。長編アニメーションとしては初めて、第94回アカデミー賞で国際長編映画賞、長編ドキュメンタリー賞、長編アニメ映画賞の3部門にノミネートされた本作は、アニメと実写の境を超越したとも言える画期的な作品なのだ。

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【公式サイトより あらすじ】

アフガニスタン難民の青年の秘密をアニメーションで描くドキュメンタリー。子供のときに祖国を離れ、デンマークに亡命した青年が、その過酷な半生を告白する。

監督:ヨナス・ポヘール・ラスムセン

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ちなみに『パラサイト 半地下の家族』(*)のポン・ジュノ監督も「今年見た映画の中で最も感動した作品」と絶賛している。(*第92回アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞の最多4部門を受賞。非英語作品の作品賞受賞は史上初)

上映中、私は3回ほど泣いた。困難な道にあって、ときに失望や不安や孤独に押しつぶされ、傷つきながらも、なお生きようとする登場人物の姿に、人間としての強い共感を感じたからだ。

映画をご一緒したのは知人のドキュメンタリー映画監督、杉岡太樹監督(「息子のままで女子になる」https://www.youdecide.jp/)。自らもドキュメンタリーの作り手として、独自の洗練された視点を持っている一人で、いつも刺激と学びをいただいている。上映後は、作品のストーリー性や技術的側面について一緒にお話させていただいた。

杉岡さんとの出会いは一年前。あるインタビュー企画の撮影でお会いした。映画製作をニューヨークで学び、普段はドキュメンタリスト(ドキュメンタリー制作者)として国内を拠点に活動。映画、ショートドキュメンタリーなどを制作されている。特にドキュメンタリーの持つ可能性や社会的役割について強い信念があり、“作品を作ることで、世の中がどう変わるのか。どのような変化を求めて何を伝えるべきなのか”をいつも考えている。表現者としての、そうした杉岡さんの姿勢を私は尊敬している。

その杉岡さんから、「すごくおすすめの映画」と誘われたのがこの作品。アニメーションと聞き、初めこそ「!?」と思ったが、作品を見るうち、アニメーションで描かれた理由を理解した。アニメーションでなければドキュメンタリーとして描けなかったからなのだ。そしてアニメーションであるが故に、実写作品では描ききれない真実をより深く理解する。『FLEE(フリー)』はそうした作品だ。

ここでは私自身の学びの記録として、クリエイティブに感じた杉岡さんのお話や、考えたことを以下に書きたい。

映画のポスターを一見しただけで、作品の視点が語られている

まず映画のポスターについて。「このポスターを見て、この映画を見ようと思った。日本にこのままポスターが来たのが嬉しいですね」と杉岡さんは言った。登場人物一人一人が描かれたこのポスターは、みんなが物語の一つという視点で描かれている。ヨーロッパ発じゃないとこういう視点はなかなかできないとのこと。日本人の感覚でわかりやすいように、日本だけ映画のポスターが違うということがよくあるそうだ。なるほど、ポスター一枚にしても、作品が伝えようとしているものを物語るものなのだ。

アニメーションで描かれる、ドキュメンタリーという手法

そしてなんと言っても、アニメーションでドキュメンタリーを描くという手法の斬新さが、この映画の第一の特徴だ。アニメーションは、写真のなかの男性がウィンクしたり、現実に起きていないことを起こし、人の心を再現できる。ただそれを生かすためには、「抑制されたドキュメンタリーのカメラワーク」を使う必要がある。つまり、もっとできるのにやらず、本物のドキュメンタリーのような視点から撮影する。そうやってアニメーションはリアルに近づけることができる。その上でアニメーション独自の空想が時々登場すると、見る側はイマジネーションの世界に飛躍しながら、現実に近づけるのだ。その方法に、杉岡さんも驚いたという。

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義父ガーセムが残したものに生かされて〜その死から一年〜

パルミラに生きたガーセム

2022年5月31日、義父のガーセムが86歳でこの世を去ってから一年が経った。夫の父親であるガーセムは、厳しくて暖かく、威厳のあるアラブのお父さんだった。ガーセムを思い浮かべると様々な思い出がよみがえるが、その多くが、内戦前のシリアで忙しく働いていた頃の生き生きとしたガーセムの姿だ。

私は彼を通して、シリアの砂漠で生きる人間の精神、砂漠の世界観を学んだ。全ての砂漠は異なっていること、砂粒の大きさや色、形、そこに生える草の種類で砂漠を見分け、先祖代々、砂漠に名をつけて識別してきたこと。第一次世界大戦後にシリアの国境ができるまで、自由にイラクやサウジアラビア方面のオアシスへ砂漠を旅してきたこと。砂漠が閉ざされた空間ではなく、むしろ自分たちを違う世界へと導く「開かれた世界」なのだと教えてくれたのも、ガーセムだった。

左端がガーセム。パルミラにて。2009年。

2020年に上梓させていただいた拙著『人間の土地へ』(集英社インターナショナル)では、前半部分にガーセムが登場する。内戦前のシリアの暮らしとして、シリア中部パルミラに暮らす一家の話を書いたが、それがガーセム率いるアブドュルラティーフ一家であり、まさにガーセムがいなければ知ることのできない世界であった。

『人間の土地へ』では、ガーセムをこう紹介している。

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「勤勉で実直、一代で身を立て、大家族を養ってきたガーセムは、一家の大黒柱として尊敬されている。がっしりとした体格にこの頃はいくらか脂肪がついてきたが、風貌は依然として威厳に満ちている。ガーセムがいるだけで、その場にピリリとした緊張感が生まれ、すでに50を回った彼の息子から小さな孫までもガーセムの機嫌を伺うのだ。冗談好きで陽気な一面もあるが、曲がったことが大嫌いで、こうと決めたらひたすらその道をゆく。特に善悪についての子供への教育に厳しく、いつも片手に杖を携えて睨みをきかせるために恐れられていた。」

                ―――(『人間の土地へ』「ガーセムとサーミヤ ある夫婦の物語」より

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内戦前のパルミラにて、ラクダに与えるエサを運ぶ仕事の合間に。中央がガーセム。右端の男性ソフィアンは、イスラム過激派ISの戦闘員になっていった(彼の物語も『人間の土地へ』に登場する)。

ラクダの放牧中、メッカに向かってイスラムの祈りを捧げる。一家は100頭近いラクダを砂漠で放牧していた。

内戦前のシリアでガーセムと過ごしたのは、2008〜2011年の4年間だ。ガーセムは当時70歳ほど。大柄でがっしりとした体躯で、いつも片手に杖を持っていた。その杖は、歩くためのものというより、学校に行かずに遊んでいる孫を見かけると叩くための杖だった(私も冗談で時々叩かれた)。ガーセムが現れると、その場の空気が引き締まるような独特の存在感があり、その足はいつも裸足にサンダルばき。足の裏はゾウのように硬い皮膚に覆われてひび割れ、中に土が挟まっていた。その手もやはり大きく厚く、水で洗っても手に染み込んだ土はとれなかった。土地とともに働いてきた長い年月を感じさせる手足だった。

