終戦の日、ご紹介したい一冊

8月15日は終戦の日。あの戦争から78年が経ちました。戦争は終わりましたが、戦争が残した傷は、今もその時代を生きた人々や戦後を生きた人々の中に消えずに残っています。戦争の悲惨さは、長期間にわたって人間を苦しめ、境遇を左右し続けることでもあります。終戦の日を迎え、是非皆様にお薦めしたい一冊があります。

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『ヨシアキは戦争で生まれ、戦争で死んだ』改訂版 

 面高直子著/ 講談社

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<小松による書評>

その本の表紙写真を飾るのは、爽やかな笑顔の軍服の青年だ。ページをめくると次に現れるのは、自転車に乗ってこちらを見つめる幼い男の子の写真。

後田義明(うしろだ よしあき)とスティーブ・フラハティ。それは日本人として生まれ、アメリカ人として死んだ一人の青年の名だ。

神奈川県大磯町にある孤児院エリザベス・サンダース・ホーム。戦後生まれた多くの混血児が引き取られた孤児院である。米兵の父親を持つ後田義明も、母の手に引かれ、4歳でここにやってきた。敗戦国日本で、米軍兵士との間に生まれた混血児たちは、当時「あいのこ」と呼ばれ、差別を受けた。混血児を生んだ義明の母も、周囲からの協力が得られず、差別を受けながら女手一人で子供を育てることに苦しんだ。手に職をもって生活が安定するまで・・・。そう考え、幼い息子を連れたのがエリザベス・サンダース・ホームであり、自転車に乗る義明の写真は、施設に預けるその日、おめかしをして撮られたものだった。

「必ず迎えに来るからね」。母とのその約束は果たされず、11歳になった義明は養子縁組のため、カバン一つを携えてアメリカに渡る。混血児たちのより良い将来のため、人種が多様なアメリカに渡ることが良いと考えたエリザベス・サンダース・ホームの方針からだった。義明はそこでスティーブという名を与えられ、新しい生活が始まった。

天性のスポーツの才能からスター選手として活躍し、学園の人気者だった義明だが、混血という出自に悩み、自分の居場所を探し続けた。やがてアメリカ国民としての義務を果たすため、〝正義〟と信じるベトナム戦争へ志願。そして1969年、22歳の若さで戦死する。

 9年後、日本のテレビ番組で義明の死を知ったのは実母、後田次恵だった。物語は後田次恵の半生へと引き継がれる。母も子も、それぞれに過酷な戦後を生きた。戦争がもたらす幾重もの悲劇。しかしそこにあって、生きることを諦めない人間の姿がある。涙なくしては読めない、母と子の物語である。

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この本を読んだのは3年前のことです。その日、本を一気に読み終えた私は、深い悲しみに、一睡もすることができませんでした。日本人として生まれ、アメリカ人として死んでいった義明の生涯を思い、二度とこうした悲劇が起きないよう、こうした人々の存在を知り、平和につながるための活動をしたいと思いました。これまで読んだ本の中で、ここまで心が震えた本は他にはありませんでした。

この本に描かれているのは、米兵との混血児として生まれた後田義明、そしてその母親である次恵、そして「エリザベス・サンダース・ホーム」の創始者である澤田美喜です。それぞれが、戦争で大きな傷を負いながら、戦後を必死に生きようとしていました。

エリザベス・サンダース・ホームと澤田美喜

義明が連れられた「エリザベス・サンダース・ホーム」とは、敗戦後のGHQの占領下、進駐軍兵士と日本人女性との間に生まれた孤児のための救済施設でした。現在も神奈川県大磯町に現存し、児童養護施設として親と暮らすのが難しい子どもたちの自立活動に関わっています。

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信濃毎日新聞様に寄稿させていただきました

長野県の新聞社、信濃毎日新聞様に、6月の地震被災地取材の内容を2回に分けて寄稿させていただきました。取材内容を多くの方々に知っていただける素晴らしい機会をいただき、大変光栄なことでした。

「トルコ・シリア大地震 被災地はいま」〜重なる苦難〜 「上」・「下」

(信濃毎日新聞 2023年7月28日)

(信濃毎日新聞 2023年8月2日)

今後もこのようなお仕事をたくさんやらせていただけるよう、努力したいと思います。

*新聞への寄稿について裏話

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フォトジャーナリスト豊田直巳さんのお話から〜イラク戦争から20年〜

7月27日、東京都北区の絵本屋「青猫書房」にて行われた、フォトジャーナリスト豊田直巳さんのトークイベントに行ってきました。

豊田さんは、イラク戦争などの紛争地を精力的に取材されてきたフォトジャーナリスト・ドキュメンタリー映画監督で、最近では原発事故後の福島を継続して取材しています。イラク戦争勃発から20年目を迎えた今年、イラク戦争取材のお話をされるとのことで、参加してきました。

(豊田さんのプロフィール)

〈 以下、豊田さんのお話 要旨 〉 

イラク戦争が始まったのは2000年3月20日。この日、アメリカ主導「有志連合軍」が、大量破壊兵器があるとかで、戦争を一方的に始めた。以降、豊田さんは戦争取材のためイラクに頻繁に通った。

*小松メモ  〜イラク戦争の始まり〜                            

イラクのサダム・フセイン政権が、国連の求めた大量破壊兵器(WMD)に関する査察に非協力的だったことを理由に、米英軍は2003年3月20日、バグダッドの空爆を行い、イラク戦争が始まった。しかしその後、大量破壊兵器は発見されず、ブッシュ政権が依拠した大量破壊兵器に関する情報の誤りも明らかになった。

戦争開始直後、豊田さんはすぐ現地に入り、イラク戦争の最初の犠牲者を撮影することになった。クェートからイラクに入った国境のドライブインの隣にある郵便局が最初の空爆を受け、そこで亡くなったのが、当時豊田さんが雇っていた車の運転手の兄だった。空爆で亡くなった、その運転手の兄を撮影した。

その頃、戦争開始から48時間以内にフセイン大統領がイラクから去れば、これ以上の攻撃は止めるとアメリカは言っていたが、それも嘘で、空爆はどんどん続いていた。どこが標的になるのか、爆弾が落ちるか分からず、イラクの人々は逃げようがなかった。

イラク戦争ではクラスター爆弾が使われた。クラスター爆弾は今、ウクライナでも使用されているが、殺傷能力が強く、広範囲を破壊することで知られる危険な爆弾。非人道的であることから「クラスター爆弾禁止条約」が締結されている。

*小松メモ〜クラスター爆弾とは?〜                                 

ひとつの親爆弾の中から、大量の子爆弾がばらまかれる方式の爆弾のこと。その仕組みは、1発の容器(親爆弾)に数個から数百個の小さな爆弾(子爆弾)が入った爆弾で、親爆弾が空中で開くと、たくさんの爆弾が広い範囲にばらまかれるというもの。集束爆弾、親子爆弾とも言われる。

(「認定NPO法人テラ・ルネッサンス」HPより引用)

*小松メモ 〜クラスター爆弾禁止条約〜

2004年に締結された。日本も含めて111か国が合意している。

(AFP通信/2008年6日2日記事より引用)

イラクに空爆が続くなか、世界各国から戦争に反対する活動家が集まり、「人間の盾」としての活動を行うようになる。なかには日本人も数十人いた。彼らの主張は、武力によって戦争は解決しないということ。特に市民の生活インフラに関わる浄水場や発電所で「人間の盾」になり、そこが攻撃されないように活動した。しかし実際には、そんなことはお構いなしに攻撃された。

*小松メモ 〜「人間の盾」とは〜

Human shield。目標物に民間人がいることを敵に知らせ、攻撃を思いとどまらせる活動。しかし国際法では、人間の盾を使って軍事目標を守ることは戦争犯罪であるとみなされている。

その後4月8日、米軍がバクダッドの高級ホテル、パレスチナホテルを空爆した。ここに宿泊していたのは海外メディア関係者がほとんどで、こうした人々が犠牲になった。豊田さんもここに泊まっていた。

    (空爆直後のパレスチナホテルで、途方に暮れるメディア関係者)

その翌日、4月9日に首都バクダッドが陥落した。街の中心部に、米軍の戦車が入っていく。フセイン大統領の像も引き倒され、ロイター通信が撮影したその写真が世界へと拡散された。

この写真を見た豊田さんは、「違うんじゃないか?」と思ったという。像が引き倒されたのは事実だが、引き倒しているのが誰なのかはこの写真だとわからない。主語が見えない写真で良いのか、と当時思ったし、今も思っている。さらにこの光景を見ていた市民の視線は、報道で伝わったか?という疑問があった。それこそが伝えるべきものではなかったか。

同日4月9日の午後から、米軍は市民に銃を向けるようになった。米兵による検問も大変厳しくなった。その光景からは、「これが本当に、(アメリカ側が主張する)サダムフセインの圧政から解放されたイラクの姿なのか?」と感じたという。

また、空爆され破壊された家から、物を盗む人が増えた。そうした「アリババ(アラビア語で〝泥棒〟)」を米軍は放置した。本来は、そこを占領したアメリカ軍が治安を取り締まらなければいけないのに、一切放置した。そのため現地の警察機能が麻痺していった。

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八王子市「多文化共生写真展」に出展します

8月6日(日)の 10時〜16時、八王子市にて行われる「多文化共生写真展」に出展します。

こちらは、京王線八王子駅から徒歩3分の(JR八王子駅からは徒歩5分)、「東京たま未来メッセ」で開催されるイベントで、様々な国の文化を写真展や文化交流から体感するという企画です。お土産品やお茶の試飲などのコーナーもあるようです。

私は「トルコ・シリア」の企画展示で参加し、6月のトルコ・シリア地震の被災地の写真、昨年のシリア取材で目にした破壊されたパルミラの写真、シリア難民の写真の三つを展示します。また、国際理解を深めるためのイベントとのことで、大人向け・子供向けクイズも行います(景品もあり)。

おりしも8月6日は、八王子駅近くの甲州街道で行われる伝統行事「八王子まつり」の最終日です。ぜひ祭り見物と併せて、こちらの展示にもお越しください。当日、私は会場に在廊しております。

(以下、詳細です)

https://hachikomi.genki365.net/G0000533/system/event/5483.html

image 27 トルコ・シリア地震 取材報告会のお知らせ トルコ・シリア地震 取材報告会のお知らせ

トルコ・シリア地震 取材報告会のお知らせ

6月に行った、トルコ側の地震被災地の取材報告会のお知らせです。この取材では、被災者の方々のお話から、災害時の教訓について大変考えさせられました。

こちらの取材報告会は、探検家・医師の関野吉晴さんの連続講座「地球永住計画」にてやらせていただきます。最初に私からご報告し、その後関野さんと対談をします。人間として尊敬している関野さんとこうした企画をやらせていただけることが大変光栄です。

当日参加できない方のために、後日のオンライン視聴もございます。是非多くの皆様にご参加いただきたく思います。よろしくお願いします。

以下、ご案内、お申し込み先です。

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「地球永住計画 講演 〜賢者に訊く〜 小松由佳×関野吉晴」
【日時】2023年8月3日(木)19時00開始
※ 約120分で終了の予定ですが、質問への回答などによって若干延長されることがあります。
※ トイレ休憩や途中退席、退館など全く問題ございませんので各自自由に行ってください。
【会場】
武蔵野プレイス 4階 フォーラム(JR中央線 武蔵境駅より徒歩2分)

「地球永住計画 公開会場講演 〜賢者に訊く〜」
小松由佳(フォトグラファー)×関野吉晴(探検家・医師)
https://sites.google.com/site/chikyueiju/gakuen/daigaku/2023/komatsu2023

▼会場講演参加チケット(当日会場受付にて1500円を現金でお支払いください)

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/012ew13x1b631.html
https://ws.formzu.net/dist/S110083468/

▼オンデマンド収録配信 視聴チケット(オンライン決済1000円)(8月19日配信)
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/015b9n3c1b631.html
https://chikyueiju-komatsu2023.peatix.com

ー講座概要ー

トルコ南部のシリア国境近くで2月6日に起きたマグニチュード7.8の地震やその後の大きな揺れにより、トルコとシリアの両国で大きな被害が出て、死者数は約六万人近くに及んだ。
小松由佳さんは以前から被災者への救援活動を行なって来ました。6月初め、それ以降の呼びかけで寄せられた救援金を持って、彼女の親族をふくめて、シリア難民の多く住むトルコ南部に向かった。そこで、地震被災者のキャンプに寝泊まりして、インタビューを重ね、6月末に帰国しました。今回は、その帰国報告会です。身体を張って見たこと、聞いたこと、感じたことを話して貰います。(関野吉晴記)

▼以下、小松由佳のコメント。
今年2月に発生したトルコ・シリア大地震。マグニチュード7の大きな揺れが2回発生し、両国で6万人近い犠牲者が出ました。それから4カ月が経った今年6月、被災地の状況を取材するためトルコ南部に向かいました。

大きな被害があったハタイ県アンタキヤでは、瓦礫の山になった高層マンションの跡地など、あまりの惨状を前に、言葉が出ませんでした。
毎年シリア難民の取材をしているシリア国境の街レイハンルでは、被災者キャンプに寝泊まりしながら人々のお話を聞きました。地震がどのように起き、どのように避難したのか。家族の一員や、生活を失った人々が、これまでをどのように過ごしてきたのか。

