未知なるものを目指して〜登山家・写真家、飯山達雄さん〜

2月18日、東京都御茶ノ水のクライミングジム「Tribe」様にて、登山家・写真家の飯山達雄さんをテーマにした以下のイベントが行われました。

『飯山達雄 〜 韓国登山史と登山家から写真家への歩み 〜』

飯山達雄さんは、韓国の近代史登山に名を刻む登山家でもあり、また戦後は、大陸からの引揚者の悲惨な実態を撮影した写真家でもありました。さらにアマゾンや南米なども歩き、多くの写真を残しています。こうした登山家、写真家としての飯山さんの歩みを見つめながら、戦前から戦後を生きた一人の日本人の半生をたどりました。

以下は、その内容をまとめたものです。

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「飯山達雄〜韓国登山史と登山家から写真家への歩み〜」

報告者:互井健悟(クライマー・慶應大山岳部OB)

▼はじめに

登山家から写真家へと歩みを変えた飯山達雄さん(1904-1993 / 享年88歳)。20冊近くの写真集と著書がありますが、没後32年を経ても、それらを一括して紹介する試みはこれまでなかったように思います。

▼飯山達雄さんの生い立ち

飯山さんは1904年に横浜で生まれ、1910年の日韓併合の年に父親の仕事の都合で韓国に渡ります。15歳で、油絵を描いていた兄の影響で写真を始め、20歳で、ソウル市の北に広がる山々の風景に惹かれ、登山を始めています。

現地で出会ったハヤシ・シゲルとともに、英文の原書を読みながらほぼ独学でクライミングを習得。ソウル近郊のほとんどの岩峰を初登頂し、北漢山(プカンサン)の仁寿峰(インスボン)などをフリークライミングで初登頂しています(1926年)。また1931年の「朝鮮山岳会」創設に参加し、厳冬期の摩天嶺白頭山縦走(※手書き注釈:1941年 12/24 – 1942年 1月19日)など多くの記録を残しました。

▼1925〜1941年(飯山さん20〜36歳)

朝鮮総督府鉄道局での観光振興業務を通し、本格的な写真技術を身につけたようです。この頃、総督府発行の雑誌の表紙や口絵、観光パンフレット等の撮影を数多く手がけています。

「仕事で山に行けるのが嬉しくて仕方がなかった」と後に語っているように、この頃、朝鮮半島の山の写真を数多く撮影。

この時期の飯山さんは、毎年のように長期の冬期登山を繰り返す一方で、休暇ごとに中国各地を旅し、満州事変から日中戦争中頃までの風景や人々の暮らしを撮影しています。鉄道局の理解のある上司が、個人的な撮影旅行を公務出張扱いにしてくれたおかげだったと語っています。年間の3分の2近くソウル市内の自宅にいなかったこともあったようです。

」▼1942年〜1945年(飯山さん37〜40歳)

1942年12月、飯山さんは海軍の西ニューギニア資源調査隊に参加し、ニューギニアに行きます。この時の肩書きは、「写真班長 兼 輸送指揮官」。当時の海軍当局が、飯山さんの写真技術だけでなく、探検や冬期登山で培った極地法の経験に期待をしていたことがうかがわれます。極地法は当時、未知の山域に入るための最新テクニックであり、飯山さん以上の人材を見つけるのは難しかったという背景も。

ニューギニアでは、山の部族「マネキオン族」、海の部族「パプア族」などとほとんどの期間を過ごしています。この時身につけた航空写真による地図作成や、異文化交流の手法は、後にブラジルでの日本人移民や、アマゾンの先住民族の調査に生かされることになります。

1943年10月、戦況悪化をうけ、パプア族のカヌーに同乗し、ニューギニア島のマノクワリからジャワ島のスラバヤに脱出。その後、スマトラ島からマレー半島を陸路で北上し、バンコク、サイゴンを経て、ハノイから空路で北京に至り、鉄道を利用して1945年8月8日にソウルまでたどりつきました。

▼1945〜1946年(飯山さん40〜41歳)

敗戦後、飯山さんはソウル市内で米軍憲兵に拘束されます。軟禁状態のまま、中国各地の情勢について事情聴取をうけますが、1945年の暮れに脱走し、1946年1月に日本に帰還します。

日本では、先に朝鮮から引き揚げていた家族を探していた最中、朝鮮時代の友人、泉靖一さんたちと再会し、彼らが運営していた福岡県の医療施設・二日市保養所を見学します。そこで飯山さんは、ソ連兵による性被害に遭った、引揚者の女性たちの堕胎手術を撮影します。

敗戦後、軍関係者の引き揚げは、ポツダム宣言の文書に従って進みましたが、民間人の取扱いについては何も記されていなかったため、100万人以上の民間人が何の保護も受けられないまま満州に取り残されていました。

