ヨーロッパを目指すシリア難民

今日、取材先のトルコ南部オスマニエにて、甥っ子とこんな冗談を言い合いました。

「5年後、オスマニエに住むアブドュルラティーフ一家の半分近くがヨーロッパに行っているかも。10年後、ここオスマニエにはもう誰も親族がいなくて、私はあなたたち一家に会いに、トルコではなくヨーロッパに行かなくちゃいけないかもしれない」

半分は冗談だけど、まんざら冗談でもありません。
今やそれは、本当に彼らがそうありたいと願っていることなのです。

(シリア難民の生活スタイルは、11時頃に簡単な朝食(ファトュール)を食べ、16時頃に一日のうちで最も豪華な食事である昼食(ガダー)を食べ、夕食(アシャー)は20〜22時頃に、果物などの軽食を食べます。写真は夕食。スイカはトルコでは大変安く、どこの家でも大量に食べます。ブドウやイチヂクなども安価に大量に出回ります)

悪化し続けるシリア難民の境遇

今年トルコに来た私は、彼らの置かれている状況がこんなにも変わりつつあることに本当に驚きました。

少なくともトルコ南部のオスマニエの状況ですが、シリア難民のコミュニティのうち、かなりの人々が、トルコでの生活を諦めつつあり、ヨーロッパへの密航を実際に実行に移しています。

私の夫の親族だけでも、二週間前に密航した兄が一人、さらに今月中に密航する予定の親族が五人近くいます(先に一家の男性が一人で海を渡り、後から家族を呼び寄せる)。
今、彼らの気持ちはトルコにではなく、完全に海を渡った先のヨーロッパに向いているのです。そこでは、難民として保護を受けて生活を再建できる可能性があるからです。

コロナ流行直前の2年前(2019年11月〜2020年1月まで)、トルコで取材をした際の彼らは、ここに根を張り、安定した暮らしを実現することに希望を見出していました。言葉や民族の違いも、トルコ人からの差別もありましたが、それでもシリアと陸続きで、シリアの文化の匂いを多少感じるこの地で、新たな日常を築きたいと語っていました。

(郊外に建てたアブドュルラティーフ一家のムハンマド兄の家。周囲では牛を飼っている。ニワトリも放し飼い)

ところが、その後のコロナ禍と、トルコの経済政策の失敗で(一年間で物価が二倍近く高騰)、シリア難民の置かれた状況はますます悪化していきました。

彼らにとってトルコに暮らすということは、物価高騰の中での貧困と、日々の差別と、労働条件や権利などのトルコ人との完全な区別の中で生きるということ。さらに来年の大統領選の結果次第では、シリア人に対して強硬な帰還政策が取られる可能性があります。先行きは不安ばかりです。

私の目には彼らが、シリア難民としてトルコ社会での複雑さと困難さに向き合い、苦労を重ねることに疲労感とあきらめを募らせているように感じられます。彼らはギブアップしつつあります。

(草地で憩う子供たち。次男がごねて暴れている!)

三つの選択肢

実際、トルコ南部に暮らすシリア難民には選択肢が三つしかありません。

一つ目の選択肢は、シリアに帰ること。そこには電気や水道もほとんどなく(電気、水道ともに平均して一日1〜2時間のみ)、子供たちは教育を受ける場もほとんどありません。人々は飢え、寒さや暑さに苦しみながら、命を繋ぐための最低限の暮らしを送るしかありません。

二つ目の選択肢は、このままトルコに留まり、貧困やトルコ社会からの区別、差別に耐えながら、模索を続けることです。自分たちの世代はもちろん、子供たちの世代も同じ問題に直面することになるでしょう。

そして三つ目の選択肢は、密航という(命を失うかも知れない)リスクを負い、大金をかけ(密航業者に支払う額は、2022年8月現在で一人約5000〜6000ユーロ)、ヨーロッパに渡って難民としての保護を受けることです。そこでは自立のためのプログラムが整備され、職業も紹介してもらい、安定した生活に向かうためのプロセスが保証されています。

どの選択肢が、最も未来に光を感じるでしょうか。皆さんだったらどうするでしょうか。
私が同じ立場だったら、三番目を選ぶでしょう。
人間は、希望に向かって生きている存在、誰もが明るい方向を目指していきたいのです。

この11年間のシリアでの戦乱で、離散と避難を繰り返してきた人々にとり、希望をもって選び取ろうとしている唯一とも言える選択肢が、「ヨーロッパへの密航」なのです。

(隣に住むシリア難民の男性に、馬に乗せてもらう長男。馬で野をかけ放題だ!地方出身のシリア人の男性は、普通に馬に乗れる人が多い。)

こうして、ヨーロッパへと一人、また一人と出発しようとするシリア難民の親族のなかに、私は滞在しています。まさに今、時代が流れていることを肌で感じ、シリア難民の歴史の一端を目の当たりにしています。