トルコ南部地域には2013年以降流入した多くのシリア難民が暮らしており、彼らの多くがこの地震で被災しました。現地では、トルコの法によって守られることのないこうしたシリア人被災者の苦境がますます深刻化しています。
取材では、地震大国の日本に暮らす私たちにとっても、災害時の教訓として心に留めるべき多くの気づきがありました。被災地や被災者たちの現状から、私たちにとっても共通する課題として、皆様と共に考えさせていただけたらと思います

(プロフィール)
小松由佳     こまつ・ゆか
1982年秋田県秋田市生まれ。ドキュメンタリーフォトグラファー。
米農家だった祖父母が田んぼで働く姿を眺めて育ち、近郊にそびえる秋田市の名山、太平山(1170m)に幼少時より憧れを抱く。高校登山部
にて初めて太平山に登り、山の世界に魅了される。
東海大学山岳部にて本格的な登山を学び、2006年、“世界で最も困難な山”と称される世界第2の高峰K2(8611m/パキスタン)に日本人女性として初めて登頂(東海大学山岳部 OB隊)。植村直己冒険賞受賞(2006年)。
次第に、風士に根ざした人間の営みに惹かれ、草原や沙漠を旅しながらフォトグラファーに転向。2008年よりシリアを撮影するも、2011年からのシリア内戦で人々の境遇の変化を目撃し、2012年よりシリア内戦・難民を取材。近年は3歳と6歳の子供連れで、「子連れパニック取
材」を行なっている。
著書「人間の土地へ」(集英社インターナショナル/2020年9月)にて、第8回山本美香記念国際ジャーナリスト賞受賞。2022年、第11回モン
ベル・チャレンジ・アワード受賞。シリア人の夫と二人の子供と東京都在住。公益社団法人 日本写真家協会会員。

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以上、皆様のご参加をお待ちしております。

またこちらとは別に、オンライン報告会の日程は、8月上旬に予定しており、まもなく決定いたします。以上、引き続き、よろしくお願いします。

小松由佳(2023年7月18日)

image 33 トルコ・シリア地震 帰国後の取材報告レポート♯1 〜レイハンルの地震被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプ〜 トルコ・シリア地震 帰国後の取材報告レポート♯1 〜レイハンルの地震被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプ〜

トルコ・シリア地震 帰国後の取材報告レポート♯1 〜レイハンルの地震被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプ〜

被災したシリア人をめぐる問題

6月に行った地震被災地のトルコ側の取材では、特に地震被害が大きかったトルコ南部のハタイ県を訪ねました。

(写真はいずれも、ハタイ県の県都アンタキヤにて撮影。高層マンションや家屋の多くが倒壊し、甚大な地震被害があった)

ハタイ県などトルコ南部には、2013年頃から多くのシリア人が難民として暮らしており、今回の地震でも多くが被災しました。こうしたシリア人被災者への対応が、現地では大きな問題になっています。

トルコでは、コロナ後の物価上昇を受け、大量に流入したシリア難民への不満が高まっており、難民をめぐる処遇が今年5月に行われた大統領選でも大きな争点にもなりました。

こうしたコロナ後に拡大した「反シリア人感情」が、現地のシリア人地震被災者への対応にも大きな影響を与えているようです。

例えばハタイ県では、(トイレやシャワー、台所などが付属した)コンテナハウスからなる公営避難所に入所できるのはトルコ人のみで、シリア人は入所できず、支援に大きな格差が生まれています。

(ハタイ県の公営被災者キャンプ。トルコ人のみ入所可能だ)

シリア人は自分でテントや生活用品を用意し、自分で空いているキャンプを探して入所しなければならず、法によって守られることのない立場の弱さが、地震後、特に表面化しています。

地震被災者のシリア人キャンプ、ケーンマウラーキャンプ

こうしたなかで訪ねたのが、ハタイ県レイハンルに造られた地震被災者キャンプ、ケーンマウラーキャンプです。入所しているのは全員がシリア人で、約70張りのテントに250人ほどが暮らしていました。

そのほとんどが、被害が大きかった県都アンタキヤからやってきた人々です。暮らしていた家が倒壊したり、家族を失くした人もとても多く、大怪我をして療養している人もいました。また、地震の影響を受けなかったものの、トルコ人家主によって貸家を追い出され(代わりに被災した親族を入居させた)、避難している人々もいました。

(シリア国境の街レイハンル。郊外の山の中腹に、国境のコンクリート壁が見える。その麓にケーンマウラーキャンプがある)

(ケーンマウラーキャンプ入口。郊外の空き地をレイハンル市から借りあげ、被災者キャンプを作った)

(NGOからパンが配布され、喜ぶ子供たち。このキャンプでは毎日パンが配布される。ときどき水や食料も配布されるとのこと)

(キャンプでサッカーをして遊ぶ子供たち)

キャンプを設立したのはトルコ人とシリア人の二人のオーナーで、行き場がなく路頭に迷っているシリア人被災者のため、地震から約一カ月後に、市から土地を借り、このキャンプを建設しました。

入所者は、テントや寝具などの生活用品を持ち込む必要があるものの、電気や水道、トイレ、24時間お湯の出るシャワー、洗濯機、台所などを使うことができます(ただしトイレやシャワー、洗濯機など数が少なく不便である)。

(入所者が暮らすテントの内部の様子。このテントに2家族が暮らしている)

(食器の洗い場)

(洗濯機が置かれたテント。250人の入所者に対し、洗濯機は3台のみ)

テントの学校

キャンプの一画に、テント製の学校がありました。中に入ると、机や椅子、ホワイトボードが並べられ、平日の午前中、6〜12歳ほどの子供たちがここで勉強をします。

授業中はテント内が高温となり大変暑く、子供たちがじっと座っているだけでも大変です。毎日学校に来るのは20〜30人ほど。学校の教師は二人おり、彼らもここに暮らす地震被災者です。

(英語の授業の様子。トルコの小学校では英語を学ばないが、シリアでは必須だったらしい)

教師の一人、モナ先生による英語の授業を見せてもらいました。もともとシリア中部のハマで小学校教師だったモナ先生は、トルコに来てからは10年近く専業主婦でしたが、地震後、子供たちに教育の機会を作りたいと、ボランティアで教壇に立っています。

「被災したシリア人の子供たちには教育の場がありません。学ぶ場が無くならないよう、私ができることで彼らを助けたい」。モナ先生はそう話します。

突然学校に現れた私たちに、子供たちは驚き、喜んだりでガヤガヤし、授業どころではなくなりました。英語の授業中だったため、英語で自己紹介をし、二人の息子たちと一緒に授業を受けることになりました。

キャンプの子供たち

キャンプに暮らす子供たちのなかには、地震で家や家族の誰かを失った子供もいましたが、そうした悲惨な境遇や悲しみをあまり感じさせない表情の豊かさがありました(このことについて、私はもう少し自分の頭の中で考えたいと思っています)。子供たちはみな好奇心が強く、先生の話をあまり聞かず、打たれ強く、天真爛漫でした。

テントの学校が蒸し暑く、じっと座っているのが困難なため、子供たちは授業中、20分おきに水を飲みに自分のテントに戻ります。しかしそのまま学校に戻らず、遊びに出ていく子供も。

(キャンプで輪になり遊ぶ子供たち)

キャンプに暮らす子供たちの楽しみは、組み立て途中のテントの骨組みにぶら下がり、鉄棒をすることや、テントの上に登って跳ねること。落ちれば大怪我をしますが、「危ないからやめなさい」とは誰も言いません。子供は危ないこともたくさん経験し、その危なさを自分で学ぶことが求められているようです。

(建てている途中のテントで、骨組みにぶら下がって遊ぶ子供たち)

一方、子供たちのコミュニティでは、大きな子が小さな子をしっかりと見守ります。小さな子を、近所の年上の子が抱っこしていたり、一緒に連れて遊んでいたり、というのが当たり前の光景です。こうした子供たちの世界に大人は必要以上に干渉せず、子供たちはある意味独立した存在です。

(テントの上に登りたい次男サラーム。手を伸ばし、お兄ちゃんたちに引っ張り上げてもらった)

私たちは長男のサーメル(7歳)と次男のサラーム(5歳)とともに、このキャンプで一週間テント生活を送りました。息子たちはその間、キャンプの子供たちと一緒に時間を過ごしました。

(キャンプで寝泊まりしたテント。(株)モンベル様からご提供いただいた)

(私たちの小さなテントは子供たちに大人気。毎日たくさんの子供たちが訪れ、エアマットの上で飛んだりはねたり大騒ぎ)

朝6時半、太陽の日差しでテント内が高温になり、自然に目が覚めます。暑くて寝ていられません。息子たちは私がまだ寝ているうちに外に出て行き、そのまま何時間も戻ってきません。探しに行くと、子供たちキャンプ内をゾロゾロと集団になって遊び歩き、かけっこ、鬼ごっこなど、自由に遊んでいます。

キャンプ内には車やバイクがあまり入ってこないので、交通事故に遭う危険もなく、みんな顔見知りのため、親たちも安心して子供たちを遊ばせます。

(仲の良い友だちと一緒のサーメルとサラーム)

(洗い場で、水のかけ合いっこをして喜ぶ子供たち。びしょ濡れになっても、日差しが強いので服がすぐ乾く)

被災者たちの行く先は

250人ほどが暮らすこのキャンプでは、台所の洗い場が2台のみ、洗濯機が3台のみとのことで、特に洗濯の順番をめぐり、いつもいさかいが起きていました。

そこで皆様から集めさせていただいた地震被災者支援金から、台所の洗い場を2台、洗濯機を2台、寄付させていただきました。

また子供たちの学校があまりに暑く、授業を集中して受けられない状況だと聞き、学校にエアコン1台を寄付させていただきました(学校には翌日からエアコンがつけられ、今度はエアコンの風が吹く最前列に子供たちがぎゅうぎゅう詰めになってケンカになっていましたが、以前より快適に、子供たちが勉強できる場になったと聞きました)。

ほか、暑さが大変厳しいなか、扇風機もない家族が多かったため、生活支援として扇風機を20台ほど寄付させていただきました。

キャンプを離れる最終日、学校で子供たちと鶴を折りました。みんなかなり苦労していましたが、一所懸命に参加し、全員が鶴を折って持ち帰りました。みんなで折った色とりどりの鶴に、今後、この被災地の子供たちがより良い暮らしへと向かうように祈るばかりでした。

(学校で、子供たちと鶴を折った)

ケーンマウラーキャンプに暮らすシリア人被災者たちの多くが、レイハンルに新たに貸家を借りて住みたいと希望しています。しかし、住宅需要が高まっているレイハンルでは、貸家の家賃が地震後に3〜5倍に値上がりしていることや、空き家自体がほとんどなく、家を見つけるのは大変困難です。

地震でほとんど全てを失ったキャンプの被災者たちにとり、この先の見通しが全く立たないまま、厳しい夏の日差しだけが容赦なく降り注いでいます。

7月5日、日本に帰国して一週間ほどの私に、衝撃的な知らせが届きました。ケーンマウラーキャンプの周辺住民(トルコ人)が、キャンプからの騒音がうるさいとのことで警察に被害届を提出し、市からキャンプの閉鎖を命じられたとの知らせでした。入所者は3日以内に退去しなければならず、キャンプ内は大混乱中だというのです。

背景にはトルコ人住民の、シリア人への排斥感情が少なからずあるようです。行く宛のない地震被災者の避難所が、「騒音」という理由で一方的に閉じられてしまう事態に、改めてシリア人をめぐる問題の難しさを感じさせられました。

*有料会員様限定オーディオプログラム

「ケーンマウラーキャンプ 裏話」

こちらは、有料会員様限定の裏話です。一週間のキャンプ生活で考えたことなど、以下の内容をオーディオにてお話いたします。

1  ケーンマウラーキャンプでの取材の思い出。経緯と注意点、生活の感想。

2   イスラム文化のキャンプ生活の厳しさ

3   キャンプ閉鎖に至った事件

〈視聴はこちらより〉

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NHK Eテレ『こころの時代〜宗教・人生〜』にて、私の出演回が再放送されます

NHK Eテレ『こころの時代〜宗教・人生〜』にて、私の出演回が再放送されます。

「生きる根を見つめて」 再放送:2023年7月8日(土)13:00〜14:00 (初回放送日:2022年8月28日)

https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/E2JRQNVRR2/

取材いただいたディレクターより、「こんなに言葉を語れるNHKの番組は他にはありません」と聞いていたこの番組。昨年のトルコ取材前に収録いただきました。なぜシリア難民を取り続けるのか。自分の人生にとってそれはどういった意味があるのか。インタビューいただきながら、私自身も気持ちを新たにしました。ぜひご覧ください。

(2023年7月5日)

あっという間に取材の日々が流れ、帰国してしまいました!(2023年7月5日)

6月中旬に取材の様子を投稿してから、その後の取材の経過を更新できないまま、6月末に帰国日を迎えてしまいました!涙

この取材では、現地から皆様に状況をレポートするのを楽しみにしていました。しかし取材の半ば頃から、だんだんと記事を更新する余裕がなくなってしまいました。

体調を崩しがちとなったことや(腹痛が続いた)、自由に動き回る子供たちのパワフルさにすっかりくたびれてしまい、とにかく日々、人に会い、話を聞き写真撮るという、やるべきことを続行するだけでいっぱいいっぱいになってしまいました。現地からコンスタントに、取材の様子をご紹介できなかったことが本当に残念です。

子供たちを元気に日本に連れ帰らねば、という責任感でトルコでは動いていましたが、帰国してからはどっと疲れが押し寄せ、数日間グッタリしました。このところ、ようやく回復してきたところです。