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対談シリーズ「今日もいい天気!」を始めました。1回目の対談「世界をホッとさせる一杯を」と裏話。

私は日頃から、人に会い、同じ空間でお話することをとても大切にしています。そしてできたら、直接お会いするようにしています。人に会い、言葉を交わすことで、初めてその人となりが見えてくる。そう教えてくださったのは、知人の新聞記者でした。

現代では電話やメール、zoom取材でも、連絡を取ったり話を聞くことはできるけれど、その人のまとう「空気感」や声の調子、微細な表情や仕草から感じる性格や品格は、直接会わなければ分からないものだと、その方に教えていただきました。そして、そうした語られる言葉ではない部分にこそ、その人の真実が宿っているのだと。10年経っても忘れられない言葉です。

私自身も、写真家として、目に見えないその人の雰囲気を心で感じ取ることをいつも心がけています。そしてこうした、目に見えないものを写真に写すことを心がけています。そうした意味で、人と直接会うことは、大きなインスピレーションを与えてくれます。

とは言っても、お会いしたい方となかなか直接会えないことも多く、そんな時は電話やzoomなどでお会いし、その方の声を直に聞きたいと思っています。最近、意識して様々な分野の方からお話をお聞きするようにしていましたが、人とお会いして感じたことや学びを、シェアしていくのはどうだろうか、多くの方と学びを共有できるのではないかと思い、オーディオプログラム(ラジオのような感じです)での対談シリーズを始めることにしました。

その名も、

「フォトグラファー小松由佳の対談シリーズ「今日もいい天気!」

です!

様々な分野でその道を果敢に歩いていらっしゃる方々からお話をお聞きし、学びを共有するためのオーディオプログラムです。

第一回目は、トルコ南部でのピスタチオのコーヒー(ブラウンピスタチオ・ラテ)の製造・販売を通し、シリア難民の自立支援活動を行う「Fease(フェアーズ)」代表 のキクチタイキさんよりお話を伺いました。

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「フォトグラファー小松由佳の対談シリーズ「今日もいい天気!」  ♯ 1 キクチタイキさん × 小松由佳   (2022年5月21日配信)

▼「世界をホッとさせる一杯を」〜ピスタチオのコーヒーでシリア難民支援〜 

(オーディオプログラムは以下よりご視聴ください)

https://stand.fm/episodes/628868543e849b0006cc3764?fbclid=IwAR2U2qqG3bheko8UoBDMjz32JNw0KLFRvuLK-BIBU-ExWgQU10KhucsoV50
https://stand.fm/episodes/628868543e849b0006cc3764?fbclid=IwAR2U2qqG3bheko8UoBDMjz32JNw0KLFRvuLK-BIBU-ExWgQU10KhucsoV50

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キクチさんのモットーは、「世界をホッとさせる一杯を」。

事業を通したシリア難民の雇用や教育の支援だけでなく、商品を製造する人、受け取る人がそれぞれに幸せを感じられる商品を目指しているそうです。 現在のシリア難民の状況や、彼らが抱える課題も交え、活動について伺いました。

「ブラウンピスタチオ・ラテ」は、この秋に商品化を目指しており、私たちがそれを購入することで、シリア難民の雇用創出につながります。キクチさんは「ブラウンピスタチオ・ラテ」を商品化するためのクラウドファウンディングを最近まで行われておりましたが、

https://camp-fire.jp/projects/view/548924…

引き続き、今も事業のサポートをいただける方々を募集しているそうです。シリア難民の自立支援を目指すキクチさんの活動へのご支援を、皆様どうぞよろしくお願いいたします。

▼「Fease(フェアーズ)」への活動支援はこちらより

Paypay銀行

はやぶさ支店 003

口座番号:2283658

キクチタイキ 

▼また、2022年6月30日までに¥2000以上のご支援をいただいた方には、「ブラウンピスタチオ・ラテ」を郵送くださるそうです。日本ではなかなか入手できず、大変貴重です!

その場合、以下のキクチさんのメールアドレス宛に、お名前と送り先ご住所をお送りください。

(キクチタイキ メールアドレス) kikuchi4940@gmail.com

また、キクチさんのfacebookでも、是非繋がっていただけましたらと思います。

(キクチタイキ facebook)

https://www.facebook.com/taiki.kikuchi.14(こちらより検索ください→「菊地泰基」Taiki Kikuchi)

皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

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<キクチさんとの対談での裏話>

今回、1回目の対談シリーズとして「Fease(フェアーズ)」代表 のキクチさんからお話をお聞きした背景には、シリア難民を知っていただくことも大切だけれど、シリア難民の支援に関わる日本人のことも知っていただき、応援いただきたいと思ったからです。

こうした人々の存在を知り、サポートをすることで、巡り巡ってシリア難民の暮らしが改善することにも繋がります。これからも、シリア難民の取材と並行し、難民と共に歩いている人々の姿を紹介していきたいと思います。

ところで、有料会員の皆様に対し、キクチさんより普段なかなか語れない裏話をお聞きしました。テーマは「挫折」です。異国で、事業を一から始めたキクチさんが、どんな挫折を経験し、どんな言葉から立ち直っていったのか。以下は、キクチさんにお聞きしたお話を、私が書き起こしました。

▼「本音をぶつけ合った日」ーーーキクチさんのお話より

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この夏のシリア難民の取材 裏話その1 〜例年にはない挑戦について〜

私は2012年から、シリア難民の取材を行なってきました。シリア内戦から10年以上が経過しましたが、難民の状況は改善されず、さらにコロナ禍やウクライナ侵攻により、報道も少なくなってきました。

シリア難民の他にも、世界を見渡せば、ミャンマーやアフガニスタン、パレスチナやシリアなど、紛争に巻き込まれ、苦境の中に生きている多くの人々がいます。

私はこうした人々の存在について、まずは知っていただき、関心を持ち続けていただくことが大切だと思っています。そのきっかけになるよう、シリア難民を取材し、一人一人のエピソードから、彼らの今を伝えていくことを続けたいと思います。

今年も7月から9月まで、シリア難民の取材に向かいます。実は今回、例年とは異なる大きな試みがあります。それは私にとって大きな挑戦であり、今年は難しくても、今後、いつかは実現したいと願う挑戦です。

