我が家では今、夫の兄のジャマールが居候中だ。普段、ただでさえ、シリア人の夫との日常がサスペンス劇場状態であり、二人の子供の育児はパニック状態だったが、ジャマール兄の居候によってパニック度合いはさらに高まり、しばらくただ日々を懸命に送ることにいっぱいいっぱいであった。以下は、その兄との生活を振り返って書いてみた。
ヨルダンから、ジャマール兄がやってきた
10月26日、ヨルダンに暮らす夫の兄ジャマールが、日本にやってきた。そして今も、我が家で一か月以上にわたる居候中だ。ジャマールが来ることを聞いたのは、その数日前のことで、雑然としていた家で私はパニックになった。我が家は狭い安アパートの一室で、まるでスラムのようである。そこに夫の兄が 来るのだ。39歳のジャマールは、年齢こそ私よりも年下だが、夫の兄である。敬意を払って迎えねばならない対象だった。その日からジャマールが来る瞬間まで、自宅の大掃除をすることとなった。
これまで目にしてきたシリア人の家の中は、貧困層、富裕層に関係なく、どこの家も徹底的に整頓されていた。シリアでは専業主婦が多く、常に家庭に女性の手が細やかに入っていること、また親族同士や友人などの客人が毎日のように行き来し合う文化などもあり、家の中は常に綺麗に保たれているのが当たり前という感覚がある。それに、シリア人の8割はムスリム(イスラム教徒)で、「清潔は信仰の半分」として身の回りを整えることを推奨している。だから、いつ誰の家に行っても、家の中は綺麗であった。
シリア人の私の夫は、こんな話を以前していた。「シリアでは街が汚れているが(ゴミがたくさん落ちているという意味)それぞれの家の中はみんな綺麗。日本では街は綺麗だが(ゴミがほぼ落ちていないという意味)、それぞれの家の中は散らかっている」。なるほど、と思わされる感覚だった。
そういえば、そうなのである。日本では公共の場所を綺麗に保つことが意識されるが、個人の家の中にはモノが多く、必ずしも整理整頓ができていない家も(我が家も含めて)多いと思う。一方シリア人の家は、ものが散らかって乱雑状態の家は珍しい。
そんなわけで、情けないことに、ジャマールが来ることが分かってからの私の最大の心配事は、〝家が汚い〟ということだった。しかしその心配事は次第に、〝家が汚い〟→〝アラブ料理を毎日作らねばならない〟→〝イスラム文化での親族との共同生活の大変さ〟と、移ろっていくこととなる。
砂漠を逃げ回ったジャマール兄
そもそもジャマール兄が日本に来たのは、中古自転車の買い付けの仕事のためだ。私の夫は中古自転車の輸出業をしているが、その送り先の一つがヨルダンで、ジャマールが受け取り手だった。夫は、行政が格安で販売した元撤去自転車(持ち主が引き取りに現れず、所有者の権利が放棄されたと見做されたもの)をコンテナに600〜800台ほど積み込み、1か月ほどかけて船便でヨルダンへと送る。それをジャマールが受け取って、ヨルダン北部のシリア人難民キャンプ、ザータリキャンプの住民に販売していた。こうして、「代々木」、「渋谷」などの日本の地名のシールが貼られた自転車が、シリア難民キャンプで使われていた。
そのジャマールは、ヨルダンに唯一暮らす直系の親族だ。彼は2012年という非常に早い段階に、夫の家族の中でも一番先にシリアを出て難民となった人物だった。その発端は、2011年3月以降、〝アラブの春〟の波を受け、民主化運動が過熱していったシリアで、ジャマールも故郷のパルミラで行われた民主化デモに参加したことだった。それまでシリアでは半世紀以上にわたって独裁体制が続き、市民の自由な政治参加が制限されてきた背景があった。ジャマールは、こうした政治体制への不満から、より市民が中心となる政治体制を標榜した。そして、「シリアに自由を!」と叫びながら市内大通りを練り歩くデモ行進に参加した。しかしこうした行為は、シリアでは政府への反逆行為ととられ、運動に参加した者は顔と名前をチェックされ、逮捕の対象となった。夫の11人いる兄のうち(夫は16人兄弟)、ジャマールとサーメルの二人の兄がこの運動に参加したため、以来、警察に追われる立場となったのだった。