(シリア国境に程近いハタイ県レイハンルのケーンマウラーキャンプにて、テントに寝泊まりしながら取材。二人の子供たちは現地の子供たちと毎日倒れるまで走って遊んだ)

取材中は、地震被災者のキャンプで寝泊まりし、被災者の方々からお話を聞いたりと、忘れられない印象的なエピソードがいくつもありました。現地からのレポートができませんでしたが、帰国したからこそじっくりと、こうした取材中のエピソードをご紹介できたらと思います。

さて、帰国してホッとしましたが、これからが正念場です。報道が少なくなってきた地震被災地の現状について、多くの方々に引き続き関心を持っていただきたく、雑誌や新聞などに寄稿させていただく予定です。

本日はひとまず帰国のご連絡でした。更新がないことで皆様にもご心配をおかけしたかと思います。申し訳ありませんでした。

(主要な取材地であるトルコ南部ハタイ県レイハンル。この街の地震被害はさほど大きくなかったが、被害が大きかったアンタキヤなどから多くの被災者が避難している)

(ここからは裏話です)

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トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

トルコ側の地震被災地、オスマニエへ

イスタンブールでの取材を終え、トルコ南部のオスマニエ県オスマニエ市にやってきました。高原野菜の産地で農業が盛んなオスマニエは、ほかのトルコの都市よりも物価が安いとされ、多くのシリア難民が暮らしています。私の夫の親族もこの街に2016年以降暮らしていることから毎年訪ねている土地のひとつです。

2月に発生したトルコ・シリア大地震では、このオスマニエが震源地から比較的近く、街の中心部にほど近い高層マンションなどが大きな被害を受け、500人ほどの住人が瓦礫の下敷きになって死亡しました。

この街では、親族やその繋がりから、地震の被害を受けたその後の人々の暮らしを取材しました。

この街では、親族やその繋がりから、地震の被害を受けたその後の人々の暮らしを取材しました。

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(地震により倒壊したオスマニエ中心部のマンション跡地。瓦礫はすっかり撤去されている。人間が建てたコンクリートの建物は倒壊したが、地に根を張る木々は倒れることなく緑の葉を揺らしていた)

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(倒壊は免れたものの、至る所に亀裂が入ったため、廃墟となったマンション。周囲に立ち入り禁止のテープが貼られていた)

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(オスマニエ市街地では、建物に亀裂が入り、無人となったマンションや住居があちこちに散見された。撮影2023年6月8日)

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(地震から4カ月、倒壊した建物の瓦礫の撤去が進んでいた)

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(エルドアン大統領は、この地震によって住居を失った人々に対し、一年以内に新しい住居を建てて入居させると約束している)

トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

(街の郊外に作られた巨大な公営避難所。仮説住宅が延々と立ち並ぶ。ここに避難しているのはトルコ人のみ)

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(地震で家を失い、暮らす家が見つからない人々の多くが、親族を頼って他の街へ移動した。残った人々は、トルコ人なら避難所の仮設住宅に入れるが、シリア人は入れないため、路上の隅や空き地にテントを貼って暮らしている)

地震後、自分たちで家を建てた兄ワーセル

地震前、毎年私が宿泊させてもらっていたのが夫の兄ワーセル一家の家で、オスマニエ市街地のマンションの3階にある貸家でした。
この部屋は、よく風が通る気持ちの良い空間で、窓から眺める山々の眺めが素晴らしく、ベランダでは鳥を飼い、屋上では二匹の陸亀を放し飼いにしていました。私はここに毎年子供たちを連れて泊まり、トルコ取材の基地のひとつとしていました。

しかし地震後、この建物に大きな亀裂が入り、住み続けることができなくなりました。引っ越し先の貸家を探しましたが、多くの住宅が被害を受けたトルコ南部では、住宅需要が高まり、家賃が4倍〜5倍近くに高騰しました。

家賃の値上がりのためなかなか引っ越し先も見つからず、兄の家族はしばらくテント生活を続けた後、別の兄の家の隣に、自分の家を増改築することに。親族中から借金をしてお金を集め、資材を買い、自分たちで家を建てました。

image トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

(夫の兄ムハンマドが、3年前から土地を買って建てたオスマニエ郊外の家。牛を飼い、牛乳やヨーグルトを販売して暮らしている。
地震後、家を失った夫の兄ワーセルが、右側部分を増築して家を造った(建物の正面の黒いドアから右側部分)。もともとそこは牛小屋だったが、地震後、牛を外に追い出して家を増築した。牛たちには、代わりにコンクリートブロックを積んで簡易的に牛小屋を作った)

オスマニエにて泊まらせてもらったのが、この新しい兄の家です。コンクリートブロックを積んで自分たちで建てた、と聞き、良かったなあと思いつつ、内心、(地震被害のあった家の多くが耐震基準を満たしていなかったことを考えると)自分たちでまた家を建てて大丈夫なのか、地震が起きたらまた崩れるのではないかとも思ってしまいました。

「また地震が来たら、この家・・・、大丈夫ですか?」とはっきり聞いてしまいましたが、親族曰く、これまでもそうやって自分たちで家を建ててきたし、崩れたらまた建てればいい、との話でした。

それを聞き、故郷を追われてこの10年、彼らはずっとその繰り返しで生きてきたのだと思いました。シリアでの空爆で家を失い、シリアやトルコを点々として住まいを変え続け、大地震でまた家を失い、失ってはまた作り上げて、また失って。

この先何が起きるかわからない。だからこそ、親族からなるコミュニティで共助の関係性をしっかり作っておき、自分たちでできる限りのことをやっておく。それでも壊れたらまた作る。日本の常識では計り知ることのできない悲惨な戦災、自然災害を経験してきた彼らにとり、それが結論であるように感じられました。

image 2 トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

(玄関前にて夜風に涼むムハンマド兄(中央)とワーセル兄(前列右)と子供たち。この時点で午後22時。子供たちはまだまだ寝ない。私の二人の子供たちもすっかり現地に馴染み、いとこたちと牛小屋や川や放牧地を走り回っている。トルコに行くたびに、子供たちはワイルドになる)

兄たちの家を、ムスタファ・カービースさんが壁塗り

オスマニエ在住のシリア難民ムスタファ・カービースさんは、私がここ数年取材を続けてきた難民の一人です。オスマニエに着いた翌日、朝起きて家の外に出ると、なんとムスタファ・カービースさんがムハンマド兄の家の玄関前を壁塗りしていました。

私がムスタファ・カービースさんの取材に毎年行くようになり、ムスタファさん一家と交流が生まれ、仕事を頼んだとか。取材を通し、シリア人同士の繋がりも生まれているようで嬉しいことです。

image 3 トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

(オスマニエに夜遅く着き、翌朝起きて外に出ると、なんと(長年取材してきた)ムスタファ・カービースさんがムハンマド兄の家を壁塗りしていた!)

被災地では多くの家が地震被害を受けたため、住居建築が急ピッチで進められている。壁塗りの仕事も需要が高まり、地震後は仕事が増えたという。

ムスタファさんは脳腫瘍で苦しんでいましたが、二年前に手術をしてから状況が落ち着いているようです(その際は、ムスタファさんの手術後の生活費がなく生活が困窮するため、生活支援カンパを呼びかけさせていただき、多くの方々にご協力いただきました。ありがとうございました)。それでもシリアでの空爆に巻き込まれて大怪我をした背中と腎臓の古い傷が痛み、現在は週に4日ほど働き、あとは休んでいるとのこと。なんと地震後、7人目の(上の二人の息子は2013年にシリアでの空爆で死亡)赤ちゃんが産まれていました。待望の男の子だそうです。オスマニエにまた戻ってきたら、ムスタファさんの家を訪問させていただくことにしました。

image 5 トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日) トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月11日)

被災地のオスマニエ。夫の親族たちは、突然の地震に戸惑い、経済的な打撃を受けながらも、その波の中で再び生活を作り出し、たくましく生きようとしていました。引き続き、取材を進めていきます。

(2023年6月11日)

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トルコ南部のオスマニエ県にて、夫の親族を訪ねました(2023年6月10日)

(こちらの記事は、一般公開させていただきます)

①地震被災地、オスマニエへ

イスタンブールでの取材を終え、トルコ南部のオスマニエ県オスマニエ市にやってきました。高原野菜の産地で農業が盛んなオスマニエは、ほかのトルコの都市よりも物価が安いため、多くのシリア難民が暮らしています。私の夫の親族もこの街に2016年以降暮らしており、毎年訪ねている土地のひとつです。

二月に発生したトルコ・シリア大地震では、このオスマニエが震源地から比較的近く、街の中心部にほど近い高層マンションなどが大きな被害を受け、500人ほどの住人が瓦礫の下敷きになり死亡しました。

この街では、親族やその繋がりから、地震の被害を受けたその後の人々の暮らしを取材しました。

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(地震により倒壊したオスマニエ中心部のマンション跡地。瓦礫はすっかり撤去されていた)

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(倒壊は免れたものの、至る所に亀裂が入ったため、廃墟となったマンション。周囲に立ち入り禁止のテープが貼られていた)

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(オスマニエ市街地では、建物に亀裂が入り、無人となったマンションや住居があちこちに散見された。撮影2023年6月8日)

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(地震から4カ月、倒壊した建物の瓦礫の撤去が進んでいた)

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(人間が建てたコンクリートの建物は倒壊しても、地に根を張る木々は倒れない)

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(オスマニエ郊外に作られたトルコ政府による巨大な避難所の仮説住宅。ここに入居しているのはトルコ人のみ)

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(地震で家を失い、暮らす家が見つからない人々の多くが、親族を頼って他の街へ移動した。残った人々は、トルコ人なら避難所の仮設住宅に入れるが、シリア人は入れないため、路上の隅や空き地にテントを貼って暮らしている)

エルドアン大統領は、この地震によって住居を失った人々に対し、一年以内に新しい住居を建てて入居させると約束しています。しかしその対象はトルコ人のみで、シリア人の今後は、これまで以上に厳しいことが予想されます。

②自分たちで家を建てた兄ワーセル

地震前、毎年私が宿泊させてもらっていたのが、オスマニエ市街地のマンションの3階にある夫の兄ワーセルの家でした。

この家は、よく風が通る気持ちの良い空間で、窓から眺める山々の眺めが素晴らしく、ベランダでは鳥を飼い、屋上では二匹の陸亀を放し飼いにしていました。私はこの家に毎年子供たちを連れて泊まり、取材の基地のひとつとしていました。

しかしこの兄の家も地震後、建物に大きな亀裂が入り、住み続けることができなくなりました。引っ越し先の貸家を探しましたが、多くの住宅が被害を受けたトルコ南部では、住宅需要が高まり、家賃が4倍〜5倍近くに高騰しました。

あまりの家賃の値上がりに、なかなか引っ越し先が見つからず、兄の家族はしばらくテント生活を続けた後、別の兄がすでに建てていた家の隣に、自分の家を増改築することに。親族中から借金をしてお金を集め、資材を買い、全て自分たちで建てたそうです。水道も電気も、全て自分たちで引いたというから驚きです。

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(夫の兄ムハンマドが、土地を買って建てたオスマニエ郊外の家。牛を飼い、牛乳やヨーグルトを販売して暮らしている。新しく増築したワーセル兄の家は、家の中央の黒い扉から奥にある)

オスマニエに着いて、まず見せてもらったのがこの新しい兄の家です。コンクリートブロックを積んで自分たちで建てた、と聞き、良かったなあと思いつつ、内心、(地震被害のあった家の多くが耐震基準を満たしていなかったことを考えると)自分たちでまた家を建てて大丈夫なのか、地震が起きたらまた崩れるのではないかと思ってしまいました。

「また地震が来たら、この家・・・、大丈夫ですか?」とはっきり聞いてしまいましたが、親族曰く、「神が守ってくださる」とのこと。

これまでもそうやって自分たちで家を建ててきたし、崩れたらまた建てればいい、との話でした。まあそうなのですが、なんだか悶々としました。悶々としつつも、彼らはずっとその繰り返しで生きてきたのだと思いました。シリアでの空爆で家を失い、シリアやトルコを点々として住まいを変え続け、大地震でまた家を失い、失ってはまた作り上げて、また失って。この先何が起きるかわからない。だからこそ、親族からなるコミュニティで共助の関係性をしっかり作っておいて、自分たちでできる限りのことをやっておく。それでも壊れたらまた作る。それしかないのだと。狭い日本の常識では計り知れない戦災、自然災害を経験してきた彼らの、それが結論であるように思いました。

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(ムハンマド兄(中央)とワーセル兄(前列右)。玄関前にて夜風に涼む。この時点で午後22時。子供たちはまだまだ寝ない)

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(ムハンマド兄が、市場からパンや野菜を買ってきた。ジャガイモ(左上)は100リラ(約700円)、トマトは50リラ(約350円)、ピーマンとキュウリは合わせて40リラ(約280円)、パンは4袋で20リラ(約140円)だったとのこと)

③ムハンマド兄とワーセル兄の家を、ムスタファ・カービースさんが壁塗り

オスマニエ在住のシリア難民ムスタファ・カービースさんは、私がここ数年取材を続けてきた難民の一人です。オスマニエに着いた翌日、朝起きて家の外に出ると、なんとムスタファ・カービースさんがムハンマド兄の家の玄関前の天井を壁塗りしていました。なんでも、私がムスタファ・カービースさんの取材に毎年行くようになり、ムスタファさんの家まで送り迎えをするうち、この家族と繋がりが生まれ、壁塗りの作業を頼んだとか。取材を通し、難民の家族同士の繋がりがあちこちで生まれているようで、とても嬉しいことです。