その惨状を知った飯山さんは、1945年7月、日本人居留民の早期の帰還をGHQに直訴するため、単身満洲に渡り、錦州の葫蘆島(ころとう)と奉天(現瀋陽)を取材しました。

人々の満洲での暮らしは、戦時下でも比較的平穏だったといいますが、1945年8月9日のソ連軍の侵入を機に一変し、ごく普通の人たちがあっという間に不安定な境遇に追いやられていきました。

『小さな引揚者』などの写真集には、「彼らの中には手や足のない者も多く、家族のうち必ず誰かが欠けていた」というキャプションがつけられています。

しかし飯山さんが現地で撮影したこれらの写真は、戦後23年間にわたって一般公開されず、ベトナム反戦運動が高まった1968年になって、ようやく公開されました。

▼1948年〜1954年(43歳〜49歳)

満洲からの帰国後は、登山やスキー雑誌の写真撮影や、1948年からは、自宅があった小平市の郷土文化の撮影を行っています。

この期間は飯山さんにとって、家族とともに過ごした比較的平穏な日々だったようです。ただこの頃、「日本山岳写真協会」の戦後の復興にも積極的に関与していたとか、朝鮮戦争中はGHQの顧問をしていたという証言もあります。具体的にどこでどのような仕事をしていたのかはわかっていません。

▼1955〜1962年(飯山さん50〜57歳)

1955年のブラジル日本移民実態調査隊への参加がきっかけで、以後1965年まで、それぞれ半年から最長5年にもわたり、長期の南米取材を繰り返します。

飯山さんは、この調査の過程で、日本政府の移民政策の不備、無責任さを批判しています。

かつて他の国からの移民政策が失敗した同じ土地で、同じ耕作物を作らせるという調査不足や、また胡椒、コーヒー、天然ゴムなどの一時的なブームに乗り、国際価格の推移を無視して、多くの移民を送り込むといった計画性の欠如などです。

そうした批判の背景には、かつて満洲で目撃した、日本人居留者たちの惨状の記憶があったことは間違いないでしょう。「これでは彼らは移民ではなく棄民ではないか」という言葉をさまざまなところに書いています。

▼1963〜1965年(飯山さん58歳〜60歳)

 2回目にブラジルに渡った頃、サンパウロの映画館で見た『裸族シャバンテス』という記録映画から、ブラジル各地で接触してきた「未開」と呼ばれる人びとの生活への関心がよみがえります。この頃から、モンゴロイドの生活文化の撮影を以後のライフワークにすることを決意し、1963年には、アマゾンの先住民ラピチ族と、2か月間の共同生活を送ります。

日本人の海外旅行の自由化は1964年4月からのため、当時は飯山さんほど世界各地を歩き回った経験を持つ方が珍しかったようです。 ちなみに、植村直己の世界放浪は1964年から。芳野満彦のマッターホルン北壁は1965年。鈴木紀夫(小野田さんを見つけた人)の「大放浪」は1969年から。沢木耕太郎の「深夜特急」の旅は1974年から。

1965年には山岳画家の山川勇一郎さんとペルー、チリ、アルゼンチンを旅し、飯山さんの最後の写真集『秘境パタゴニア』を制作。

▼1969〜1973年(飯山さん64〜68歳)

1969年から73年にかけて韓国に向かい、高麗・李朝の数百点に及ぶ古陶磁を撮影。

その後も、1974年〜1978年には、中米グアテマラとメキシコでマヤ文明の遺跡を調査し、その末裔とされるラカンドン族を取材。アメリカインディアンの生活文化を追ってアリゾナ、ニューメキシコ、コロラドにも足を運んでいます。この時の記録は未発表のまま終わってしまったようです。

1980年代、中国残留日本人孤児の肉親捜しが本格化すると、飯山さんの満洲引揚げの写真が改めて注目を集め、写真家としての名声は高まります。しかし日々の生活は至って質素で、足が不自由になった晩年も、自力歩行に向けたリハビリを欠かさず、最後まで写真集の編集作業に打ち込んでいました。

1993年8月31日、飯山さんは脳出血のため88歳で亡くなりました。

(最後に 互井健吾さんより)

飯山さんは生前、「その瞬間にしかないものを記録に残すことを意識してきた」と語っていたそうです。

飯山さんのある事象についての証言が、時期を追うごとに少しずつ変化していったことから、「飯山さんを信用できない」というレッテルを貼る人もいます。しかし、これだけ多方面にわたる活動をした人が、様々な国々の政治情勢や社会環境の中で、なおも生活し続けなければならなかった多くの関係者の存命中に、何の配慮もなく、あったことをありのままに語れたと考える方がむしろ不自然です。 