シリアでは、政治的理由から一度逮捕されれば、どれだけ深刻な事態に陥るか、知らない者はいない。たいていの場合、ひどい環境の獄中暮らしを強いられ、あらゆる身体的、精神的虐待下に置かれる。そこでは人権は完全に無視され(実際、シリアの刑務所の待遇と環境の酷さは、ロンドンに拠点を置く国際非政府組織、アムネスティ・インターナショナルによって、以前から〝非人道的〟だと問題提起されてきた)、寝転ぶことのできない1メートル四方弱の空間に数年間にわたって勾留されたり、殴打や電気ショック、火器による拷問、性的拷問など、人間が考えつくだろうあらゆる行為が行われてきた。しかもそれだけではない。逮捕され、刑務所に移送された囚人たちは、どこにいるのかも家族に通知されず、たとえ拷問で亡くなっても、どこで生きているのか死んでいるかのさえも全く分からなくなってしまうのだ。
2011年の終わり頃、政治犯として警察に追われている身であることを知ったジャマールとサーメルは、逮捕の手から逃れるため、半年以上にわたって砂漠で逃亡生活を送った。それを手助けしたのが、砂漠に暮らす遊牧民ベドウィンの人々だった。彼らには掟があった。誰であれ、砂漠において助けを求める者には、水と食糧、寝床を提供するというものだ。ジャマールは、こうしたベドウィンの伝統文化によって守られ、半年間にわたる逃亡生活を送った。砂漠から砂漠へ。ベドウィンの家族からまた別のベドウィンの家族へ。さらにジャマールの家族は、本人と連絡を取り合いながら、彼が移動を続けるためのバイクの燃料、食料、金銭を定期的に彼のもとへと運んだ。
しかし、何者かに追われ続け、土地から土地へと逃げ続けなければいけない状況は、ジャマールとサーメルの心を次第に蝕んでいった。サーメルは次第に孤独感に耐えることが難しくなっていき、危険を承知の上で、生まれたばかりの息子に会うためパルミラの実家を突然訪れたのだった。家族としては追い返すこともできなかった。追い返すにしても街を出るまでの人目があったし、家族はこのまま、サーメルを自宅でかくまうことを選んだ。
しかし、パルミラの街へと戻ったサーメルの姿を誰かが見ていたのだ。密告者はあらゆるところに存在した。こうして、密告を受けた警察が、サーメルの実家(つまり私の夫の実家である)に突入した時、サーメルは家の居間におり、イスラムの祈りの最中だった。
その時、居間の隅のお決まりの場所には、サーメルの父親ガーセムが座っていた。内側から施錠された玄関の鉄の扉をこじ開け、土足で踏み込んできた警察の姿を居間で目撃したガーセムは、その瞬間、理解した。これからサーメルの身に起きるだろうことを。そして言った。
「どうか、息子のお祈りが終わるまで待ってください」。
それは、父親として、息子に最後にできることだった。そして警察はそれを了承し、サーメルはたった数分間の最後の自由と安息を得た。やがてサーメルは、祈りを終えると共に拘束され、警察に連行されていった。「妻と子供たちを頼む」。それが彼の最後の言葉だった。これは2012年5月の初めに起きたことだ。以来、サーメルが生存しているのか、あるいはしていないのか、誰も知る術がないままである。
サーメルがパルミラで逮捕されたらしい、という知らせをジャマールが知ったのは、砂漠のあるベドウィンのテントでのことだった。彼は、やがて自分にも、同じ運命が待っているだろうことを知った。生き延びるために、彼にはもはやひとつの選択肢しか残されていなかった。それは、シリアを出るという選択肢だった。
