
2025年12月20日(土)、写真展「The Homeland 〜故郷へ帰還するシリア難民〜」のギャラリートークが行われ、フリージャーナリストの安田純平氏をゲストにお話をお聞きしました。会場が満員になるほど多くの皆様にご来場いただきました。

この日私は聞き役として、以下のテーマで安田さんからお話を伺っていきました。
① 紛争地取材をするということ
② 内側から目にした紛争地シリアの現実
③ フリージャーナリストとして紛争地に立つということ
以下、当日のお話の内容です。
▪︎安田純平氏(フリージャーナリスト)プロフィール
フリージャーナリストの安田純平さんは、イラクやシリアなどの紛争地取材を続け、戦場の日常や人々の声を届けてきました。2015年にシリア取材中に武装勢力に拘束され、3年4か月に及ぶ監禁生活を経て、2018年10月に解放されました。しかし日本への帰国後、トルコへの入国禁止措置を理由に国がパスポート発給を拒否。憲法が保証する「移動の自由」をめぐって提訴し、2025年3月の控訴審では国の処分を違法とする勝訴を勝ち取りました。しかしその後も、パスポート発給の動きはありません。
▪︎ギャラリートーク
——–安田さんにとって紛争地取材の意義とは。なぜ紛争地に向かうのでしょうか?
安田:そもそも政府や国は、国民が安全に暮らせるように、国民を守るためにあるものです。しかし戦争となると、国が「人を殺す」という正反対のことを始めてしまう。そんな状況が現場でどんな悲劇を生んでいるのか。それをしっかり伝え、本当にこんなことをしていいのか、世界に問いかけることは、ジャーナリストにとって重要な仕事だと思います。
戦争が起きると、そこは誰も知らない『未知の世界』になります。そこで人がどう生きているのか、自分が行ったらどうなるのかという個人的な好奇心も、紛争地へと足を運ぶ理由です
———-2015年のシリア取材では武装勢力に拘束され、3年4か月に及ぶ監禁を受けることになります。『監禁されていたからこそ見えた、リアルなシリアの現実について教えてください。まず、どこでどのように拘束されたのですか?
安田:当時のシリアでは、「政府」と「反政府勢力」が激しく戦っており、 政府軍が自分の国の国民を空爆しているという重大な問題を取材するためには、反政府側の地域に行く必要がありました。しかし政府からビザをもらうと反政府地域には入れないし、そもそもビザも取れない。そのため、トルコ側から不法にシリアに入国するしか方法がありませんでした。
またシリア国内にはたくさんの武装組織があり、以前は組織同士の争いや裏切りが絶えず、非常に危険でした。しかし、この時は状況が少し変わっていました。
(外国人ジャーナリストの誘拐や殺害、住民への恐怖政治などを行っていた)イスラム過激派組織IS(イスラム国)がこの頃、勢力を広げたことで、他の反体制派の組織が「ISと自分たちが一緒にされたらまずい」と危機感を持ち、バラバラだった反体制派が同盟を組み始めていました。
こうして反体制派の組織が協力し始めたことから、自分が外国人ジャーナリストとして別の組織に襲われたり、ISに売り飛ばされたりするリスクが減っていると考えました。また、かつて取材で知り合った知人が反体制派の組織の幹部になっていたこともあり、「今なら安全に取材できる」と判断しました。
シリアへは、真夜中にトルコ側から国境の山を越えて入りましたが、予期せぬトラブルに見舞われました。暗闇の中を進むうちにルートを外れ、予定していたのとは別の反体制派のエリアに入ってしまったんです。 最初は彼らとの話し合いでなんとか済みそうだったのですが、家族に状況を連絡しているのを監視役の兵士に聞かれ、「どこかに情報を流している」と怪しまれてしまいました。 戦場では「知らない奴は全員スパイ」と見なされます。私もそのままスパイ容疑で閉じ込められ、そこから監禁されることになってしまいました。