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(ムスタファさん曰く、地震後に住宅がどんどん作られていることで、仕事が増えているとのこと。こうした壁塗りの仕事は、平均して一日300〜500リラ(約2100円〜3500円)ほどだが、高所作業など危険が伴う仕事の場合は一日1500リラ(約10500円)の収入を得られることもあるそう)

ムスタファさんは脳腫瘍で苦しんでいましたが、二年前に手術をしてから状況が落ち着いているようです。それでもシリアでの空爆に巻き込まれて大怪我をした背中と腎臓の古い傷が痛むため、仕事は週に4日ほど行い、あとは休んでいるとのこと。なんと地震後、7人目の(上の二人の息子は2013年にシリアでの空爆で死亡)赤ちゃんが産まれていました。オスマニエにまた戻ってきたら、ムスタファさんの家を訪問させていただくことにしました。

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被災地のオスマニエ。夫の親族たちは、突然の地震に戸惑い、経済的な打撃を受けながらも、その波の中で再び生活を作り出し、この土地でたくましく生きようとしていました。

引き続き、取材を進めていきます。

(2023年6月10日)

イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました

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日本を出発した翌6月2日、トルコ最大の都市イスタンブールに到着しました。アジアとヨーロッパにまたがり、東西の文化の交流点として栄えてきたこの街で、ある地震被災者の男性を取材しました。

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 お会いしたのはムハンマド・サーレさん(26)。トルコ・シリア大地震後、イスタンブールで暮らしているシリア人です。

ムハンマドさんはもともとシリアのパルミラ出身で、夫とは古い友人でもあります。シリアが内戦状態になった後、安全を求め、2014年にトルコに逃れました。以来、シリア国境に近いトルコ南部のハタイ県アンタキヤで、母親と弟、兄の家族と暮らしながら、建設作業員として働いていました。

2月6日、トルコ・シリア大地震が発生。ムハンマドさん一家が暮らすアンタキヤは特に地震被害が大きかった街のひとつで、建物の倒壊によって多くの行方不明者、死者が出ました。

地震が発生した日、ムハンマドさんは友人を訪ねてイスタンブールに来ており、トルコ南部で大地震が起き、アンタキヤでも大きな被害があったことを知りました。家族と連絡が取れず、ムハンマドさんはその日のうちに飛行機でアンタキヤへと戻り、家族を探しました。しかしそこで知ったのは、同居する家族全員が、倒壊したマンションの下敷きになっているという現実でした。

イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました

地震後、多くの住人が建物の下敷きになったアンタキヤでは、人々を救助するための重機が圧倒的に足りませんでした。ようやく8日後に重機での捜索が行われた時には、ムハンマドさんの家族は全員が亡くなっていました。

アンタキヤ郊外の墓地に家族の遺体を埋葬した後、ムハンマドさんは、ショックから何も手につかなくなりました。被災地にいるのが辛く、友人の助言もあってイスタンブールへと移動しました。

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イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました

(ムハンマドさんの部屋の壁に写真が飾られていた。写っているのは数年前のムハンマドさん。地震後、彼を励ますために友人が贈ったものだ。)

そこにはシリア人コミュニティがあり、パルミラ出身の友人も多いため、生活の援助を得ることができます。不動産業に関わる友人が無償で部屋を貸してくれ、ムハンマドさんを元気づけるため、友人たちが毎日彼のもとを訪れます。

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(「趣味は筋トレ」というムハンマドさん。毎朝起きると必ず筋トレをする。気持ちがスッキリするらしい)

最近になってムハンマドさんは、イスタンブールの海を周遊する観光船の乗組員の仕事を夜間だけ始めました。生活を維持するためです。しかし、これからのことを何も考えることができません。家族や、それまでの生活を突然失った喪失感に、ムハンマドさんは苦しんでいます。大地震から4カ月。被災した人々の苦難は今も続いています。

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▼こちらの取材の詳細な内容を、「小松由佳HP有料会員コンテンツ」にてご紹介しています。

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*会員でない方も、途中まで記事をお読みいただけます。是非ご覧ください。

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こちらは活動を応援いただくためのサイトです。より良い写真活動ができるよう、応援をどうぞよろしくお願いいたします。活動の裏側を紹介していきます。

▼ 今回の取材が終わる6/25頃まで、地震で被災したシリア難民の生活支援金を集めさせていただいております。

こちらは現地で引き出し、私が直接お渡しさせていただきます。ご協力をよろしくお願いします。

【 地震で被災したシリア難民への支援金 お振込先 】

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八王子支店

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8553199

コマツ ユカ

▼取材活動のカンパを集めさせていただいております。

大変恐縮ですが、私自身も経済的に厳しい活動を続けており、取材カンパを集めさせていただいております。より良い取材活動ができるよう、ご賛同いただける方は、是非ご支援をお願いいたします。

【 小松由佳 取材活動カンパ お振込先 】

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以上、よろしくお願いします。

イスタンブールの後は、夫の家族が暮らすトルコ南部オスマニエ県オスマニエへと向かいます。

image 24 イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました イスタンブールにて、地震被災者のムハンマド・サーレさんを取材しました

(取材には子供たちも同行。カメラの画角に入らないよう、子供たちにあっちにこっちに移動してもらいながらなんとか撮影した。ムハンマドさんには子供たちを暖かく見守っていただき、たくさん可愛がってもらった)

(2023年6月5日)

イスタンブールに暮らす地震被災者、ムハンマド・サーレさん(2023年6月5日)

(こちらは6月3日〜4日に行ったイスタンブールでの取材記事です)

日本を出発した翌6月2日、トルコ最大の都市イスタンブールに到着しました。この街で、ある地震被災者の男性を取材するため、二日間を過ごしました。

まずは子供たちと、イスタンブール旧市街を散歩。

旧市街の坂を登ったところにある、築400年近い重層建築物「buyuk valide han 」(ビユック・バリ・ダハ)へと迷い込みました。

(暗い建物の内部を進むと多くの小部屋が廊下に沿って並んでおり、小部屋の中で職人たちがそれぞれ仕事をしていました。400年前に建造された建物とのこと。室内の石積みの壁や天井から、歴史の厚みを感じます)

(「buyuk valide han 」の外観)

さて、イスタンブールの空気を吸い込んだ後、いよいよ取材が始まりました。

この街でお会いしたのはムハンマド・サーレさん(26)。トルコ・シリア大地震後、イスタンブールで暮らしているシリア人です。

(イスタンブールでムハンマド・サーレさんが暮らす建物(写真下の正面の建物)。新市街の入り組んだ一角にある)

ムハンマドさんはもともとシリアのパルミラ出身で、私の夫と家が近所で古い友人でもあります。2005年に父親が病気で亡くなった後、母親が一人で11人の子供たちを育てました。

しかしシリアが内戦状態になると、一家は安全を求めて2016年にトルコに逃れました。以来、ムハンマドさんは母親と弟、兄の家族とトルコ南部ハタイ県アンタキヤ市に暮らし、建設作業員として働いてきました。

タクシードライバーの兄とムハンマドさんとで家族の暮らしを支えてきましたが、兄が6年前に突然逮捕されてしまいます。シリア難民は、トルコ国内において移動制限があり、仕事をする際も登録された地域から出ることを禁止されています。ムハンマドさんの兄はタクシードライバーとして許可外の地域に出たことで咎められたのです。以来、兄は収監されたままです。

兄の逮捕後、一家の働き手が減り、暮らしは厳しくなりました。それでもムハンマドさんはなんとか生活を維持してきました。

こうしたなか、2月6日にトルコ・シリア大地震が発生しました。ムハンマドさん一家が暮らすアンタキヤでは建物の倒壊によって、多くの行方不明者、死者が出ました。

地震が発生したその日、ムハンマドさんは、友人を訪ねてイスタンブールに来ていました。そしてトルコ南部で大地震が起きたこと、自分が暮らすアンタキヤの街で大きな被害があったことを知りました。彼はその日のうちに飛行機でアンタキヤへと戻り、家族の無事を確認するために自宅へと急ぎました。

(お茶を沸かす。ムハンマドさんの部屋には、毎日多くの友人たちが集まる)

(ムハンマドさんは体を鍛えることが趣味。毎朝欠かさず筋トレをする)

そこでムハンマドさんが見たのは倒壊した自宅でした。同居していた母親と弟、兄の妻と娘の4人とは、地震後、全く連絡が取れません。それでも家族がどこかで避難しているのではないかと希望を抱き、ムハンマドさんは街の郊外の公園や避難所などを探しました。しかし彼らを発見できず、誰も彼らを見ていないことから、家族が瓦礫の中にいることを確信しました。地震発生から24時間ほどが経った頃のことでした。

ムハンマドさんは倒壊した自宅の周りを歩き、家族の名を呼び続けました。やがてある地点から、兄の妻バトュールの声が聞こえることが分かりました。

「私はここにいる、娘も生きている。大きな怪我はしていない。早く助けて。息ができない、水もない」

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トルコ側の地震被災地へ、取材に出発しました!(2023年6月3日)

8D25E099 1670 4195 BAC3 7B5C7365154F トルコ側の地震被災地へ、取材に出発しました!(2023年6月3日) トルコ側の地震被災地へ、取材に出発しました!(2023年6月3日)
(成田空港にて出発直前。行ってきます!)

6月1日、トルコ・シリア大地震のトルコ側の被災地の取材のため、成田空港を出発しました。今回の取材期間は約一ヵ月です。

トルコ側の被災地には、夫の親族や知人がシリア難民として暮らしており、多くが被災。地震後、生活状況が一変しました。倒壊した建物の下敷きになり亡くなった知人、トルコ人による差別や物価の高騰に疲労し、より生活費がかからいシリアへと移動した知人もいます。こうした人々のこの4カ月間を、丁寧に取材する予定です。

折りしも5月28日には、トルコ大統領選の決戦投票が行われ、20年の長期政権を維持するエルドアン大統領の続投が決まりました。

対した野党6党の統一候補クルチダルオール氏とは接戦で、最後までどちらが勝利するか分からない選挙戦でした。大きな争点となったのは、トルコに大量に流入したシリア難民をめぐる処遇です。シリア難民のシリア帰還政策実施は必要だという主張は両者に共通しているものの、クルチダルオール氏はより強硬手段を提起していたことから、もしエルドアン氏が勝利しなければ、多くのシリア難民は強制的にシリアに帰されるかもしれない、という局面でもありました。

今回、エルドアン大統領の続投が決まり、シリア難民として現地に暮らす親族や知人たちから、「とりあえずはホッとした」という声を聞いています。

しかし国内では、難民への排斥感情がかつてないほど高まり、通貨安や高インフレで経済の混乱が続いています。トルコ社会の最底辺層であるシリア難民の立場は決して穏やかではありません。

こうしたコロナ禍、大地震、そして大統領選を経た彼らの現在を、一人一人のエピソードを綴ることで発信していきます。

また、地震によって被災したシリア難民への生活支援金を2月から集めさせていただき、皆様からのたくさんのご支援を現地に送金してきました。今回は、手元にある¥722.000(2023年6月2日現在)を持参し、私が直接、被災した方々に受け渡しいたします。皆様の暖かいお気持ちをありがとうございました。

もしまだ、地震で被災したシリア難民への支援を送りたいと思われる方がいらっしゃいましたら、現地でも支援金をATMで引き出してお渡しできます。以下にお振込先を書いておきます。

【地震で被災したシリア難民への支援金 お振込先 】

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八王子支店

普通

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コマツ ユカ

また今回の取材は、地震発生からあまり時を経ず、被災地を取材したく計画しました。本来は2月の地震発生後、すぐに現地へと赴きたかったのですが、取材費捻出と子供たちの保育園、小学校の準備があり、タイミングが整いませんでした(そのため、地震後は被災地への支援金集めに奔走することで、これが今の自分の役割だと考えました)。今回、なんとか現地への取材に出ることができ、多くの皆様に活動を支えていただいていることに感謝をしつつ、その分しっかりと取材をしたいと気持ちで身を引き締めております。

とにかく現場に立つこと。人に出会い、見て、感じて、考えること。そして一枚一枚、写真を撮ることを努力します。では行ってきます!