その企画に至った背景などの裏事情を、オーディオプログラムにてお話いたします。30分ほどのプログラムです。以下より、どうぞご視聴ください。

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念願の京都国際写真祭、キョウトグラフィーへ

京都を舞台に年に一度開催される国際的な写真祭があります。その名も「KYOTOGRAPHIE (キョウトグラフィー) 京都国際写真祭」。今年は4月9日から5月8日にかけて開催されました。この期間、京都市街地の数多のギャラリーで、素晴らしい写真展示やイベントが行われます。このキョウトグラフィーに、ついに先月末、訪れることができました。

*KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 https://www.kyotographie.jp

*開催要項より                                「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」は、世界屈指の文化都市・京都を舞台に開催される、日本でも数少ない国際的な写真祭です。一千年の長きにわたって伝統を守りながら、その一方で先端文化の発信地でもあり続けてきた京都。その京都がもっとも美しいといわれる春に開催されます。日本および海外の重要作品や貴重な写真コレクションを、趣のある歴史的建造物やモダンな近現代建築の空間に展開し、ときに伝統工芸職人や最先端テクノロジーとのコラボレーションも実現するなど、京都ならではの特徴ある写真祭を目指します。

キョウトグラフィーは、日本では数少ない国際写真祭です。毎年行きたくてたまらなかったのですが、6年前に長男を出産して以来、サバイバル育児生活が続き、なかなか訪問できずにおりました。

ところが今回、子供たちを泊まりで預かってくださる知人が現れたことで、ようやく念願が叶いました。六年ぶりに夜行バスに乗り、六年ぶりに子供から離れて二泊三日の一人旅。一人で長時間を自由に過ごす感覚を、数年ぶりに味わいました。やはり、一人じっくり考えたり感じたりする時間は、創作活動にとって必要ですね。

京都では丸二日間、街中をレンタルサイクルで走り回り、写真の世界に浸りました。寝ても覚めても写真だらけのなんと贅沢な時間だったことでしょう。ここでは、目にした中でも特に印象に残り、心の奥深くにビビビッときた展示についてご紹介したいと思います。

キョウトグラフィーで、心が震えた展示の数々

私にとって「心の琴線に触れる写真」とは、写真自らが物語る写真です。その写真に反映される時代性や、写真家独自の視点、そして感性に訴えかける「何か」(→言葉にできないもの)があるか。私たちが生きているのがどういった世界なのか。そうしたことを感じさせ、考えさせる写真が、素晴らしい写真だと思っています。

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「呼ばわり山」の夜道の事件

2022年3月のある日、春風に誘われた。山に行こう。

早速おにぎりを握り、ザックにお菓子を詰め、3歳と5歳の二人の子供を連れて郊外へ。目指すは東京都八王子市のはずれにある今熊山(いまくまやま)。標高505メートルの今熊山は、八王子では知られた低山で、かつては「呼ばわり山」として、失踪した人を呼び寄せる霊山として崇められていた。江戸期、多くの参拝客を集め、関東一帯から人々が訪れたとされる。

登山口にて。今熊神社の階段を登り、今熊神社奥宮のある山頂へ。

今も昔も、人は様々な事情から行方が分からなくなることがある。こうした人々の無事を祈り、再会を願って登られた山なのだ。情報網や連絡手段が発達していなかった時代、人との出会いや別れは、現代よりもっと直接的で、深い意味があったろう。

登山口からしばらくは、なだらかな道が続く。

コースタイムでは、登山口から今熊山山頂まで一時間ほどの道のりだ。なだらかで良く踏まれた道を辿り、景色を楽しみつつ山頂を目指した。子供たちはどんぐりや松ぼっくりを拾い、鳥のさえずりに耳を傾け、飛んだり跳ねたり自由に自然を吸収した。やがて山頂に近づくにつれ、苔むした石灯籠やお地蔵さん、朽ちかけた石碑が道端に点在し、古の参拝者たちの面影が偲ばれた。

崩れ、倒れた石碑が点在している。こうした石を、背に担いで登ってきただろう古の人々が偲ばれる。
山頂近くの参拝路にて。「呼ばわり山」として参拝客を集めたかつての雰囲気をとどめる。

20代前半、狂ったように山に足繁く通った時期があった。だが人生の変化は驚くべきもので、その後私は、草原や沙漠のなどの、それぞれの風土に根ざした人間の営みに魅せられ、次第に登山から足が離れていった。さらに長男を出産してからのこの6年は、とにかく運動不足を重ねた。いつかまた、山の世界に戻りたいと心に願いながら。そうして最近になり、子供たちがだいぶ歩けるようになったタイミングで、ようやく山の静謐の世界を子供たちと共有する準備が整ったと感じるようになった。こうして私は今熊山を歩いている。

山頂からひとつ下のピーク、「今熊山 逍遥所(しょうようじょ)」からの眺め。ここは山頂を仰ぎ見る場所。山腹には発電所があり、付近には送電線が張り巡らされている。

石段を登ったその先に、立派な今熊神社奥宮があった。山頂だ。信仰の山として賑わった往時をしのびつつ、広い山頂で子供たちとおにぎりを食べる。帰路は、武蔵五日市駅方向へと下山することにした。

山頂に到着し、喜びの雄叫びをあげる子供たち。ここで登山は終わったと考えていたようだ。

ここで想定内の事態が起きた。「もう歩かない」と子供たちがストライキを起こしたのだ。どうやら、山頂に着けば登山が終わりだと思っていたらしい。普段、高尾山(東京都)でリフトやケーブルカーで下山することが多かったためか、それが登山だと思っていたようだ。本当の登山は、自分の足で安全なところまで降りるものだと力説したが、子供たちは愕然として座り込んでしまった。必死の説得もお菓子大作戦も効果なく、時間は流れた。仕方なく次男をおんぶして下山をしたが、そのうち日が暮れてしまった。人里から離れているから、本当の真っ暗がやってきた。

山で陽が暮れ、心細くなる・・・、というのは嘘で、心の中で、私の中の野生が目覚める。「よし、こうでなくっちゃ」と思う。実は、この登山の本当の計画はここから始まるのだった。それは夜の山を歩くことだった。

次第に視界が利かなくなっていくなかで、不安な表情を見せる子供たちの前に私は立ちはだかった。そしてザックから、ホームセンターで買ったピカピカのヘッドランプを、ドラえもんのような心境で取り出した。

「ヘッドランプ〜」。子供たちは大喜びし、ヘッドランプをつけて夜道を歩いた。

通常なら、明るいうちに行動し、夜が来る前に山を下りるのが良いとされる。だが、普通じゃない登山もしたい。あえて夜の山を歩き、山の夜の静けさや、暗がりの深さを感じてみたい(付き合わされた子供たちにはかわいそうだが)。夜が足元にゆっくりと忍び寄り、全てが深い黒に沈んでいくあの感覚を、最後に味わったのは一体いつのことだろう。