「10年後、ここオスマニエにはもう誰も親族がいなくて、私はあなたたち一家に会いに、トルコではなくヨーロッパに行かなくちゃいけないかもしれない」。

だから冒頭で書いたその冗談は、あながち冗談ではないのです。
なぜならそれは、すでに彼らの新しい夢になりつつあり、現実に身近な人々が、海を渡り始めています。

人間としての尊厳を求めて

私はそうした彼らの姿に驚き、ショックを受け、そして寂しさを感じています。シリアが内戦状態になる2011年以前、砂漠でラクダを放牧して生きていた彼らの暮らしがどんなに生き生きしていたか。その頃の彼らの姿が、今も胸に宝石のように光っています。

一方で、シリアから隣国トルコへ逃れた彼らが、シリア国境に近い土地で暮らし、いつでも故郷に帰れるよう留まっていることを、私は心のどこかで勝手に期待していたのかもしれません。

しかし彼らは、今やシリアというルーツから遠く離れようとしています。海を渡り、より良い暮らしを送ることができるだろう土地へ・・・。

その彼らの姿を、私は一生をかけて見つめたいと、本心から思いました(これはきっと、イラクのオアシスにルーツを持つというアブドュルラティーフ一家にとり、「フン族の大移動」ならぬ、「アブドュルラティーフ一家の大移動」とも言える、一家の血脈的大事件なのです)。

現在夜中の3時。開けっぱなしの窓から外を見ると(全くと言っていいほど蚊がいないので、網戸はなくどこの家も開けっぱなし。しかし巨大女王アリなどがどんどん入ってくる)、赤やオレンジや白の、街の光がきれいに見えます。そのひとつひとつの光に、無数の人間の人生を重ねました。

人生を変えるため、身ひとつで見知らぬ彼方へと向かう親族たち。彼らを目の当たりにし、人は、「人間としての尊厳を抱いて生きていると感じられる場所」へ、どこまでも旅をし続けるのだと思いました。

(アブドュルラティーフ一家もパルミラでは馬を飼っていて、子供たちや男性は馬に乗っていた。夫の甥である写真の男性は、5歳から乗馬したとのこと)

歴史の一端を見つめる

街の光の中に、昨年この土地で亡くなった夫の父のガーセムを思い起こしました。物価高騰や反シリア人感情の悪化などの問題があるにしろ、間違いなく、一家の大黒柱であり、ゴットファーザーだったガーセムが昨年86歳で亡くなったことが、こうしたヨーロッパ大量密航の引き金になったのでしょう。トルコでの生活苦や密航への誘惑から一家を繋ぎ止めていたのは、ラクダの放牧業を営んで大家族を作り上げたガーセムの存在だったのです。

アブドュルラティーフ一家の旅は、まだまだ続いていくのです。そしてシリア難民の取材にやってきた私は、なんと次々に旅立つ彼らを見送る立場としてここにいます。もう、ゲロゲロ事件を起こしている場合ではないと本気で思いました。ここで起きていることを、歴史の一端を、目を見開いてしっかりと見つめてきます。

一人、しんみりして涙が出そうです。こんな日はハーゲンダッツの抹茶アイスが食べたい・・・。なんという取材の日々でしょう・・・。

(この家では牛を飼い、絞ったミルクを火にかけてヨーグルトを作っている。一家の収入源だ)

トルコでのコロナの影響は?

日本では爆発的に新型コロナの感染者が増えているとのこと。トルコではコロナはどうなっているの?と質問されることが多かったので、ご紹介したいと思います。

7月半ばの渡航時、飛行機乗り換えのアブダビやイスタンブールの空港では、すでに人々の半分ほどがノーマスクでした。

さらにトルコ南部に来ると、街中でも、公共の施設内でも、ほとんど誰もマスクをしていません。

オスマニエ郊外の道端で、ビー玉遊びをするシリア人の子供たち。トルコでは子供に人気の遊びだという。
ビー玉をペットボトルに入れ、大事に持ち歩いていた少年。

驚くべきは、先日、感染症にかかってオスマニエの総合病院に行きましたが、医師や看護師などの医療従事者までもがノーマスクか、口マスク(口だけマスクをして鼻にはマスクをかけていない)が圧倒的。診療に来ている患者も、ほとんど誰もマスクをしていません。

トルコでも、コロナの感染者は一定数いると思いますが、もうあまりコロナを気にしてはいないようです。その大きな理由が、自粛に疲れたことと、コロナ対策の失敗による経済の疲弊が深刻であることが挙げられるようです。

コロナ全盛期の昨年4〜6月、例年通りトルコで取材を行い、コロナ禍のトルコを体験しました。その頃はイスラム教徒の断食月ラマダンもあって感染の爆発が懸念され、厳しいロックダウンが行われていました。

