義父ガーセムが残したものに生かされて〜その死から一年〜

パルミラに生きたガーセム

2022年5月31日、義父のガーセムが86歳でこの世を去ってから一年が経った。夫の父親であるガーセムは、厳しくて暖かく、威厳のあるアラブのお父さんだった。ガーセムを思い浮かべると様々な思い出がよみがえるが、その多くが、内戦前のシリアで忙しく働いていた頃の生き生きとしたガーセムの姿だ。

私は彼を通して、シリアの砂漠で生きる人間の精神、砂漠の世界観を学んだ。全ての砂漠は異なっていること、砂粒の大きさや色、形、そこに生える草の種類で砂漠を見分け、先祖代々、砂漠に名をつけて識別してきたこと。第一次世界大戦後にシリアの国境ができるまで、自由にイラクやサウジアラビア方面のオアシスへ砂漠を旅してきたこと。砂漠が閉ざされた空間ではなく、むしろ自分たちを違う世界へと導く「開かれた世界」なのだと教えてくれたのも、ガーセムだった。

左端がガーセム。パルミラにて。2009年。

2020年に上梓させていただいた拙著『人間の土地へ』(集英社インターナショナル)では、前半部分にガーセムが登場する。内戦前のシリアの暮らしとして、シリア中部パルミラに暮らす一家の話を書いたが、それがガーセム率いるアブドュルラティーフ一家であり、まさにガーセムがいなければ知ることのできない世界であった。

『人間の土地へ』では、ガーセムをこう紹介している。

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「勤勉で実直、一代で身を立て、大家族を養ってきたガーセムは、一家の大黒柱として尊敬されている。がっしりとした体格にこの頃はいくらか脂肪がついてきたが、風貌は依然として威厳に満ちている。ガーセムがいるだけで、その場にピリリとした緊張感が生まれ、すでに50を回った彼の息子から小さな孫までもガーセムの機嫌を伺うのだ。冗談好きで陽気な一面もあるが、曲がったことが大嫌いで、こうと決めたらひたすらその道をゆく。特に善悪についての子供への教育に厳しく、いつも片手に杖を携えて睨みをきかせるために恐れられていた。」

                ―――(『人間の土地へ』「ガーセムとサーミヤ ある夫婦の物語」より

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内戦前のパルミラにて、ラクダに与えるエサを運ぶ仕事の合間に。中央がガーセム。右端の男性ソフィアンは、イスラム過激派ISの戦闘員になっていった(彼の物語も『人間の土地へ』に登場する)。

ラクダの放牧中、メッカに向かってイスラムの祈りを捧げる。一家は100頭近いラクダを砂漠で放牧していた。

内戦前のシリアでガーセムと過ごしたのは、2008〜2011年の4年間だ。ガーセムは当時70歳ほど。大柄でがっしりとした体躯で、いつも片手に杖を持っていた。その杖は、歩くためのものというより、学校に行かずに遊んでいる孫を見かけると叩くための杖だった(私も冗談で時々叩かれた)。ガーセムが現れると、その場の空気が引き締まるような独特の存在感があり、その足はいつも裸足にサンダルばき。足の裏はゾウのように硬い皮膚に覆われてひび割れ、中に土が挟まっていた。その手もやはり大きく厚く、水で洗っても手に染み込んだ土はとれなかった。土地とともに働いてきた長い年月を感じさせる手足だった。

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対談シリーズ「今日もいい天気!」を始めました。1回目の対談「世界をホッとさせる一杯を」と裏話。

私は日頃から、人に会い、同じ空間でお話することをとても大切にしています。そしてできたら、直接お会いするようにしています。人に会い、言葉を交わすことで、初めてその人となりが見えてくる。そう教えてくださったのは、知人の新聞記者でした。

現代では電話やメール、zoom取材でも、連絡を取ったり話を聞くことはできるけれど、その人のまとう「空気感」や声の調子、微細な表情や仕草から感じる性格や品格は、直接会わなければ分からないものだと、その方に教えていただきました。そして、そうした語られる言葉ではない部分にこそ、その人の真実が宿っているのだと。10年経っても忘れられない言葉です。

私自身も、写真家として、目に見えないその人の雰囲気を心で感じ取ることをいつも心がけています。そしてこうした、目に見えないものを写真に写すことを心がけています。そうした意味で、人と直接会うことは、大きなインスピレーションを与えてくれます。

とは言っても、お会いしたい方となかなか直接会えないことも多く、そんな時は電話やzoomなどでお会いし、その方の声を直に聞きたいと思っています。最近、意識して様々な分野の方からお話をお聞きするようにしていましたが、人とお会いして感じたことや学びを、シェアしていくのはどうだろうか、多くの方と学びを共有できるのではないかと思い、オーディオプログラム(ラジオのような感じです)での対談シリーズを始めることにしました。

その名も、

「フォトグラファー小松由佳の対談シリーズ「今日もいい天気!」

です!

様々な分野でその道を果敢に歩いていらっしゃる方々からお話をお聞きし、学びを共有するためのオーディオプログラムです。

第一回目は、トルコ南部でのピスタチオのコーヒー(ブラウンピスタチオ・ラテ)の製造・販売を通し、シリア難民の自立支援活動を行う「Fease(フェアーズ)」代表 のキクチタイキさんよりお話を伺いました。

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「フォトグラファー小松由佳の対談シリーズ「今日もいい天気!」  ♯ 1 キクチタイキさん × 小松由佳   (2022年5月21日配信)

▼「世界をホッとさせる一杯を」〜ピスタチオのコーヒーでシリア難民支援〜 

(オーディオプログラムは以下よりご視聴ください)

https://stand.fm/episodes/628868543e849b0006cc3764?fbclid=IwAR2U2qqG3bheko8UoBDMjz32JNw0KLFRvuLK-BIBU-ExWgQU10KhucsoV50
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キクチさんのモットーは、「世界をホッとさせる一杯を」。

事業を通したシリア難民の雇用や教育の支援だけでなく、商品を製造する人、受け取る人がそれぞれに幸せを感じられる商品を目指しているそうです。 現在のシリア難民の状況や、彼らが抱える課題も交え、活動について伺いました。

「ブラウンピスタチオ・ラテ」は、この秋に商品化を目指しており、私たちがそれを購入することで、シリア難民の雇用創出につながります。キクチさんは「ブラウンピスタチオ・ラテ」を商品化するためのクラウドファウンディングを最近まで行われておりましたが、

https://camp-fire.jp/projects/view/548924…

引き続き、今も事業のサポートをいただける方々を募集しているそうです。シリア難民の自立支援を目指すキクチさんの活動へのご支援を、皆様どうぞよろしくお願いいたします。

▼「Fease(フェアーズ)」への活動支援はこちらより

Paypay銀行

はやぶさ支店 003

口座番号:2283658

キクチタイキ 

▼また、2022年6月30日までに¥2000以上のご支援をいただいた方には、「ブラウンピスタチオ・ラテ」を郵送くださるそうです。日本ではなかなか入手できず、大変貴重です!