やがて、あたりに夜の静寂が広がった。私たちは夜とひとつになっていく。子供たちは、暗闇への不安を口にした。「オバケ出ちゃったらどうしたらいいの」「ヘビが出たら死んじゃう」。小さい子供も大人も、視界がきかない暗いところが怖い。見えないもののなかに潜む、リスクへの本能的な不安があるからだ。だが、その恐れと同時に存在するだろう、 “未知”への好奇心こそが、人間を人間たらしめているのではないだろうか。

夜の茂みに、生き物の世界がある。「ガサガサ」と何かが動く微かな音がする。そのたび、私たちは立ち止まって耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ました。その正体を全身で感じ取ろうと、危険がないか判断しようとする。安全と快適さとが前提にある街の暮らしでは感じ得ない、生き物としての野生を、自分たちの内面に感じる瞬間だ。

やがて疲れと不安から、子供たちが深刻な表情を見せた。励ましの言葉ももうきかない。こういうときは雰囲気を変えるに限る。場の空気を和ませるため、私は必殺技を繰り出した。

「ブッ!・・・」。夜の暗い山道に、大音量で屁が放たれる。その後の一瞬の静寂、そして子供たちの大笑い。それまで私たちと共にあった “暗闇こわいこわい” は、一瞬にしてどこかへ消えてしまった。一発の屁の、なんたる威力だろうか。人間は、かくもユーモアの力で、恐れや不安を払拭できるのだ。

そのうち登山道が終わり、私たち「ヘッドランプ登山隊」は、集落へと降り立った。すでに時計は夜8時を回り、街灯が仄かに道を照らしているだけで、人ひとり外を歩いていない。駅へと続く大きな橋を渡り、やがて目的地の武蔵五日市駅に到着した。「ああ、これでおうちに帰れる」と長男がひとこと。

自然が内包する未知に触れ、自身の野生に向き合った一日。子供たちとの初めての、本当の登山。その後、「呼ばわり山」の夜道で豪快に放たれた屁の凄みは、今も小松家で語り継がれている。

<完>                

(2022年4月28日)

ウクライナ侵攻を、どう捉えていくべきか〜ロシア通のF氏より、お話をお聞きした〜

2月24日、ウクライナ侵攻が始まって以来、世界の目はウクライナに注がれ、現地からは次々と惨状が伝えられている。あまりに短期間に引き起こされた戦争の悲劇に落ち着くことができず、今も進行する人道危機をどう捉えたらいいのか、私も非常に悩んでしまった。

報道の場では、様々な識者がこの戦争を語っているが、もっと直接、その背後にある歴史や文化から、話を聞きたいと思った。そこで、3月末、知人である北海道新聞の前編集委員、F氏とお会いした。

 F氏は大学時代よりロシア語を学び、ロシアでの留学を経て北海道新聞に就職。以来、記者、編集委員としてロシアの政情を見つめてきた。 約30年勤めた新聞社を退職し、関東に移る矢先にウクライナ侵攻が始まった。北海道新聞社は、特にロシアとの関係が深い新聞社だ。そこで編集委員をされていたF氏が、このウクライナ侵攻をどう捉えているのか。お話をお聞きしたく、北海道から越したばかりのF氏にお会いした。話の内容が非常に勉強になったため、自分自身の記録と、情報の共有のために、以下にまとめることにした。

<以下、F氏のお話より>

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ウクライナ侵攻は、政治問題である前に人道危機だ

 ▼ウクライナ侵攻は、政治問題である前に人道危機だ。子供やお年寄りまでもが巻き込まれている。すでに400万人近い難民が発生したが (3月下旬の段階)、「(ロシアに)降伏すればいい」というのは、力でねじふせるロシアの論理に加担することになってしまう。 

攻撃は軍事施設に限定するというロシアの公式説明に反し、住宅や病院、学校が破壊され、民間人が多数犠牲になっている。これは人道危機であるという観点から、何ができるか考えなければいけないのではないか。

▼ソ連崩壊とともに独立したウクライナはまだ若く、内政には不安定な側面があった。さらに西と東では、言語や歴史認識に大きな違いがある。西ウクライナは、民族意識やウクライナの独自性についての意識が強く、ウクライナ語話者が多い。一方で、ソ連を代表する重工業地帯だったドンバス地方など、東部にはロシアからの移住者が多く、ロシア語話者の住民が多い。大統領選では、親欧州と親ロシアの候補が拮抗し、地域で支持が分かれる経過があった。

▼プーチンはウクライナに侵攻したら、住民に歓迎されると本当に思っていたかもしれない。ロシアの傲慢ではあるが、首尾よくクリミアが併合できたことでプーチンには錯覚が生まれたのではないか。 あのとき国際社会は、もっと厳しくロシアを制裁すべきだった。ロシアも国際法の住人なのだから。

ただ、一方で帝政ロシア時代から保養地として名高く、黒海艦隊もあるクリミアでは、ウクライナ独立後、自分たちはなぜウクライナの一部なのか、という戸惑いがなかったわけでもない。ロシアの生活レベルは相対的に高く、ロシアへの帰属を望む住民もいたかもしれない。クリミアや東部のロシア語話者の住民には、反ロシアの民族主義的主張には違和感を持つ人も少なくなかったと思う。

本当の平和は、相手を尊重するところからしか生まれない

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オンラインイベント「見えない入管問題を考える〜収容者の家族として〜」(2022年3月30日開催分)

3月30日、入管問題をテーマとしたオンラインイベントを行いました。

前回、映画「牛久」を見て考えたことをオーディオプログラムとしてあげさせていただきましたが、今回のイベントは、「入管問題」をテーマに、その続きとなります。

イベントでは、ガーナ人の配偶者が牛久(茨城県牛久市)の入管施設に2年3ヶ月にわたって収容されたカタクリ子さん(偽名・入管収容者 妻の会会員)をお招きし、お話いただきました。

驚いたのは、旦那さんがあまりに突然に収容となったことや、その後の家族の生活も、さらには精神状態も、次第に追い込まれていったこと。また「入管収容者の家族」として、区別や差別を受けてきたこと。

法治国家として、在留資格に問題がある外国籍の方々を法的に取り締まることは当然のことですが、問題は処遇です。収容期間を示されることなく、収容者の自由を心身ともに奪い、大きな負担を家族にも強いる入管施設の現状は、やはりどこか構造上の問題があるのではないかと感じました。第三者による監視や運営などがあれば、まだ風通しが良くなるのかもしれません。

