沖縄の記憶

「白旗の少女」

子供時代に読んだ本で忘れられない一冊がある。その本の表紙には、ボロボロの服を纏ったおかっぱ頭の女の子が、一方の手に白旗を持ち、一方の手を振る写真が載っている。当時7歳だった比嘉富子(ひがとみこ)による沖縄戦の回想録「白旗の少女」だ。

太平洋戦争末期の1945年6月、米軍が上陸した沖縄本島は、住民を巻き込んだ激戦地となった。富子は混乱のなか家族とはぐれ、ガマ(洞窟)に避難していた体の不自由な老夫婦に出会って献身を受ける。しかし、米軍がすぐそこまで迫っていた。

「ガマに爆弾を投げ込む。投稿せよ」。米軍による呼びかけを聞いた老人は、自分のフンドシの生地で老婆に白旗を作らせた。そしてこれを手に、一人で投降するよう富子に促した。「白い旗は世界共通の約束だ。これを持っていたら大丈夫」と。

「死ぬときは笑顔で手を振りなさい」。父からそう教えられていた富子は、死を覚悟し、白旗を掲げながら米軍兵士に笑顔で手を振った。従軍カメラマンによって記録されたその写真は、「白旗の少女」として知られることになる。県民の4人に1人に相当する12万2千人以上が命を落とした沖縄戦。当時、自分と同年代だった少女が経験した壮絶な戦争の記録は、ただ衝撃的だった。

本との出合いから15年が経った2009年、東京に暮らしていた私は、愛用の自転車に寝袋を積み、野宿をしながら沖縄へと旅に出た。沖縄では「白旗の少女」を読み返しながら、各地に残る戦跡を訪ねていった。初めての沖縄、そして初めての、戦争の歴史に触れる旅だった。

行き着いた日本最南端の波照間島(はてるまじま)では、一カ月間、サトウキビ刈りのアルバイトもした。サトウキビの収穫作業は重労働で、鎌を持つ手や腰が痛んだ。寝泊まりしたのは雇主のサトウキビ農家の家。瓦屋根、平屋の伝統的な造りの家で、90代前半のおばあが同居していた。

波照間島のおばあ

「姉ちゃん、今日、何食べる?」。その日の仕事を終えると、おばあがいつも私を待っていて、一緒に料理し、ご飯を食べた。おばあがよく作るのは、畑で育てたブロッコリーをゆでたものと「てびち」と呼ばれる豚足の煮込み。おばあが味付けし、私が片付け、夜は仏間でおばあの隣に眠った。そんな共同生活が続くうち、おばあは島の歴史や自身の家族のことをポツリポツリと話してくれた。

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