その場合、以下のキクチさんのメールアドレス宛に、お名前と送り先ご住所をお送りください。

(キクチタイキ メールアドレス) kikuchi4940@gmail.com

また、キクチさんのfacebookでも、是非繋がっていただけましたらと思います。

(キクチタイキ facebook)

https://www.facebook.com/taiki.kikuchi.14(こちらより検索ください→「菊地泰基」Taiki Kikuchi)

皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

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<キクチさんとの対談での裏話>

今回、1回目の対談シリーズとして「Fease(フェアーズ)」代表 のキクチさんからお話をお聞きした背景には、シリア難民を知っていただくことも大切だけれど、シリア難民の支援に関わる日本人のことも知っていただき、応援いただきたいと思ったからです。

こうした人々の存在を知り、サポートをすることで、巡り巡ってシリア難民の暮らしが改善することにも繋がります。これからも、シリア難民の取材と並行し、難民と共に歩いている人々の姿を紹介していきたいと思います。

ところで、有料会員の皆様に対し、キクチさんより普段なかなか語れない裏話をお聞きしました。テーマは「挫折」です。異国で、事業を一から始めたキクチさんが、どんな挫折を経験し、どんな言葉から立ち直っていったのか。以下は、キクチさんにお聞きしたお話を、私が書き起こしました。

▼「本音をぶつけ合った日」ーーーキクチさんのお話より

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この夏のシリア難民の取材 裏話その1 〜例年にはない挑戦について〜

私は2012年から、シリア難民の取材を行なってきました。シリア内戦から10年以上が経過しましたが、難民の状況は改善されず、さらにコロナ禍やウクライナ侵攻により、報道も少なくなってきました。

シリア難民の他にも、世界を見渡せば、ミャンマーやアフガニスタン、パレスチナやシリアなど、紛争に巻き込まれ、苦境の中に生きている多くの人々がいます。

私はこうした人々の存在について、まずは知っていただき、関心を持ち続けていただくことが大切だと思っています。そのきっかけになるよう、シリア難民を取材し、一人一人のエピソードから、彼らの今を伝えていくことを続けたいと思います。

今年も7月から9月まで、シリア難民の取材に向かいます。実は今回、例年とは異なる大きな試みがあります。それは私にとって大きな挑戦であり、今年は難しくても、今後、いつかは実現したいと願う挑戦です。

その企画に至った背景などの裏事情を、オーディオプログラムにてお話いたします。30分ほどのプログラムです。以下より、どうぞご視聴ください。

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念願の京都国際写真祭、キョウトグラフィーへ

京都を舞台に年に一度開催される国際的な写真祭があります。その名も「KYOTOGRAPHIE (キョウトグラフィー) 京都国際写真祭」。今年は4月9日から5月8日にかけて開催されました。この期間、京都市街地の数多のギャラリーで、素晴らしい写真展示やイベントが行われます。このキョウトグラフィーに、ついに先月末、訪れることができました。

*KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 https://www.kyotographie.jp

*開催要項より                                「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」は、世界屈指の文化都市・京都を舞台に開催される、日本でも数少ない国際的な写真祭です。一千年の長きにわたって伝統を守りながら、その一方で先端文化の発信地でもあり続けてきた京都。その京都がもっとも美しいといわれる春に開催されます。日本および海外の重要作品や貴重な写真コレクションを、趣のある歴史的建造物やモダンな近現代建築の空間に展開し、ときに伝統工芸職人や最先端テクノロジーとのコラボレーションも実現するなど、京都ならではの特徴ある写真祭を目指します。

キョウトグラフィーは、日本では数少ない国際写真祭です。毎年行きたくてたまらなかったのですが、6年前に長男を出産して以来、サバイバル育児生活が続き、なかなか訪問できずにおりました。

ところが今回、子供たちを泊まりで預かってくださる知人が現れたことで、ようやく念願が叶いました。六年ぶりに夜行バスに乗り、六年ぶりに子供から離れて二泊三日の一人旅。一人で長時間を自由に過ごす感覚を、数年ぶりに味わいました。やはり、一人じっくり考えたり感じたりする時間は、創作活動にとって必要ですね。

京都では丸二日間、街中をレンタルサイクルで走り回り、写真の世界に浸りました。寝ても覚めても写真だらけのなんと贅沢な時間だったことでしょう。ここでは、目にした中でも特に印象に残り、心の奥深くにビビビッときた展示についてご紹介したいと思います。

キョウトグラフィーで、心が震えた展示の数々

私にとって「心の琴線に触れる写真」とは、写真自らが物語る写真です。その写真に反映される時代性や、写真家独自の視点、そして感性に訴えかける「何か」(→言葉にできないもの)があるか。私たちが生きているのがどういった世界なのか。そうしたことを感じさせ、考えさせる写真が、素晴らしい写真だと思っています。

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「呼ばわり山」の夜道の事件

2022年3月のある日、春風に誘われた。山に行こう。

早速おにぎりを握り、ザックにお菓子を詰め、3歳と5歳の二人の子供を連れて郊外へ。目指すは東京都八王子市のはずれにある今熊山(いまくまやま)。標高505メートルの今熊山は、八王子では知られた低山で、かつては「呼ばわり山」として、失踪した人を呼び寄せる霊山として崇められていた。江戸期、多くの参拝客を集め、関東一帯から人々が訪れたとされる。