いずれ、「世論の高まりが入管問題を変えていくはず」とカタクリ子さんが言われたように、私たちが関心を持ち続けることが大切だと思いました。

当事者から具体的なお話をお聞きできた貴重な時間でした。

◀︎イベントの収録動画はこちらより(有料会員様限定の動画です)

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映画『牛久』と入管問題

入管問題に光を当てたドキュメンタリー映画『牛久』。通常、なかなか見ることのできない、知ることのできない入管内部の様子を、“隠し撮り”という手法で撮影した衝撃的な作品です。映画『牛久』を見た感想や学び、さらにトーマス・アッシュ監督に質問して「そこじゃない!」と叱られてしまったエピソードを盛り込み、入管問題について考えます。こちらは40分のオーディオプログラムです。ラジオ感覚でご視聴ください。

ご視聴はこちらよりどうぞ。

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プーチンのロシアとウクライナ 

2月24日から突如始まったロシア軍によるウクライナ侵攻。

ウクライナ各地では激しい戦闘が続き、すでに100万人近くが難民となって隣国に逃れた。この世界は、こんなにも不安定な均衡のうえに成り立っているのだ。

欧米諸国はロシアに対し、「武力侵略を容認しない」という強いメッセージを送った。異例中の異例という経済制裁も次々と課され、世界の厳しい目がロシアに向けられている。

ウクライナ。人は暖かく、大地は豊かで、詩的な美しさの漂う国。2008年、ユーラシア大陸横断の旅の途上、1週間ほど滞在した。首都キエフのドニエプル川を見下ろす高台で、夕暮れを寄り添うように眺めていたカップルの後ろ姿が忘れられない。

「揺れる大国 プーチンのロシア」

10年ほど前、あるNHKのドキュメンタリー番組を見た。「揺れる大国 プーチンのロシア」。2009年3月に4回にわたって放送され、書籍化もされた番組だ。現代のロシアを生きる人々の姿を追うことで、ロシアという全体像を浮き上がらせていた。

(https://www.amazon.co.jp/揺れる大国プーチンのロシア―NHKスペシャル-NHK取材班/dp/4140813830)

そこに登場した、初老のタクシー運転手の話が印象的だった。

「この国の歴史を知る者は、二度と国に背くことはしない」。

運転手はハンドルを手にしながら淡々と語っていた。過去にこの国で何が起きてきたか。どれほどの者たちが国に反旗を翻し、命を落としてきたか。ロシア人は皆それを知っているのだと。

番組全体を覆う重苦しい雰囲気から感じたのは、プーチンのロシアが、いかに維持されてきたかだった。かつての“強いロシア”への憧憬のもと、情報統制と監視を行い、越えてはいけない政治の一線を科すことで人々を繋ぎ止めてきた。

だが現代、世界はグローバル化・デジタル化によって急激に変化している。特にSNSのような世界的なネットワークは、メディアのあり方から個々の繋がり、社会のあり方までを内側から変えている。

このウクライナ侵攻でも、SNSを駆使した情報戦が繰り広げられている。戦闘の最前線がリアルタイムで投稿され、セレンスキー大統領自らが、スマートフォンでの自撮りという方法で、ウクライナ人はもちろん、敵国のロシア人に対してもSNS上で訴えかける。

いかに大衆に思いを訴え、彼らの心を動かし、具体的な行動へとつなげるか。コメディアン俳優、映画プロデューサー出身という異色の経歴を持つセレンスキー大統領は、それを誰よりも知っている。

このウクライナ侵攻によって、図らずもロシア自身が、自由主義という新しい価値観によって結果的に占領されるきっかけになるかもしれない。いくら力で押さえ付けても、インターネットによって多様な情報に晒される現代社会では、人の心の内まで抑えることはできないはずだ。

シリアからトルコに逃れたばかりの8歳の子供が描いた故郷シリアの絵。トルコ南部レイハンル、2015年。

8歳のシリア難民の子供による故郷シリアの絵。降り注ぐ爆弾、路上で亡くなる人々の姿が描かれた。2015年。

過熱するウクライナ報道への違和感

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ハサンケイフのヤギ飼いと太陽

                                                          

ティグリス川ほとりの街  

2009年夏、バスの窓からその土地をはじめて目にしたとき、あまりの美しさに息を呑んだ。

トルコ南東部、ティグリス川ほとりの街ハサンケイフ。約1万2000年の歴史があり、その上方の丘陵地には、古代の遺跡や墓が、柔らかな草原に埋もれていた。

かすかな踏み跡をたどって山の上に登ると、犬がかけてきて激しく吠えたてた。牧羊犬らしい。たじろいでいると、犬を呼ぶ男性の声に、犬はくるりと引き返した。その先に、ヤギの群れを連れた男性の姿が立っている。

ヤギの放牧をするチョバン(トルコ語で羊飼いの意)、ヤシャールとの出会いだった。風土に根ざした暮らしに興味を持ち、土地から土地へと旅をしていた私は、この山での放牧の仕事をヤシャールに見せてもらうことになった。

ハサンケイフ郊外の丘に残る古代の遺跡。崩れた石積みの建築物からは、かつての暮らしの痕跡を感じさせる。

クルド人のチョバン、ヤシャール

「アイへへへへへへ!」ヤシャールの声が、静寂の谷にこだまする。ヤギの群れに、「進め」の合図だ。100頭近いヤギが、砂ぼこりをもうもうとあげて谷を下る。

ヤシャールはクルド人。父親もその父親も、この谷のチョバンだった。年齢は本人もわからない。30歳ほどか。幼い頃から父に連れられ山を歩き、現在は兄と交代で放牧に出る。家族は年老いた母と二人の兄。兄たちは結婚して実家近くに所帯を持ち、母と二人で暮らしている。村と谷、山とを往復する毎日だ。

夜明け前。暗闇から朝焼けへと変わる谷の道を、ヤシャールと犬、100頭ほどのヤギが登ってゆく。朝日が差すと山は赤く燃え、世界が一変した。やがて手足の寒さが和らいでゆき、今度は太陽の暑さに苦しんだ。

何という、太陽の光の眩しさだろう。私たちはわずかでも日差しを避けられるよう、木陰から木陰へと歩いた。その前方で、ヤギは喧嘩をしたり戯れたりし、実に自由に進んでいる。

ヤシャールは一頭一頭のヤギに名をつけ、その父親や母親、祖父母の名まで覚えていた。群れには一頭の羊もおらず、全てヤギばかりだ。ハサンケイフの谷や山での放牧では、足腰の丈夫なヤギしか耐えられないからだそうだ。