こうしてジャマールは、サーメルが逮捕されてから数日と間を置かず、シリア南部の砂漠から国境を越えてヨルダンへと逃れ、難民となった。ヨルダンに入ったジャマールはまず、当時建設されたばかりのシリア人難民キャンプで過ごし、やがて、そのキャンプから出ると、遠い親戚を頼って援助を受けながら、路上でライターやカードなどを売ったり、建設現場で働いた。
2012年にヨルダンにやってきた際は身ひとつ、手持ち金もほとんどなかったジャマールだったが、必死に働き、次第に生活を安定させていく。
2017年、1歳になった長男サーメルを連れた私のヨルダン取材では、ジャマールの家に泊めてもらい、彼が非常に安定した仕事や暮らしを手に入れたことを実感した。
以下の2枚は、その2017年の取材での写真だ。
ジャマールは今、自身の会社を設立し、日本からの自転車や農機具を輸入、販売する仕事を手がけている。もちろん、日本から輸入する商品の送り手は、私の夫である。夫によればジャマールは、当初こうした輸出品の純利益の分け前を半分ずつと約束していたが、次第に三分の二ほどをせしめるようになった。そのため夫はあまり儲からず、ジャマールばかり儲かっているという。ヨルダンよりも日本のほうが物価が高いことを考えれば、ジャマールが三分の二もせしめているというのはいかがなのものか!と思うが、そこは決して越えられない兄弟間の上下関係があるらしく、どうしようもないのである。
男と女の役割とは
そのジャマールが日本にやってきて、まず驚いたのは、「私が毎日、家にずっと座っていないこと」だったという。つまり私が、日中に家を空けて働きに出ることが驚くべきことだったらしい。日本にやってきて二日目のことだったろうか。ジャマールが私に言った。「外に毎日出ないで、ちゃんと家事に集中しなさい」。
私としては、夫の収入だけで家計を維持するのは不可能で、私も家計を担うために外で働かねばならなかったし、また、必ずしも収入を得るためだけではない、自分の写真表現への思いもあり、複雑な思いになった。
実際、家賃以外の家計にかかるお金の大部分は、私が働いたお金で回っており、「女は家にいろ」と言われても、経済はどうするのか。
ジャマールにとっては、男たちがいつ帰ってきても、温かいお茶を出してくれたり、美味しいご飯を無条件に出してくれる女性が家にいないというのは考えられないことだったようで、それから毎日、ジャマールによる説教が始まった。それは彼にとっては、私がイスラム教徒の女性として、あるいはアブドュルラティーフ一家の女性として、〝正しい人生を生きるための〟必要な導きと考えているようだった。
彼はまず、「あなたは女でしょう。女は家にいなければならない」と話した。ジャマールの理論では、男は外に出て様々な人に会い、仕事をし、お金を稼ぐ。女は常に家にいて、家を清潔に保ち、いつ男が帰ってきてもいいように、食事の準備をし、子供たちにいつも気を配り、暖かく育てる。だから女は家にずっといるのが役割で、そうあるべきだ、と言う。
「時々はいいけれど、いつもずっと家にいるのは、私は嫌なんです。私だって様々な土地に行き、様々な人と会い、歩いたり、考えたり、学びたいんです」と私は話した。
ジャマールは悪気なくそれを言っていることも理解してはいたが、「女は家にいろ」というその価値観は受け入れ難かった。
実際彼は、2015年に結婚した最初の妻ファーティマを、半年以上家から出さなかったという。半年近く家から出ないことは、パルミラ出身の女性ならよくあることだが、ファーティマは、パルミラよりも女性の行動の自由度が高い首都ダマスカス出身だった。独身時代は一人でスポーツジムに行き、プールに泳ぎに行ったりもしていたという彼女にとって、自宅から出ることを禁じられた結婚生活の初期は、非常に辛いもので、運動不足とストレスから、彼女の体重は60キロほどから、100キロほどに増量したという。
「ジャマールと私は、文化が違う」。2017年のヨルダン取材で会ったとき、彼女はそう言って悩んでいた。同じシリア人であっても、パルミラとダマスカスでは、男女のあるべき規範が大きく異なっているという。ましてや、私とジャマールや夫のように、生まれた土地が国が異なっていれば、それはなおさらである。