——–現地の反体制派とも連絡をとり、リスクが低いタイミングを見計らって入国したものの、現場でのちょっとした行き違い(場所のズレと連絡内容の誤解)がきっかけで、スパイと疑われ拘束されてしまった、ということなのですね。
安田:拘束直後の約1カ月間は、私の扱いをめぐり、犯人グループが揺れていたようです。反体制派の取材者として解放するか、それとも身代金目的の対象として拘束するか、です。当時、反体制派の多くがISなどの過激派組織との差別化を図りたく、「自分たちは穏健派だ」とアピールしようとしていました。そのため、私のような外国人ジャーナリストの拘束が知れ渡って、組織の評判が落ちることを恐れていたようです。
それもあってか、彼らは正体が露見しないよう、最後まで私に組織名を明かさず、外部に対しても「アルカイダ系組織(フラス・ディーン)」と名前を出すなど、嘘の情報を流して攪乱しようとしていました。
——–そうしたなかで、シリアに取材に入った安田さんの消息が途絶えたということで、日本国内でも報道されるようになりましたね。さらに拘束されてから約3年が経過した2018年7月には、安田さんが助けを求める動画が公開され、日本中に大きな衝撃を与えました。なぜあのタイミングで、どのような経緯で動画が撮影され、公開されるに至ったのでしょうか?
安田: 最初の動画は拘束されてから1年目頃に公開されました。犯人グループ側が家族にメールを送ったのですが事態が進展しなかったため、日本政府に揺さぶりをかけるために動画を公開し始めたようです。
動画で着ていた「赤いシャツ」は、実は子供用のTシャツだったんです。表にプリントされていたイラストを隠すために裏返しにしたり、首元を切り開いたりと、犯人たちはワイワイ話しながら準備しました。私自身は言われた通りにやらざるを得ない状況で、当初は皮肉を込めてニコニコ笑って撮ってやろうかとも思いましたが、「笑うな」と言われてあのような表情の動画になりました。
——-安田さんが手に持っていたメモ書き(「助けてください」と書かれていた)も、書くように指示されたものなのですか?
安田:そうです。こういうことを話せ、書け、と指示されていました。
報道で一番使われた、私がオレンジ色の服を着ていて、後ろに二人の武装した黒づくめの男がいる動画ですが、これは拘束されてから三年後くらいに、ウイグル人の施設で撮ったものです。
あの動画に映っている黒づくめの男たちの姿は、すべてその場しのぎの演出です。普段、彼らは覆面もせずTシャツに短パンという格好でした。撮影が始まるときだけ、どこからかカーテンのような布で作ったオレンジ色の服を持ってきて、私に着るように命じ、彼らも黒づくめの服に着替えました。彼らとは普段から、ごく普通にコミュニケーションをとっていましたし、一緒に彼らが作ったウイグル料理を食べていました。ある種、私を拉致した反体制派のグループから、ウイグルのグループに「預けられている」といった関係性でした。
あの動画で私が話した内容は、すべて彼らに「言わされたこと」です。「肉体的・精神的に追い詰められている」と発言したのも、そう言わされていたからです。それは犯人グループ側が、日本政府や関係者を焦らせて交渉を有利に進めるためのプロパガンダ(宣伝)に過ぎません。「早くしないと死んでしまう」と思わせることこそが彼らの狙いなのです。
一番の問題は、日本のテレビメディアがこの構造を全く理解していないことです。犯人たちが宣伝のために流した動画を、そのまま真に受けて、テレビで繰り返し放送するのは、結果として彼らの片棒を担いでいるのと同じです。
いまだにその動画の内容を根拠に私を批判する人もいますが、犯人グループの狙いにハマっている証拠です。

——–拘束されていた時は部屋もあてがわれて、テレビも見ることができたと以前聞きましたが、本当ですか?