A921AD4B D8BF 4C69 A142 6778F18FED20 トルコ側の地震被災地へ、取材に出発しました!(2023年6月3日) トルコ側の地震被災地へ、取材に出発しました!(2023年6月3日)
(いつの間にかすっかり成長した二人の子供たち。7歳の長男サーメルと、5歳の次男サラームは、共に小さなスーツケースを自分で引っ張り、荷物運びをお手伝いしてくれるようになった)

▼取材の詳細を「小松由佳HP 有料会員コンテンツ」にて発信していきます!

https://yukakomatsu.jp/membership-join/

(こちらは小松の活動を応援いただくための月額1000円のサイトです。今回の取材の経過や裏話、葛藤などをたくさんの写真を交え、より詳細にご紹介していきます。是非、ご登録のうえ応援をよろしくお願いします)

(2023年6月2日)

拙著『人間の土地へ』が、大学入試問題で使用されました(2022年5月23日)

拙著『人間の土地へ』(集英社インターナショナル/2021年)が、なんと今年3月の亜細亜大学様の入試問題の「小論文試験」にて使用されました。

こちらは亜細亜大学様の「入学試験問題 過去問題」として今後公開されるとのこと。入試問題に使っていただけたことは、大変光栄な機会でした。それにしても、なんと難しい問題でしょうか。著者の私も(2)はうまく書けそうにありません。

この試験問題は以下よりダウンロードできます。お時間が許す方は、是非解いてみてください。

申請書-5

申請書-6

(2023年5月23日)

6/1〜6/28まで、トルコ側の地震被災地へ取材に向かいます(2023年5月23日)

トルコ・シリア大地震の発生からまもなく4カ月。被災地の報道が少なくなってきました。その後、地震被害に遭った人々がどのように暮らしているのか、なかなか情報が届かなくなり、また皆様からご支援を集めさせていただき、届けさせていただいたことに対して、その後の状況を伝える責任も感じるようになりました。

現地では急速に復興が始まっており、状況があまり変わらないうちに現地を取材したく、この6月に地震被災地のトルコ側へ取材に向かうことにしました。期間は6月1日から6月28日です。

今回も頭を悩ませたのは子連れの問題です。なにしろ長男は小学生になったばかり。本人には申し訳ないのですが、この間の長男のお世話をする人が身近にいないので、今回も取材へ連れることにしました。その分、取材は短期間で行います。そんなわけで、二人の子供を連れ、6月1日から28日まで取材に行ってきます。地震被災地の現状と、主にシリア難民コミュニティでの人々の暮らしの変化を見つめてきます。

取材後は、記事や写真を新聞紙や雑誌などのメディアにて発表させていただけたらと思っています。昨年の長い取材からあまり時が経っていないこともあり、経済的には辛いところですが、世界が動いている現場に立ち続けたいと思います。また取材の様子は、以下のページにてご報告していきます。

「Coverage of Syrian refugees 2023」

https://yukakomatsu.jp/category/coverage-of-syrian-refugees-2023/

以上、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

(2023年5月22日)

トルコ・シリア大地震の被災者への緊急支援金送付についてご報告(2023年5月23日)

今年2月6日に発生したトルコ・シリア大地震では、両国合わせ、5万6千人超の死亡が確認されました。これまで足繁く取材に通ってきたトルコ南部地域が大きな被害を受け、親族や知人も多数被災したことから、私も個人的に緊急支援を集めさせていただきました。

トルコ側、シリア側には夫の親族が難民として暮らしていることから、彼らを窓口に、地震被害を受けたシリア難民の被災者に、支援金を送り、配布させていただきました。2023年5月23日現在まで、総額¥5.185.394を現地に送付させていただくことができました。

こんなにたくさんのご支援を皆様からいただき、被災地したシリアとトルコの現地へと届けさせていただきましたことをお礼申し上げます。皆様のご協力をどうもありがとうございました。

今後も、写真活動を通じ、人と人とを繋げていくことをしていきたいと思います。

また最近でもちらほら地震被災地へのご支援が届き、私の手元には¥569.484(2023年5月22日時点)の支援金が集まっています。

こちらは、今年6月に地震被災地への取材に向かいますので、私が責任を持って被災者に直接お渡しいたします。以上、ご報告させていただきました。

(2023年5月23日)

シリア在住の兄たちに地震支援金を配布いただきました 〜バーセル兄による現地レポート〜

(こちらの記事は、最後の<裏話>まで、一般の方にも公開しています)

2月6日に発生したトルコ・シリア大地震の支援金について、本当にたくさんの方々から温かいご支援をいただきました。3月17日現在までにいただいたご支援の総額は、¥5,185,394です。現在、そのほとんどを現地に送付中で、¥2,884,000分は、配布が完了しています。そのほかは配布中です。

これらの支援は被災地のトルコ側とシリア側に折半してお送りしました。シリア側では被災地が政治によって分断され、国際支援が入りにくい状況ですが、シリア在住の二人の兄が支援金配布に協力してくれました。

シリア、パルミラ出身の私の夫は16人兄弟の末っ子で、上には11人の兄がいます。夫の家族のほとんどがトルコ南部に難民として暮らしていますが、シリアには二人の兄とその家族が残っています。一人はトルコ軍が占領するアレッポ県アル・バーブに暮らすアブドュルラティーフ兄、もう一人はクルド勢力統治下のラッカ県ラッカに暮らすバーセル兄です。

(中央で下を向いているのがアブドュルラティーフ兄。2009年、パルミラの自宅にて。小松撮影)

アレッポ県アル・バーブに暮らすアブドュルラティーフ兄は、内戦以前はパルミラで家屋の不動産業を営んでおり、性格も真面目で真っ直ぐ。兄弟の中でもかなり硬派(兄弟は全員硬派でしたが)な人物でした。道で見かけた女性に四年間片思いした末に結婚したというエピソードも。2016年以降、家族のほとんどがトルコに逃れていきましたが、アブドュルラティーフ兄はシリアから出ることをせず、トルコ側にシリアの食料品の輸出の商売をすることで生活を維持しています。兄が販売するシリア産のオリーブオイルやザクロの濃縮液、ナスの油漬けなどは、トルコで難民になったシリア人の間でもかなり需要があるらしく、商売はうまくいっているようです。

(バイクに乗り、沙漠へラクダの放牧に向かうバーセル兄。2009年、パルミラにて。小松撮影)

(ラクダの放牧中、昼食を食べながらふざける男たち。左側がバーセル。右端のサーメル兄が、友人のハーレッドの顔に、豆のディップをつけ始めた。サーメル兄もハーレッドも2012年に民主化デモに参加して逮捕され、今も行方が知れない。2009年、パルミラにて。小松撮影)

バーセル兄は、パルミラで家業にしていたラクダの放牧の仕事を、今も続けている唯一の兄です。暮らしているのはクルド勢力統治下のラッカ県ラッカ。かつてはイスラム過激派ISの首都となり、ISによる恐怖政治が行われていた地ですが、現在はクルド人の統治下、比較的安定した状況とのことです。

今回、その二人が、皆さまからの支援金をシリア北部および北西部の被災者へ配布しました。以下、そのレポートになります。

バーセル兄からの現地レポート

(3月15日に電話取材をした内容です。バーセル兄は被災地に支援を届けてラッカに帰ってきてから、しばらく沙漠にラクダの放牧に出ており連絡が取れず、お話を聞くのが遅くなりました)

・・・簡単に自己紹介をしてください

私は普段、シリアのラッカ県ラッカに妻や子供たちと暮らしています。仕事はラクダの飼育・放牧業です。ラッカは現在、クルド勢力の統治下にあって政情は比較的安定しています。ここでは地震の被害はありませんでしたが、日本からの支援金を被災地に届けるため、シリア北部のアレッポ県アル・バーブ、北西部イドリブ県に2月末から数日間行ってきました。

・・・支援金を届けた被災地は?

アレッポ県のアル・バーブ、ジェンディレス、アフリンと、イドリブ県のダーナ、サルマダです。

最初に、アレッポ県アル・バーブに向かい、そこに暮らす兄のアブドュルラティーフと合流しました。アル・バーブは地震の被害があまりなかったのですが、被災地から多くの住人がここに避難しています。まず彼らに支援を渡しました。

それからアレッポ県、イドリブ県に行きました。最も被害がひどかったのがアレッポ県のジェンディレスでした。現地では、地域の人々と相談しながら支援金を配布しました。

(左からラッカ、アル・バーブ、ジェンディレス、サルマダ)

(左上の渦状マークが震源地。赤丸は、建物の倒壊被害が激しかった場所。まさにシリア・トルコ国境付近がその被害が大きかったことがわかる)

・・・およそ何家族に支援金を配布できましたか?

およそ80家族です。地震で父親や母親などを失くした3人家族から、子供がたくさんいる8人家族まで人数はさまざまですが、およそ80家族、大体450人ほどに支援金を配りました(日本円にして大体¥10000〜¥15000の範囲で配布いただきました)。

・・・シリアでは、配布した支援金はどのような用途に使われますか?

全てが不足しているので、何にでも使われます。ここでは地震で全てを失った人々がたくさんおり、衣類や食料、毛布、暖をとるための燃料費、テントを買うための資金として使われたようです。

・・・被災地ではどのように人々が暮らしていますか?

被災地ではほとんどの住人がテントか、平屋の建物が、建物の軒下部分で生活しています。被災地の多くの建物にヒビが入っていて、住み続けるのが不安ですし、それ以上に地震が再び来ても、建物の下敷きにならないように注意しているのです。

2月6日に起きた地震は、あまりに突然のすごい地震だったので、皆、今も地震を恐れています。多くの子どもたちや女性が、いつ地震が起きるかもしれない恐怖でよく眠れず、食欲が戻らず、トラウマになっています。

私が訪ねた被災地の中で最も悲惨だったのが、クルド人が多く暮らしていたアレッポ県ジェンディレスでした。ここではかなりの建物が倒壊しました。瓦礫の山がえんえんと続く光景を目にして、ここで起きたことが信じられず、目を疑いました。たくさんの死者が出ましたが、まだ遺体の捜索が続いています。重機が少ないので、捜索はまだまだ終わらないでしょう。この街では生き残った人々も怪我人が非常に多く、手足を失くした子どもたち、若者、老人たちをたくさん目にしたことが忘れられません。

ジェンディレスやアフリンなどのアレッポ県の被災地では、みんなテント暮らしでしたが、彼らは人生で初めてのテント暮らしのようで、何から何まで苦労していました。自分たち家族はパルミラの砂漠で生まれ育ったので、幼い時からテント生活を体験していて、テントでの生活の心得もありますが、そうした経験の全くない人々が突然テントで暮らすのは大変なことです。

(3月1日、アレッポ県ジェンディレスでの捜索活動の様子。アブドュルラティーフ兄が撮影)

・・・シリアでは国際支援も入っていましたか?

はい。NGOが人々にテントや食糧を配布しているのを見ました。しかしその量はわずかで、十分な量ではありませんでした。シリア側では、地震の被害の規模に対して、支援は驚くほど少なく、全てが全く足りていません。私はSNSでトルコ側の被災地に大規模な支援が入っている様子をいつも見ていましたが、シリアでは同じではありません。被災地の人々も、そうした状況を嘆いていました。

・・・現地で今も必要とされているものは何ですか?

やはり生活を維持していくためのお金です。地震で家や仕事を失い、これからどうやって暮らしていけばいいか途方に暮れている人々がたくさんいます。地震で手足を失ったりと、重傷を負った人々でさえ、必要な医薬品を買えずにいます。また食糧、燃料などがほとんどの人々にとって常に不足しています。

・・・トルコからシリアへと移動してくるシリア人を目撃しましたか?

はい、たくさん見ました。シリア側では国際支援こそ少ないですが、物価はトルコ側に比べて安く、またここにいるのは同じシリア人なので、同胞として助け合いの精神が強く、トルコにいるよりも暮らしやすいです。ただイドリブ県では空爆の危険もあります。しかしそれ以上に、今、家族の生活を維持できるかどうかが大事です。シリア人はもう、そこまで追い込まれているのです。

・・・追加でシリアの被災地に支援金を送りたいのですが、あなたにまた届けてもらえますか?

光栄な仕事なのですが、次回は難しいかもしれません。今回、自分が暮らすラッカ(クルド勢力統治下)から、アレッポ県(トルコ軍占領下)、イドリブ県(反体制派勢力統治下)と、それぞれの支配地域をまたいで移動するのが本当に大変で、移動のための証明書を作ったり、提示したりとトラブル続きでした。ラッカからアル・バーブもイドリブもそう遠くはないのですが、支配勢力が違い、それぞれ仲がとても悪いので、移動制限が厳しく、私たちに自由はないのです。

・・・移動制限が厳しく、自由がなくともあなたがシリアで暮らし続けるのは何故ですか?

シリアはトルコに比べて生活水準が落ちますが、なんといっても自分が生まれた国で、自分たちの文化で暮らすことができます。ラッカは以前はIS(イスラム過激派組織)の首都になり、恐怖政治のもとで苦労もしましたが、今は情勢は比較的落ち着いています。ただクルド勢力支配下なので、クルド人が優遇されています。まあ、ラクダを飼って、砂漠で放牧をして静かに暮らす分には問題ありませんが。

・・・今回、危険を冒して被災地まで支援金を配布しに行ってもらい、大変助かりました。

どういたしまして。こちらこそ、シリア人のためにたくさんの支援を送ってくれた日本の人々に、どうもありがとうと言いたいです。本当にありがとうございました。

(支援金を配布した男性と周囲の様子。3月1日、アレッポ県ジェンディレスにて、アブドュルラティーフ兄が撮影)

▼上の動画の翻訳文

アブドュルラティーフ兄:こんにちは。私たちはジェンディレスにいて、アブ・ムハンマドさんと一緒です。地震の後、彼の家は倒壊してしまいました。何が起こったのか教えてもらえますか?

