前回の「福島の被災地へ①〜あの日は終わらない〜」
では、2011年の震災で津波被害があった福島県いわき市の「久之浜(ひさのはま)」を訪ねたエピソードをご紹介しました。
▼ 「福島の被災地へ① 〜あの日は終わらない〜」
https://yukakomatsu.jp/2023/09/19/4338/
今回は、その続編として、いわき市から常磐線に乗って福島を北上し、原発事故後、放射能の被害があった富岡町を訪ねたエピソードです。
恥ずかしながら、私はこれまで原発事故の被害状況や、その後の被災地の状況を意識してしっかり見つめてきませんでした。今回、自分の足で被災地を歩き、原発事故後の「放射能」の問題について考えました。
「フクシマの被災地に行くなら、見ておいたほうがいい」。被災地に何度も足を運んでいる知人に勧められたのが、富岡町にある「とみおかアーカイブ・ミュージアム」だ。こちらは富岡町による博物館で、東日本大震災と原発災害によって失われた人々の日常の営みを、「震災遺産」として収蔵・展示している。
一日に数本しかない常磐線の電車に揺られ、富岡駅で下車。駅からバスに乗車し、「とみおかアーカイブ・ミュージアム」に向かおうとしたところ、その日は土曜日でバス会社が休みだった。そこで、駅に停まっていた2台のタクシーのうち、初老の運転手が座るー台に乗った。
「とみおかアーカイブ・ミュージアム」は、駅からタクシーで15分ほどの距離だ。
とみおかアーカイブ・ミュージアム
目的地まで、タクシーの運転手とあどけない話。「(遠方から人が多く来るだろう)土曜日なのに、バスが運休だった」とぼやくと、「バス会社も助成金もらって運営してるから、やる気ないんだ〜」とのこと。
富岡町は震災後、町の大部分が「居住制限地域」となり(2017年まで)、現在も町の北側が「帰還困難地域」となっている。震災後は一気に人口が減り、戻ってくる人も少ないので、助成金を出してもらわないとバス会社も利用者が少なくて経営維持できないのだそう。特にバス利用者のほとんどが原発関連、復興関連の労働者とのことで、仕事が休みの土曜日は需要がないから休みらしい。聞けば、運転手はこのあたりの出身で、なんと30年近く原発職員として働いていたそうだ。原発事故後、危険な作業をさせられることが増えたため、辞職したとのこと。
原発で働いていたという運転手の話をもっと聞きたかったが、目的地の「とみおかアーカイブ・ミュージアム」に到着したため、2時間後にまた来ていただくことにした。
「震災遺産」
「とみおかアーカイブ・ミュージアム」は、震災や原子力災害によって生じた「震災遺産」を収蔵・展示する大熊町による博物館だ。
展示はまず、富岡町の古代の歴史から始まり、やがて近代へとテーマが移っていく。人々がこの街でいかに暮らしていたのか、そして震災後、何が失われたのかが、視覚的によくわかった。
戦前・戦後の暮らしがモノクロ写真で展示されていたが、特に「農」をめぐる生活の写真には、心に込み上げるものがあった。祭りの日の晴れ姿や、町内運動会に笑う男たち、稲刈り後の田で遊ぶ子供たちの姿など、かつて土地とともにごく当たり前にここにあった暮らしが、失われた。
そして近代の富岡町の展示は、戦後の原発誘致へと切り替わっていく。
原発の誘致・建設が、当初から、地域の経済発展と雇用創出を願う、地域住民の大きな期待とともに始まったものだったことを初めて知った。
「出稼ぎ者がなくなった」
さらに原発ができたことで、農を担ってきた人々の暮らしも大きく変わった。特に、展示されていた「出稼ぎ者がなくなった」という言葉は、胸にズシリとに響いた。秋田県生まれの私は、雪が降り続く冬、多くの秋田の男性があちこちに出稼ぎに出ていったことを知っているからだ。貧しい東北の農村が、明るい未来を託して誘致した原発事業。ここに原発が造られたことで、地域の経済は確かに潤い、雇用も創出され、人々の暮らしも、以前より明るいものになった。それは、確かだった。
だが一方で、町民にもれなく配布されていたという原発ポスターからは、いかにこの地域が原発と密接に存在していたかを感じさせ、その「普通感」がなんとも違和感でもあった。
そして2011年のあの日、東日本大震災が発生。街は津波で流され、深刻な原発事故も起きた。それまで暮らしていた町が、家が、放射能に汚染されるという未曾有の事態。多くの住民が、街を離れて避難した。その時、住民たちは何を思ったろうか。この地域に経済的安定をもたらしてくれた原発と、その後、歴史に刻まれた深刻な事故。私は、あのタクシー運転手に話を聞きたいと思った。
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