(*現在、アサド政権が崩壊したばかりのシリアに取材に入っています。こちらは取材した内容です。地方にいるためインターネットがあまり使えずにおります)
シリアの首都ダマスカスの中心部にあるマルジェ広場。人々が賑やかに集うこの場所は、ここは二度にわたる〝殉教〟の地として知られています。
シリアがオスマン帝国領だった1910年代、その支配に異を唱えたアラブ民族主義者たちが、この地で死刑に処せられたほか、フランスの委任統治領となった1946年以後、反仏抵抗運動を起こした活動家たちの遺体が見せしめとして積まれてきました。
こうした殉教者たちを、シリアの歴史の礎として讃えるのが、このマルジェ広場です。ちなみに、かの有名なイスラエル諜報特務庁(モサド)の伝説のスパイ、エリ・コーヘンも、1965年にこの地で処刑されています。
そのマルジェ広場に、2024年12月8日のアサド政権崩壊後、それまでは見られなかったある変化が起きています。広場のシンボルである塔の基礎部分に、チラシが貼られるようになったのです。
それらは全て、アサド政権下、政権批判をするなどして逮捕され、行方不明になった人々の情報を求めるためのものです。そのおびただしい数からは、逮捕後に行方不明になるということが、この国では決して特別なことではなかったことが窺えます。
信じがたいことですが、〝家族が行方不明になっている〟という事実を、こうして公の場で尋ねること自体が、それまでのシリアでは政権批判に繋がるとされ、許されることではありませんでした(もしそうしたことをすれば、逮捕された)。
しかし12月8日の政権崩壊と共に、行方不明者がいる家族たちは、公の場で本人の行方を探すという自由を、初めて得たのです。
こうした行方不明者の多くが、政治犯としてサイドナヤ刑務所などに送られた人々です。アサド政権が崩壊した今、その15万人近い行方不明者の家族たちが、一斉に情報を求め始めています。
12月19日、私の夫ラドワンも、マルジェ広場にチラシを貼った一人です。夫の兄サーメルは、ダマスカス郊外のサイドナヤ刑務所において2013年10月30日に死亡したと囚人名簿に名前がありましたが、彼がどのような最後を迎えたのか、それを知る者がいないか、情報提供を求めているのです。
サーメル兄のほかにも、夫には、行方不明になった遠い親族や友人が何人もいます。この日夫は、サーメル兄のほかに、二人の行方不明の友人、親戚のチラシを作りました。
その三人のいずれも、2008年以降のシリアでの撮影で私もよく知る人物たちです。うち二人のチラシの写真は、私が2010年に撮影したものでした。
まさかあの日に撮影した写真が、本人の情報提供を求めるために使われることになるとは思いもしませんでした。
2011年以前のあの日の彼らの笑顔や、一緒に交わした冗談、昼食を食べた記憶などが、鮮やかに蘇ってきました。
広場に貼られたおびただしい行方不明者たち。その一人一人に、それぞれの人生があり、家族がありました。
失われてしまった多くの人生。アサド政権の崩壊とともに、こうした人々の存在が今、ようやく注目され始めています。
そして、こうした行方不明者たちの写真がマルジェ広場に貼られているのは、この地が〝殉教者〟の地であることと無縁ではないでしょう。
行方不明者たちの写真をじっと眺めると、無数の声が聞こえてくるようです。〝私たちはこの国に生きていた。そして突然、奪われていったのだ〟と。
今もシリアで行方の知れない15万人もの人々。その家族が、アサド政権の崩壊後も、深い悲しみと喪失感のなかで生きているということを、私たちは忘れるべきではありません。
(2024年12月23日)