こうして日本に来たジャマールは、私に対し、彼が「正しい」と信じる女の役割を説くのであった。確かに彼の言い分も分かる。我が家は掃除の手が行き届いていないし、食事も時間をかけて作ることはしない。夫やジャマールが帰って来たとき、家には誰もおらず、彼らは自分たちで、目玉焼きやコーヒーを作らねばならない。しかし彼らの文化では、女性がそれをやり、帰ってきた男たちを労う。ジャマールは、「女は家にいなければならない」というよりも、「家に女がいることで、家は居心地が良くなる」という言い方をした。つまり、女性の存在は、家庭生活にとって大切であり、不可欠だと。その意味もよくわかる。
だが私には、すでに仕事の予定が入っていたし、日本でジャマールが食べるアラブ料理の膨大な食費も、私の懐から出るものだった。毎日、「あなたは女だ。家にいなさい」と言われ続けながら、それでも家計やジャマールの食事の食費のために仕事に出なければいけないこと、それを彼がほぼ理解していない様子であることは辛いことであった。
だんだんと〝家が汚い〟という私の悩みは小さなものに感じられ、ジャマールによる〝男と女の役割への認識の違い〟が最も大きな悩みになっていった。
私の危険なシリア料理
その他にも小さな悩みがあった。例えばジャマールは、自分が履いた靴下やズボン、さらにはパンツまで、脱ぎ散らかすのである。それを見て、私の二人の息子たちまでが、あちこちにパンツを脱ぎ散らかすようになった。子供の使用済みパンツを片付けるのはまだ許せるが、40歳にもなるおじさん(失礼!)の使用済みパンツを毎日片付けるのは、ストレスがたまるのである。見かねた私は、「脱いだ衣類は、ちゃんと自分で洗濯カゴに入れてください」と、まもなく40歳になる兄に対し、しごく当たり前のことを言ってしまった。
すると彼はあろうことか、ヨルダンでもそこらじゅうにパンツや靴下を脱ぎ散らかしており、それをすれば妻は喜ぶのだという。耳を疑ったが、それはつまり、夫に尽くすための仕事を増やすことで、妻は喜んでそれをやるのだという。むしろ、ジャマールが洗濯カゴに汚れ物を自分で入れたなら、妻は「そんなことしないで」と怒るらしい。本当か?と耳を疑ったが、ジャマールは、そんなメルヘンの世界に生きている幸福な(?)夫なのであった。
こうした、「パンツ脱ぎ散らかし問題」にも若干悩んだが、そのうち私は、脱ぎ散らかしたジャマールの使用済みパンツを見かけても片付けないこととし、そのうち、4枚しか持ってきていない彼のパンツが全てなくなってしまったらしい。彼はようやく、自分で使用済みパンツを片付けるようになった。
アラブ料理を作り続けなければいけないことにも大変苦労した。というのもジャマールは、アラブ料理しか食べたことがなく、アラブ料理しか食べられなかったからだ。想像してほしい。魚も、スパゲティも、ハンバーガーもピザも食べられないのである。つまり、彼が外食できる店はほとんどなく、家庭で作ったアラブ料理がないと、彼は食べられるものが何もなかった。
さらに彼は体重が120キロあり、一般的なシリア人男性にもれず、大食いであった。そして彼は、信じられないほど肉を食べる人であった。「日本は今、物価が高くなってきて、肉もすごく高いんだよ。我が家はあまり買えないんだよ」と説明したが、といっても、ほぼ全てのアラブ料理には肉が使われるため、全く出さないわけにもいかず、食費はいつもの3倍近くまで膨れ上がった。
しかしやがて、仕事をしながら、手間暇かかるアラブ料理を作り続けることに私は疲労し、物理的に難しくなっていったので、ジャマールは近所に暮らす夫の甥のムハンマドの家と我が家とで、交互に食事をとるようになった。