安田:当初、私を拘束した反体制派のグループは、「自分たちはISとは違う」というアピールをしたがっていました。そのため、私を比較的環境の良い部屋に入れ、暇つぶしのテレビまで置いてくれました。他の拘束者たちも、当時は似たような待遇だったようです。ところが、日本政府は私の存在をずっと無視し続けました。
同じ時期に捕まっていたスペイン人は、国がしっかりと交渉に動いたため、わずか8カ月ほどで解放されました。一方で、無視され続けた私の扱いはどんどん悪くなっていきました。犯人側からすれば、交渉が進まない相手にコストをかけるのは無駄です。結局、私は「コストカット」のために個室を追い出され、大勢が押し込められる収容所へと移されてしまったのです。
——そもそも安田さんを拘束した人々は誰で、何のために安田さんを拘束したんでしょうか。
私が拘束された最初の理由は、彼らが私を「スパイ」だと疑ったからです。彼らの戦略はこうです。まずスパイ容疑で捕まえ、もし交渉がうまくいって身代金が取れたらラッキー。でも、もし日本政府に無視されて交渉がダメなら、そのまま解放して返せばいい。
彼らにとって最も避けなければならないのは、私を殺してしまうことです。もし殺害すれば、彼らも過激派組織の「IS」と同じだとみなされ、それまで積み上げてきた反政府運動の正当性がすべて台無しになってしまいます。だからこそ、「交渉が無理なら、何もなかったふりをして返す」という選択肢を持った上での拘束だったと思います。
——–シリアという国は、人とのつながりが濃い社会ですよね。もし誰かが外国人を拘束したとなれば、その噂はあっという間に広がるはずです。それなのに、周囲のシリア人たちから「そんなことはやめろ」と反対されたり、どこかのグループが取り締まりに動いたりすることはなかったのでしょうか? 周囲の目はどうなっていたのか気になります。
安田:武装組織が支配する地域なので、一般人が武装組織のやることについて噂話をすること自体が命取りになります。また、私が「日本人」だと周囲に知られると、他の武装組織から横取りや攻撃の標的にされるリスクがあります。そのため、情報の漏洩を防ぐ目的で、私はずっと別の国籍を名乗らされていました。
最初は「中国人」だと言わされていました。しかし、その後ウイグル系の施設へ移ることになり、状況が変わりました。ウイグル系の人々にとって中国政府は敵対相手です。「反政府勢力の拠点に中国人が紛れ込んでいる」と思われたら、私はその場で殺されてしまいかねません。そこで、殺されないための安全策として、今度は「韓国人と言え」というルールが作られました。動画で私が韓国人と名乗ったのは、生き延びるためのルールに従っただけなのです。
ところがこうした背景を理解せず、日本のテレビ番組では、「私が自分の国籍もわからなくなるほど精神的に追い詰められているのではないか」とコメントするような精神科医まで現れました。有名な方でしたけど。こんな映像だけで「精神鑑定」をする有名精神科医も、それをそのまま放送するメディアにも、正直あきれるしかありません。
———拘束されている間、反体制派のいくつかの施設を転々と移動させられたようですが、その真っ只中にいた時、自分の拘束のニュースが日本のメディアで報じられている、という想像はしていましたか?