登山口にて。今熊神社の階段を登り、今熊神社奥宮のある山頂へ。

今も昔も、人は様々な事情から行方が分からなくなることがある。こうした人々の無事を祈り、再会を願って登られた山なのだ。情報網や連絡手段が発達していなかった時代、人との出会いや別れは、現代よりもっと直接的で、深い意味があったろう。

登山口からしばらくは、なだらかな道が続く。

コースタイムでは、登山口から今熊山山頂まで一時間ほどの道のりだ。なだらかで良く踏まれた道を辿り、景色を楽しみつつ山頂を目指した。子供たちはどんぐりや松ぼっくりを拾い、鳥のさえずりに耳を傾け、飛んだり跳ねたり自由に自然を吸収した。やがて山頂に近づくにつれ、苔むした石灯籠やお地蔵さん、朽ちかけた石碑が道端に点在し、古の参拝者たちの面影が偲ばれた。

崩れ、倒れた石碑が点在している。こうした石を、背に担いで登ってきただろう古の人々が偲ばれる。
山頂近くの参拝路にて。「呼ばわり山」として参拝客を集めたかつての雰囲気をとどめる。

20代前半、狂ったように山に足繁く通った時期があった。だが人生の変化は驚くべきもので、その後私は、草原や沙漠のなどの、それぞれの風土に根ざした人間の営みに魅せられ、次第に登山から足が離れていった。さらに長男を出産してからのこの6年は、とにかく運動不足を重ねた。いつかまた、山の世界に戻りたいと心に願いながら。そうして最近になり、子供たちがだいぶ歩けるようになったタイミングで、ようやく山の静謐の世界を子供たちと共有する準備が整ったと感じるようになった。こうして私は今熊山を歩いている。

山頂からひとつ下のピーク、「今熊山 逍遥所(しょうようじょ)」からの眺め。ここは山頂を仰ぎ見る場所。山腹には発電所があり、付近には送電線が張り巡らされている。

石段を登ったその先に、立派な今熊神社奥宮があった。山頂だ。信仰の山として賑わった往時をしのびつつ、広い山頂で子供たちとおにぎりを食べる。帰路は、武蔵五日市駅方向へと下山することにした。

山頂に到着し、喜びの雄叫びをあげる子供たち。ここで登山は終わったと考えていたようだ。

ここで想定内の事態が起きた。「もう歩かない」と子供たちがストライキを起こしたのだ。どうやら、山頂に着けば登山が終わりだと思っていたらしい。普段、高尾山(東京都)でリフトやケーブルカーで下山することが多かったためか、それが登山だと思っていたようだ。本当の登山は、自分の足で安全なところまで降りるものだと力説したが、子供たちは愕然として座り込んでしまった。必死の説得もお菓子大作戦も効果なく、時間は流れた。仕方なく次男をおんぶして下山をしたが、そのうち日が暮れてしまった。人里から離れているから、本当の真っ暗がやってきた。

山で陽が暮れ、心細くなる・・・、というのは嘘で、心の中で、私の中の野生が目覚める。「よし、こうでなくっちゃ」と思う。実は、この登山の本当の計画はここから始まるのだった。それは夜の山を歩くことだった。

次第に視界が利かなくなっていくなかで、不安な表情を見せる子供たちの前に私は立ちはだかった。そしてザックから、ホームセンターで買ったピカピカのヘッドランプを、ドラえもんのような心境で取り出した。

「ヘッドランプ〜」。子供たちは大喜びし、ヘッドランプをつけて夜道を歩いた。

通常なら、明るいうちに行動し、夜が来る前に山を下りるのが良いとされる。だが、普通じゃない登山もしたい。あえて夜の山を歩き、山の夜の静けさや、暗がりの深さを感じてみたい(付き合わされた子供たちにはかわいそうだが)。夜が足元にゆっくりと忍び寄り、全てが深い黒に沈んでいくあの感覚を、最後に味わったのは一体いつのことだろう。

やがて、あたりに夜の静寂が広がった。私たちは夜とひとつになっていく。子供たちは、暗闇への不安を口にした。「オバケ出ちゃったらどうしたらいいの」「ヘビが出たら死んじゃう」。小さい子供も大人も、視界がきかない暗いところが怖い。見えないもののなかに潜む、リスクへの本能的な不安があるからだ。だが、その恐れと同時に存在するだろう、 “未知”への好奇心こそが、人間を人間たらしめているのではないだろうか。

夜の茂みに、生き物の世界がある。「ガサガサ」と何かが動く微かな音がする。そのたび、私たちは立ち止まって耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ました。その正体を全身で感じ取ろうと、危険がないか判断しようとする。安全と快適さとが前提にある街の暮らしでは感じ得ない、生き物としての野生を、自分たちの内面に感じる瞬間だ。

やがて疲れと不安から、子供たちが深刻な表情を見せた。励ましの言葉ももうきかない。こういうときは雰囲気を変えるに限る。場の空気を和ませるため、私は必殺技を繰り出した。

「ブッ!・・・」。夜の暗い山道に、大音量で屁が放たれる。その後の一瞬の静寂、そして子供たちの大笑い。それまで私たちと共にあった “暗闇こわいこわい” は、一瞬にしてどこかへ消えてしまった。一発の屁の、なんたる威力だろうか。人間は、かくもユーモアの力で、恐れや不安を払拭できるのだ。

そのうち登山道が終わり、私たち「ヘッドランプ登山隊」は、集落へと降り立った。すでに時計は夜8時を回り、街灯が仄かに道を照らしているだけで、人ひとり外を歩いていない。駅へと続く大きな橋を渡り、やがて目的地の武蔵五日市駅に到着した。「ああ、これでおうちに帰れる」と長男がひとこと。

自然が内包する未知に触れ、自身の野生に向き合った一日。子供たちとの初めての、本当の登山。その後、「呼ばわり山」の夜道で豪快に放たれた屁の凄みは、今も小松家で語り継がれている。

<完>                

(2022年4月28日)

