こちらは、2023年12月から2024年1月にかけて行った、イギリスでの「不法移民」の取材のレポートです。
今回は、13歳の若さで「不法移民」としてトルコからイギリスへ移動した、夫の甥エブラヒムの取材エピソードです。
戦火の中で育ったエブラヒム
2009年のある夏の日、私はシリア中部の街パルミラで、生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこさせてもらいました。イスラム教の預言者の名から「エブラヒム」と名付けられたその赤ちゃんは、アラブ人の風習から大きな白い布でミイラのようにぐるぐるに体をきつく巻かれ、スヤスヤと眠っていました。実はエブラヒムは、私の夫ラドワンの兄、アーメルの長男で、夫の甥でもあります。
彼が生まれた日、待望の長男の誕生に、アーメルは涙を流して神に感謝を捧げていたことを覚えています。私はこのエブラヒムが、パルミラの野生的な雰囲気をたたえた男たち同様に、この地でたくましく元気いっぱいに成長していくのだと信じて疑いませんでした。私だけではありません。あの頃、誰もが、叙事詩の世界のような美しい砂漠のオアシス、パルミラで、和やかで幸福な人生を謳歌していけるのだと信じていたのです。
しかしその一年半後、シリアにも「アラブの春(*)」の一派が到来します。50年近い一党独裁体制が続いてきたシリアでは、市民の自由な政治参加が長年認められておらず、不満が一気に噴出しました。市民は平和裏のデモ活動を行い、政府に対して緩やかな政治改革を求めましたが、それに対してシリア政府は軍隊を出動させ、市民を武力で弾圧しました。市民に死者が生まれると、市民の側も武装して対するようになり、シリア各地で武力衝突が広がっていきました。2012年頃には、シリア北部の商業都市アレッポや中部のホムスなどをはじめとし、政府と武装した市民による過激な戦闘が繰り返されるようになり、シリアは「内戦状態」とされました。
*アラブの春・・・2010年から2012年頃にかけ、アラブ諸国で繰り広げられた大規模反政府運動。チュニジア、リビア、エジプト、イエメンなどで長期政権が崩壊した。
こうした中で、エブラヒムは戦火の中で成長していきました。一歩家から出れば、街の大通りや郊外のオアシス地帯で突発的に発生する戦闘の流れ弾が飛んでくることがよくあり、大人たちは子供の安全のために、家から外に出さなくなりました。こうしてエブラヒムの幼少時代は、パルミラの豊かなナツメヤシのオアシスや、郊外に果てしなく広がる砂漠でのラクダの放牧、重層的な地域コミュニティでの人々との交流にではなく、戦闘に巻き込まれることを警戒し、ひたすら家内にこもる日々の中で過ぎていきました。市民による民主化運動を規制し、罰するため、周囲を砂漠に囲まれたパルミラでは、幹線道路を戦車で封鎖し、物資の輸送を止めることも続き、人々の暮らしは一気に様々なものが不足するようになりました。物質的なものを遮断し、人々から快適な日常を奪うことで、それ以上の政治運動を起こさせないようにし、政府への反発を抑えるという、政府側の目論見があったようです。
やがてエブラヒムが6歳になった2015年に、エブラヒムの家族が暮らすパルミラは、イラク方面から南下してきたイスラム過激派組織ISに占領されます。その結果、ISを攻撃するという名目で、パルミラは激しい空爆に晒され、市街地の8割ほどが破壊されました。10万人ほどが暮らした地方都市パルミラの住人の多くが、このとき街を去ることになりました。
エブラヒムの家族は、空爆で破壊された自宅を離れ、砂漠にテントを貼って避難生活を送りました。3世代前までは砂漠の遊牧民ベドウィンだった一家は、砂漠での生活は慣れたものでしたが、街で育ったエブラヒムやその兄弟にとって、砂漠でのテント生活は大変厳しいものでした。エブラヒムの足の皮はひび割れて厚くなり、手の指の爪の中にはいつも砂つぶが詰まり、サソリに刺されることもありました(私の夫も幼少期に砂漠でサソリに刺されたそうですが、病院に行かず、毒を吸ってそのままだったらしいです。恐ろしや)。
2016年、エブラヒムの一家は、IS の首都ラッカに避難しました。IS は、外国人を誘拐して身代金を要求したり、住民にイスラム原理主義の過激なルールを強要したりと、住民を恐怖心と暴力とで支配していましたが、シリアの人々にとってISは、イスラムの規律を守っている限り、無差別に空爆を行うシリア政府よりもずっとマシだと考えられていました。しかし、ラッカに暮らすエブラヒムの一家をさらに追い詰めたのは、欧州連合による空爆でした。イギリスやフランス、アメリカなどからなる欧州連合が、ISを駆逐するという名目で、ラッカに激しい空爆を行ったのです。空爆に晒された街には、IS の戦闘員もいましたが、大多数は普通の住民たちでした。
2016年のある日、エブラヒムたちが暮らすラッカの家のすぐ隣に、欧州連合が投下した爆弾が直撃します。建物の中にいた数十人が、崩れ押した建物もろともバラバラになって亡くなる、という悲惨な現場をエブラヒムたちは目にしました。その日、エブラヒムの家族は、「もはやシリアには安全な土地はない」と感じ、トルコへと避難することを決めました。
その一週間後、エブラヒムとその家族は、トルコ国境の山を越え、国境の証であるコンクリート壁を越えてトルコに入国しました。エブラヒムは7歳になっていました。彼に故郷のパルミラの記憶はほとんど残らず、彼が覚えているのは、シリアでの空爆の恐怖や、泣き叫ぶ人々の声、路上に流れた大量の血、パルミラやラッカの街の広場で、斬首された人々の遺体や晒された首でした。エブラヒムにとって祖国シリアは、恐ろしい土地でしかなかったのです。