安田:動画を撮影されている以上、「これは何かの目的(交渉や宣伝)に使われるんだろうな」という確信はありました。
また、収容先でテレビを見ていた時に、偶然自分自身のニュースが流れたことがあったんです。「ああ、今映っているのは俺だ」という感じで、日本でも報じられている事実は客観的に分かっていました。

——–失礼な質問で申し訳ないのですが、その時はどのように感じるものなのでしょうか。
安田:私にとって一番重要だったのは、日本政府がこの件を「無視」してくれることでした。なぜなら、もし政府が表立って交渉を始めれば、事態が複雑化して帰れなくなる恐れがあるからです。
拘束中、私にしか答えられない7つほどの質問が届きました。例えば「仕事用の椅子を池袋のどの店で買ったか」といった内容です。これは「本人が生きているか」を確認するための生存証明(プルーフ・オブ・ライフ)のためです。家族の協力なしには作れない質問なので、これを見た時は「水面下で何かが動いている」と感じました。
しかし、同じ質問が2回も届いたことで、政府の無策を確信しました。生存証明の質問を使い回すのは交渉の鉄則に反します(どこかで情報が漏れて、別人が回答するリスクがあるため)。同じ質問が繰り返されるということは、まともな交渉が進んでおらず、形だけの確認に留まっている――つまり「政府に無視(放置)されたんだな」と悟り、たまらない気持ちになりました。
また犯人グループが、拘束した者の動画を公開し始めるのは、水面下の交渉が相手にされていない時の最終手段です。一度動画が世間に出てしまうと、各国政府は「身代金支払いを禁止する国際ルール」の手前、こっそり助け出すことが難しくなります。ISなどの組織が「メディアに喋ったら殺す」と脅すのは、内密に交渉を終わらせたいからです。動画がテレビで流れているという事実は、救出が非常に困難な状況に陥っていることを意味していました。
——-拘束されている時は、今後ご自分がどのようになるか、どう考えてらっしゃいましたか。
安田:当時の現地の情勢や、犯人グループがISではないことなどを冷静に分析すれば、「自分が殺されることはなく、いずれは解放されるだろう」と考えていました。彼らにとって私を殺すメリットはなく、どこかのタイミングで返すのが一番合理的だからです。
しかし拘束が長引くにつれ、「日本政府は私のことをもう諦めて、見捨てているのではないか?」という不安も強くなっていきました。
犯人側からすれば、私一人を拘束し続けるコストなど大したことはありません。大勢の拘束者の中の一人として置いておき、いつか日本側が身代金を支払ってくれればラッキー、という程度に彼らは考えていたからです。しかし殺されはしないものの、放置されたまま何年も時間が過ぎていく、終わりが見えない状態が苦痛でした。
——–拘束は完全にビジネスのためになっていたんですね。
安田:拘束された建前は「スパイ容疑」でしたが、本音は現金がほしい、ということでしょう。犯人グループには資金がないので、スパイとして捕まえておき、「あわよくば身代金が取れたらラッキー」という感じです。そしてもし身代金が取れなくても、そのまま解放して「何もなかった」ことにすれば、彼らにとってリスクもありません。
私がいた施設にはジャーナリストはいませんでしたが、他にも外国人が拘束されていました。 隣の隣の部屋には、詳細はよく分かりませんが、カナダ人の活動家が収容されていました。
ウイグル人の施設にはイタリア人がいましたが、シリアで狂言誘拐をして身代金をだまし取ろうとして来たものの、現地に着くと協力者に裏切られ、本当にそのまま拘束されて人質になってしまったようです。その結果、実際に一人亡くなっています。

——–拘束されていたときは、どういうところでどのように一日を過ごしてるものなのでしょうか。
安田:最初は6畳ほどの部屋で拘束されていたんですが、周りの囚人たちの話を聞いていると、みんな「お前、あと何か月だ?」といった会話をしていました。その地域では、現地の武装組織が警察のような役割を担っており、泥棒などの犯罪者を取り締まっていたんです。彼らなりの裁判で「禁錮数か月」といった刑期が決められ、それに基づいて収容されていました。そこに私も拘束されている、という状態です。
施設内に赤ちゃんや女性、おばあちゃんまでいました。現地の治安が悪いため、仕事もありません。そのため、一家の大黒柱の父親が犯罪を犯して捕まると、残された家族も外では生きていけず、結局、家族全員が父親についてきて、そのまま収容施設に一緒に住み着いてしまう、という姿も見受けられました。
壁越しに家族同士が賑やかに喋り続けている様子からは、私が想像していた「人質監禁」のイメージとはかなりかけ離れたものでした。
——-犯罪を犯した方の家族まで住み着いているという話もありましたが、誰がここでの食事の費用などを出しているのですか?