ウクライナ侵攻を、どう捉えていくべきか〜ロシア通のF氏より、お話をお聞きした〜

2月24日、ウクライナ侵攻が始まって以来、世界の目はウクライナに注がれ、現地からは次々と惨状が伝えられている。あまりに短期間に引き起こされた戦争の悲劇に落ち着くことができず、今も進行する人道危機をどう捉えたらいいのか、私も非常に悩んでしまった。

報道の場では、様々な識者がこの戦争を語っているが、もっと直接、その背後にある歴史や文化から、話を聞きたいと思った。そこで、3月末、知人である北海道新聞の前編集委員、F氏とお会いした。

 F氏は大学時代よりロシア語を学び、ロシアでの留学を経て北海道新聞に就職。以来、記者、編集委員としてロシアの政情を見つめてきた。 約30年勤めた新聞社を退職し、関東に移る矢先にウクライナ侵攻が始まった。北海道新聞社は、特にロシアとの関係が深い新聞社だ。そこで編集委員をされていたF氏が、このウクライナ侵攻をどう捉えているのか。お話をお聞きしたく、北海道から越したばかりのF氏にお会いした。話の内容が非常に勉強になったため、自分自身の記録と、情報の共有のために、以下にまとめることにした。

<以下、F氏のお話より>

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ウクライナ侵攻は、政治問題である前に人道危機だ

 ▼ウクライナ侵攻は、政治問題である前に人道危機だ。子供やお年寄りまでもが巻き込まれている。すでに400万人近い難民が発生したが (3月下旬の段階)、「(ロシアに)降伏すればいい」というのは、力でねじふせるロシアの論理に加担することになってしまう。 

攻撃は軍事施設に限定するというロシアの公式説明に反し、住宅や病院、学校が破壊され、民間人が多数犠牲になっている。これは人道危機であるという観点から、何ができるか考えなければいけないのではないか。

▼ソ連崩壊とともに独立したウクライナはまだ若く、内政には不安定な側面があった。さらに西と東では、言語や歴史認識に大きな違いがある。西ウクライナは、民族意識やウクライナの独自性についての意識が強く、ウクライナ語話者が多い。一方で、ソ連を代表する重工業地帯だったドンバス地方など、東部にはロシアからの移住者が多く、ロシア語話者の住民が多い。大統領選では、親欧州と親ロシアの候補が拮抗し、地域で支持が分かれる経過があった。

▼プーチンはウクライナに侵攻したら、住民に歓迎されると本当に思っていたかもしれない。ロシアの傲慢ではあるが、首尾よくクリミアが併合できたことでプーチンには錯覚が生まれたのではないか。 あのとき国際社会は、もっと厳しくロシアを制裁すべきだった。ロシアも国際法の住人なのだから。

ただ、一方で帝政ロシア時代から保養地として名高く、黒海艦隊もあるクリミアでは、ウクライナ独立後、自分たちはなぜウクライナの一部なのか、という戸惑いがなかったわけでもない。ロシアの生活レベルは相対的に高く、ロシアへの帰属を望む住民もいたかもしれない。クリミアや東部のロシア語話者の住民には、反ロシアの民族主義的主張には違和感を持つ人も少なくなかったと思う。

本当の平和は、相手を尊重するところからしか生まれない

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オンラインイベント「見えない入管問題を考える〜収容者の家族として〜」(2022年3月30日開催分)

3月30日、入管問題をテーマとしたオンラインイベントを行いました。

前回、映画「牛久」を見て考えたことをオーディオプログラムとしてあげさせていただきましたが、今回のイベントは、「入管問題」をテーマに、その続きとなります。

イベントでは、ガーナ人の配偶者が牛久(茨城県牛久市)の入管施設に2年3ヶ月にわたって収容されたカタクリ子さん(偽名・入管収容者 妻の会会員)をお招きし、お話いただきました。

驚いたのは、旦那さんがあまりに突然に収容となったことや、その後の家族の生活も、さらには精神状態も、次第に追い込まれていったこと。また「入管収容者の家族」として、区別や差別を受けてきたこと。

法治国家として、在留資格に問題がある外国籍の方々を法的に取り締まることは当然のことですが、問題は処遇です。収容期間を示されることなく、収容者の自由を心身ともに奪い、大きな負担を家族にも強いる入管施設の現状は、やはりどこか構造上の問題があるのではないかと感じました。第三者による監視や運営などがあれば、まだ風通しが良くなるのかもしれません。

いずれ、「世論の高まりが入管問題を変えていくはず」とカタクリ子さんが言われたように、私たちが関心を持ち続けることが大切だと思いました。

当事者から具体的なお話をお聞きできた貴重な時間でした。

◀︎イベントの収録動画はこちらより(有料会員様限定の動画です)

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映画『牛久』と入管問題

入管問題に光を当てたドキュメンタリー映画『牛久』。通常、なかなか見ることのできない、知ることのできない入管内部の様子を、“隠し撮り”という手法で撮影した衝撃的な作品です。映画『牛久』を見た感想や学び、さらにトーマス・アッシュ監督に質問して「そこじゃない!」と叱られてしまったエピソードを盛り込み、入管問題について考えます。こちらは40分のオーディオプログラムです。ラジオ感覚でご視聴ください。

ご視聴はこちらよりどうぞ。

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プーチンのロシアとウクライナ 

2月24日から突如始まったロシア軍によるウクライナ侵攻。

ウクライナ各地では激しい戦闘が続き、すでに100万人近くが難民となって隣国に逃れた。この世界は、こんなにも不安定な均衡のうえに成り立っているのだ。

欧米諸国はロシアに対し、「武力侵略を容認しない」という強いメッセージを送った。異例中の異例という経済制裁も次々と課され、世界の厳しい目がロシアに向けられている。

ウクライナ。人は暖かく、大地は豊かで、詩的な美しさの漂う国。2008年、ユーラシア大陸横断の旅の途上、1週間ほど滞在した。首都キエフのドニエプル川を見下ろす高台で、夕暮れを寄り添うように眺めていたカップルの後ろ姿が忘れられない。

「揺れる大国 プーチンのロシア」

10年ほど前、あるNHKのドキュメンタリー番組を見た。「揺れる大国 プーチンのロシア」。2009年3月に4回にわたって放送され、書籍化もされた番組だ。現代のロシアを生きる人々の姿を追うことで、ロシアという全体像を浮き上がらせていた。

