(*注意 こちらの記事には、やや過激な内容が含まれています)
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古来から交通の要衝として繁栄した、シリア中部の大都市ホムス。そのハールディーエ地区に、2024年12月19日、二人の男性を訪ねた。周囲には、崩れ落ちた高層住宅が延々と続き、この瓦礫の街に、今も人が暮らしているとは俄かに信じがたい光景だ。
半分倒壊した建物の一室から現れたのは、バラカート・サーレフ(42歳)とマジェッド・シャーメア(43歳)だ。幼馴染として今も近所に暮らしているこの二人は、シリアが内戦状態へと突入した2011年以降、シリア人の誰もが恐れ慄くような経験をした。
実は彼らは、多くの政治犯が投獄され、その75%が生きては帰れないと言われた〝サイドナヤ刑務所〟の囚人だった。二人は2014年6月から2019年11月にかけて、5年半もの間投獄され、奇跡的に出獄している。
一体、サイドナヤの内側では何が起きていたのだろうか。サイドナヤから生きて帰った者がいると友人に聞いた私は、ホムスに暮らす彼らを訪ねてこの街にやってきた。
(バラカートとマジェッドが暮らすホムスのハールディーエ地区。多くの建物が空爆によって倒壊し、瓦礫と化した)
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2011年3月以降、シリアでも民主化を謳った運動が始まり、その波はホムスでも拡大した。
アサド政権下、政治への不満を抱えてきたバラカートとマジェッドは、その動きに乗るように、2011年4月に〝ごく自然に〟民主化運動に参加したという。
「最初は、本当に普通のデモ行進でした。誰も銃を持っていなかったし(シリアでは銃の携帯は認められている)、皆ただ、シリアの政治をなんとか変えたいと熱意を持っていたんです」。マジェッドは言う。
2011年4月、二人は多くの若者たちと共に、ホムスで行われた大規模なデモ行進に加わった。そしてシリアに政治的な自由がもたらされることや、それにはアサド政権の打倒が必要だということを口にしたという。
多くの若者たちと一緒に、大勢で声を上げたため、二人は自分たちが警察に指名手配を受けるとは、その時点では考えていなかった。それどころか、秘密警察と警察は、シリアの人々を守ってくれるとさえ思っていたそうだ。しかし二人はまもなく、政権に対する〝政治犯〟として指名手配を受ける。そして逃亡生活の末に、2014年6月、二人は同時に警察に逮捕された。
以下は、マジェッドとバラカートから聞き取った内容である。
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——どのように民主化運動に参加したのですか?
▽マジェッド
私が民主化運動に参加し始めたのは、2011年4月のことでした。それから2年半くらい、私は運動に参加していましたが、ホムスの周囲に政府軍の兵士が大勢やってきて街は包囲され、政府軍からの銃撃によって、運動に参加していたたくさんの人が亡くなりました。
ホムスのこのハールディーエ地区は、民主化運動が盛んだったことから、政府軍からかなり空爆も受けました。見てください、街はボロボロです。特に2011年12月から2014年5月までの空爆は酷かったです。
政権に反抗したらどうなるのか、空爆によって街ごと破壊することで、政府は人々に理解させようとしていたんです。お前たちは政府の支配下でしか、生きられないぞ、と。
さらに同じ理由で(人々を罰し、理解させるため)ホムスの周囲は政府軍に包囲され、食糧の供給も止められました。何年も十分な食糧がなく、人々は飢えて、家畜用の干草まで食べました。
この時は、ホムスで民衆を守るために戦っていた反体制派と政府側が合議して、多くのホムスの住民が(政府軍による包囲を受けていない)イドリブへと避難したんです。
(政府軍による空爆で瓦礫と化したホムスのハールディーエ地区。多くの家屋が破壊されたまま、放置されている)
——–あなたたちはどのように逮捕され、どのようにサイドナヤに送られましたか?
▽マジェッド
バラカートと一緒に逃亡生活を送っていましたが、2014年6月に秘密警察に逮捕されてしまいました。その際、「お前はテロリストだから逮捕する」と言われました。すぐダマスカスに連れていかれ、ダマスカスの「48刑務所」に数日間入れられた後に、サイドナヤ刑務所に連れていかれました。
刑務所の看守は、「お前たちはテロリストだ、テロリストはすぐサイドナヤ行きだ」と話していました。私たちがサイドナヤに入ったのは2014年6月のことです。
——-サイドナヤ刑務所は、75%の囚人が帰ることができないと言われています。そこに移された時、どのような思いでしたか?
