「自分が生きているうちは、二度と故郷パルミラの土を踏むことはできないだろう」。そう話していた夫が、とうとう故郷に立つことのできる日がやってきました。
夫は2012年に脱走兵になった罪から指名手配を受け、アサド政権が倒れない限りは二度とシリアには入れない身だったのです。
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私の夫、ラドワン・アブドュルラティーフが、シリアから逃れ難民となったのは2012年夏のことです。
その前年の2011年に、夫はシリア人男性の義務として二年間の徴兵を受けていました。ところが徴兵されてから数カ月で、シリア全土では民主化運動が拡大。夫は政府軍の一員として、銃を手にその弾圧をしなければいけませんでした。
こうした立場に悩み、夫は脱走兵となってシリアから逃れる決断をします(発見されたら死罪)。
2012年の夏、軍を脱走したその日のうちに、夫はシリア南部の砂漠からヨルダンとの国境を越えて難民となりました。
こうしてアサド政権が崩壊しない限り、二度と故郷には戻れない立場になった夫でしたが、2024年12月8日、その日は突然やってきました。アサド政権が崩壊したのです。
その背景には、ロシア、イラン、レバノンのヒズボラなどの政権への協力者たちが、国際情勢の変化の中で力を失ったこと、長い経済制裁によって政権の経済基盤が徐々に弱体化していたこと、そしてテクノロジーと戦略と結束力を伴った反体制派が登場したことなどが挙げられています。
53年間にわたって続いた独裁政権の崩壊。それは、まさにシリアの歴史の大転換でした。
同時に、アサド大統領による支配機構の崩壊と、政権によって指名手配を受けた者たち全員が、誰からも取り締まりを受けない立場になったことを意味しました。権力構図は逆転し、これまで権力を奮っていた者たちが、一気に〝犯罪者〟として糾弾され、捕らえられるようになりました。
こうして夫は、アサド政権崩壊から13日目の12月20日、自由の身として13年ぶりに故郷を踏もうとしていました。
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パルミラに近づくにつれ、夫の口数は少なくなっていき、彼はずっと窓の外を眺めていました。そこには、白い砂漠が果てしなく広がっています。それは、夫が少年時代を過ごし、日本に来てからもずっと懐かしんでいた故郷の砂漠です。
タクシーの運転手が、〝アフマッド・エブラヒム(*)〟というホムス出身歌手の民族音楽をかけました。結婚式など、パルミラでのお祝いの場などで流される、ハレの日の音楽です。
(*アフマッド・エブラヒムhttps://youtu.be/tNx0Anhhnm8?si=xhgtMB-k6eWBUNev)
その独特のアラブ音楽のリズムに乗って、タクシーは、パルミラへの一本道を走り抜けていきます。
シリア中部の大都市ホムスからパルミラまでのその道には、戦車やトラックなどの軍事車両が点々と道路に残されていました。
これらは全て、パルミラを背にホムスの方向を向いたままで、反体制派の進軍に対抗するための援軍として、ホムスに向かっていた途中だったようです。いずれも反体制派の襲撃を受けたり、兵士たちが戦闘前に逃亡して放置されたのでした。
タクシー運転手の話によると、反体制派によるアレッポ陥落の後、政府軍にとって一番大切な場所はホムスであり、ホムスが落とされればダマスカスも落ちるとされていたそうです。
そのためパルミラにいた政府軍のほとんどが、ホムスに援軍として向かうよう呼ばれたそうです。しかし反体制派の猛攻によって止められ、ほとんどがホムスに到達できなかったとのことでした。こうした車両の内側にはまだ兵士が遺体で残っているかもしれず、爆発物などがある可能性から、戦闘後はそのままになっているとのこと。まもなく反体制派兵士たちが回収するだろうとのことも聞きました。
やがてパルミラに到着する頃には日が落ちて、あたりはかろうじてうっすら見渡せるほどの暗さとなっていました。
そうしてようやくパルミラの街が見え始めてきたとき、夫は言いました。
「私は自分自身に対して誇らしく思う。これまでの自分の判断は間違っていなかった。2012年に悩みながら政府軍を脱走して、一人でヨルダンへと逃れて難民になった。13年間パルミラに帰ることができなかったが、今こうしてパルミラに立つことができる。私は、強い者(アサド政権)になびかなかった。自分の信念を信じてシリアを去ったことで、今こんなにも誇りを感じながら故郷に帰ることができる。最後に自分は勝ったんだ」
「何に勝ったの?」と聞いた私に、彼は、運命に、と答えました。そして、シリアの困難な情勢に、そして彼を難民にしていった者たちに、と。
「故郷に、自身への誇りを伴って帰ることができる」。その彼の言葉は、シリアから離れ、故郷を懐かしんだこの13年間を全て肯定するような深い響きがありました。
しかし、そうして帰還した故郷に夫は衝撃を受けることになります。そこにあったのは、2015年から2016年にかけて行われた政府軍とロシア軍の空爆により、変わり果てた故郷の姿でした。
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翌12月21日、夫と私は、パルミラの中心部からバイクで5分ほどの距離にある夫の実家へと向かいました。
私は2年前のパルミラ取材と、全てがあまりにも異なっていることに驚きました。2年前は、空爆で破壊された家を撮ることは禁じられ、街を自由に歩くことはおろか、30メートル離れた商店に買い物に行くことすら(秘密警察に)許されませんでした。
しかし今は、自由に街を歩き、人々と語ることができます。カメラを手に、自由に写真を撮ることができます。そして人々の会話の内容も、以前とは全く異なり、極めて政治的な話を自由に語っているのでした。2年前は全く考えられなかったことです。12月8日にシリアで起きたことが、いかに人々の生活にとって大きな転換点であったかを感じました。
夫が運転するバイクは、空爆によってボロボロに破壊された家家の両側に走り抜けます。やがて、懐かしい黄色いあの家が見えてきました。かつて大家族が暮らした、夫の実家です。
2年前、秘密警察の監視を受けながら数分間の制限を受けて立ち行ったその家に、私は今、夫と共に立っているのです。信じられない瞬間でした。
そしてこの家に立つ夫を目にして、ようやく彼が故郷に帰ったのだ、という実感が湧いてきました。
一つ一つの部屋に、かけがえのない思い出があります。その思い出をかみしめるように、夫は一つ一つの部屋を撮影して回りました。床に散らばる残置物の中から家族の思い出を探し、ここで過ごした日々を噛み締めているようでした。
ついに故郷に立つことができた夫の姿を、私は夢中で写真に撮りました。この日が来たことへの感動と、ひとりの人間の生涯の、数奇な宿命への驚嘆と共に。
(パルミラの人々から聞いた話)
*以下は、パルミラの人々との雑談の中で聞いた話です。必ずしもファクトチェックはされていない内容ですが、少なくとも、パルミラの人々がどのようにシリア情勢を捉えてきたのか、そしてアサド政権の崩壊後のシリアをどのように捉えているのかを知ることができます。
5 Replies to “13年ぶりの故郷、パルミラに立つ夫ラドワン”