(https://www.amazon.co.jp/揺れる大国プーチンのロシア―NHKスペシャル-NHK取材班/dp/4140813830)

そこに登場した、初老のタクシー運転手の話が印象的だった。

「この国の歴史を知る者は、二度と国に背くことはしない」。

運転手はハンドルを手にしながら淡々と語っていた。過去にこの国で何が起きてきたか。どれほどの者たちが国に反旗を翻し、命を落としてきたか。ロシア人は皆それを知っているのだと。

番組全体を覆う重苦しい雰囲気から感じたのは、プーチンのロシアが、いかに維持されてきたかだった。かつての“強いロシア”への憧憬のもと、情報統制と監視を行い、越えてはいけない政治の一線を科すことで人々を繋ぎ止めてきた。

だが現代、世界はグローバル化・デジタル化によって急激に変化している。特にSNSのような世界的なネットワークは、メディアのあり方から個々の繋がり、社会のあり方までを内側から変えている。

このウクライナ侵攻でも、SNSを駆使した情報戦が繰り広げられている。戦闘の最前線がリアルタイムで投稿され、セレンスキー大統領自らが、スマートフォンでの自撮りという方法で、ウクライナ人はもちろん、敵国のロシア人に対してもSNS上で訴えかける。

いかに大衆に思いを訴え、彼らの心を動かし、具体的な行動へとつなげるか。コメディアン俳優、映画プロデューサー出身という異色の経歴を持つセレンスキー大統領は、それを誰よりも知っている。

このウクライナ侵攻によって、図らずもロシア自身が、自由主義という新しい価値観によって結果的に占領されるきっかけになるかもしれない。いくら力で押さえ付けても、インターネットによって多様な情報に晒される現代社会では、人の心の内まで抑えることはできないはずだ。

シリアからトルコに逃れたばかりの8歳の子供が描いた故郷シリアの絵。トルコ南部レイハンル、2015年。

8歳のシリア難民の子供による故郷シリアの絵。降り注ぐ爆弾、路上で亡くなる人々の姿が描かれた。2015年。

過熱するウクライナ報道への違和感

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ハサンケイフのヤギ飼いと太陽

                                                          

ティグリス川ほとりの街  

2009年夏、バスの窓からその土地をはじめて目にしたとき、あまりの美しさに息を呑んだ。

トルコ南東部、ティグリス川ほとりの街ハサンケイフ。約1万2000年の歴史があり、その上方の丘陵地には、古代の遺跡や墓が、柔らかな草原に埋もれていた。

かすかな踏み跡をたどって山の上に登ると、犬がかけてきて激しく吠えたてた。牧羊犬らしい。たじろいでいると、犬を呼ぶ男性の声に、犬はくるりと引き返した。その先に、ヤギの群れを連れた男性の姿が立っている。

ヤギの放牧をするチョバン(トルコ語で羊飼いの意)、ヤシャールとの出会いだった。風土に根ざした暮らしに興味を持ち、土地から土地へと旅をしていた私は、この山での放牧の仕事をヤシャールに見せてもらうことになった。

ハサンケイフ郊外の丘に残る古代の遺跡。崩れた石積みの建築物からは、かつての暮らしの痕跡を感じさせる。

クルド人のチョバン、ヤシャール

「アイへへへへへへ!」ヤシャールの声が、静寂の谷にこだまする。ヤギの群れに、「進め」の合図だ。100頭近いヤギが、砂ぼこりをもうもうとあげて谷を下る。

ヤシャールはクルド人。父親もその父親も、この谷のチョバンだった。年齢は本人もわからない。30歳ほどか。幼い頃から父に連れられ山を歩き、現在は兄と交代で放牧に出る。家族は年老いた母と二人の兄。兄たちは結婚して実家近くに所帯を持ち、母と二人で暮らしている。村と谷、山とを往復する毎日だ。

夜明け前。暗闇から朝焼けへと変わる谷の道を、ヤシャールと犬、100頭ほどのヤギが登ってゆく。朝日が差すと山は赤く燃え、世界が一変した。やがて手足の寒さが和らいでゆき、今度は太陽の暑さに苦しんだ。

何という、太陽の光の眩しさだろう。私たちはわずかでも日差しを避けられるよう、木陰から木陰へと歩いた。その前方で、ヤギは喧嘩をしたり戯れたりし、実に自由に進んでいる。

ヤシャールは一頭一頭のヤギに名をつけ、その父親や母親、祖父母の名まで覚えていた。群れには一頭の羊もおらず、全てヤギばかりだ。ハサンケイフの谷や山での放牧では、足腰の丈夫なヤギしか耐えられないからだそうだ。

正午頃、木陰に座って休む。ヤシャールはポケットから古びたラジオを取り出し、クルドの民謡を聞いた。その音色は抑揚があり、野や山々などの自然を彷彿とさせる。ヤシャールはトルコ語を話し、トルコ国籍を持ってはいるが、自分はトルコ人ではなくクルド人だと強調した。自らのルーツ、クルドの文化を愛し、誇りを持っているのだった。

まるで流れるのをためらうかのように、雲がゆったりと流れていた。ヤギの群れはいつの間にか視界から消え、犬が先に行ってヤギを見守っている。犬はヤシャールの信頼のおける相棒で、犬もヤシャールの役に立つことが誇らしい様子だ。

ヤギにとっては毎日登り降りする、勝手知ったる山の道。ヤギの踏み跡は、縦横無尽に山肌に刻まれている。

そのうちヤギの群れが岩場にさしかかった。足場が限られた巨大な一枚岩を、ヤギたちが一列になって降りていく。群れは整然と進むのかと思いきや、てんやわんやだ。順番待ちに耐えかねて前のヤギに頭突きするヤギ、後から来たヤギに踏まれ下敷きになるヤギ、突然交尾しようとする雄ヤギまでいる。そんなヤギたちをヤシャールはほらほらと指差し、困ったという仕草で笑った。

ヤギたちが軽々と下っていった岩の斜面で私は立ち止まった。下は百メートル近く切れ落ちる急傾斜の断崖絶壁。足を踏み外せば真っ逆さまだ。次の足場まであと少しのところで、どうしても足が届かない。登山でも、安全のためロープをつけて登るような場所だ。