アブ・ムハンマド:地震が起きたとき、私たち家族は寝ていましたが、急いで家から出て外に逃げました。朝の4時15分頃のことでした。 私たちが庭に立っていると、家が入っていた建物が倒壊しました。ここに住んでいたアラブ人とクルド人の半分が亡くなってしまいました。どうか神のご慈悲がありますように。

この男性は(アブドュルラティーフ兄のことか)、地震で生き残った人々への支援を持ってきてくれ、分配するように話してくれました。私たちは大変感謝しています。神がその行為に報いてくださいますように。あなたたちのような人々がたくさんいるように祈っています。どうもありがとうございます。

<最後にひとこと>

この地震では、取材で出会ってきたシリア難民のほとんどが被災したため、彼らのためにできることをしたいと支援金集めを始めました。たくさんの方々からご賛同いただき、現在まで¥5,185,394ものご支援をいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。

さらにこの支援金の日本からの送付、現地での受け取り、配布については、日本に暮らすシリア人や、現地のシリア難民の親族や知人に活動を支えていただいています。

シリアではバーセル兄たちが、トラブルに見舞われながら異なる支配勢力間を通過し、イドリブでは空爆の危険もある中、受け渡しに協力してくれました。またトルコ側では、夫の家族12人が、家事や仕事の合間を縫い、支援金の受け取りのために銀行の窓口に並んでくれました(トルコに暮らすシリア難民は、一度に受け取れる額は1ヶ月一人当たり約¥170000までと規制があるため)。また日本に暮らすシリア人の知人が、手数料がかからない国際送金の方法を提案してくれ、その方のアラブ系銀行の口座から、一度ヨルダンの夫の兄の口座を経由して、シリアやトルコに送金するという方法が実現しました。

支援金をお送りくださった皆様、また支援金の受け取りや配布に協力してくださったたくさんのシリア人の親族・知人のご協力により、これらの支援が多くの被災地の家族のもとに届いています。引き続き、この活動を報告していきたいと思います。皆様、どうもありがとうございました。

<ここからは裏話です>

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トルコ・シリア大地震 支援金の送付状況(2023年3月7日時点)

トルコ・シリア大地震の緊急支援として、集めさせていただいた支援金を、現地在住の信頼できる親族や知人を通し、現地のシリア人ネットワークから配布させていただいています。トルコ側ではシリア人は困窮層が多いこと、またシリア側の北西部イドリブ県は反体制派遅配地域であり国際支援が入りにくい地域であるため、シリア人を対象にピンポイントで必要な支援をお届けしています。以下は現時点までの支援金の送付状況になります。

*どの地域にいくらの支援金が配布されたか、現在集計中です。追ってご報告いたします。

<送金日・金額>

2月15日 送金 ¥515,000 トルコへ

2月17日 送金 ¥507,000 シリアへ

2月21日 送金 ¥507,000 シリアへ

2月22日 送金 ¥507,000 トルコへ

2月27日 送金 ¥338,000 トルコへ

3月7日 送金 ¥510,000 トルコ・シリアへ

             〜 送金総額 ¥ 2,884,000 〜

<送付先>

●トルコ南部ガズィアンテップ県ガズィアンテップ県ガズィアンテップ・及びその近郊

・16家族87人(人数はおおよその数。倒壊家屋が多く、シリア人はテントが足りていない状況)

( 配布者 ワーセル・アブドュルラティーフ / アブドュルマリク・アサド )

●トルコ南部オスマニエ県オスマニエ

・1家族4人(貸家が被害を受け、失職し困窮している家族への支援)

( 配布者 ワーセル・アブドュルラティーフ )

●トルコ南部ハタイ県アンタキヤ

・6家族28人(人数はおおよその数。市街地では大変被害が大きく復旧の見通しが立たないため、多くの住人が街から移動。シリア人はテントが足りていない模様)

( 配布者 アブドュルラフマン・モヘイミド  )

●トルコ南部ハタイ県レイハンル

・21家族147人 (人数はおおよその数。アンタキヤからの避難家族が大変多い。シリア人はテント、薪・石炭・毛布などが足りていない)

( 配布者 アブドュルラフマン・モヘイミド / ムハンマド・サリーム )

●シリア北部アレッポ県ジェンディレス

●シリア北西部イドリブ県イドリブ

・38家族295人(人数はおおよその数。配布者はシリア在住の小松の夫の兄二人。全てが全く足りていないとの報告あり。国際支援があまり入っていない)

( 配布者 バーセル・アブドュルラティーフ  /  アブドュルラティーフ・アブドュルラティーフ  )

<支援金の分配>

支援金の分配については、シリア難民として現地在住の小松の親族や知人が、シリア人ネットワークの繋がりから、困窮した家族を優先に行っています。金額は、その家族の生活状況に応じ、現地の判断に一任しています。

現地で人々に最も必要とされているのがテントです。トルコ側では、公的な支援が受けられず、今も路上で暮らすシリア人の家族がいます。テントの購入費はひと家族あたり日本円で約35000〜40000円ほど(地域により購入可能金額に差があり)かかり、多くが困窮世帯のシリア人にとり、自力での購入は非常に難しい状態です。支援金はテントの購入費として、また暖をとるための薪・石炭や毛布、食料など、生活維持をするための支援金として使っていただいています。

〜現地への支援金送付・配布は現在も進行中です。現地からの写真やレポートも、まもなくご報告させていただきます〜

共同通信様に寄稿させていただきました

2月6日に発生したトルコ・シリア大地震から1カ月のタイミングで、共同通信様に記事を書かせていただきました。秋田魁新報様、信濃毎日新聞様など、全国の地方紙に配信され、五月雨式に掲載されたようです。

IMG 7907 共同通信様に寄稿させていただきました 共同通信様に寄稿させていただきました
(2023年3月2日 信濃毎日新聞)

<以下、記事全文です>

再び生活奪われたシリア難民

トルコ・シリア大地震から6日で1カ月。死者が5万人を超え、現地では混乱状態が続いている。

トルコには、内戦から逃れてきた360万人以上のシリア難民が暮らし、その数はシリア難民全体の7割弱に及ぶ。大量の難民を、トルコでは比較的寛容な立場で受け入れてきた。

しかしその同情論は近年、コロナ禍で一変した。トルコ政府の経済政策の失敗で物価が上昇。社会の不満がシリア難民に向かった。「シリア人はシリアに帰るべきだ」と排他的風潮が高まっていた。

こうした中で、地震は発生した。シリア人は再び地震が起きる不安におびえている。建物の倒壊を恐れて家に戻れず、路上や空き地、公園、畑などにテントを張り避難している。各国から支援物資が届けられたが、暖を取るための薪や石炭、毛布、テントなどが今も不足しているという。

シリア国境の移動規制が緩和したこともあり、シリアに移動するシリア人も多い。トルコの首都アンカラの非政府組織(NGO)で働いていたムサンナ・アルバクルも、その一人。給与が安い上、アンカラの物価が高騰し、生活は限界に達していた。地震後、家賃が2倍に上がったことが追いうちをかけた。

アンカラやメルシンなどのトルコ南部の大都市では、被災地から親族を頼って移動してくるトルコ人も多く、住居需要が高まっている。既に入居していたシリア人を家主が追い出し、新たに親族を招き入れることも増えた。そのため、地震で直接被災しなかったムサンナのようなシリア人が、法外な家賃を請求され、生活基盤を失うケースが多く報告されている。

また被災後、シリア人はトルコ人と比べ、明確な格差をつけられるようになった。特に支援物資の配給や捜索の場で顕著だ。物資を受け取れずに、避難所を利用できないこともあった。さらに不満のはけ口となり、暴力事件に巻き込まれることも増えた。こうした動きから、ムサンナはシリアへの移動を決めた。

「内戦が続くシリアでは空爆の危険もあります。しかしトルコに比べたら、シリアは私たちにとって楽園です」。ムサンナ一家は現在、国境に近いイドリブ県サルマダの親族の家に身を寄せている。シリアはトルコに比べ物価が安く、住民から差別を受けることもない。何より、誰からも虐げられないという安心感がある。

だが問題もある。シリアでは、国内が政治的に分断され、人道支援すらままならない。地震の被害を受けたシリア北西部イドリブ県でも、反体制派支配地域であるため支援が入りにくい。今回も地震発生から3日後になってようやく支援が入った。トルコ側に比べると圧倒的に支援体制が弱い。

「この地震は、シリアの空爆の恐怖を呼び起こさせました。そして一度シリアで失った生活を、もう一度奪いました」。

状況が落ち着いたら、ムサンナは再びトルコに戻るつもりでいる。生活は困難だが、子供たちのため、選択肢の多い環境に身を置きたいと考えているからだ。

被災地では、住居不足と地震への恐れから、避難生活がしばらく続くだろう。こうした状況下、圧倒的に困窮層が多かったシリア人が、さらに生活苦へと追い込まれていくことが懸念される。シリア人にとって、この地震による被災は、これまで続いてきた終わりの見えない避難生活の延長線上でしかない。

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14 編集後 12 共同通信様に寄稿させていただきました 共同通信様に寄稿させていただきました
(カンやビンなどの資源物を集めるシリア難民、カーセム・アウラージ。ハタイ県レイハンル。2017年。このあたりはレイハンルの旧市街で古い建物が多く、地震で被害を受けた)

記事について、ひとこと

記事を寄稿させていただき、大変光栄なことでした。一方で、地震から1カ月が経ち、報道も少なくなり、現地の様子が臨場感をもって伝えられなくなりつつあると感じています。

多くの国際支援が現地に届いていますが、支援の格差やシリア人への排他的風潮が見られ、地震で直接被災しなかったにもかかわらず、家を追い出され、シリアに帰ることを選択するシリア人も少なくないようです。被災地では、今も多くの人々がテントを手に入れられず、倒壊の危険のある建物にやむなく住み続けたり、路上で暮らしています。残念ながらそのほとんどがシリア人で、トルコの公的な支援から排除されているようです。ハタイ県レイハンルに暮らす知人の話では、NPOがテントを配布していたが、列に並ぼうとしたところ、トルコ人の警察や警備員に拒否され、追い払われたとのこと。アンタキヤ、レイハンル、ガジィアンテップなどの複数のシリア人の知人から同じ話を聞いております。大変残念なことです。

記事執筆にあたり話を聞いたシリア人、ムサンナ・アルバクルの話が忘れられません。「シリアでは空爆の危険もあります。しかしトルコに比べたら、シリアは私たちにとって楽園です」。空爆の危険があっても、インフラが非常に不安定でも(電気、ガスなどは1日のうち半分使えれば良いほう)、シリア人故の差別や理不尽な立退などを迫られることのないシリアは、何より安心できる土地だというのです。これまで異郷に生きようと努力してきたシリア人の、深い失望と悲しみを感じるのでした。

「この地震は、一度シリアで失った生活を、もう一度奪いました」というムサンナの言葉からは、延々と続く不安定な避難生活への、疲労感が感じられます。記事の最後に書きましたが、シリア人にとって、この地震による被災は、これまで続いてきた終わりの見えない避難生活の延長線上でしかないのです。

IMG 7531のコピー シリア・アサド政権による市民の弾圧と人道支援の実情〜ジャーナリスト、黒井文太郎氏のスピーチより〜 シリア・アサド政権による市民の弾圧と人道支援の実情〜ジャーナリスト、黒井文太郎氏のスピーチより〜

シリア・アサド政権による市民の弾圧と人道支援の実情〜ジャーナリスト、黒井文太郎氏のスピーチより〜

(こちらの記事は、シリア情勢を包括的に理解する上で大変学びのある記事のため、有料会員様以外にも公開させていただきます)

<この記事の内容>

現シリア・アサド政権とは? / シリア国内支援が難しいのは何故か / 北西部の反体制派地域をめぐる支援の実情 /  シリア問題を理解するための前提

Stand with Syria Japan様主催のイベント「シリア危機を再考察する-アサド政権の残虐性に迫る-」に参加

少し前のことですが、2月23日に、シリア支援を手がけるNPO法人「Stand with Syria Japan(SSJ ・エスエスジェー)」様主催のオンラインイベント、『緊急セミナー「シリア危機を再考察する-アサド政権の残虐性に迫る-」』に参加しました。

イベントでは、シリアのアサド政権の戦争犯罪問題を専門とするジャーナリスト、黒井文太郎氏より、アサド政権の市民に対する弾圧の歴史、人道支援の実情についてスピーチがありました。大変勉強になる内容でしたので、ご紹介させていただきます。

▼イベントの主催団体、「Stand with Syria Japan(SSJ )」について

https://standwithsyriajp.com

▼このイベントについて(2月23日に開催終了)

https://standwithsyriajp.com/2023/02/16/ssjonlineseminar01/

シリア国内及びシリア難民の支援を行うNPOは数多くありますが、こちらのSSJ(エスエスジェー)様の特徴は、アサド政権の戦争犯罪を明確に非難し、反体制側の立場から、国際平和実現のための取り組みを積極的に行なっている点です。

まずイベントの冒頭で、SSJ理事長の山田一竹氏より、以下のお話がありました。

○ シリア危機は「内戦」ではなく「人道危機」。国際平和の基盤を守るための戦いとして、シリアの民主化を応援している。

○ SSJでは、非政権支配地域アレッポに拠点を構え、シリア北西部で教育支援・人道支援をおこなっている。

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その後、黒井文太郎氏によるスピーチがありました。黒井文太郎氏は軍事・諜報などを専門とするジャーナリスト。講談社にてフライデーの編集に携わった後、ニューヨークを拠点にジャーナリストとして活動、その後モスクワやカイロを拠点に戦場カメラマンとして活動されています。元妻がシリア人で、シリアの実情に大変詳しい一人です。以下、黒井氏のスピーチの内容です。

▼黒井文太郎氏  https://ja.wikipedia.org/wiki/黒井文太郎

「アサド政権の残虐性に迫る」ジャーナリスト / 黒井文太郎氏

この12年間、シリアでは戦争犯罪が続いてきた

グラフ1

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(2011年3月〜2022年9月までの、シリアの政党と支配勢力。シリア人権監視団による)