◽︎バラカート
絶対に、自分はここで死ぬだろうと思いました。
▽マジェッド
私もです。生きて帰れるとは思いませんでした。
新しく入ってきた囚人たちは、最初の1ヵ月〜2ヵ月ほどは、全員、「下の雑居房」(半地下になっており、窓がなく太陽の光が入らない狭い雑居房)に入れられました。
(あなたたちが)あそこに行ったなら見たでしょう?すごく汚いし、ネズミも多いし、すごく寒いです。そこで1〜2ヶ月して、もし死ななければ、上の、比較的ましな雑居房に移動されるんです。
—–私もサイドナヤ刑務所に行き、あの半地下の暗い雑居房を見ました。あそこで2ヵ月近くも勾留されていたなんて、信じられません。
◽︎バラカート
壁に血痕がたくさんついているのを見ませんでしたか?
—–血痕がありましたか?すごく暗かったこともあって、見つけられませんでした。何の血痕ですか?
▽マジェッド
頭が狂いそうになった囚人たちが、壁に頭を打ちつける際に出る血痕です。あの狭い空間に(約3m×3m)、10〜20人ほどが押し込められていたんです。しかも食事はほとんど出ません。看守には定期的に足で蹴られたり殴られました。まずそこで、狂う人、餓死する人、衰弱死する人が出て、生き残れるかのふるいにかけられました。
そこで私たちは死ななかったので、2ヵ月ほどして2階の雑居房(約20畳ほどの細長い空間)に移されました。2階の雑居房は、比較的広く、「下の雑居房」よりもましです。しかしここでも太陽の光を直接見ることはできず、酷い拷問が毎日行われました。
ここでは毎日、朝と夕方に、看守たちにスティックや金具、ゴムなどでひどく殴られ、足で蹴られました。全員例外なく、こうした暴行を受けます。
看守たちは全員、アラウィ(シリアの中でも少数派のイスラム教徒で、アサド大統領と同じマイノリティであることから、政治的に大変優遇されていた)の軍人です。彼らの履いている底の厚い軍靴で蹴られると、ひどく痛みました。
私たちは目の前で沢山の囚人が衰弱し、死んでいくのを目撃しました。私たちが2階の雑居房に移されたとき、そこには最初、90人ほどが入れられましたが、毎日どんどん囚人が死んでいき、20〜30人ほどになっていきました。
——看守たちはどんな人々でしたか?
▽マジェッド
全員がアラウィ派の軍人で、若者も年寄りもいました。彼らは囚人を拷問するのを楽しんでいるようで、全く慈悲がありませんでした。
◽︎バラカート
刑務所内では、イスラムの礼拝も許されていませんでした。看守たちは(アラウィ派は礼拝をしないことでも知られる)礼拝する者を見たら、極めて残忍な拷問をしました。だから私は思ったんです。逮捕されてここに勾留されているのは、政治的理由だけでなく、私たちがイスラム教のスンナ派だから、彼らはそれを嫌っていて捕まえたのだと。実際、アラウィ派は誰も逮捕されたり、刑務所に入りません。個人的な見解ですが、ここに入れられたのは政治的理由だけでなく、宗教的な理由もあると思っています。
—-どのような拷問を受けましたか?
▽マジェッド
長い鉄の棒で殴られたり、軍靴で胸や頭や腹部を蹴られました。電気ショックもありました。しかし一番は、とにかく硬いものでひたすら殴られる、ということです。チェーンで腕を繋がれて、何時間も天井から吊るされることもありました。
こうした拷問の際は、部屋から出されて床を四つん這いで這わされ、上を見ないように言われて床を向いていなければなりません。その間に、看守たちに集団で暴行を受けました。
私たち囚人たちはみんな、暴行を受けながら、痛みと恐怖で大声で叫びました。その声はすごく大きく、刑務所内に響き渡っていました。自分たちがあげる叫び声、ほかの囚人たちがあげる叫び声、今もトラウマになって、この時の囚人たちの叫び声がフラッシュバックして私を苦しめています。忘れられません。
殴られて死んだ囚人も数えきれないほど目にしました。そして看守たちは、死んだ囚人の遺体をすぐには片付けず、1週間くらいそのままにするんです。そうして、私たちを恐れさせるんです。私たちは、だんだんそのような状況に慣れていきました。
——なぜ彼らは、そのような拷問を行ったと思いますか?