そのうち日本での居候生活が1ヶ月を越える頃、〝食事のひもじさ〟から、ジャマールの体重が10キロ近く減ったという。夫も、トルコの家族のもとへ行けば太り、日本に帰るとだんだん痩せるという。日本ダイエットである。
日本の狭いアパートで、いかにアラブ・イスラム文化を理解し、実践するか
ジャマール兄の我が家での居候でもっとも苦労したのは、イスラム文化の実践だ。ここからは私の持論だ。私はイスラム文化において、男性よりも女性の行動制限と負担が、はるかに大きいと感じている。女性は性の慎みを持たせるため、配偶者以外の男性の前では体の線を出さないような服を着て、髪を布で覆わなければならない。しかしその同じ場で、男性は半袖とハーフパンツでいることができる。
「女性と男性は違う」、「女性はセクシーだから」とその理由をムスリムの男性たちは言う。だが私にとっては、男性だってセクシーな人はセクシーだ。女に性的魅力を表に見せないよう覆うように言うのならば、男性だって性的魅力を表に見せないよう覆うべきではないか。実際、シリア難民の取材では、女たちが、特定の男性のお尻がセクシーであるという話をしているのを聞いたことがある。女にだけ性的な慎みを強要するのが、私は腑に落ちない。その理論において、私はイスラムを、非常に男性的で、男性にとって優位的な宗教だと感じ続けてきた。
そしてジャマールが現れたことで、家庭内に再びその疑問が再燃するようになった。例えば、私がお風呂に入っても良いのは、ジャマールがいないときか寝てから。さらにジャマールのいるとき、「家のトイレでうんこをするな」と夫に言われた(リビングとトイレが近く、トイレ内の音が聞こえやすいので、という理由)。全く信じられないことである。ここは我が家なのに、どうしてうんこをしてはいけないのか!しかしうんこは突然出てきてしまうので、そんなときは自転車で5分の近所のコンビニへ、わざわざトイレを借りに行っている。そのため、ジャマールが来てから、うんこを我慢するようになり、私は胃腸の調子が悪くなってしまった。このストーリーで言いたいのは、つまりは、入浴やトイレなどのごくプライベートな部分は、客人の前で見せないというだけでなく、宗教的な「性的な秩序を保つ」という部分から、家庭内でも配慮しなければいけないという思想なのだった。しかし、それをするのはなぜ女性の側だけが?という疑問は残る。女性はいつも家にいるし、女性が合わせるべき、という考えが前提としてあるように私は感じている。
狭いアパートでのジャマール兄との暮らしは、互いにプライベートを保ちにくく、私は非常に無理をして兄と一緒にいることを努力してきたように感じる。もし今後、また夫の親族などがやってきて、同じように家庭内でイスラム文化を実践するのならば、女性と男性のプライベートが配慮できる空間であるか、また、それぞれが自由な距離感を図れるか、事前に確認し合いたいと思った。
ジャマールの目から見た日本
日本に来てから一カ月半が経った頃、120キロあったジャマールの体重は、108キロにまで減少した。12キロの減量である。その理由は、アラブ料理をいつも食べられないこと、肉が食べられないこと、そしてジャマールによれば、シリアやヨルダンよりも仕事の負荷が大きく、労働時間が長いことのようである。夫もまた、日本にいたらどんどん痩せて(2012年に、ヨルダン北部のシリア難民キャンプで、支援物資で暮らしていた頃よりも今が痩せているとのことだ)、トルコの家族のもとに行けば太る、というサイクルを繰り返していた。
ジャマールはこう話している。
「日本に来る前は、日本が経済的に豊かで、人々はもっと大きな家に住み、十分な余暇もあり、食事も豊かだと思っていた。しかし弟(ラドワン)の暮らしは、家も狭くて古くて、食事も最低限で、常に働かなければ生活も維持できず、非常に厳しい。弟の暮らしは、ヨルダンやトルコにいる我々家族よりも過酷だ」。