例えば、外出時には必ずマスクをしなければならず、土日の外出、夜20時以降の外出も禁止で、違反すると月収に相当するほどの高額な罰金が課せられました(しかし実際人々は、家の中では不特定多数がいてもノーマスク。また土日や夜も、警察のいない道からぞろぞろと建物の影に隠れながら移動し、親族訪問をしていました)。

こうしたなか、コロナ禍で多くのビジネスが破綻し、失業率が非常に高まっていきました。そして9〜12月にかけて、4回にわたるトルコリラの「利下げ」が中央銀行によって行われ、トルコリラは大暴落。物価が昨年と比べて2倍ほどに値上がりしました。

コロナ対策は失敗したとされ、人々はコロナの自粛生活に飽き飽きしているようです。そしてコロナ以上に、上昇した物価の中でどう生活を維持していくかが、人々にとってはるかに大問題なのです。

というわけで、トルコではもはや、コロナを気にする人はあまりいないように感じられます。道路脇のチャイハネ(喫茶店)でも、杖を手にしたお年寄りたちが、ツバを飛ばしあってトランプゲームやおしゃべりに興じています。

お気に入りの青いビー玉を見せてくれる少年。
ビー玉遊びに興じるシリア人の子供(と乱入する私の子供たち)。子連れ取材の苦労の一つは、子供が被写体と仲良くなり、どうしても写真に写り込んでしまうことだ。

実際、私たちもコロナをめぐってこんなことがありました。先日、感染症にかかってゲロゲロ事件が起き、長男が病院で検便をしました。

その結果、腸から「コロナの友だち」のウィルスが見つかったそうで、ちょっとした騒ぎに(医師は「Friend of Corona」が見つかったと話し、そのときだけ、私たちの前でマスクをつけ、私たちが部屋から出るとすぐにマスクを外しました!涙)。

急遽、PCR検査を受けることになりました。その頃体調が悪かった長男が代表して受けたのですが、内心私は気が気ではなかったのです。
親族は頻繁に交流し合う大家族。泊まらせてもらっている夫の兄の家族はもちろん、オスマニエに暮らす親族100人近くが全員感染という大変な事態になるかもしれない。中には高齢者もいるし、どうしよう・・・。

不安を夫の兄に話したところ、「問題ないよ。一緒にコロナを広げていこう」と、冗談とも本気ともとれぬことを真顔で言われ、なんとも反応に苦慮したということがありました。そしてこれが、シリア人がどんなときにも大事にする「ユーモアのセンス」(アラビア語で「ノクタ」と呼ばれる。「冗談」を指す)なのだと後から思いました。

親族も、私たちがコロナかもしれないという事態に戸惑ったはずです。しかし、〝とりあえず今は笑い飛ばして気にしない〟、というのがいかにも彼ららしいなと思いました。起きていないことをくよくよ考えてもしょうがないのです。

シリア人の家族を持って日々感じるのは、彼らは計画性を持って何かをすることがあまりない一方で、何かが起きる前から物事を不安に考えたりすることもないこと。ことが起きてから、その時に考えればいいと捉えているようです。過去でも未来でもなく、常に今を生きている人々なのです。

その後、PCR検査の結果が4日後に出て(非常に時間がかかる)陰性とわかりホッとしました。

コンクリートブロックを積んで建てられているオスマニエの家。多くの家には庭があり、イチジクやザクロ、オリーブの木々が生えている。

現在はコロナのほか、サル痘などの感染が広がりつつありますが、私たちにとってこのトルコ南部で最も警戒しなければいけないのは、やはり先日かかってしまったような食物から来る感染症です。一週間繰り返した下痢と嘔吐は、近年経験したことのない大変な事態でした。

引き続き、体調管理に努めながら取材を続けます。

7月終わり、陽が落ちるのは20時頃。その頃から涼しくなるため、人々はベランダや屋上で涼んだり、親族や知人の家に訪問へ行ったりと、ゆったりした夜を過ごす。子供たちが24時近くまで路上でサッカーをしていることも。

トルコで今、シリア難民が直面していること

トルコに来てから感染症にかかってダウンしていましたが、ようやく回復してきました。療養中は、シリア難民の一人である夫の兄ワーセルの家でお世話になりました。シリア難民のコミュニティの中にいると、枕元でも、日々彼らの身に起きているさまざまな情報が入ってきます。

トルコでは、なんとこの一年間で物価が2倍に高騰

例えば、昨年と比べてトルコの物価がいかに高騰したか、深刻な危機感を現地の人々から感じています。

トルコでは、昨年9月から12月にかけて中央銀行が4回の「利下げ」を強行に実施したため、トルコの通貨リラが大暴落(昨年12月の物価上昇率は36%)。トルコリラは、一年でなんと半分以下にまで下がり、インフレが止まらない状況に国内各地で抗議運動が起きています。こうしたなか、トルコ社会の最底辺で生きているシリア難民の生活苦も限界に達しつつあります。