▽マジェッド
(彼らによれば)私がテロリストだから、です。
——サイドナヤでは、女性の囚人への、看守による性暴力が行われていたことが報告されています。そのようなことは見聞きしましたか?
▽マジェッド
私たち男性には、性暴力による拷問はありませんでした。ただ、女性の囚人たちが性暴力を受けていることは、男性の囚人はみんな知っていました。
——そこでの食事はどのようなものでしたか?
︎◽︎バラカート
食事は1日1回だけ、一枚のホブス(シリアでよく食べられる直径15センチほどの薄型のパン)を三人で分けます。大体それだけです。ブルゴル(麦の粒を炊いたもの)が出たときには、看守が、お皿をわざと床に投げ、こぼれたブルゴルを足で踏みつけてから「食え」と言ったこともありました。人間扱いされていませんでした。
3〜4日、水を飲めないこともありました。その時は、喉が乾いて仕方がなく、自分の尿を飲みました。しかし尿も出なくなると、ひもじくて、多くの囚人が看守たちに水をくださいと懇願しました。こうした人々は、その場で看守に殴られて、1分もたたないうちに撲殺されてしまいました。
サイドナヤでは、誰もが餓死寸前です。190センチほど身長がある私も、90キロほどあった体重が、50キロ近くまで落ちました。
—–囚人は病気になった際などは、医療が受けられるのですか?
▽マジェッド
サイドナヤの内側に軍の病院があります。ドクターもみんな軍人です。しかし病気になる前に死ぬか、病気になってもまともに見てはもらえません。あなたに話しているように、看守たちは、囚人を残忍な拷問で殺害することを楽しんでいたのですから。
——サイドナヤで亡くなった囚人と、生き残った囚人を分けたのは、何だと思いますか?
▽マジェッド
第一に、殴られても平気な強い体です。気持ちがどんなに強くても、物理的に殴られ続ければ、体が先に弱っていって死にます。だから、まず、拷問に耐えられる頑丈な体であることです。それから殴られても、すぐ立ち直ることのできる強い心が必要です。
—–どんな人囚人たちが早く亡くなる傾向にありましたか?
▽マジェッド
痩せていたり、骨格が細いと、殴られ続けるうちにすぐ死んでしまいます。サイドナヤでは、殴られて死んだ人をたくさん見ましたが、そのほとんどは、頭を続けざまに殴られたことで、その場ですぐ亡くなっていきました。
—–人は、殴られてすぐ死ぬものなのですか?すみません、私は日本から来ており、殴られて人がすぐ死ぬ、というイメージが湧かないのです。
◽︎バラカート
頭や胸など、弱い部分をひたすら殴られ続けると、人は簡単に死にますよ。
—–こうした酷い拷問の間、あなたたちはどのように正気を保ちましたか?
▽マジェッド
サイドナヤでは、たくさんの人がだんだん狂っていくのを見ました。私が見てきたなかでは、体が弱い人と、たくさん考えすぎる人は、ほぼ狂います。人よりも恐怖心が強い人も、ほぼ狂います。
だって、すごく狭いところに90人も入れられて、食事もなく、毎日ひどく殴られ、死んでいく仲間を見せつけられるんですから。
さっき話しましたが、サイドナヤの雑居房の壁には、血痕がたくさんついています。みんな、だんだん狂っていって自分の頭を壁にドンドンと打ちつけるからです。特に「下の雑居房」には今も血痕がたくさんついているはずです。2階の雑居房は、少ないかもしれません。囚人たちが、その状況に慣れてきて、だんだん頭を打ちつけなくなっていくからです。
同じ雑居房で、ホムスでの古くからの友人に再会したのですが、彼はだんだん狂っていき、自分の名前も過去も忘れて、いつも私のことを殴ってきました。彼に名前や過去を思い出させようとしましたが、彼はもう、完全に全てが分からなくなっており、自分の囚人番号しか分からないんです。そして結局、狂い始めてからすぐに、衰弱して死んでしまいました。
私の経験では、狂い始めた囚人は、まもなく死にます。衰弱したり、拷問によってと死因はさまざまですが、とにかくすぐ死にます。同じ部屋の囚人で狂ってきた人がいると、この人はまもなく死ぬだろうとみんなが思っていました。そのような酷い状況に、私たちはすっかり慣れてしまっていたんです。そして自分も、ここで同じように死ぬだろうと思っていました。
—–私は以前、『夜と霧』という本を読みました。そこには、ドイツのナチス政権下で、ユダヤ人が強制収容所で経験した悲惨な現実が描かれているのですが、どんなに悲惨な現実であっても、ささやかな生の楽しみを見出そうとした人が、最後まで生き残れたというようなことが書いてありました。あなたたちの場合、サイドナヤではどのような生への希望や、残酷な現実のなかでの生の発見があったのでしょうか?