正午頃、木陰に座って休む。ヤシャールはポケットから古びたラジオを取り出し、クルドの民謡を聞いた。その音色は抑揚があり、野や山々などの自然を彷彿とさせる。ヤシャールはトルコ語を話し、トルコ国籍を持ってはいるが、自分はトルコ人ではなくクルド人だと強調した。自らのルーツ、クルドの文化を愛し、誇りを持っているのだった。

まるで流れるのをためらうかのように、雲がゆったりと流れていた。ヤギの群れはいつの間にか視界から消え、犬が先に行ってヤギを見守っている。犬はヤシャールの信頼のおける相棒で、犬もヤシャールの役に立つことが誇らしい様子だ。

ヤギにとっては毎日登り降りする、勝手知ったる山の道。ヤギの踏み跡は、縦横無尽に山肌に刻まれている。

そのうちヤギの群れが岩場にさしかかった。足場が限られた巨大な一枚岩を、ヤギたちが一列になって降りていく。群れは整然と進むのかと思いきや、てんやわんやだ。順番待ちに耐えかねて前のヤギに頭突きするヤギ、後から来たヤギに踏まれ下敷きになるヤギ、突然交尾しようとする雄ヤギまでいる。そんなヤギたちをヤシャールはほらほらと指差し、困ったという仕草で笑った。

ヤギたちが軽々と下っていった岩の斜面で私は立ち止まった。下は百メートル近く切れ落ちる急傾斜の断崖絶壁。足を踏み外せば真っ逆さまだ。次の足場まであと少しのところで、どうしても足が届かない。登山でも、安全のためロープをつけて登るような場所だ。

ためらっているうち、ヤギの群れもヤシャールも先に行ってしまった。彼らにとっては、全く何でもないところなのだ。

山の上に残された古代の遺跡。大きな岩を削って作られた、祭祀場のような場所だ。羊とチョバンしか歩かないような山の上にひっそり残されている。

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「IS指導者、米軍の急襲によりシリアで死亡」の報道に思う (2022年2月8日)

日本ではあまり大きく報道されなかったが、2月3日、イスラム国(IS)の指導者が、米軍の急襲により家族と自爆死した。事件が「正義のための戦い」として報道され、過去になっていく。その違和感のあまり、(我ながら驚くが)二日ほど目が冴えてよく眠れなかった。現地メディアの動画報道を目にして頭から離れなかったこと、考えたことを、ここに書きたい。

突然の報道から数日経ち、次第に事件の全容が明らかになってきた。

アメリカのジョー・バイデン大統領は2月3日、米特殊部隊がシリア北部で夜間の急襲作戦を実行し、イスラム国(IS)の指導者と幹部が死亡したと発表した。

作戦は3日未明にかけ、シリア北西部イドリブ県アトメにて行われ、イスラム国(IS)の指導者アブ・イブラヒム・アル・ハシミ・アル・クライシ指導者が妻と子どもを巻き添えに自爆。指紋とDNA分析によって本人確認がされた。

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.bbc.com/japanese/60255298.amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

(「IS指導者、シリアで死亡 米軍が長期計画の作戦実施 」 BBC   2022年2月4日)

https://www.afpbb.com/articles/-/3388400?act=all&pid=24155693

(「IS最高指導者が自爆死 米軍、シリアで急襲作戦」AFP 2022年2月4日)←こちらは写真が充実しています。

バイデン大統領は、「世界にとってのテロの脅威が取り除かれた」と演説し、作戦の成功を謳った。現地の救助団体ホワイト・ヘルメットの発表では、作戦が実施された住居で、子供6人と女性4人を含む13人の遺体が見つかったと発表。(https://www.syriacivildefence.org/en/latest/statements/brief-us-raid-idlib/ホワイト・ヘルメット 2月3日)。

急襲によって自爆死したクライシ指導者は、バグダディ死亡後に指導者となった人物だ。1976年イラク出身で、アメリカ軍によるドローン攻撃で足を切断し、義足を付けていたとされる。

事件現場を撮影した、現地イドリブ県の反体制派メディア、「オリエント」の報道を見た。

https://fb.watch/a_erGn7SvZ/

(Olient  *こちらは動画です)

現場は近隣の人々が野次馬に集まったりと騒然としていたようだが、イドリブ県では、空爆や襲撃が何年にもわたって頻繁に行われてきた。今回のように米軍機が突如やって来て、特定の家族を殺害することに、人々の驚きもそこまでなかったようだ。それだけ尋常ではない状態が続いてきたということか。

現地メディアの動画には、崩れ落ちたコンクリートの家屋や、ものが滅茶苦茶に散乱した室内が映っており、激しい戦闘が起きたことを感じさせた。目に入ったのは、吊り下げ式の青いブランコや、爆発現場に放置された赤い子供服。クライシ指導者の家族と思われる、小さな子供が一緒に住んでいたのだ。もしかしたら、クライシ指導者とともに、一緒に亡くなったのかもしれない。その子らが、最後にどんなに怖い思いをしただろうか、痛い思いをしなかっただろうか、と思った。

血痕が飛び散った台所には、オリーブの油漬けの瓶や、香辛料の瓶などが整然と積まれていた。ここに、毎日台所に立っていた女性たちがいて、日々の生活があったのだ。

この家の大家によれば、クライシ指導者はほとんど外に出ることはなかったが、あるときオリーブの実を摘み取っていると、コーヒーを持って来て、一緒に語らったことがあったという。近所の人々は、指導者を穏やかで快活な人物なタクシードライバーだと思っていたようだ。指導者は、この家に1年ほど前から暮らし、スマートフォンでISの各部隊に指示を送っていたとされる。

https://www.afpbb.com/articles/-/3388643?cx_amp=all&act=all

(「穏やかな隣人がIS最高指導者、住民驚き シリア」 2022年2月5日 )

事件のあったイドリブ県アトメが、毎年取材を行うトルコ南部ハタイ県レイハンルに非常に近い土地であったこともあり、BBCやAFPなどのさまざまな媒体からこの報道を読んだ。そのほとんどが、指導者の殺害という結果をして作戦の成功を宣言し、「テロとの戦い」「正義の戦い」を謳っていた。

だが、多くの命が失われた現場を目にして、複雑な思いが込み上げる。

人間は誰しも、その存在を脅かされることなく生きる尊厳を持っているはずだ。自らの信条を他者に強要して、それを奪うことは誰にも許されない。人間の尊厳や権利を踏みにじる、テロリストとされる人々の罪は重い。だが、その命の尊厳は、同時にテロリストの側にも当てはまるのではないのだろうか。