(*リラ暴落を受け、トルコ人労働者には給与の値上げがされたが、ほとんどのシリア人には行われていない)

(シリア人が主食とする薄いパン「ホブス」は、昨年の今頃は、8枚入りで2.5リラ(約18円)。現在は6枚入りで4.5リラ(約36円)に値上がり)

(卵は昨年30個で16リラ(約130円)。今年は48リラ(約400円)に値上がり)

(ヨーグルト4キロで昨年は4.5リラ(約33円)、今年は12リラ(約110円)に値上がり)

トルコ人による反シリア人感情も高まっている

また、こうした物価高騰や失業率増加のなかで、トルコ人による反シリア人感情が高まっています。シリア人への差別や攻撃も増加しており、シリア人を見れば、「シリア人はシリアに帰れ」とおもむろに言われることも増えたとのことを親族から聞きました。

イスタンブールやガズィアンテップ、イズミルなどの大都市では、差別を受けたシリア人とトルコ人との衝突により、死者が出る事件もたびたび起きています。滞在しているオスマニエの親族の家の前でも、つい数日前、シリア人の子供がトルコ人の子供に恐喝を受け、ナイフで切りつけられて怪我をする事件が起きました。周りのトルコ人の大人たちはそれを止めなかったとのこと。

(夫の兄がオスマニエで営む小さな商店では、シリア人への嫌がらせとして、店が焼き討ちにあったり、ガラスを割られたりする事件が起きた)

親族によれば、学校でもシリア人の子供がトルコ人の子供に嫌がらせを受けたり、差別される機会が増えてきたとのことです。

2023年のトルコ大統領選の結果によっては、シリア難民の状況はますます厳しいものになりそう

こうしたなか、来年は現エルドアン大統領の再選をかけた大統領選挙が控えています。

高インフレでエルドアン大統領の支持率が低迷しているのを受け、野党は6党で共闘し、約20年ぶりの政権交代を目指しています。

これまでシリア難民の受け入れに比較的寛容な立場をとってきたエルドアン大統領ですが、庶民の生活が圧迫されているトルコでは、400万人超のシリア難民を受け入れ続けることへ不満が噴出しています。こうした不満に応える形で、エルドアン大統領は今年5月、100万人のシリア難民を(現在トルコに暮らすシリア難民の四分の一)母国に帰還させる計画を公表しました。現在、シリア北部のトルコ占領地に、住宅やインフラ建設を進めています。

しかしエルドアン大統領の支持率は大幅に下落したままで、来年の大統領選で負けるかもしれないという見方もトルコでは有力です(報道では、勝率は五分五分とのこと)。

仮にエルドアン大統領が選挙で負ければ、新しい大統領になるだろう野党の候補者は、シリア難民の帰還政策をより強硬に押し進めるとされており、シリア人の苦境はますます加速していきそうです。

「もしエルドアンが負けたら、自分たちは一秒もトルコにいられなくなる」。夫の兄ワーセルはそう話し、不安を隠せない様子です。

(物価の上昇から、シリア人の多くが食費を極端に切り詰めている。こちらは親族の家のある日の昼食。炊き込みご飯と豆のスープ「アダス」。肉は高いので、特別な時だけしか食べない)

シリア難民にとり、トルコはシリアと言葉や民族も違い、職に就くのも困難で、シリアより2倍近く物価が高い国です。もともと困難な状況下でなんとか生活を維持してきたのですが、一昨年からのコロナ禍による不況、さらに昨年からの物価の高騰が続き、差別も増えたうえ、政策上でもシリア人の帰還が進められるとなると、ますます追い詰められていくことになります。

追い詰められるシリア人の、最後の選択肢

こうした流れを受け、多くのシリア人はこの先もトルコに暮らすことに希望を持てず、先手を打ち始めています。その一つの形が、ヨーロッパへ渡るという選択です。

イタリアやドイツ、スウェーデン、オランダ、イギリス、スイスなどのヨーロッパ諸国では、国境までたどり着いて「難民」として登録されれば、生活の保証と自立に向けたプログラムを受けることができます。こうした国々では、難民という立場の権利から、将来的に家族を呼び寄せて、安定した生活を送れる可能性が高いのです。

多くのシリア難民にとって「ヨーロッパへ渡る」ということは、密入国業者の手を借り、不法に海を渡ることを指します。

それはまず、安全面で非常にリスクが高い行為です。また密入国にかかる費用は信じられないほど高額です。それでも、行き場がなくなったシリア人は、海の向こうに希望を見出して、不法にヨーロッパを目指すのです。