▽マジェッド
そんなものは何もありません。ヒトラーは、アサド大統領よりも寛大だったと思います。だって収容所のユダヤ人たちは、紙や鉛筆を所持でき、音楽を聴くこともできたんでしょう?私たちは絶対にそんなことは許されません。紙も鉛筆も、何も所持を許されません。ただ自分の体と、わずかな衣類だけです。文化的なものには、何も触れることが出来なかったんです。
私たちは、毎日の拷問と、仲間たちの死を見せつけられて、早く死にたいと思っていました。生きるのが長ければ長いほど、より大きな苦痛が伴うからです。だから、狂って死んだ仲間を見て、羨ましく思ったこともありました。
——希望は何もなかった?
◽︎バラカート
全くありませんでした。
—–その後あなたたちは、突如として解放されることになります。その経緯を教えてください。どうしてあなたたちは、サイドナヤから出られたと思いますか?
▽マジェッド
その日のことは忘れられません。2019年11月に、突然、看守から雑居房から出ろと言われ、それ以上殴られることがなくなりました。解放されたのです。解放されたのは自分がいた雑居房の全員ではありません。
なぜ私が選ばれたのか。おそらくサイドナヤに5年半もいて、なかなか死ななかったからだと思います。今にも死にそうな衰弱している囚人は選ばれず、体の強い、見るからに見た目の良さそうな(囚人への酷い扱いや、酷い拷問の痕跡などが分かりづらい)囚人が、このとき選ばれました。
後で聞いたことですが、私たちは、シリアの刑務所で行われている非人道的な囚人への扱いに対する、国際機関の勧告によって、例外的に解放されたのです。その時700人が解放されました。私はその一人なのです。今も信じられません。
まず第一に、「神様のおかげ」としか言いようがありません。私の家族が、全ての友人たちが、私たちのために祈ってくれたおかげです。
サイドナヤでは、囚人たちに語り継がれている言葉があります。「幸運な者だけが、生きてここを出ることができる」という言葉です。私たちはまさに、幸運そのものでした。
しかし私はサイドナヤで、自分も死ぬだろうとずっと思っていたので、この事態にはまず戸惑いました。解放されるなんて思っていなかったんです。だから最初は、どうしたらいいか分かりませんでした。何しろ5年半もサイドナヤで拘束されていたんです。自由、という感覚が分からなくなっていました。
—–刑務所の外に出た後のことを教えてください。
◽︎バラカート・▽マジェッド
まず、自分の家に帰ることをしました。私たちがサイドナヤから出獄した囚人だと知って、たくさんの人々がホムスまで帰るのを手伝ってくれました。そして、このハールディーエ地区の自分の家に帰ったら、そこに家族も親戚もみんないなくなっていました。ひどい空爆に晒され、ここで生活出来ず、みんなあちこちに避難していたんです。それから少しずつ、家族や親族がどこにいるかが分かり、再会することが出来ました。
私はサイドナヤでの4年間で人間的な感情を失っていたので、サイドナヤから出られた喜びや、家族に会えて嬉しいという感情は一気には訪れず、段々とそれが戻ってきました。
▽マジェッド
私はサイドナヤで経験した食事のひもじさを埋めるように、ホムスに戻ってからたくさん食べてしまったのですが、それによって著しく体調を崩しました。サイドナヤではずっと飢餓状態にあり、体がそれに慣れていたので、一年ほどは、食事の量をかなり抑えて、体を慣らしていきました。
——サイドナヤでの後遺症などはありませんか?