こちらはイギリスに拠点を置くNGO「シリア人権監視団」によるもの。

この12年間のシリアでの紛争の者数は最低でも60万人ということなので、実際には60万人以上の人々が亡くなっているだろう。この60万人のうち、民間人が少なくとも23万人殺害されている。その加害者は第一がアサド政権とイランの配下のグループで、全体の87パーセントを占めている。その次が空爆を数多く行ってきたロシアで3.03パーセント。その次がISで2.21パーセント。圧倒的にアサド政権が人々を殺害している。

グラフ2

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(「2011年3月から2022年8月まで、5,161人の子供と10,159人の女性を含む計154,398人が、政権側によって逮捕され、行方不明状態である。少なくとも」)

こうした逮捕や行方不明状態は、圧倒的に政権側によって行われた。政権によるものが87.60パーセント、135,253人に及ぶ。

グラフ3

IMG 7520のコピー シリア・アサド政権による市民の弾圧と人道支援の実情〜ジャーナリスト、黒井文太郎氏のスピーチより〜 シリア・アサド政権による市民の弾圧と人道支援の実情〜ジャーナリスト、黒井文太郎氏のスピーチより〜
(少なくとも3,041人の子供と6,642人の女性を含む計111,907人が政権側によって行方不明になっている)

不法に拘束をされて今も獄中にいる人のグラフ。アサド政権によるものが、全体の85.51%と圧倒的に多い。アサド政権、その次がISと続く。

グラフ4

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捕まってから拷問を受け殺害された人の数、少なくとも14475人。加害したのはアサド政権が圧倒的に多い98.49%。その次がクルド、反体制派、ISと続く。

戦争なので、戦闘員同士は殺害しあっているが、民間人を巻き添えにする確率、また民間人を捕まえて殺害する確率は、アサド政権が圧倒的。ISも相当民間人を殺害しているが、アサド政権の比ではない。アサド政権が現地で支持されている、されていないという数字がよく出るが、現地の人々は政権の残虐さを間近で感じている。本当のことは人々は言えない。

なぜシリアへの支援が難しいのか

震災の支援を阻害する要因とは何か。6日に地震が起きてから、シリアに対し、各国から支援の申し出があった。しかしシリア国内は勢力によって政治的に分かれており、反体制派の武装勢力とアサド政権軍が睨み合っているので、その境界線は入れない。北側のトルコから国境を越えて反体制派の支配地域に入れるが、その道が今回ほとんど機能しなかった。

理由としては、トルコが被災地になり、支援のルートが止まってしまったこと。さらに政治的理由もある。シリア北西部の反体制派支配地域は、政治的に、外国からの支援が自由に入れないエリア。

紛争地帯なので国連が仕切ってはいるが、アサド政権は自分たちの国土だと主張している。そのためアサド政権からすると、そこにいる武装勢力は不法なテロリストということなので、物資の輸送を止めるようにとアサド政権側は主張する。

これに関して国連本部は、国連安保理で決める方針だが、国連安保理の一国であるロシアはアサド政権の後ろ盾として影響力を持っていて、「不法なところを自由に開くのはいかん」と圧力をかけて、制限しようとしている。国連本部でそう決まると、国連の下にあるさまざまな支援機関もそれに縛られる。結局、ロシアの意向がどうしても入ってきてしまう。こうして、シリア北西部の反体制派支配地域は、本来ならば国境を開けたくないが、人道支援なら少しだけ入れましょうというのが現実。国連の、ロシアへの忖度がある


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トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日)

(こちらの記事は、有料会員様以外にも公開しています)

地震発生から16日が経過しました。

こちらのページでは、被災地のひとつトルコ南部ハタイ県、シリア国境の街レイハンルから届いた人々の状況をご報告いたします。

集めさせていただいた支援金が、生活物資の購入などに使われています

被災したシリア難民のために支援金を集めてお送りする活動を行なっており、現在までに、¥2,036,000をトルコ南部とシリア北西部に送金しています。

被災地では依然として厳しい避難生活が続き、暖をとるための物資が不足しています。人々が最も必要としているのは現金です。お送りした支援金は、シリア人ネットワークの中で困窮者に配布いただき(ひと家族につき約¥20000〜¥30000で配布)、生活物資、食糧などの購入に使用されています。

レイハンルにて被災したシリア人の家族より、支援金で購入したものの写真を送っていただきました。

PHOTO 2023 02 19 19 30 24 トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日) トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日)
支援金でこれらのものを購入した。

以下は、詳細を説明している動画です。

「アッサラームアレイクム、アイーシャ(こんにちは、アイーシャさん)」(「アイーシャ」とは私のアラビア語名です。)。「ハッフーダー」は赤ちゃんのおむつ、「リバース」は服のこと。「バッダウィーヤ」は毛布。「ハタブ」は暖をとるための薪です。避難生活は非常に寒いため、防寒用具を中心に購入したようです。

またこちらのズィヤート一家は支援金で毛布を買い、さらに部屋を借りることができました。それまではモスクや路上での寝泊まりが続き、子供たちにとって非常に寒く厳しかったとのことでした。

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6畳二部屋ほどの貸部屋に、5家族が身を寄せ合って避難している。かなり狭いという。

ズィヤート一家の食事風景を写真で送ってもらいました。配給でもらったビスケット、水、オレンジやりんごを子供たちが食べています。食事は毎日簡単なものだけ食べており(調理器具などなし)、ラーメンや、茹でたパスタにヨーグルトと塩と油で味付けしたものなどを食べています。

避難生活の状況

ズィヤート一家のように、貸部屋を借りてそこに入った家族もいますが、被災地では多くがテントや路上などで避難を続けています。

レイハンルに暮らす夫の遠い親族、アサド一家(夫の叔母の旦那の家族)は、今も暮らしていたマンションに戻れずテント生活をしています。

IMG 7476 トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日) トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日)
アサド一家が暮らす簡易テント。なんとここに、5家族25人が避難中。テント内部は女性と子供、高齢者が寝て、入りきれない男性は外で寝ている。レイハンルの郊外の空き地にテントを貼った。
IMG 7472 トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日) トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日)
テント内部。木材とビニールシートを使い、自分たちでこのテントを建てた。レイハンルではテントの配給はなかったという。

当初はこの一つのテントで5家族25人が避難していたが、あまりに狭いので、隣にもうひとつテントを建てた。アサド一家と身を寄せ合っているのは、アンタキヤから逃れてきた親族。地震被害が大きかったアンタキヤでは、自宅があったマンションが倒壊した。

元気そうな顔を見せるアサド一家の80歳のおじいちゃん(写真左)。シリアのパルミラ出身で、長年大工として働いてきた。昨年2022年夏は、このおじいちゃんも取材させてもらった。高齢での寒い避難生活はさぞ体にこたえることだろう。早く暖かな環境で避難生活ができるようになってほしい。私はこのおじいちゃんが経験したこの10年の環境の変化に悲しくなった。暮らしを失い、故郷を失い、トルコでも災害で生活を失いつつある。

アサド一家にはこれから支援金を送付するところですが、支援金を受け取れたら、暖をとるための薪と石炭を買いたいとのこと。また、より頑丈なテントを数張、購入したいとのことです。自宅のあったマンションは倒壊の危険性があり戻れず、仕事もなくなり(写真右のアサド一家のワリードさんは会計士でしたが、この地震で失職しました)、しばらくこのテント生活が続くと一家は考えているようです。

e230222 1のコピー トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日) トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日)
e230222 2のコピー トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日) トルコ・シリア大地震 支援金の送金状況・被災した人々の状況(2023年2月22日)
2022年夏の取材にて。アサド一家のおじいちゃん。小松撮影。

以上、現在の被災者の状況でした。

今後も現地に支援をお届けしつつ、現地と連絡を取り合ってご報告していきたいと思います。ここまで読んでいただきありがとうございました。

(2023年2月22日)

DSC 3913 2 被災したシリア難民への支援金集め、葛藤と判断 被災したシリア難民への支援金集め、葛藤と判断

被災したシリア難民への支援金集め、葛藤と判断

2月6日に発生したトルコ・シリア大地震。被災したシリア難民への支援金を集めさせていただいてから、連日大変多くのご支援をいただいています。どうもありがとうございます。しかし始めるにあたり、葛藤がありました。

こちらでは、その葛藤や決断についてお話したいと思います。

個人を窓口に支援金を集めることへの迷い

地震の発生後から被害の甚大さが伝えられるようになり、トルコ大使館をはじめ、すでに多くのNGOなどが被災地への支援を始めました。被災地には親族や多くの知人がおり、彼らもまた被災したのですが、支援活動を私がやる意味があるのか、個人を窓口に支援金を集めるのは、責任の問題などで批判されないか。そもそも私はフォトグラファーであって、支援活動家ではないなどとも考えました。

しかし私はこれまで、戦争から逃れて異郷で生活を立て直そうとするシリア難民を取材してきました。そして彼らから、人間が生きることの強さや難しさ、悲しみや喜びなどを見せていただき、多くを教えていただきました。彼らがそこにいたからこそ多くを学ことができ、また支えられてきました。シリア難民は今や、私にとっては取材対象者というよりも私の「家族」であり(実際、シリア難民である夫の家族が現地に住んでいるのですが)、共に同じ時代を生きている友人たちです。

一度シリアで全てを失ってきたその彼らが、再びここで生活を失い、助けを求めている。これは、写真活動よりも大切なことがあると思いました。写真家であるより、人間として、友人としてやるべきことがあると。

やらないで悩むより、「やって悩もう」

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AERAdot.(アエラドット)様にインタビューいただきました(2月19日配信記事)

2月6日に発生したトルコ・シリア地震の現地の状況について、インタビューいただきました。大きな被害を受けたトルコ南部ハタイ県、オスマニエ県などを長年取材し、現地に夫の親族や知人がシリア難民として暮らしていることからお話をいただきました。

https://dot.asahi.com/dot/2023021700055.html?page=1

現地で浮き上がっているのは、トルコ人とシリア人への支援の格差のようです。もともと社会的弱者だったシリア人たちが、さらに厳しい生活に追い込まれていくことが懸念されます。

(2023年2月20日)

NHKラジオに出演いたしました(2月14日18時出演)

2月6日に発生したトルコ・シリア地震について、現地の知人から聞いた状況などを交えてお話させていただきました。生放送でモゴモゴしてしまいました。(ご注意:聞き逃し配信は2月21日20:00まで)

トルコ・シリア大地震 シリア難民の状況は【Nらじ】ニュースアップ

<番組のご視聴はこちらより>

https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=4774_04_3843370&fbclid=IwAR2k4Xts-6BXjK_GYGa11CGHSxXvPK4tqRyLxwciI2dXEkIY_Pn5ktoL7I8

皆様から届いた地震の被災者への生活支援金を、現地にお届けしています(2023年2月20日)

シリア・トルコ両国にまたがる大地震の発生から2週間ほどが経ちましたが、現地ではまだ混乱状態が続き、被災者の多くが厳しい寒さの中、不安定な避難生活を送っています。

さて、被災したシリア難民への生活支援金を募らせていただいてから、大変多くの方々よりご支援をいただきました。19日までにいただいたご支援の総額は、¥2911521です。

こちらを、地震被災者の中でも特に社会的弱者であるトルコ在住のシリア難民層や、また国際支援が届きにくいシリア北西部イドリブ県の被災者へお送りすべく、現地の親族・知人と連絡を取り合いながら動いております。

まずは第一弾として¥1022000を送金し、すでに現地で配布されております。

送金方法は、アラブ系銀行を使った送付を検討しましたが、時間を要すること、手続きが煩雑であることが分かり、送金がスムーズで確実なウェスタン・ユニオンで送金しました。

*当初、地震被害の大きいアンタキヤやレイハンルに直接送金を試みましたが、現地のウェスタン・ユニオン代理店が閉鎖しているため、オスマニエの親族に受け取り手になってもらいました。トルコ国内、またトルコからシリア国内への送金はスムーズに行うことができます。

*送金の受け取りについて、シリア難民の場合、ウェスタン・ユニオンでは一ヶ月に一人約16万円の上限額が決められています。そのため、まずは一人当たり16万円ずつ、以下の6人の親族宛に送付し、以下の金額の受け取りをお願いしました。

*現在、トルコ南部の金融機関が現金の欠乏状態にあるようで、銀行やATMには人々が殺到しているとのこと。送金したお金の受け取りに時間がかかったようです。

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(送付額・受取手・受取額)

支援金第一弾 送付額 ¥1022000(うち送金手数料¥30000)

ワーセル19181TL

ワーセルの妻23150TL

ガーセム23811TL

ムハンマド21564TL

ゲッスン21564TL

ローバ21564TL

受取額 合計 130834TL

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上の130834TLをさらに以下の地域に送金、現地で分配し、テントや路上で避難生活を送るシリア人被災者の家族に送金しているところです。またこうした送付や受け渡しには、信頼できる親族・知人にそれぞれお願いしています。

<トルコ> 送付額66142TL(送金手数料を引いた¥500000分)

○ガズィアンテップ県ガズィアンテップ市

○ハタイ県アンタキヤ、レイハンル

○メルスィン

<シリア> 送付額64692TL(送金手数料を引いた¥492000分)

○シリア北西部イドリブ県

○シリア北部アレッポ県アフリン市ジェンデレス 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

シリアへの送金については、シリア北部のラッカ、アレッポ県アル・バーブに住んでいる夫の二人の兄に委託します。

兄たちがシリアのアル・バーブで支援金を受け取り、アレッポ県アフリン市ジェンデレス、さらにイドリブ県まで、直接支援金を持って受け渡しに向かうことになりました。

反体制派支配地域であるシリア北西部イドリブ県は、政治的理由で特に国際支援が入りにくい地域ですが、シリア在住のシリア人だからこそ、現地のネットワークの中で支援金を運ぶことが可能です。