その思想、行動が誤っていたからとて、その人物の生命、存在自体が、こうして正義の名の下に武力行使で奪われる。それを「正しい」と言えるのだろうか。

私はISやテロリストを支持したいのではない。IS幹部として行ったことへの罪は負うべきだと思う。だが人間は、こうやって武器をとって戦うことでしか、戦いをやめられないのだろうか、奪われたら、奪うことでしか収拾できないのか、と思ってしまうのだ。それなら、方法としては結局ISと同じではないか、と。

クライシ指導者は、IS幹部として多くの殺害計画に関わり、ヤズディ教徒の女性の奴隷化を支持したとされるなど、人道的な罪を犯した人物でもある。だが、容疑者が亡くなった現場に目を凝らせば、テロリストという側面とともに、誰かの夫であり、子供の父親だったという側面も目に入った。

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オンラインイベント「コロナとともに去りぬ〜日本からヨルダンに渡ったシリア人、マフムード〜」が終了しました。

1月30日(日)に開催されましたオンラインイベント、「コロナとともに去りぬ〜日本からヨルダンへ渡ったシリア人、マフムード〜」が終了しました。ページの最後にイベントを収録した動画のURLを貼りました。ご自由に視聴ください。

私事ですが、実はイベント三日前から肺炎にかかっていることがわかり、当日は声が出づらかったほか、激しく咳き込む場面もあり、大変お見苦しい点があり、申し訳ありません。PCR検査の結果、コロナは陰性でしたが、肺炎が思ったより進行していたようで、しばらく呼吸がしづらく、かつて経験した高所登山の標高7000mほどの呼吸の苦しさを感じていました。改めて、地上にも酸素の薄い世界があることを体感致しました。(イベントとは全く違う感想ですみません)

イベントでは、マフムードや通訳を務めたマジェッドさんより、とても重要な話もありました。

・内戦下のシリアでは、電気・ガス・水道が激しく制限されており、洗濯や入浴が満足にできないこと。

・そのような状態から日本に来たので、日本での過酷な生活環境も、シリアよりずっとマシだったこと。

・(意外にも?)シリアよりも日本の労働の場の方が、人の真心を感じたこと

・日本での法の光の届かない労働の実態

・日本よりも生活しやすいことを期待して向かったヨルダンでは、シリア人への差別もあり、仕事も見つけるのが困難で、日本よりも暮らしにくいと感じていること(ヨルダンの方が、収入に対して必要な生活費の割合が大きい)。

〜などなど。

その後マフムードは、ヨルダンでの生活を続けるのが困難と判断し、トルコに渡航しました。紛争国シリアで生まれ、長引く内戦の影響を受けながら、国から国へ、土地から土地を転々とするマフムード。そこには、激動の時代に翻弄される一人の人間の姿を感じます。

マフムードとは、これからも繋がり続け、彼がシリア人としてどのように生きていくのかを見つめていきたいと思います。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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コロナとともに去りぬ〜シリア人のマフムード、日本からヨルダンへ〜2022年1月18日

突然やってきて、突然去って行ったマフムード

シリアで床屋として修行し、内戦下の政府軍の上官となり、ヒヨコ屋を開き、日本でバスに暮らしながら建築現場で働き、ヨルダンでうら淋しく涙を流している男。

突然やってきて、突然去って行った。それが、マフムードに対する私のイメージだ。

彼が長期間居候していた我が家には、今もマフムードが置き忘れていったものがあちこちに残っている。色あせたズボンやボロボロの下着、そして数々の、凹凸のあり過ぎる思い出・・・。

マフムードがやってきたのは2020年の暮れ。来日を知ったのはその二日前だ。日本で建設会社を経営するシリア人が、シリア人の労働者を招聘したがっている。それを聞いた夫が、甥のムハンマドと親族のマフムードを紹介。彼らはコロナ禍の真っ只中、労働のために日本にやって来た。

(夫の家族であるアブドュルラティーフ一家と。右端がムハンマド。その左上に立っているのが夫ラドワンだ。2009年、パルミラにて)

シリア中央部のオアシス都市、パルミラ。この街が、マフムードの故郷だ。夫やムハンマドとは幼馴染で、遠い親戚。三人は兄弟同然に育った。しかし彼らのその後を決定的に分けたのは、2011年1月に政府軍に徴兵されたことだった。折しもシリアが内戦状態へと向かう直前のことだ。マフムードは北西部イドリブ県の駐屯地に、夫やムハンマドは首都ダマスカスの駐屯地に配属されたが、民主化を求める運動がシリア各地で起きると、政府軍はその弾圧を行った。夫やムハンマドは、民衆に銃を向ける罪悪感から軍を脱走し、それぞれヨルダン、トルコへ逃亡。難民となる道を選んだ。

(パルミラ近郊の沙漠にて、2009年。中央がマフムード、右がムハンマド)

一方でマフムードは、政府軍の一員としてあり続ける道を選んだ。給与を手にできたし、一日中寝て過ごせたからだ(マフムード談)。やがて上官となり、最終的に300名ほどの部下も持った。軍隊を離れてからのマフムードは、親類の家を点々としながらヒヨコ屋を開いたりもしたが、働いて手にできる僅かな収入に納得できず、やがて寝て暮らした。そこに降って湧いたのが、日本で働くという話だったらしい。そしてもう一人、夫の甥ムハンマドは、老いた両親や姉の生活を担っていたが、トルコでのコロナ禍による失業にあい、日本での仕事の話を得た。

こうしてシリアからマフムードが、トルコからムハンマドがやって来た。労働許可が降りるまで、彼らは私の夫を頼り、東京都八王子市の我が家で居候をはじめた。私は長期にわたって彼らの寝食の世話をしなければならず、二人の幼い子供の育児と家計もほぼ担っていたため、現実はパニックの一言だった。マフムードとムハンマドは大食漢で、我が家の家計を悪気なく圧迫し、またアラブ料理しか口にできず、魚介類も全く食べられなかった。さらに深刻なことは、私の作るアラブ料理が危険な味だったことだ。やがて料理上手なムハンマドの台所での権力が増し、いつの間にか、調理はムハンマドが(私は彼を「マーマ・ムハンマド」と呼び、“お母さん”として慕った。)、食材を買って片付けるのは私、という役割分担が生まれた。

やがて労働許可がおり、彼らは3月に千葉へ越していったが、待ち受けていたのは過酷な現実だった。

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新年のご挨拶〜昨年の振り返りと今年の活動について〜

皆さま、新年明けましておめでとうございます。

今年もより写真活動を深め、また広げていけるよう努力します。

昨年は様々な意味で怒涛の一年でした。

しかしだからこそ、もがきながら、新しい境地に向かうことができた一年でもありました。

話すのが下手ですが、2021年を振り返り、そこから見えてきた今年の活動についてお話しします。

30分間の音声データです。どうぞお聴きください。

(こちらは有料会員さま限定のコンテンツですので、URLの公開をされませんようお願いいたします)