▽マジェッド
今もひどいトラウマがあります。拷問を受けている囚人たちのあの叫び声が、頭から離れずに苦しんでいます。一生忘れられないと思います。解放されて人間らしい感情が戻るにつれて、死んでいく仲間たちに自分が何もできなかったことについて、だんだんと罪悪感にも襲われるようにもなりました。
私たちは狂う前にサイドナヤを出ることが出来ましたが、サイドナヤを出た人の中には、狂ってしまった人も沢山います。一度狂ってしまったら、元に戻ることはとても難しいです。こうした人はサイドナヤを出ても、自分が解放されたことを認識できなかったり、自分の名前や過去が分からなかったり、座って話ができなかったりと、大変深刻です。こうした後遺症が残った元囚人たちのケアをしなければなりません。
サイドナヤから出た囚人に限らず、シリアでは、政権による拷問や勾留で狂ってしまった人がたくさんいます。なかなかその存在が表に出てきませんが、みんな、肉体的、精神的な虐待の末に、狂ってしまったのです。こうした人々のケアをいかにおこなっていくのか。是非日本の人々にもこの事実を知ってほしいです。そしてこうした人々のケアのためにサポートをしてほしいです。
–—-今日は、大変貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。サイドナヤの内側で起きてきた現実に大変驚くとともに、こうした事実をたくさんの人々に知ってほしいと思いました。
◽︎バラカート
アサド政権が私たち市民に何をしてきたか、是非日本の人々に知ってほしいです。そして、新しいシリアの発展を、助けてください。
—-マジェッドさん、バラカートさん、どうもありがとうございました。
▼二人の話を聞いた感想
マジェッドとバラカートは、私たちと顔を合わせてまず最初に、今から話すことは、12月8日にアサド政権が倒れたからこそ話せることだと言った。それまでは、自分たちがサイドナヤの囚人だったことや、そこで行われていたことを公の場で話すことはタブーであったという。政権の崩壊と共に、彼らは自分の経験について話す自由を得たのだ、と。
二人は、サイドナヤで生き残った囚人の特徴として以下を挙げていた。
殴られ続けることに耐え得る、頑丈な体、骨格であること。痩せていないこと。考えすぎないこと。恐れすぎないこと。
特に、「考える者は狂う」という言葉が印象的だった。自らが置かれている悲惨な現実や、理不尽さについて深く考える者は、その状況に次第に耐えられなくなっていき、他の人よりも早く狂ったという。
マジェッドは、「インテリほど早く狂った」と話していた。このような拘束下で生き残るためには、深く考えないこと、気持ちを早く切り替えることが重要だったという。
極限の状況を生き抜いた二人の話は、驚きとともに、アサド政権が崩壊するつい12月8日以前まで、当たり前にそこで行われてきたことの異常さを感じさせた。
マジェッドやバラカートが話していたような、シリアの刑務所で何が起きているのかは、これまで多くのジャーナリストや人権保護団体が指摘してきたことであった。しかし何故、止めることが出来なかったのだろうか。その闇は深い。そしてその闇を直視する勇気が、これからの新しいシリアを作り上げていく上で求められるだろう。
12月8日のアサド政権崩壊のその日、反体制派がサイドナヤ刑務所に進軍し、多くの囚人たちを解放しようとしたとき、サイドナヤでは激しい戦闘が行われたと聞く。すぐに軍服を脱ぎ、逃げた看守たちも少なくなかったが、最後まで抵抗した看守たちも多かったという。サイドナヤは、アサド政権の負の要塞でもあった。そしてここが公になるということは、真の意味で隠されてきたアサド政権の全てが明るみになるということであったのだ。
サイドナヤ刑務所だけではない。シリアの多くの刑務所で起きてきた悲惨な現実。そこで死んでいった者たちや、生きて帰ってきた者たちの物語を、私は決して忘れてはいけないシリアの歴史の一端として、しっかりと記録していきたいと思った。
(2024年12月29日)
One Reply to “「私たちはサイドナヤの囚人だった」〜サイドナヤ刑務所での5年半を元囚人に聞く〜”
@@2024/12/30(月) to
小松さん、よくぞご無事で。人類にとって重要な証言を記録することができたと思います。人類のために貴重な仕事をされたと思います。アサド政権はナチスやソビエトロシアに匹敵する野蛮な国家機構だったと私は思うに至りました。
これほどまでの蛮行を暫定政権の指導者達は知ってましたでしょうけども、政権崩壊によりその有様がもっと赤裸々に知られました。シリア国民は団結するしかないと思います。殺された人々がいつどこで・・を国民は知りたいに違いありません。