ためらっているうち、ヤギの群れもヤシャールも先に行ってしまった。彼らにとっては、全く何でもないところなのだ。

山の上に残された古代の遺跡。大きな岩を削って作られた、祭祀場のような場所だ。羊とチョバンしか歩かないような山の上にひっそり残されている。

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「IS指導者、米軍の急襲によりシリアで死亡」の報道に思う (2022年2月8日)

日本ではあまり大きく報道されなかったが、2月3日、イスラム国(IS)の指導者が、米軍の急襲により家族と自爆死した。事件が「正義のための戦い」として報道され、過去になっていく。その違和感のあまり、(我ながら驚くが)二日ほど目が冴えてよく眠れなかった。現地メディアの動画報道を目にして頭から離れなかったこと、考えたことを、ここに書きたい。

突然の報道から数日経ち、次第に事件の全容が明らかになってきた。

アメリカのジョー・バイデン大統領は2月3日、米特殊部隊がシリア北部で夜間の急襲作戦を実行し、イスラム国(IS)の指導者と幹部が死亡したと発表した。

作戦は3日未明にかけ、シリア北西部イドリブ県アトメにて行われ、イスラム国(IS)の指導者アブ・イブラヒム・アル・ハシミ・アル・クライシ指導者が妻と子どもを巻き添えに自爆。指紋とDNA分析によって本人確認がされた。

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.bbc.com/japanese/60255298.amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

(「IS指導者、シリアで死亡 米軍が長期計画の作戦実施 」 BBC   2022年2月4日)

https://www.afpbb.com/articles/-/3388400?act=all&pid=24155693

(「IS最高指導者が自爆死 米軍、シリアで急襲作戦」AFP 2022年2月4日)←こちらは写真が充実しています。

バイデン大統領は、「世界にとってのテロの脅威が取り除かれた」と演説し、作戦の成功を謳った。現地の救助団体ホワイト・ヘルメットの発表では、作戦が実施された住居で、子供6人と女性4人を含む13人の遺体が見つかったと発表。(https://www.syriacivildefence.org/en/latest/statements/brief-us-raid-idlib/ホワイト・ヘルメット 2月3日)。

急襲によって自爆死したクライシ指導者は、バグダディ死亡後に指導者となった人物だ。1976年イラク出身で、アメリカ軍によるドローン攻撃で足を切断し、義足を付けていたとされる。

事件現場を撮影した、現地イドリブ県の反体制派メディア、「オリエント」の報道を見た。

https://fb.watch/a_erGn7SvZ/

(Olient  *こちらは動画です)

現場は近隣の人々が野次馬に集まったりと騒然としていたようだが、イドリブ県では、空爆や襲撃が何年にもわたって頻繁に行われてきた。今回のように米軍機が突如やって来て、特定の家族を殺害することに、人々の驚きもそこまでなかったようだ。それだけ尋常ではない状態が続いてきたということか。

現地メディアの動画には、崩れ落ちたコンクリートの家屋や、ものが滅茶苦茶に散乱した室内が映っており、激しい戦闘が起きたことを感じさせた。目に入ったのは、吊り下げ式の青いブランコや、爆発現場に放置された赤い子供服。クライシ指導者の家族と思われる、小さな子供が一緒に住んでいたのだ。もしかしたら、クライシ指導者とともに、一緒に亡くなったのかもしれない。その子らが、最後にどんなに怖い思いをしただろうか、痛い思いをしなかっただろうか、と思った。

血痕が飛び散った台所には、オリーブの油漬けの瓶や、香辛料の瓶などが整然と積まれていた。ここに、毎日台所に立っていた女性たちがいて、日々の生活があったのだ。

この家の大家によれば、クライシ指導者はほとんど外に出ることはなかったが、あるときオリーブの実を摘み取っていると、コーヒーを持って来て、一緒に語らったことがあったという。近所の人々は、指導者を穏やかで快活な人物なタクシードライバーだと思っていたようだ。指導者は、この家に1年ほど前から暮らし、スマートフォンでISの各部隊に指示を送っていたとされる。

https://www.afpbb.com/articles/-/3388643?cx_amp=all&act=all

(「穏やかな隣人がIS最高指導者、住民驚き シリア」 2022年2月5日 )

事件のあったイドリブ県アトメが、毎年取材を行うトルコ南部ハタイ県レイハンルに非常に近い土地であったこともあり、BBCやAFPなどのさまざまな媒体からこの報道を読んだ。そのほとんどが、指導者の殺害という結果をして作戦の成功を宣言し、「テロとの戦い」「正義の戦い」を謳っていた。

だが、多くの命が失われた現場を目にして、複雑な思いが込み上げる。

人間は誰しも、その存在を脅かされることなく生きる尊厳を持っているはずだ。自らの信条を他者に強要して、それを奪うことは誰にも許されない。人間の尊厳や権利を踏みにじる、テロリストとされる人々の罪は重い。だが、その命の尊厳は、同時にテロリストの側にも当てはまるのではないのだろうか。

その思想、行動が誤っていたからとて、その人物の生命、存在自体が、こうして正義の名の下に武力行使で奪われる。それを「正しい」と言えるのだろうか。

私はISやテロリストを支持したいのではない。IS幹部として行ったことへの罪は負うべきだと思う。だが人間は、こうやって武器をとって戦うことでしか、戦いをやめられないのだろうか、奪われたら、奪うことでしか収拾できないのか、と思ってしまうのだ。それなら、方法としては結局ISと同じではないか、と。

クライシ指導者は、IS幹部として多くの殺害計画に関わり、ヤズディ教徒の女性の奴隷化を支持したとされるなど、人道的な罪を犯した人物でもある。だが、容疑者が亡くなった現場に目を凝らせば、テロリストという側面とともに、誰かの夫であり、子供の父親だったという側面も目に入った。

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オンラインイベント「コロナとともに去りぬ〜日本からヨルダンに渡ったシリア人、マフムード〜」が終了しました。

1月30日(日)に開催されましたオンラインイベント、「コロナとともに去りぬ〜日本からヨルダンへ渡ったシリア人、マフムード〜」が終了しました。ページの最後にイベントを収録した動画のURLを貼りました。ご自由に視聴ください。