飯山さんの人生は、「未知を追求し、それを記録すること」に終生こだわり続けた見事なものであったといえます。

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⬜︎ 鼎談(互井健吾、保科雅則、小松由佳)

互井さんによる飯山達雄さんの半生の紹介があった後で、互井さん、保科雅則さん(クライマー)、小松による鼎談が行われました。

そのテーマは、「登山家から写真家への転向」について。保科さんが、同じように登山の世界から写真の世界へと環境を変えていった私に質問を投げてくださり、どのような心境の変化、環境の変化があったのかをお話ししました。

私がお話したのは、自分で道を切り拓きながら未知の対象に進む行為が、登山の場においても写真の場においても、極めて似ているという内容です。飯山さんが一貫して追い求めたのは、自分が知らないもの、知らない土地など、〝未知なるもの〟であり、フィールドを変えてもその信念は同じだったのではないかと語りました。

また私は、生前の飯山達雄さんと接触のあった関野吉晴さん(探検家)から事前にお聞きした以下のエピソードをご紹介させていただきました。

〝初めて関野さんが飯山さんにお会いしたのは、一ツ橋大学1年生の19歳の頃。関野さんはすでにアマゾン行きを決意していた。その頃は、日本人がようやく自由に海外に行けるようになってきた頃だったが、飯山さんはすでに長期にわたってアマゾンの奥地まで行っており、そうした人は非常に少なかったことから、よく訪ねて話を聞きに行った。1ドル360円の時代、腹巻の内側に20000ドル、30000ドル(当時の1000万円)を隠し持ち、アマゾンの奥地を単独で歩いていたという。それを聞いて、すごい人がいるものだと驚いた。

飯山さんの自宅は大学の学生寮の近くにあったことから、よく遊びに行かせていただいた。飯山さんと聞いて思い出すのは、いつも満面の笑みで笑っていた表情。「いつでも来なさい」と迎えてくれた。冬に行くと、こたつに入っていて、とても質素な暮らしをしていたことを覚えている。奥さんが美味しい和食でもてなしてくれ、よくご飯も食べさせてもらった。

飯山さんから教えていただいたのは、「何かに興味を持ったら、とことん諦めずにやり続けることだ」ということ。それがその後、アマゾンの先住民マチゲンガと50年以上にわたって交流する流れにも繋がっていった、

また飯山さんは「世界にはまだまだわからないことがたくさんあるよ。人間が行っていないところがたくさんあるよ」とよく語っており、「アマゾンはいいよ」と勧めてくださった。

アマゾンの先住民の村を撮影した「ケロ」という写真集を出版したときは、「あなたにしかできないことをした」と、とても喜んでくれた。

19歳だった関野さんがお会いしていた飯山さんは当時60代半ばになっており、関野さん曰く、「すごいじいちゃんに見えたけど、65歳と聞くと、まだまだガキじゃねえかと思う」とのこと。

そしてもし、あの世で飯山さんに再会することがあったら、自分は飯山さんよりも長く現役として活動しました、と自慢したい、とのことだった〟

(飯山達雄さんとの思い出をお聞きした関野吉晴さん。19歳で飯山さんにお会いし、50年近くアマゾンに通ってきた)

関野さんをアマゾンに誘ったのが飯山達雄さんであったこと。そして飯山さんからの教えが、関野さんの活動の軸に繋がっていったことに大変感銘を受けました。関野さんを通し、飯山さんの精神に触れているような思いがしました。

保科さんからは、飯山さんの時代に探検・調査と登山という行為が繋がっており、そうしたコミュニティもわりと一体化していたが、現代の登山と探検・調査のコミュニティが切り離されている、それが残念だというお話がありました。

今回、飯山達雄さんという戦前から戦後を生きた一人の日本人を通し、敗戦後の引き揚げの悲惨な歴史や、そうした痛みのなかに生きたたくさんの人々がいることを改めて見つめるきっかけになりました。

今後、戦後の日本人の姿をもう一度学び直したいという思いにも駆られ、このような素晴らしい機会をいただきましたことに感謝しています。

お声がけをいただきましたTribe様、どうもありがとうございました。

(飯山達雄さんについて、素晴らしいプレゼンをくださったクライマーの互井健悟さん。ここまで詳細に飯山さんについて調べた情報収集力と情熱に感銘を受けた)

(小松の二人の子供たちも会場へ)

(Tribeを管理されてらっしゃる保科雅則さん。日本を代表するオールラウンドクライマー。クライミング界を牽引してきたすごい方である)

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戦前から戦後を生きた日本人として〜飯山達雄さんを考える〜

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