政権に加担していた人々の多くは「しかたなく」でしょうし、一部は蛮行を喜んでしていたでしょう。ともあれ、事実を明らかにするためには、報復第一ではなく、マンデラ政権が創設・運用したような真実和解委員会(TRC: ツツ大司教主導)の創設が必要だと思います。
ハンナ・アーレントが看破したように、人間のみが有する特別な能力は約束と赦し。約束は未来の目標について協業すること、赦し(forgiveness not 許し permission)はある人の過去の罪への懲罰をしないこと。最も極端な赦しは犯罪者が悔悟しない場合でも無条件にその人物を解放すること。犯罪者と殺された遺族が直接対面することが南アフリカのTRC(Truth and Reconciliation Commission)ではとても多かったのでした。犯罪者が本心で謝罪した場合に遺族が赦したことがあり、偽装した謝罪でも赦したことがありました。まったく謝罪しない場合でもそんなことがあったようです。
実のところ、赦しはご遺族が過去の悲劇から解放される行為でもあるのです。赦さない限り、いつまでも恨みと報復の気持ちが続くことでしょう。
犯罪者が本気で謝罪した場合、偽の謝罪をした場合、謝罪どころか私は正しいことをしたと断言した場合、いずれにしても、ご遺族による赦すという行為は高貴であります。赦した人は犯罪者より道徳的に優れているからです。
赦しについて、あえても更に私なりの考えを追加して述べます。唯物論、つまりは神は存在しない立場からすると「赦しなんて、遺族の気持ちが和らぐことに過ぎない。犯罪者が無罪放免なので赦しは良いな」とのニヒリズムのこと。人間なんぞ化学物質の集合に過ぎない、魂/心/精神なぞは化学反応であり、殺害者も被害者もたまたまそうなっただけとの立場。「今だけ、自分だけ、金だけ」という新自由主義の人々はそうです。日本では経団連・守銭奴企業群の指導者達と、その奴隷化した自民党/公明党/日本維新の会/国民民主党などの諸政党の国会議員・地方政府議員はもとより御用学者と天下り期待の官僚と一部マスコミの人々。
すみません、話しが飛んでしまったようなきらいがあります。
シリア難民/国民に真実和解委員会の創設を小松由佳さんが提案することを願います。小松さんが夫/ご親族に呼びかけることで、大きな流れとなり、暫定政権が実現することができますように。主なる神に私は祈ります。
参考文献はツツ大司教(Desmond Tutu)の著書 No Future Without Forgiveness とアーレントの『人間の条件』(The Human Condition)
もう一つの提案があります。イスラエルのホロコースト記念館のようなシリア国立施設の創設。私、1996年の新婚旅行でイスラエルのヤド・バシェムの記念館に行きました。新婚旅行ではありましたが、14才の頃からユダヤ人大好きになっていた私からは強烈な印象で涙涙、そしてまた私はどうすべきかと考えさせられたのでした。それはユダヤ人迫害の史実・事実を永遠に保続するための施設です。ナチスにより消滅されられた共同体の記録、一人1人の名前、そしてまた経緯を永遠に保存するのがそれ。
シリアの犠牲者の一人1人の名前、その経緯をシリア国として永遠に保存する国立の施設創設が必要だと思います。1人でも多くの名前と経緯が記録されるためには、真実和解委員会(TRC)の創設と実効的運用が必要なことは申すまでもありません。犯罪者の逮捕に新政権が全力を尽くすことは当然ですが、新政権が真実を明らかにして記録することを優先するならば、TRC(Truth and Reconciliation Commission)は必須だと思います。
最後に、ハンナ・アーレントの言葉を引用します。
「いかなる悲劇も語られることにより癒やされる」
悲劇がごく一部の人にしか知られなく、周知されないことはご遺族にとって悲しいことは言うまでもありません。悲劇が多くの人に知られ、遺族でない方々によって語られ、そんなことは二度と起こしてはならないとの決意が生まれ、防止する手段がいろいろと提案され、最も効果的な手段が実施されることが望まれます。
と、言いましたが、アーレントの本意は実効性ではないと私はみなしてます。語られ続けることそのことが、癒やしだということ。殺された人もご遺族も語りにより癒やされるのです。
唯物論/新自由主義の人からすると馬鹿げている感想でありましょうが、見えなく、匂わなく、触ることできなく、聞こえない存在、つまりは神(天地創造)の存在を完全に信じる私は赦し/癒やしは自明だとみなします。