今年3月に冒険家の阿部雅龍(41歳)、7月に登山家の平出和也(45歳)と、縁の深かった二人の仲間を失くした私は、この夏の間、心にぽっかりと穴が空いたような喪失感と向き合っていた。
人は生まれたならいつか必ず、この世を去る時が来る。その時がいつなのか、私たちは知らない。だがこの世を去っても、なお人の心に生き続ける者がいる。二人はそんな人たちだった。
秋田県出身の南極探検家、白瀬矗(しらせ のぶ)中尉(*)に憧れ、普段は浅草の人力夫としてトレーニングを重ねながら、ついに念願の白瀬ルート踏破を目前に、脳腫瘍という病魔に倒れ、41歳で世を去った阿部雅龍。
(*白瀬矗 https://shirase-kinenkan.jp/shirasenobu.html )
ヒマラヤの難易度の高い未踏ルートの登攀を続け、〝登山界のアカデミー賞〟と言われるピオレ・ドール賞を日本人として初めて三度も受賞、アルパインクライマーとして世界的にも知られた平出和也。これまでのヒマラヤ登山の集大成と捉え、中島健郎とアルパインスタイル・無酸素で挑んだK2西壁で、事故死を遂げた。
二人の、意志の強さと自信を感じさせる瞳の強さは今も目に焼き付いている。二人とも、大きな志があり、唯一無二の自分の道を真摯に追い求めた挑戦者だった。そして彼らを失った悲しみや寂しさと同じくらい、彼らは人間の可能性や情熱、ひたむきさなどの〝光を感じるもの〟を私たちに残してくれた。
(平出和也は東海大山岳部の3つ上の先輩で、数々の山を共にした。写真は2007年にロープを組んだパキスタンのシスパーレ。北面からの登頂を目指したが敗退した)
(2007年のシスパーレでは、山の取り付きまでアイスフォールの横断が続いた)
(シスパーレ5500m付近での登攀の光景)
(シスパーレの直前、付近の5000m峰に高度順応のための登山。右端が平出和也。前列左端が小松。後ろにいるのは、トレッキングサポーターのガイドやポーターたち)
8月のお盆の期間、私は郷里の秋田に、同郷の友人だった阿部雅龍の実家を訪ね、お母様とともにお墓参りをさせていただいた。
4歳の頃、父親を交通事故で失くした阿部雅龍。彼にとって最初の記憶は父親の葬式だったという。父親に恥じない男になることを公言し、彼は秋田に帰郷するたび、忙しい予定の合間を縫って父親の墓参りをしていた。
「雅」。父親の名の一文字が刻まれたその墓に手を合わせる写真を、彼はたびたび自身のSNSで発信していた。その同じ墓に、今、阿部雅龍が眠っている。
(阿部雅龍とは同郷、秋田出身。秋田帰省時、電車内でバッタリ遭遇。右が阿部雅龍。私の二人の子供たちをとても可愛がってくれた。2020年冬か。)
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