私事ですが、実はイベント三日前から肺炎にかかっていることがわかり、当日は声が出づらかったほか、激しく咳き込む場面もあり、大変お見苦しい点があり、申し訳ありません。PCR検査の結果、コロナは陰性でしたが、肺炎が思ったより進行していたようで、しばらく呼吸がしづらく、かつて経験した高所登山の標高7000mほどの呼吸の苦しさを感じていました。改めて、地上にも酸素の薄い世界があることを体感致しました。(イベントとは全く違う感想ですみません)

イベントでは、マフムードや通訳を務めたマジェッドさんより、とても重要な話もありました。

・内戦下のシリアでは、電気・ガス・水道が激しく制限されており、洗濯や入浴が満足にできないこと。

・そのような状態から日本に来たので、日本での過酷な生活環境も、シリアよりずっとマシだったこと。

・(意外にも?)シリアよりも日本の労働の場の方が、人の真心を感じたこと

・日本での法の光の届かない労働の実態

・日本よりも生活しやすいことを期待して向かったヨルダンでは、シリア人への差別もあり、仕事も見つけるのが困難で、日本よりも暮らしにくいと感じていること(ヨルダンの方が、収入に対して必要な生活費の割合が大きい)。

〜などなど。

その後マフムードは、ヨルダンでの生活を続けるのが困難と判断し、トルコに渡航しました。紛争国シリアで生まれ、長引く内戦の影響を受けながら、国から国へ、土地から土地を転々とするマフムード。そこには、激動の時代に翻弄される一人の人間の姿を感じます。

マフムードとは、これからも繋がり続け、彼がシリア人としてどのように生きていくのかを見つめていきたいと思います。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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コロナとともに去りぬ〜シリア人のマフムード、日本からヨルダンへ〜2022年1月18日

突然やってきて、突然去って行ったマフムード

シリアで床屋として修行し、内戦下の政府軍の上官となり、ヒヨコ屋を開き、日本でバスに暮らしながら建築現場で働き、ヨルダンでうら淋しく涙を流している男。

突然やってきて、突然去って行った。それが、マフムードに対する私のイメージだ。

彼が長期間居候していた我が家には、今もマフムードが置き忘れていったものがあちこちに残っている。色あせたズボンやボロボロの下着、そして数々の、凹凸のあり過ぎる思い出・・・。

マフムードがやってきたのは2020年の暮れ。来日を知ったのはその二日前だ。日本で建設会社を経営するシリア人が、シリア人の労働者を招聘したがっている。それを聞いた夫が、甥のムハンマドと親族のマフムードを紹介。彼らはコロナ禍の真っ只中、労働のために日本にやって来た。

(夫の家族であるアブドュルラティーフ一家と。右端がムハンマド。その左上に立っているのが夫ラドワンだ。2009年、パルミラにて)

シリア中央部のオアシス都市、パルミラ。この街が、マフムードの故郷だ。夫やムハンマドとは幼馴染で、遠い親戚。三人は兄弟同然に育った。しかし彼らのその後を決定的に分けたのは、2011年1月に政府軍に徴兵されたことだった。折しもシリアが内戦状態へと向かう直前のことだ。マフムードは北西部イドリブ県の駐屯地に、夫やムハンマドは首都ダマスカスの駐屯地に配属されたが、民主化を求める運動がシリア各地で起きると、政府軍はその弾圧を行った。夫やムハンマドは、民衆に銃を向ける罪悪感から軍を脱走し、それぞれヨルダン、トルコへ逃亡。難民となる道を選んだ。

(パルミラ近郊の沙漠にて、2009年。中央がマフムード、右がムハンマド)

一方でマフムードは、政府軍の一員としてあり続ける道を選んだ。給与を手にできたし、一日中寝て過ごせたからだ(マフムード談)。やがて上官となり、最終的に300名ほどの部下も持った。軍隊を離れてからのマフムードは、親類の家を点々としながらヒヨコ屋を開いたりもしたが、働いて手にできる僅かな収入に納得できず、やがて寝て暮らした。そこに降って湧いたのが、日本で働くという話だったらしい。そしてもう一人、夫の甥ムハンマドは、老いた両親や姉の生活を担っていたが、トルコでのコロナ禍による失業にあい、日本での仕事の話を得た。

こうしてシリアからマフムードが、トルコからムハンマドがやって来た。労働許可が降りるまで、彼らは私の夫を頼り、東京都八王子市の我が家で居候をはじめた。私は長期にわたって彼らの寝食の世話をしなければならず、二人の幼い子供の育児と家計もほぼ担っていたため、現実はパニックの一言だった。マフムードとムハンマドは大食漢で、我が家の家計を悪気なく圧迫し、またアラブ料理しか口にできず、魚介類も全く食べられなかった。さらに深刻なことは、私の作るアラブ料理が危険な味だったことだ。やがて料理上手なムハンマドの台所での権力が増し、いつの間にか、調理はムハンマドが(私は彼を「マーマ・ムハンマド」と呼び、“お母さん”として慕った。)、食材を買って片付けるのは私、という役割分担が生まれた。

やがて労働許可がおり、彼らは3月に千葉へ越していったが、待ち受けていたのは過酷な現実だった。

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新年のご挨拶〜昨年の振り返りと今年の活動について〜

皆さま、新年明けましておめでとうございます。

今年もより写真活動を深め、また広げていけるよう努力します。

昨年は様々な意味で怒涛の一年でした。

しかしだからこそ、もがきながら、新しい境地に向かうことができた一年でもありました。

話すのが下手ですが、2021年を振り返り、そこから見えてきた今年の活動についてお話しします。

30分間の音声データです。どうぞお聴きください。

(こちらは有料会員さま限定のコンテンツですので、URLの公開をされませんようお願いいたします)

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写真展で集めさせていただいた「シリア難民生活支援カンパ」をトルコ南部に送金しました。受け取り手がシリア難民のため、複雑な事態が起きました(2021年12月31日)。