安田:武装組織ですね。私が拘束されていた施設は、武装組織が地域の治安を維持するために運営する「刑務所」のような場所でしたから。彼らなりに、「自分たちがこの街を統治している」という姿勢を見せようとしていたようです。
施設内には、反体制派と敵対するシリア政府側の兵士もいれば、外国人もたくさんいました。 アラビア語ではない「ペルシャ語」を話すイラン人や、ドアの隙間から見えた、髭をオレンジ色に染めたパキスタン人と思われる男など、顔ぶれは非常に多様でした。
サウジアラビアのメッカへ巡礼に行くため、トルコからシリアを突き抜けてサウジアラビアへ行こうとして捕まった外国人までおり、そこには想像以上に「おかしな人々」が数多く紛れ込んでいました。
———様々な国から来た様々な人たちが、シリア人も含め、実に様々な理由で詰め込まれている。そこに安田さんもいたわけですね。日本では、拘束されている安田さんの動画が流れるたびに、極めて深刻な状況として報じられていました。しかし今のお話を聞くと、動画を見てイメージする印象は、あくまで犯人グループ側の印象操作であり、実際の収容生活はそれとは異なる側面もあったということなのですね。 そんな生活が続く中、2018年10月に、3年4か月という長い拘束期間を経て、安田さんがようやく解放される日が来ます。一体どのようなきっかけで事態が動き出し、解放に至ったのでしょうか?
安田:私は2015年6月23日に捕まったので、2018年10月に入ると、拘束期間はちょうど40か月(約1200日)になっていました。その頃には、窓もない幅1メートルほどの狭い部屋で監禁されており、劣悪な環境と嫌がらせが続くなか、「もう限界だ」と感じていました。そこで、キリの良い40か月目を期限として、犯人グループ側に交渉を始めたんです。
「戦闘員でもない日本人を捕まえ続けるのは、あなたたちイスラム教徒が掲げるジハード(聖戦)でも何でもない。そんなに戦いたいなら、こういうことをするんじゃなくて、政権軍と戦うべきだろう、などと彼らに話しました。さらにイスラム教の預言者ムハンマドの伝承を引用しました。
「預言者ムハンマドは、金のない捕虜には、子供に文字を教えさせることで解放した。ならば、金のない私には子供たちに英語を教えさせろ。それができないなら今すぐ解放すべきだ。コーランにも『宗教に強制はない』とあるはずだ」
さらに、40か月の節目に、私を殺すのか返すのかハッキリしろと迫りました。私を殺せば君たちはISと同じだと見なされるだろう。それでいいのか?本当は正しいイスラム教徒なんだろう? だったら今すぐ解放してくれ。この命がけの交渉をしたその日、事態が急転し、解放が決まったんです。
その日、いつものように移動を命じられ、目隠しをされて車に乗せられました。しばらくすると、車内の人間がタバコを吸い始めたんです。反体制派の武装組織の人間はタバコを吸わないので、その時、自分と一緒にいるこの人たちは、自分を拘束していたシリアの組織ではない。私は解放されたんだ、と確信しました。 それに彼らが話す言葉はトルコ語でした。私の身柄は、シリア国内でトルコの情報機関に引き渡され、そのままトルコの収容施設に運ばれました。3年4か月ぶりの解放でした。

——-安田さんの解放については、日本でも大きく報道されていました。カタールが身代金を支払ったことで解放されたのでは、という報道もありましたが。
安田:それは完全に嘘です。その情報の出どころは、あるNGO団体だったのですが、信頼性に欠ける組織です。当時のカタールはテロ支援疑惑で近隣諸国と国交断絶の最中にありましたし、わざわざ身代金を払ってテロ組織を支援したと取られるようなリスクを冒すはずがありません。
驚いたことに、私が解放された翌日、トルコで目の前に現れた日本の大使館員が「本人確認のために」と初めてその質問をしてきたのです。つまり、政府は3年以上も、私の生存確認を放置していたことになります。