こうした動きは、最近になって激増しており、私の親族の中でも起きています。

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ゲロゲロ事件のその後と、マヨネーズとアレルギー。

(作ってもらった自家製マヨネーズを茹でジャガイモに混ぜて、喜ぶ子供たち。4日間のジャガイモと塩だけの食事の後で、マヨネーズがこんなに美味しい食べ物だと強烈に実感)

トルコに来ていきなり親子三人ともにお腹を壊し、ほぼ寝たきりになっている日々。この5日間はほとんど、お腹と家計に優しい「茹でジャガイモ」だけを食べ続けています。こんなにジャガイモばかり食べ続けたことはなかった、というくらいジャガイモだらけです。

塩をふった「茹でジャガイモ」だけの食事にも飽きが出てきたところで、泊めてもらっている家(夫のお兄さんの家)のお母さんが、ジャガイモにつけ合わせるマヨネーズを作ってくれました。

(左が自家製マヨネーズ。茹でジャガイモを潰して混ぜると、これだけで素晴らしいご馳走だ!)

シリアでは、マヨネーズは買うものではなく、自分の家で作るもの。このマヨネーズが、ニンニクが効いていてとても美味しいのです。レシピをご紹介します。

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【シリア風自家製マヨネーズのレシピ】

〈材料〉
・卵白2つ分
・ニンニク1〜2かけら(お好みの量で)
・塩ひとつまみ
・サラダ油(卵白の量の半分くらい、お好みの量で)

〈作り方〉
全部をミキサーにかけて混ぜるだけ。あら簡単!できたマヨネーズは冷蔵庫に入れて、早めに食べましょう。

日本で一般的なマヨネーズは卵黄を使って作られるようですが、シリアのマヨネーズは卵白が主役の白いマヨネーズなのです。ニンニクが効いており、鶏肉のローストや、フライドポテトによく合います。是非お試しあれ!

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(食欲も少しだけ回復してきた)

ところで本題の体調ですが、私と次男が回復してきたものの、長男がなかなかよくならず、ひどい下痢と嘔吐が続いています。

長男は病院で処方された薬を飲んだところ、全身に赤い発疹ができました。翌日その病院に行って相談したところ、薬によるアレルギー反応と言われ、特定の薬を抜くように指示されて抗アレルギー薬を注射、発疹が引きました。

ところが翌日、再びひどい発疹が全身に。病院に行くと、抗アレルギー薬を注射され、新しい薬を処方されました。ところが翌日になると、さらに薬アレルギーと思われる赤い発疹が。長男の体は腫れ上がりました。

この病院は薬のアレルギー反応にあまり注意を払わないようだったので、別の病院へ。事情を話したところ、そこでも抗アレルギー薬の注射と、全く別の薬の処方をされました。

ところが翌日、なんとまた、長男にまた赤い発疹ができ、熱も上がりました。

新しい薬の処方と、アレルギー反応と、抗アレルギー薬の注射。同じことが3回も繰り返され、長男の体は点滴と抗アレルギー薬の注射の連続でダメージ大。赤い発疹がなぜ出たのか、何のアレルギーなのかを知りたいのですが、医師たちは薬をどんどん変えて新しいものを出すだけで、長男に処方された薬は、最初の病院のものを含めると11種類にも及び、その診療のあり方に疑問を感じ始めました。

長男にとっては、下痢よりも、薬によるアレルギー反応のほうがむしろ重篤で、処方された薬を飲めば飲むほど体調が悪くなって、衰弱していきました。

そこで考えた末に、処方された薬の服用を全てやめることにしました。日本から持ってきた最低限の薬(腸の薬ビオスリー)と、自家製ポカリスエットを飲んで水分補給し、ゆっくり休むよう、計画を切り替えようと考えています。
以下、その判断について(かなりマニアックです)。

・検便の結果、長男の腸の中でウィルス感染があると分かっており、ウィルスの場合、抗生物質は効かない。よって抗生物質の服用はなし。

・処方された薬について知人の元看護師に問い合わせし、以下が分かった。感染による下痢には勧められていない2種類の薬、吐き気止め「メタパミド」と下痢止め「トリブダット」が処方されていた。通常は、感染からの下痢は菌を出す方がいいと考えられ、理由なく下痢を止めることはされない。飲まない方が良し。
また、高熱がある時は服用不可と説明書に書いてある下痢止め「Gisflor」が処方されている。さらに抗ヒスタミン(アレルギー薬)「Deloday」は、12歳以下の子供への使用の安全性が確立されていない。服用が不安。

・たび重なる薬のアレルギー反応と、抗アレルギー薬注射への体への負担を、医師があまり丁寧に考えていない。また同じアレルギー反応が起こることへの不安が大きい。

医療について、土地が変わればそのあり方も随分変わるものだと実感しつつ、自分たちの命を守る責任は、最後は自分たちにあるのだとしみじみ。

(泊めてもらっている親族の家の窓から、オスマニエ市街地を眺める。シルクロードの時代から栄えた歴史ある街で、周囲を山に囲まれている。朝夕は、鳩の群れが飛び交う)