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写真展で集めさせていただいた「シリア難民生活支援カンパ」をトルコ南部に送金しました。受け取り手がシリア難民のため、複雑な事態が起きました(2021年12月31日)。

2021年12月10日〜16日開催の写真展「シリア難民 母と子の肖像」で集めさせていただいた「シリア難民生活支援カンパ」を、現地に送金しました。

こちらを読んでいただくにあたり、事前に私のfacebookのこちらの投稿を読まれることをお勧めします。

https://www.facebook.com/yuka.komatsu.0922/posts/4401215193321394

写真展で夫との関係が氷河期に突入

今回の写真展「シリア難民 母と子の肖像」は、私にとり2年ぶりの写真展。今が厳しくとも(いつもサバイバル状態なのですが)この先に活路を見出し、そこへ進む覚悟を持つため、自分自身にとって渾身の一撃となる表現の場でした。そんな気合の入った展示のため、毎日の在廊は当然のこと。来場いただく方々と直接お会いし、お話しさせていただくことで、自分がなぜ写真を撮るのかという行為についても考えさせられる機会でした。

平日は19時まで、会場である富士フィルム様の銀座のギャラリーに在廊。それから急いで帰宅して、在住の東京都八王子市方面で子供を預かっていただいた友人宅にお迎えに行ったり連れてきていただいたりで、帰宅は毎日22時頃となりました。子供を見ていただいた方々にとっても、そして子供にとっても、大変なハードスケジュールでした。

子供たちを写真展会場に連れて行ったら、会場を裸足で走り回りえらいことに。

その間、(シリア人の)夫は、徒歩3分の距離で暮らす甥のムハンマド(2020年12月に労働のため来日。2021年8月、仕事中にトラックに挟まれる事故に遭って療養中)の家に入り浸り、ご飯も食べさせてもらっていました。写真展の会期中、会場でのトークイベントにも参加してくれた夫ですが、写真展の後、夫との関係が悪化してしまいました。「私が仕事ばかりして、家族の時間を大切にしていない!」というのが理由でした。

シリアでは、ダマスカスやアレッポなどの大都市を除き、妻たちの多くが専業主婦です。夫が外で仕事をし、収入という物質的な糧を家庭にもたらす存在なら、妻は家庭を守り、精神的な糧を家族にもたらす存在とされます。つまり妻の役割は、「家族を精神的に幸せにすること」となのです。シリア人の妻たちは夫を尊敬し、夫を立て、夫が満足するように完璧な家事、育児を愛情深くこなします。そのため、ほとんどの時間を家で子供たちと過ごします。

2011年まで、シリア砂漠でラクダの放牧を手がけていた夫。シリア中央部パルミラの大家族に生まれた。

こうしたシリア人の奥さんたちに比べ、写真展の重要な期間とはいえ、私のように家を夜間まであけ、子供たちを友人の家に毎晩預け、家の中をめちゃめちゃにしているのは「とんでもない妻」とのことで、一気に夫との関係が厳冬期のアラスカのように冷え込んでいったのです。

事前に、「写真展の期間は忙しくなるから」と話をしていたのですが、過去でも未来でもなく、常に「今」にしか気持ちをシフトしていない夫にとっては、突然やってきた事態が理解不能だったのです。

夫はマーマ・ムハンマドと同棲生活

そして夫は家を出て行き、徒歩3分の距離に住むムハンマドと同棲生活を送るようになりました。ムハンマドは料理が上手で、夫の甥、つまり夫の姉の息子であることから、彼の作るアラブ料理はまさに「おふくろの味」。私には再現できない微妙な味付けができるので、以前から夫はお腹が空いたら「ムハンマドの家に行ってくる」と言い、私も「マーマ・ムハンマド(ムハンマドお母さん)」と呼んで、ご飯をご馳走になっていました。

そんななかでの夫との関係悪化。夫曰く、「ユカよりもムハンマドのほうが、作ってくれるご飯も美味しいし、部屋も綺麗だし、自分を大切にしてくれる」とのこと。もはや、妻の存在価値なし・・・!

絶句・・・!!

もう、お妾さんに夫をとられた気分です。

子供たちとマーマ・ムハンマド。料理上手で働き者。

困ったのは、この夫との関係の悪化の影響で、怒り狂った夫が私への一切の協力を拒み、写真展で集めた「シリア難民 生活支援カンパ」の送金を、従来のアラブ系銀行での送金にできなくなったという事態でした。

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写真展「シリア難民 母と子の肖像」を終えて(2021年12月10日〜16日開催 富士フォトギャラリー銀座にて)

月日の流れはただでさえ早い。だが、自分が持てる全てを投入した時間は、流れ星のように一瞬の煌めきで終わる。今年もそんな時間を持つことができた。

2021年12月、2年ぶりに写真展を開催した。小松由佳写真展「シリア難民 母と子の肖像」。トルコ南部に暮らすシリア難民の、特に母と子の関係性に焦点を当てた展示だ。イスラムの格言には「天国の門は母親の足元にひらける」という言葉がある。イスラム社会において、母親の役割は家庭を守り、子供を産み育てることとされ、とりわけ子供の人生に対して母親に課される責任や役割が大きい。そうしたイスラム文化のシリア人の母たちは、難民となったことで、さらに多くを抱えなければいけなくなった。とりわけ生まれてから死ぬまで、母と子が一体としてあるシリア人の母子には、父と子の関係性にはない深い繋がりがある。難民という不安定さを一手に引き受けているのは、父親よりもむしろ母親たちだ。会場では、こうした視点から垣間見た母と子の関係性から、難民という立場、さらに彼らが抱えているものを感じとり、内戦が人々に何をもたらしたのかを考える場にしたかった。

写真展は2つのギャラリーを使った。一つ目のギャラリーでは、難民の生活風景をカラー写真で表現した。さんさんと太陽の輝く、緑豊かなトルコ南部に難民が暮らしている。これは外側から見たシリア難民の姿だ。そして次のギャラリーでは、やや暗めの照明の下に、モノクロ写真で構成された母と子の写真が並ぶ。これらは内側から見たシリア難民の姿で、彼らの心の内に迫っていく意図がある。

表現したかったのは、難民たちの全体像でも、明瞭で綺麗な写真でもない。難民としての、曖昧で、不条理で、不安定な立場そのものだ。そのため懐中電灯という、光量も動きも「一定ではない」光源で、彼らの一面だけをわずかに浮かび上がらせた。そして光が当たらない部分に、私たちが「写真のその奥にあるもの」を想像する素地を残した。

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