それに身代金交渉には、必ず「生存証明(本人にしか答えられない質問)」が必要です。日本政府は拘束の初期段階では私の家族からその質問を聞き取っていましたが、拘束中の私に、その質問を投げかけることは一度もありませんでした。
解放当日、日本政府は夜遅くに記者会見を開きましたが、その内容は「私が解放されたらしい」という極めて曖昧なものでした。もし事前に交渉がまとまっていたなら「らしい」などという言葉は出てきません。 また、トルコ政府の担当者も私の解放を知らされておらず、身柄を引き取った際に「この人は誰だ?」と困惑していました。これらの状況から見て、日本政府が水面下で交渉をまとめていた事実は一切ないですし、私の解放はまさに「放置された結果」だったと言えます。
——–安田さんが解放された時に、当時の安倍晋三首相が、「解放の報に接して安堵している」と発言され、また菅官房長官が「官邸を司令塔とする国際テロ情報収集ユニットを中心に、関係国に働きかけた結果だ」と話しているんですが、これはどう考えられますか。
安田:「雨乞いしたから雨が降った」みたいな話ですよね。私が解放された途端、政府は「情報収集ユニットの成果だ」と自画自賛していましたが、しかし、本人確認すら放置していたのに、どうやって交渉をまとめたというのでしょう。解放された日、迎えに来たトルコの関係者ですら、「この男は誰だ?」と困惑していたのが何よりの証拠です。
結局政府は、私のような立場の者がもし死んだら本人のせい、生きて解放されたら自分たちの手柄、としたいんです。
——–解放されて日本に帰ってきてからが、また大変な報道の嵐だったと思うんですが、特に自己責任論やバッシングが多く見受けられました。
安田:私を「自己責任だ」と批判する人たちは、私を叩くために、「政府がいかに迷惑を被ったか」という話をしています。でも日本政府は身代金も払っていないですし、私を何年も放置したままでしたので、その話には違和感を感じます。
「ミスを犯した、不注意だから捕まるんだ」と言う人がいます。しかし戦場はそもそも、「こうすれば安全」という理屈が通用しない場所です。欧米のジャーナリストも拘束されますが、日本のように「本人の不手際」を理由に個人を叩くような反応は見られません。戦場の現実を知らずに、結果論だけで個人の責任を問うのは、現場で何が起きているかを知らないからだと思います。
外務省は、現場にいるジャーナリストやNGOに「退避するように」と執拗に電話をかけてきますが、これは国民を守るためだけではありません。政府は、自分たちが把握していない現地のリアルな情報を、一般の国民が持っていることを嫌がっているのではないかとも思います。
———安田さんは今、パスポート受給をめぐって国と争っていますね。解放されたのが2018年10月。翌年2019年1月にパスポートを申請したところ、7月に外務大臣から拒否の通知があった。その理由が、「トルコに入国禁止になっているからパスポートを発給しません」というもの。でもその理由なら、ロシアによって入国拒否になっている外交官や政治家などもいますよね?
安田:国は裁判で、「どこか一カ国からでも入国禁止にされている人には、パスポートを出さないのが原則だ」と主張しています。
私が2019年1月にパスポートを申請した際、パスポート発給の窓口の担当者が、「トルコが入国禁止にしているからパスポートを出せない」と言いました。しかし、私はトルコ政府からそんな通知は受けていません。むしろ、解放された際はトルコ側も「無事に保護できた」という歓迎ムードでした。
不審に思って、「(トルコで)入国禁止だという証拠の書類はあるのか」と聞いても、窓口は「我々が(トルコから)そう聞いているから間違いない」と言うだけで、証拠を出しませんでした。 ところが、後で裁判になって国が提出してきた証拠を見ると、トルコ側に確認した日付が「2月」になっていたのです。1月の時点で「入国禁止だからダメだ」と私に言っていたのに、確認した書類がその後の日付であるというのは、明らかに話のつじつまが合わず、最初から結論ありきだったと言わざるを得ません。
———今、裁判はどうなっているのでしょうか?