そんなわけで、医療の手を一旦離れることにしました。そしてジャガイモ生活はまだ続きます。早く取材に出たいと思う毎日です・・・!涙

(食事の時間は、楽しいひととき)

(2022年7月23日)

ゲロゲロ事件が発生しました

(この文章には不快な表現が含まれる可能性があります)

オスマニエに来てからあまりの暑さで、何日もよく寝られぬ夜が続いていました。ある日、夕食を食べた後から子供たちも私も腹痛を覚え、その夜、大変なゲロゲロ事件が発生しました。

それは深夜のこと。遠くで子供の泣く声が聞こえたように思い、ふと目を覚ました私は、なんとも言えぬ匂いがたちこめているのに気が付きました。この匂いは、まさか・・・!

急いで部屋の電気をつけると、次男が寝ていたマットの上にこんもりと、あってはならないものがあるではありませんか!それもふた山も。それは、ゲロゲロの山だったのです。

次男はあちこちに吐きながら転がり回って(暑くて寝られないため)寝ており、くしくも寝ていたのはカーペットなどをきれいに揃えたばかりの夫の母の家で、そのあまりの惨状に、私はこれが夢であってほしい・・・と心から思いました。

とりあえず髪や耳までゲロゲロまみれの次男を起こし、ハンマーム(シャワーだけのお風呂場)に連れて行って体を洗い流し、服を着替えさせたところで、次男は今度はお腹を下し、上からも下からもゲロゲロ事件が発生しました。

次男をハンマームで待たせ、部屋のゲロゲロの山を掃除し、絨毯やマットを洗剤で洗って洗濯機にかけ、ようやく次男を寝かせて、「ああ、大変な夜だった・・・」と体を伸ばしたのも束の間。

長男が起き出し、「ゲボ(ゲロのこと)出そう」とのこと。そりゃ大変だ!とゲロゲロ用の袋を探している間に「もう出ちゃう!」と言うので、長男の片手を引っ張り、「早く早く」、と急かしてハンマームまで連れて行く途中、長男の体が重くなり、動かなくなりました。そして、なんということでしょう。廊下のカーペットの上に、ゲロゲロの山が出来てしまったのです。

次男同様に、長男も下痢と嘔吐でえらいことになっていると、さっき寝たはずの次男も起きてきてハンマームで再びゲロゲロ。そのうち、私自身もだんだん具合が悪くなってきて、もらいゲロゲロになりました。三人ともハンマームでゲロゲロ。それは、まるでこの世の終わりのような大変な惨状だったのでした。

その後子供たちを寝せるも、すぐに代わる代わる、「ゲボ出そう!」「ゲリ!」と起き出し、彼らをハンマームに連れて行った回数は長男が5回、次男が4回。朝までほとんど寝られないえらい夜になりました。

トルコ入りしてから水や食事にも気をつけていたのですが、おそらく、夜の暑さなど気候の違いからくる疲れが身体にたまり、食事の違いによって抵抗力も落ち、何かの食当たりを起こして一気にゲロゲロ事件に繋がったようです。

(ひどい下痢が続き、トイレから10メートル以内にいないと間に合いません。トイレのすぐ近くの床に臥して過ごす日々。万が一のためにゲロゲロ袋も常備。)

皆様からいただいた胃腸薬とキューピーコーワゴールドを重宝させていただき、私と次男はだいぶ回復しましたが、この四日間、ジャガイモとヨーグルトだけしか食べられない状態が続いています。肋骨が浮き出てきました。

長男の体調はまだ優れず、ひどい下痢と嘔吐を繰り返しています。一昨日から長男をオスマニエの病院に連れ、点滴を受け、薬を処方してもらいましたが、まだ快復まで時間がかかりそうです。

(消化に優しいジャガイモとヨーグルトだけを食べ続けています。子供たちは、突然の下痢に備えてオムツに履き替え)
(頻繁に水を飲む。オスマニエの市場や病院に近い親族の家に移動し、療養しています。)

昨日朝には、長男の体全体に赤いプツプツ状の発疹ができたため、同じ病院に連れていったところ、処方した薬のアレルギーと言われました。しかしどの薬が合わなかったのか調べることはなく、抗アレルギーの注射だけをして終わりました。

今回、オスマニエ在住の親族に連れてもらったのは、オスマニエで一番整った病院のひとつとのことでしたが、医師はパソコンの前に立ったまま、患者を一眼見て、薬だけ処方します。

検便や血液検査の結果についての説明もなく、また患者の同意や薬品の説明もなく、いきなり注射や点滴をします。同行してくれた現地在住の甥に聞くと、ここではそれが普通とのこと。日本の医療とはいろいろ違いもあり、不安も感じますが、現地でできることをやっていただいています。