まさに日本、トルコ、シリア間で、親族のネットワークをフル活用した支援金送付の道ができております。

多くの皆様からのご支援に心より感謝しております。いただいた支援は現地に順次お届けしていますのでご安心ください。また後ほど、どこにどれだけ送金し、どういった支援に使われたなどの報告をさせていただきます。

何か質問などございましたら遠慮なくお問合せください。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。皆様、どうもありがとうございます。

小松由佳

(2023年2月20日)

【地震で被災したシリア難民への支援をたくさんいただいております】【トルコ大地震、現地からのレポート(2023年2月13日)】

皆様、こんにちは。このところ、トルコ大地震の被害のことで頭がいっぱいです。現地では、地震後一週間が経過しても、大変厳しい状況にあるようです。

先日は、地震で被災したシリア難民のコミュニティへ、支援金を集めさせていただきたいと呼びかけたところ、すぐにたくさんの方々より反応がありました。

なんと驚くことに、すでに100万円近い支援金が手元に届いております。皆様の温かいお気持ちに、感謝しかございません。どうもありがとうございます。

昨日早速、その一部を、地震被害の大きかったトルコ南部のレイハンル、アンタキヤに送金しました(後ほど、どこにいついくら送金したかの詳細を、ご報告いたします)。

被災地域はシリア難民が多く暮らす地域であり、かつ彼らのほとんどが避難してから10年未満で、トルコ社会でも貧困層として知られています。

トルコ人もシリア人も同様に被災はしていますが、圧倒的多数が正式な国籍を持っていないこともあり、人道支援はどうしてもトルコ人優先となり、シリア人は公的避難所を利用できなかったり、食料や薪(暖をとる)などの配布、病院での治療、さらには行方不明者の捜索現場においても、トルコ人が優先されている現状が見受けられます。

私は個人的に活動しているため、NGOなどが手がける大きな支援ではありませんが、直接繋がっている顔の見える関係性のなかで、助けを必要としている社会的弱者であるシリア人へ、支援をお届けしたいと思います。

また、国際支援が届きにくいと言われている被災地、シリア北西部イドリブ県の反体制派地域にも親族や知人がおりますので、そのネットワークから、今後そちらにも支援をお送りできたらと思います。

今回の被災地域は、2015年以降まさにシリア難民の取材のため足繁く通ってきた地域です。これまで現地に子供を連れて取材に行き、多くの人々に支えられてきました。今度は、被災し苦しい状況にある人々に、少しでもお気持ちを届けるお手伝いができたらと思っています。

被災したシリア難民のご支援にご協力いただきました皆様、本当にどうもありがとうございます。いただいた支援は間違いなく現地にお送りすることをお約束し、支援が人々の生活維持、生活再建に役立てられていくことを祈るばかりです。

▼【トルコ地震で被災したシリア難民の家族・知人に、支援金を集めさせていただきたいと思います】

https://yukakomatsu.jp/category/news/

<お問合せ・ご不明点について>小松由佳(nameless.star.yuka@gmail.com)

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また支援金を集めさせていただく上で、現地の状況について把握を心がけています。

今回、現地の支援がどこまで行き届いているのか、現地でどのような問題が起きて、どのようなことに悩んでいるのかなどを、トルコ南部ハタイ県在住のシリア難民に取材しました。ご覧ください。

(以下は、「小松由佳有料会員コンテンツ」に投稿した記事ですが、多くの方に関心を持っていただきたく一般公開させていただきました)

▼【トルコ大地震、現地からのレポート(2023年2月13日)】

https://yukakomatsu.jp/category/paid-photo-essay/

以上、最後まで読んでいただきありがとうございました。    小松由佳(2023年2月13日)

トルコ大地震、現地からのレポート(2023年2月13日)

(こちらの記事は、有料コンテンツの内容ですが、多くの方に関心を持っていただきたい内容のため、一般公開させていただいております)

6日にトルコ南部で発生した大地震から一週間が経過しました。犠牲者の数は日増しに増えており、最終的に犠牲者の数は五万人近くまでのぼるのではという、国連事務次長の見解も発表されました。

シリアとトルコ、両国にまたがって起きたこの地震では、両国に甚大な被害が報告されています。またトルコ南部では、戦争から逃れてきたシリア難民がかなり被災しています。

地震の被災地域は、まさに私が2015年以降取材を重ねてきた地域であり、親族や知人も被災しているため、現地の状況と合わせてシリア難民の現状をご報告していきたいと思います。

地震の被害が大きかったトルコ南部ハタイ県、県都のアンタキヤやシリア国境のレイハンルでは、多くのシリア難民が避難生活を続けています。

以下、複数の知人に12日にインタビューをした内容となります。

e230213 3のコピー 1 トルコ大地震、現地からのレポート(2023年2月13日) トルコ大地震、現地からのレポート(2023年2月13日)
今回の地震で大きな被害があったトルコ南部オスマニエ県オスマニエ市。建物のほとんどがコンクリートブロック製だった。かつて、シルクロードの中継地として栄えた歴史ある街である。

<地震後の支援、生活についてインタビュー(トルコ南部ハタイ県)>

—–現在の生活状況はどうですか?

レイハンルやアンタキヤでは、新築の建物を除き、かなりの建物に大きな亀裂が入ったり、壁や天井が壊れており、そのまま暮らし続けることができない状態です。多くが、倒壊の危険のない親族や知人の家に身を寄せあったり、道路脇の空き地や広場、公園でテントで寝たり、車の荷台で寝ています。とにかく寒くて辛いです。

—–支援は?足りていないものは?

支援機関からの食糧と水の配給はあるが、暖を取るための薪や炭、毛布がとにかく足りません。非常に寒く、寒さから命を落とす人(地震で怪我をしていた)、流産する妊婦も周囲で出ています。

また、トルコ系の支援機関の場合、食糧や水の配給はトルコ人が優先され、シリア人は後回しにされたりもらえないこともあってトラブルになっています。海外の支援機関ではそうした区別はなく、トルコ人もシリア人も平等に配給されています。

一番必要なのは寒さを凌ぐための毛布や、火を焚くための薪や炭です。薪はトルコ人には無料で配布されるがシリア人には配布されず、シリア人は自分で買わなければいけません。しかもすごく高価なのに加え、一回に20キロほどしか売ってもらえず、みんな寒さで震えています。

薪は地震の前は1キロ3トルコリラ(2023年2月13日現在、約24円)でしたが、今は1キロ3ドルほどに値上がりました。トルコ系の支援機関が大量に買い占めて、トルコ人にだけ配布しているのも目にしています。

炭は一袋25キロで地震前は140トルコリラ(約1120円)、今は約300トルコリラ(約2400円)です。

*薪と炭は、通常同時に使う。価格はレイハンル・アンタキヤでの価格。ちなみに地震前のこの地域のトルコ人の平均月収は日本円で約45000円。シリア人の平均月収は約25000〜30000円だった。

——緊急時の支援の場でも、トルコ人とシリア人では、支援に区別があるという話に驚きました。

ここ(被災地)では公然のことです。地震前からシリア人は差別されてきました。地震の後も、病院ではトルコ人の患者が優先されますし、食糧や水、全てに至るまで、シリア人は後回しになります。

病院では、大怪我をしたトルコ人はヘリコプターで別の病院に搬送されたりしますが、それがシリア人の場合、されません。またシリア人の多くは、重症であるにもかかわらず入院が認められず、暖をたけない状態の家に返され、寒さのためにかなり衰弱しています。

アンタキヤでは、被災者のための避難所がつくられましたが、トルコ人のみが利用でき、シリア人は利用できません。公的なサービスも、明確にトルコ人とシリア人を区別しています。

まあ、ここはトルコ人の国なのです。しかし、地震前からシリア人に向けられていた区別が、この災害によってより強くなったと感じます。多くのシリア人はそれについて怒りを感じていますが、どうしようもできません。

e230213 2のコピー2 トルコ大地震、現地からのレポート(2023年2月13日) トルコ大地震、現地からのレポート(2023年2月13日)
トルコ南部オスマニエ県オスマニエ。夫の親族が暮らしていた家から撮影した一枚。親族の家も周辺の家も、かなり建物が崩れたと聞いている。

——公的な支援を受けられにくいということでしたが、シリア人同士で助け合いはありますか?

はい、シリア人同士で、安全な家があれば親族や知人を受け入れたり、食糧や衣類や毛布などを分けあったりと、助け合っています。我々は助け合うことしかできませんから。アンタキヤにはシリア人の行方不明者がまだたくさんおり、こうした行方不明になっているシリア人の友人の捜索も手伝っています。遺体が見つかれば、現実に打ちひしがれている家族に代わり、埋葬の手伝いも進んでします。皆、自分ができることで助けを必要としている人の役に立とうとしています。

——困っていることはありますか?

トルコ人とトラブルになることが増えてきました。配給でも、トルコ系の支援機関だとシリア人だけもらえなかり、避難場所もシリア人だけ利用できなかったりで、こうした区別からトラブルが起きています。

また私たちも(小松のシリア難民の友人)、アンタキヤで行方不明になっている友人の家族の捜索に行き、建物が倒壊した現場で、重機で掘り起こす作業を依頼しました。しかし埋まっているのがシリア人だと分かると後回しになり、トルコ人の犠牲者の捜索が優先されました。それについて抗議したところ、私の兄はトルコ人の集団に殴られ、鼻の骨を骨折しました。犠牲者がシリア人だと、重機での捜索も後回しになります。ひどいことです。

——今後の生活についてどう考えていますか?

どうすればいいか全く分かりません。この先のことを考える前に、今を乗り切ることで頭がいっぱいで、まだ先のことを落ち着いて考える余裕がありません。住んでいた家は壊れてしまったので家を探さなければいけませんが、十分なお金もなく、仕事もなくなりました。しかもシリア人は移動が制限されているので(トルコではシリア人の大規模な移動を規制するため、難民として登録された県から出るために許可が必要で、自由な移動ができない)、県外に暮らす親族のもとにも行けません。

——コロナ後、難民としての保護を求めてヨーロッパに移動をするシリア人が目立ちました。この災害により、ヨーロッパ移動を希望するシリア人は増えるでしょうか?それともトルコでの生活再建を考えるでしょうか?

正直なところ、本当に望んでトルコに暮らし続けたいシリア人はほとんどいません。地震前からかなりのシリア人がヨーロッパに移動することを希望していました。でもそれは高額なので、現実的にできないというだけです。

実際、これからヨーロッパへ移動するシリア人はもっと増えると思います。お金に余裕がないシリア人は、トルコで生活を続けるしかないでしょう。

—–地震で被災した人々にとり、シリアに帰るという選択肢はありますか?

帰る人も増えると思います。シリアに帰るということは、生活レベル(シリアでは電気、ガスの供給が不安定。教育環境も整っておらず)や将来の可能性(一度シリアに帰ると、トルコに出てくるのは非常に困難になる)をかなり落とさねばならず、ひどい暮らしを続けるということです。だからトルコに逃れた多くの人は、トルコでの生活再建を努力してきました。しかしトルコは物価が非常に高く、暮らしていくのが大変です。さらに地震で家もなくし、仕事もなくなり、トルコ政府にも我々はトルコ人のように守られません。

シリアに帰っても、トルコにいても、生活が厳しいのは同じです。どちらがマシか、という感じです。

それでもシリアに帰ってしまったら、家族でトルコに戻ることはほぼできなくなるので、子供たちの将来のために、私自身はやはりトルコに残って、厳しい生活を続けることを選びます。

——今、どのような支援を必要としていますか?

やはり、寒さが大きな問題です。毛布や薪、炭を買うための支援を最も必要としています。寒くて子供たちが病気になっています。病気になっても、病院は怪我人で溢れていてみてもらえず、薬も買うことができません。シリア人は地震前は、難民のIDがあれば薬代や医療費は無料でしたが、地震の後は薬代も医療費も支払いが必要となりました。

実際、かなりの人が地震で崩れてきた建物によって怪我をしていて、薬や医療品を買わなければいけません。しかしそれらはとても高価で、買うことができずにいます。地震で命が助かった人も、寒さや医療ケアが受けられないことで衰弱しています。本当に、ひどいことが起きています。

(2023年2月12日 インタビュー:

ムハンマド・サリーム(レイハンル))

アブドュルラフマン・メイヤッド(アンタキヤ)

ジャーラッラー・ジャーラッラー(レイハンル)

記録:小松由佳)

e230213 1のコピー トルコ大地震、現地からのレポート(2023年2月13日) トルコ大地震、現地からのレポート(2023年2月13日)
オスマニエ市で目にしたモニュメント。

〜最後に、懸念していること〜

シリア難民のインタビューから、現地ではトルコ人が支援現場において優遇され、シリア人は区別を受けていることを聞きました。皆同じく被災しているので、もちろん同じく支援を行うべきではありますが、現地でのやり方、考え方もあるのだと思います。物資が必ずしも十分ではないなか、まずは自国民を優先して守る、というトルコ側の立場も、ある意味理解できるところです。しかし行政がそれを主導してしまうのは、やはり残念でなりません。また、被災後の緊急事態において、こうしたシリア人への区別が露骨に見られることで、ますます両者の対立感情が拡大していくのではないか、それが結果的にシリア人のトルコでの生活再建をよりしにくくしていくのではないかと気になりました。人間が共存するということの、きれいごとだけではない難しさを感じています。

小松由佳