安田:私のパスポート発給拒否をめぐる裁判は、最高裁で国の上告が退けられ、私の勝訴(拒否処分の取り消し)が確定しました。 国は「入国禁止国やその関係国に行くならパスポートは出さない」なんて言っていましたが、それは無茶な理屈です。政府のさじ加減ひとつで個人の自由を奪ってしまうような理屈は通用しないということが、裁判で証明されたわけです。
政府は私がトルコに「密入国した」と言っていますが、当時の状況は全く違います。2012年、レバノンから取材に入りましたが、戻る道が政府軍に封鎖されてしまい、命を守るためにはトルコ側に抜けるしか道がありませんでした。 当時、トルコ軍は難民を受け入れていたので、私もその流れで入れてもらったに過ぎません。トルコに不法に居座る気なんて全くなかったので、私はすぐに自分から警察へ行き、正直に事情を説明して「正規に出国したというスタンプが欲しい」と相談したんです。
結局、警察官に同行してもらってイスタンブールまで移動し、そのまま日本へ帰国しました。つまり、私は隠れてコソコソしていたわけではなく、法的な手続きを求めて自ら警察へ行ったのです。それなのに、政府は当時のやむを得ない事情を無視して、後になって「こいつはトルコに密入国した問題児だ」とレッテルを貼り、パスポートを出さない理由に利用したのです。
政府は、「密入国を繰り返す人間にパスポートを出すと、世界中で密入国をやりかねない。だから世界中のどこにも行かせない(パスポートを発給しない)」という極端な理屈を持ち出していました。 戦場という特殊な環境下で、命を守るためにやむを得ず取った一度きりの行動を捉えて、「こいつは密入国の常習犯だ」というレッテルを貼り、私のジャーナリストとしての活動を根こそぎ奪おうとしたわけです。
———ジャーナリズムの現場では、法の枠内だけではどうしても真実にたどり着けない地域がありますよね。解放され帰国した安田さんが日本でバッシングに直面したり、国が安田さんのジャーナリストとしての活動を制限しようとする状況について、欧米のジャーナリストがそれを見て、異常に感じた、という話をしています。
(小松)フランスのル・モンド紙の東京特派員であるフィリップ・メスメール氏は、『自己検証・危険地報道』(集英社新書)のなかでこんな話をしています。以下、本の内容の抜粋です。
〝2014年に、シリアで拘束されていた4人のフランス人ジャーナリストが解放された際は、オランド大統領が空港まで彼らを出迎え、歓迎しました。フランスでは、言論・出版の自由が、非常に重要な価値であることを皆が教育のなかで学び、民主主義を実行するうえで欠かせないものがジャーナリストの仕事とされます。そして一般の人たちに情報を与えるジャーナリストの仕事は公共の仕事として捉えられ、場合によっては拘束されたり命を落とすこともあることが、社会の共通認識としてあります。そしてもし彼らが拘束された時には、できる限りの手段で、彼らが無事に生還できるよう手を尽くすべきだとの認識があります。
一方日本では、報道、とりわけ危険地報道の重要性が理解されていないと感じます。それは日本社会が、民主主義やそのために不可欠な表現の自由のために真に闘った体験を持たないからでしょう。
日本では、仕事をきちんと遂行することが義務や責任として捉えられていますが、ジャーナリストについては義務や責任としての仕事の内容を問われておらず、自己責任論さえ持ち出されます。私はここに大きな矛盾を感じます。〟
——-安田さんは今、パスポートの発給をめぐる裁判費用がかさんでいるとお聞きしました。こちらの「コール4」というサイトでは、「ジャーナリストに渡航の自由を訴訟」ということで、安田さんの活動にカンパをすることができます。皆さまのお気持ちをお願いいたします。