そしてジャマールが驚いたのは、日本では一日8時間以上働かなければ生活を維持できないことや、仕事中の十分な余暇がないこと、工事現場などで老人がたくさん肉体労働をして働いていることだったらしい。
「歳をとった人々が、寒い路上に立って働いている。信じられない。日本人に優しさはないのか?」。アラブ社会では、50歳を過ぎれば「もう若くない」として大事にされ、男性でも肉体労働をする機会はほとんどないという。大家族がほとんどで、若者人口が多いというアラブ社会の特徴もあるだろう。そうした社会で生きているジャマールの目から見た日本は、〝若者たちが貧しく(私たち以外の日本の家庭をみていないが)、老人は社会から大事にされず過酷な労働を強いられる国〟と映ったようだった。
一方で今回、兄と過ごした一カ月半で私が感じたのは、〝私とジャマールが、いかに違う価値観で生きているか〟ということだった。時にやんわりと衝突もし、彼の価値観を優先もし(私の入浴やトイレなど)、譲れないことは譲らなかった(毎日家にいない、など)。ジャマールは私について、〝シリアの妻たちに比べ、完全に不十分な妻〟だと考えているようだが、私はそれでいいと思っている。私は日本人であり、日本に住んでいる。自分の生き方があるのだから。それに少なくとも、アラブ社会のあり方しか知らなかったジャマールに、違うあり方を知ってもらうことができた。それは若干の摩擦と疲労を伴うものでもあったが、時間が経ったとき、ジャマールと私の双方にとって何か創造的なものへと形を変えていくのではないかと信じている。
こうして、ジャマール兄との生活は今日も続くのであった。
(2024年10月6日)
3 Replies to “ジャマール兄と過ごした11月”
ジャマールさんの砂漠での日々のお話、大変興味深く読ませていただきました。大変な経験と、それを支え続けた砂漠の民の家族の結びつきの強さを、改めて感じることができました。
また、共同生活レポート編では、イスラム圏の田舎の地域出身の方々との共同生活では、さもありなんという内容で、笑ってしまうけれど(特にウンコのあたりと散らかされたパンツ)、実は相当しんどいだろうなと、笑いは苦笑に変わってゆきました。
ただ、自分自身の経験から、勿論文化や宗教の違いが価値観の食い違いをさらに後押ししているとは思いますが、それだけでは無く、育てた両親の育て方の在り方からも、その価値観の違いは出てくると思います。
自分の元連れ合いだけでなく、中欧辺りの出身者でも、日本でも、随分と威張り散らした、どうしてそれがわかんないんだよ、なんでそうなるんだよ、と言いたいパートナーは、男女を問わずいると思います。
それにしても居候さんがいて全面的に相手側に付いていると、本当に大変ですね。
ご無理をなさらないよう、ご自愛ください。私は都合で一時期メンバーズから出てしまいますが、状況が変わりましたらまた戻ってきたいと思っています。
貴重なレポートを、いつもありがとう御座いました。
いつもながら『私には絶対にむりだ!』と半分怒りながら読ませていただいた今回の投稿
文化の違いもあることは理解します。それでも、理不尽に感じてしまうし、郷に入れば…じゃないのか?と唸りながら読み進めました。
私は日本人でよかったと心底思っている人間なんで(しかも多摩市民でよかったと)きっとジャマールさんと口論になってしまうなぁ…
何とも根が深い文化の違いの最前線で、当事者として、妻として母として、そして働く女性の一人として、小松さんのその生きざまに驚きながら感心したり、同情したり、応援したり、しています。この数日、数時間でシリアの将来がどうなるか決まるかの息詰まる瞬間ですね。それが落胆に終わらないよう願うばかりです。反政府勢力をアルカイダやISSやテロリストと同一視してほしくない、というジャマール兄やシリア人の大半の切望を微力ですが広めたいと思います。取材旅行お気を付けて!また新しいknowledgeや情報で目が曇りがちな日本人に活入れて下さい!