(腹痛を訴える長男。日本の薬に比べ、トルコの病院の処方する薬があまり効かないように感じる(それとも普段慣れていない強力なウイルスなのか?)。四日経っても下痢と嘔吐にあまり改善なし。)
(お腹を壊したとき、シリア人は民間療法としてハーブティーをよく飲みます。数種類のハーブをミックスしたお茶「ズーラート」(写真左)やタイムのお茶「ザータル」(写真右)は、どこの家庭でもたくさん台所にあり、お湯で煮出して砂糖をたっぷり入れて飲むのが一般的です。私たちも、滞在している親族の家のお母さんに作ってもらっています。)

そんなわけで、トルコに着いていきなり感染症にかかり、親子でダウンしております・・・。

【ゲロゲロ事件メモ】

1 〜トルコの病院事情〜(オスマニエ在住の親族の話)

トルコには政府系の病院と私立の病院とがあり、トルコで難民として登録されているシリア難民は、政府系の病院の診察をほぼ無料で受けられる。薬代も無料。しかし政府系の病院は診察が雑で、丁寧に診療してもらえないとのこと。

私立の病院では、シリア難民は実費を請求され、また政府系病院に比べて高額なため、なかなかかかることができないが、丁寧な診察が期待できる。政府系の病院では見つからなかった病気が判明したり、より良い治療に繋がることも。

シリア難民として暮らす親族は、病状によって政府系病院と私立病院を使い分けているらしい。今回私が連れていってもらったのは私立病院。

2 〜診察代〜

私立病院にて、診療費一人375トルコリラ(約3000円)。薬代125トルコリラ(約1000円)。

オスマニエの平均日収が約1500円ほどなので、下痢と嘔吐の症状の診察代・薬代は、平均日収の二日分に相当し、非常に高額。

義父ガーセムのお墓参りへ

〜トルコ南部オスマニエにて〜

(ガーセム・アブドュルラティーフ、1939年1月1日生誕し(アブドュルラティーフ一家は全員正式な誕生日が不明で、誕生日は1月1日だ)、2021年5月31日に死没。お墓にお水をたっぷりかける。長男はまだ、人が死ぬということがどういうことかを理解しておらず、「ジッド(アラビア語で「おじいちゃん」)はどこ?」と探し回っていた。)

シリア難民としてトルコで4年近くを過ごし、昨年5月末に86歳で亡くなった義父ガーセム。昨年、亡くなる2、3日前に握手をしてお別れしてから、その死はあまりにも突然のことでした。

(毎日のように家の屋上で火を焚き、パルミラを懐かしんでいたかつてのガーセム。)
(その手は大きく、皮膚が厚く、長年風土とともにあった彼の生涯を思わせた。パルミラでは100頭のラクダの放牧が生業だった。)

(イスラムの祈りのとき。トルコに来てからは、一人屋上で過ごすのがガーセムの日課になっていた。)

オスマニエに到着し、まず向かったのが、郊外の丘陵地にあるガーセムのお墓です。ここは比較的お墓代が安価な公営墓地で、シリア人のお墓も増えつつあるとのこと。なるほど、トルコ語に混じって、アラビア語が刻まれた新しいお墓があちこちに作られていました。

(オスマニエの公営墓地。トルコ人のお墓に混じり、難民として暮らすシリア人のお墓も増えている。多くのお墓には赤や白の花が咲いている。故人の家族が頻繁にやってきては水を与えていることを感じさせた。)

イスラム教では、人が亡くなったら24時間以内に地中に埋葬しなければいけません。訃報が届いたらすぐに、近親者や友人などが故人の家に集まり、故人を埋葬するための準備が行われます。そして故人の身体を白い布でくるみ、良い香りの香水をふって、地中2メートル近くに掘られた穴に土葬します。

穴を掘ったり埋めるのは故人の近親者の役割で、特に遺体の上に最初に土をかぶせるのは故人に最も近い男性(故人の息子など)が行います。

穴を埋めた上には一段高く石を積んで囲い、誰かが上を踏んだり歩いたりしないよう、故人に敬意を払います。オスマニエのほとんどのお墓では、石の囲いの内側を花壇のようにして、花を植えていました。

日本でもお墓参りではお墓に水をかけますが、イスラム教でも同じです。故人を思い出しながら、お墓にたっぷりと水をかけます。ただし日本のように線香をあげたり、供物を供えたりはしません。

夫の兄によると、一週間に一度の頻度でお墓参りに来ているそう。亡くなった故人を悼み、死後もその冥福を祈る姿は、例え宗教が違えど、人間は皆共通なのだと改めて思いました。

ガーセムの面影を感じながら、彼が残したものをたどる取材がこれから始まります。

(ガーセムが眠るオスマニエ郊外の墓地。丘陵地や森林に、いくつかの区画に分けて墓地が作られている。丘を登ると、子供たちのお墓があり、アラビア語で名前が刻まれたシリア人のお墓が目立った。)

(2022年7月19日)

最初の取材地、オスマニエに到着しました!