パスポートの問題が一日も早く解決し、また安田さんがジャーナリストとして海外に向かう日が来ることを祈っています。またその際は、ぜひシリアにも行っていただいて、安田さんが拘束されていた場所や、拘束した人々を逆取材していただきたいですね。
今後も安田さんの活動を応援しています。今日は、大変貴重なお話をお聞かせいただき、どうもありがとうございました。
▪︎安田純平さんからお話をお聞きして
安田純平さんといえば、紛争地取材のベテランである。その安田さんがシリアで拘束され、3年近くも行方不明になっていた。一体シリアで何があったのか、何を見たのか、かねてよりお話をお聞きしたかった。
お話を聞いて第一の感想は、メディア報道によって自分もまた、踊らされていたということだ。安田さんを拘束したグループは、動画を見た人が危機感を感じるよう印象操作をする目的で動画を作り、それをメディアも疑わずに報道する。結果、イメージが定着して一人歩きしていく。報道を目にするときは、その裏側にどのような意図があるのかを常に思い浮かべることを再確認した。
安田さんのお話を聞き、驚いたのは以下の内容だった。
・拘束時の環境が、日本で報道されていたほどシリアスではなかったこと。個人用の部屋やテレビもあった。
・オレンジ色の囚人服を着せられた安田さんが、黒ずくめの武装した二人の男性の前で「助けて下さい」と懇願している動画が報道で出回ったが、その男性たちは普段、顔を出して日常的にコミュニケーションをとっており、ウイグル料理ラグメンを作ってもらい、一緒に食べる仲だった。
・安田さんを拘束していた疑いのあるグループは、現シャラア大統領の下で、アサド政権打倒に成功したHTSの末端のメンバーだった可能性がある。
・安田さんの解放について、カタールが身代金を肩代わりした可能性が報道に出ていたが、安田さん個人としてはそのような事実はないと考えていること。
・解放については、安田さんが自ら交渉をして、拘束していたメンバーに理解されたうえで実行された可能性が高いこと。
また安田さんが帰国した際にバッシングや自己責任論が巻き起こったが、自己責任論とは、自分が自分に対して言うべきことで、人に対して言うべきことではないように感じている。自らリスクを負いながら現場へと向かうジャーナリストに対し、しかも3年4カ月にわたる拘束から解放されたばかりのジャーナリストに対し、あのような激しい自己責任論がぶつけられたことは、現在でも違和感がある。
ル・モンド紙の東京特派員であるフィリップ・メスメール氏の話にあるように、日本は、自ら努力をして民主主義を勝ち取った国ではなく、戦争に負けたことで民主主義を得た、世界的にも特殊な国だと言える。そのため民主主義を継続するためにジャーナリズムがいかに重要であるか、ジャーナリストの役割について、欧米社会ほどは理解されていないのかもしれない。そうしたフィリップ氏の支視点についても、大変考えさせられた。
安田さんが直面している国によるパスポートの発給停止問題も、ぜひ多くの皆様に知っていただきたい。というのも、紛争地で拘束を受けるなど、特定の国で問題が発生したことを理由に、今後、ジャーナリストにパスポートが発給されないという同じような事態が繰り返されるなら、フリーランスのジャーナリストを目指す人がいなくなるだろう。紛争地取材は危険と隣り合わせであり、何が起きるかわからない。そうしたリスクを覚悟しながら、それでもそこでしか取材できない人間の姿を求めて向かうのだ。それに対し、パスポート発給停止という手段で、そこに行く権利自体を奪うことで止めようとする日本政府の姿勢は、世界のジャーナリストの状況を見ても、後進的であるとしか言いようがない。
ジャーナリストは、危険を求めて紛争地に行くのではない。取材先が紛争地であり、そこが危険であるということなのだ。
(2025年12月26日)