2021年12月10日〜16日開催の写真展「シリア難民 母と子の肖像」で集めさせていただいた「シリア難民生活支援カンパ」を、現地に送金しました。

こちらを読んでいただくにあたり、事前に私のfacebookのこちらの投稿を読まれることをお勧めします。

https://www.facebook.com/yuka.komatsu.0922/posts/4401215193321394

写真展で夫との関係が氷河期に突入

今回の写真展「シリア難民 母と子の肖像」は、私にとり2年ぶりの写真展。今が厳しくとも(いつもサバイバル状態なのですが)この先に活路を見出し、そこへ進む覚悟を持つため、自分自身にとって渾身の一撃となる表現の場でした。そんな気合の入った展示のため、毎日の在廊は当然のこと。来場いただく方々と直接お会いし、お話しさせていただくことで、自分がなぜ写真を撮るのかという行為についても考えさせられる機会でした。

平日は19時まで、会場である富士フィルム様の銀座のギャラリーに在廊。それから急いで帰宅して、在住の東京都八王子市方面で子供を預かっていただいた友人宅にお迎えに行ったり連れてきていただいたりで、帰宅は毎日22時頃となりました。子供を見ていただいた方々にとっても、そして子供にとっても、大変なハードスケジュールでした。

子供たちを写真展会場に連れて行ったら、会場を裸足で走り回りえらいことに。

その間、(シリア人の)夫は、徒歩3分の距離で暮らす甥のムハンマド(2020年12月に労働のため来日。2021年8月、仕事中にトラックに挟まれる事故に遭って療養中)の家に入り浸り、ご飯も食べさせてもらっていました。写真展の会期中、会場でのトークイベントにも参加してくれた夫ですが、写真展の後、夫との関係が悪化してしまいました。「私が仕事ばかりして、家族の時間を大切にしていない!」というのが理由でした。

シリアでは、ダマスカスやアレッポなどの大都市を除き、妻たちの多くが専業主婦です。夫が外で仕事をし、収入という物質的な糧を家庭にもたらす存在なら、妻は家庭を守り、精神的な糧を家族にもたらす存在とされます。つまり妻の役割は、「家族を精神的に幸せにすること」となのです。シリア人の妻たちは夫を尊敬し、夫を立て、夫が満足するように完璧な家事、育児を愛情深くこなします。そのため、ほとんどの時間を家で子供たちと過ごします。

2011年まで、シリア砂漠でラクダの放牧を手がけていた夫。シリア中央部パルミラの大家族に生まれた。

こうしたシリア人の奥さんたちに比べ、写真展の重要な期間とはいえ、私のように家を夜間まであけ、子供たちを友人の家に毎晩預け、家の中をめちゃめちゃにしているのは「とんでもない妻」とのことで、一気に夫との関係が厳冬期のアラスカのように冷え込んでいったのです。

事前に、「写真展の期間は忙しくなるから」と話をしていたのですが、過去でも未来でもなく、常に「今」にしか気持ちをシフトしていない夫にとっては、突然やってきた事態が理解不能だったのです。

夫はマーマ・ムハンマドと同棲生活

そして夫は家を出て行き、徒歩3分の距離に住むムハンマドと同棲生活を送るようになりました。ムハンマドは料理が上手で、夫の甥、つまり夫の姉の息子であることから、彼の作るアラブ料理はまさに「おふくろの味」。私には再現できない微妙な味付けができるので、以前から夫はお腹が空いたら「ムハンマドの家に行ってくる」と言い、私も「マーマ・ムハンマド(ムハンマドお母さん)」と呼んで、ご飯をご馳走になっていました。

そんななかでの夫との関係悪化。夫曰く、「ユカよりもムハンマドのほうが、作ってくれるご飯も美味しいし、部屋も綺麗だし、自分を大切にしてくれる」とのこと。もはや、妻の存在価値なし・・・!

絶句・・・!!

もう、お妾さんに夫をとられた気分です。

子供たちとマーマ・ムハンマド。料理上手で働き者。

困ったのは、この夫との関係の悪化の影響で、怒り狂った夫が私への一切の協力を拒み、写真展で集めた「シリア難民 生活支援カンパ」の送金を、従来のアラブ系銀行での送金にできなくなったという事態でした。

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写真展「シリア難民 母と子の肖像」を終えて(2021年12月10日〜16日開催 富士フォトギャラリー銀座にて)

月日の流れはただでさえ早い。だが、自分が持てる全てを投入した時間は、流れ星のように一瞬の煌めきで終わる。今年もそんな時間を持つことができた。

2021年12月、2年ぶりに写真展を開催した。小松由佳写真展「シリア難民 母と子の肖像」。トルコ南部に暮らすシリア難民の、特に母と子の関係性に焦点を当てた展示だ。イスラムの格言には「天国の門は母親の足元にひらける」という言葉がある。イスラム社会において、母親の役割は家庭を守り、子供を産み育てることとされ、とりわけ子供の人生に対して母親に課される責任や役割が大きい。そうしたイスラム文化のシリア人の母たちは、難民となったことで、さらに多くを抱えなければいけなくなった。とりわけ生まれてから死ぬまで、母と子が一体としてあるシリア人の母子には、父と子の関係性にはない深い繋がりがある。難民という不安定さを一手に引き受けているのは、父親よりもむしろ母親たちだ。会場では、こうした視点から垣間見た母と子の関係性から、難民という立場、さらに彼らが抱えているものを感じとり、内戦が人々に何をもたらしたのかを考える場にしたかった。

写真展は2つのギャラリーを使った。一つ目のギャラリーでは、難民の生活風景をカラー写真で表現した。さんさんと太陽の輝く、緑豊かなトルコ南部に難民が暮らしている。これは外側から見たシリア難民の姿だ。そして次のギャラリーでは、やや暗めの照明の下に、モノクロ写真で構成された母と子の写真が並ぶ。これらは内側から見たシリア難民の姿で、彼らの心の内に迫っていく意図がある。

表現したかったのは、難民たちの全体像でも、明瞭で綺麗な写真でもない。難民としての、曖昧で、不条理で、不安定な立場そのものだ。そのため懐中電灯という、光量も動きも「一定ではない」光源で、彼らの一面だけをわずかに浮かび上がらせた。そして光が当たらない部分に、私たちが「写真のその奥にあるもの」を想像する素地を残した。

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