14日に日本を出発してからアブダビとイスタンブールにて乗り換えをし、トルコ南部の街オスマニエに到着しました。オスマニエは落花生や高原野菜の産地として知られ、トルコ南部でも物価が安いことからシリア難民のコミュニティがある街のひとつです。

この街で、5年ほど前から難民として暮らしている夫の家族、アブドュルラティーフ一家を訪ね、親族の家を転々としながら取材をします。

ところで、トルコ南部はすさまじい暑さです!
オスマニエの日中の気温は40度近く、夜も暑さがあまり和らぎません!
難民の家族の家に泊まっているためクーラーや扇風機もあまりなく(ここではクーラーは非常に高価で、クーラーがあるシリア難民の家庭はほんの一部です)、日本でクーラーに慣れてしまった軟弱な私の体には、夜の暑さがこたえて寝られずに過ごしています。

そして最も大変なのは、イスラム文化の土地であるため、日中はもちろん夜に寝る時さえ、女性は常に「長ズボンに長袖」でいなければいけません(体の線が露わにならない服装が良しとされるため)。これが一番こたえます。とにかくもう、「・・・暑い・・・!」としか言えません。熱中症にならないよう水分を取り、あとはひたすら耐えるのみ・・・。

夜は横になってから1時間ほどは寝られず、「・・・暑い!」と転げ回り、そのうち寝たり起きたりして朝になります。転げ回らないと暑くて寝られません。
今後、8月にかけてますます暑くなっていくのを考えると、恐ろしい限りです。

ちなみに今、トルコからすぐそこのヨーロッパでも記録的熱波が発生中。山火事があちこちで起きたり、暑さのための死者もかなり出ているとか。

(2022年7月18日)

「転げ回った朝」(オスマニエ トルコ 2022)

7月14日、シリア難民の取材に出発しました

成田空港にて

今年もなんとか出発できました

今年もシリア難民の取材に出発しました。取材期間は7/14〜10/5です。コロナ禍やウクライナ侵攻などで国際情勢が揺れ動くなかですが、健康と安全に留意しながら取材に向かいます。

取材出発にあたり、たくさんの皆様に活動支援カンパをいただきました。ドル札や、日焼け止めクリーム、キューピーコーワゴールドなどの栄養補給剤もお送りいただき、大変助かりました。本当にどうもありがとうございました。

今年も取材は子連れで、6歳の長男と3歳の次男も一緒です。すでに成田空港で子供が行方不明になりかけ、パニック取材になりそうな予感ですが、子供たちもトルコで親族に会えるのが楽しみなようです(シリア人の夫の家族が難民としてトルコ南部在住のため)。

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シリア難民取材2022 〜主な取材内容〜

以下は、今年の取材の主なテーマです。主な取材地はトルコ、シリアです。

1 現在のシリア難民の状況。暮らしや精神的な変化について。

2020年からのコロナ禍により、シリア難民をめぐる状況は苦境に拍車がかかっています。経済的自立ができないまま、コロナ禍によって失業したままの難民も多く、安全が保証されている代わりに物価が高く就労も困難なトルコでの生活を諦め、シリアに帰ろうとする家族も増えています。2022年のシリア難民をめぐる現状を取材します。

2 トルコ政府によるシリア難民帰還政策の影響

現在トルコには、380万人近いシリア難民(シリア難民全体の8割に及ぶ)が暮らしていますが、今年、トルコ政府は約100万人のシリア難民の帰還政策を実施すると発表しました。2012年以降、大量に流入したシリア難民の存在が、現在もトルコ社会で大きな問題になっています。シリア難民に対してどのような帰還政策が行われようとしているのか。人々の反応について取材したいと思います。

3 シリア難民の故郷、パルミラの現在を取材

トルコ南部に暮らすシリア難民のうち、シリア中部のパルミラ出身者にフォーカスし、現在の彼らの暮らしとともに、彼らの故郷についての記憶、思いを取材します。その後、彼らの故郷パルミラを訪ね、現在の様子を取材します(シリアは単身で入国予定)。シリアに入るのは10年ぶりです。治安がまだ不安定ですが、できうる限りのリスク管理をして向かいます。

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小さな子連れのため、取材ペースもゆっくりですが、その分、人との出会いをじっくりと味わいながら、心を込めて写真を撮りたいと思います。

取材の経過はHPの「SYRIAN REFGEESS 2022 」のページにて更新していく予定ですので、こちらもご覧ください。

▼小松由佳HP 「Syrian refugees 2022」

https://yukakomatsu.jp/category/coverage-of-syrian-refugees-2022/

では元気に行ってきます!

(2022年7月15日)